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キエフから帰るロシア兵の話

なんのために来やがった!? 呼ばれもしないのに! なにをしに来た? 何人殺すつもりだ? これは呪いだ!受け取りな!!あんたがここで死んでーーー


歩く、歩く、ひたすら歩く、雪と泥の沼地に足を取られながら、北に向かって歩き続ける。


キエフからベラルーシまで、とにかく一人歩き続ける。もう何キロ歩いたのかわからない。一緒だった仲間たちは、撤退途中に襲撃されてみな死んだ。生き残ったのは俺だけだ。ウクライナをファシスト政権から救うための特別軍事作戦。そんな建前は信じちゃいなかった。ただ、俺たちの軍は強いと思っていた。俺たちの軍は強いから勝てると思っていた。軍が勝てるなら俺は死なないと思っていた。俺は確率というものをわかっていなかった。俺たちの国の何倍も豊かなアメリカの兵士は、ウクライナの何分の一にも満たないほどに貧しいアフガンやイラクで死んでいるのに。


泥濘に足を取られて受身も取れずに倒れ込む。立ち上がる気力もなく、それでも前に進もうと這いずる。訓練では、匍匐前進など全部で何キロやったかもわからないのに、10メートルも進めば、その気力も尽きた。死ぬなら空を見たいと思った。ゆっくり仰向けになろうとすると、何かがおれの腹を引っ掻いた。くすぐったさに眉をひそめながら仰向けになると、空は雲一つない青空。昨日まで空を覆っていた雪雲はどこかに行っていた。生きる気力のあるうちなら、この天気ではまた雪が溶けてさらに泥濘は深くなり、歩きにくくなるだろうなんて思っただろうが、今日はただ、この国の国旗の上半分のようだと思った。そういえば下半分はなんだったかな。菜の花畑だとか向日葵畑だとか…


向日葵


「なんのために来やがった!? 呼ばれもしないのに! なにをしに来た? 何人殺すつもりだ? これは呪いだ!受け取りな!!あんたがここで死んで向日葵になる呪いだ!この種をポケットに入れておきな!」


開戦初頭に占領した街の婆さんが、呪いだと言って俺に押しつけてきた向日葵の種。先程くすぐったさを感じたあたりのポケットを、手で探ると10粒くらいの向日葵の種。すぐに捨ててもよかったが、理由もなくポケットに押し込んでいた。


死ぬ前にこいつを地面に埋めて、ちゃんと向日葵になるようにしてやろうか、飢えと乾きでそのくらいの体力しか残っていない。押しつけられた向日葵の種は、中にたっぷり栄養を溜め込んだような大ぶりの種で、ウクライナの豊かな黒土を象徴するようだった。


俺がガキの時分に、市場で盗んでいたものと同じ植物の種には見えない。


ロシアの辺境、北極圏に近い地方都市には、冬に路上生活をする子どもはいない。寒すぎて死ぬからだ。ソ連の崩壊、その後の混乱で生まれた孤児たちは、下水道の中で暮らしていてた。俺もその一人だった。ノミやシラミにたかられながら、ドブネズミと一緒に泥水をすすり生ゴミ貪って成長してきた。あの時俺は、ドブネズミそのものだった。だから、軍に入れたときに、ようやく人間になれたと思ったんだ。


黒地に白い線の入った種を眺め、幼少期を思い出していると、身体の奥から仄暗い何かが湧き上がってくるのを感じた。俺に向日葵の種を渡してきた、あの身なりと姿勢のいい婆さん、あの婆さんは、俺に、ドブネズミに、呪いだと言って向日葵の種を渡したのか?


あまりにも滑稽だ、呪いで死ぬのは人間だからだ、ドブネズミを殺したいなら、猫か殺鼠剤を持ってこい。


腹が減った。あの婆さんは、向日葵の種を食いたいと思った時には、必ず燃料や調理器具が手元にあったのだろう。だが、ドブネズミには、必要ない。

殻ごと口に一粒放り込み奥歯で噛み締める。パキパキと音がした後に、じわりと口の中に油が広がる。ドブネズミにはご馳走様だ。

水がほしい。水筒にはもう一滴も残っていない。しかし、軍服には、俺の体温で雪が溶けて水が染みこんでいた。袖口を噛んで汗と泥の味がする水を啜った。ドブネズミの渇きを癒すには問題ない。

急に空が眩しく感じた。当たり前だ。ドブネズミはこんな明るい時間に外を歩かない。

再びうつ伏せになり、歩けないと思っていた脚に力が入った。

軍の仲間がいない心細さもなくなった。当たり前だ。軍隊は人の集まりだ。ドブネズミのいる場所ではない。


俺はまた歩き始めた。方向は変わらない。でも行き先は、ベラルーシでも基地でもない。故郷の愛すべき巣穴だ。


巣穴から出て、人から飯を掠め取り、巣穴に帰る。いつものドブネズミの一日。それだけだ。


ロシア兵に呪いをかけた老婆は実在します。

あと、作者は、ハムスター用の餌用の向日葵種を、興味本位で齧ったことがあります。

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