仲が悪い令息の見合い用の釣書を書く手伝いをさせられた結果
うららかな春の昼下がり。
トランデール子爵家の執務室に呼ばれた使用人のルーシーは当主であるフェルデン・トランデール子爵の前に立ち、真顔で明後日の方向を見ていた。
----え、なんでそんな事しなくちゃいけないの?
そんな事。
それは、この家の次男イニアス・トランデールの見合い用の釣書を書く時の参考にする為に、イニアスの良いところを少なくとも十個は書いてこいというものだ。
確かに少しでも良い縁談、良いご令嬢と結ばれる為には、玄関口となる釣書は大事なアピールポイントになるだろう。第三者に頼めば、曇った親の目では見つけられない愛息子の意外な一面が出てくるかもしれないと思う気持ちも分からなくはない。
しかしどういった理由があるにせよ、たかが使用人風情に聞く事ではないのでは、とルーシーは思う。なぜなら使用人からすれば、そんな事を頼まれても当たり障りのない言葉の羅列で無難に終わらせるに決まっているからだ。
「そんなものどうせ誰もまともに見たりしないんだから適当に書いて下さいよ。」
と、反射的に言ってしまいそうになるのをグッと堪えていると、フェルデンは手元の名簿に書かれたルーシーの名前の横にチェックを入れて羽根ペンを置いた。
「これは君を含め、息子と親しい者五人に聞いている。」
「はい。」
「この件については他の者も知っているが、自分がその対象者である事は他の者には黙っておくように。」
「はい。」
「もし対象者である事を知ったり知られたりしても、互いに知らないふりをしなさい。それと決して誰にも相談しないように。」
「はい。」
「期日は三日後の昼だ。いいね。」
「かしこまりました。」
「うむ、話はそれだけだ。質問が無いのなら行っていい。」
「いえ、ございません。失礼致します。」
そう言って一礼し、ルーシーは静かに部屋を出た。
一歩、二歩、三歩。
音を立てないように廊下を歩き、階段を降りる。そして人気のない場所まで来たところでようやく表情を崩し、ガックリと項垂れた。
----嘘でしょ…十個って…三日後って…
考えただけで頭が痛くなってくる。イニアスの良いところなど、恵まれた容姿以外は何もないからだ。そもそも二人は仲が悪いのに何をもって親しい関係だと判断したのか。自分を推薦した者を見つけて問い詰めたい気分だ。こちらからすれば毎日毎日くだらない事を言われてウンザリしているというのに。
----でも書かなきゃ。命令だし…
はぁ、と溜息をつき、目を閉じる。クヨクヨ悩んでいても状況は変わらない。なので少しでも気分を変えて午後の仕事を乗り切る為に精神統一をしようとした時だった。
背後から忍び寄る長い影が深呼吸を繰り返すルーシーのすぐ後ろでピタリと止まり、耳をつんざくような大音量を発した。
「わっ!!」
「ひやぁぁぁああっ!!」
「よぉ、ルーシー。今日も元気だな。」
「イニアス様!?って、何一人だけ普通に戻ってるんですか。」
大声を出したのは二人のはずなのに、まるで騒がしいのはルーシーだけであるかのようなケロリ顔だ。腕を組み、額に流した金髪の隙間から紺碧の瞳をのぞかせ、謎の勝ち誇った…いや、馬鹿にした眼差しでヒタとルーシーを見据えている。相変わらず顔だけは綺麗だな、と心の中で舌打ちをした。ルーシーの頬にあるそばかすなどとは無縁な、陶器のような肌をしている。
イニアスはフンと鼻を鳴らし、雰囲気に傲慢しか漂っていない態度で口を開いた。
「そんな事はどうでもいい。それより、さっき父上の部屋から出てきただろう?」
「誤解を招く言い方はやめて下さい。執務室に呼ばれただけです。」
「誰も誤解なんかするか。自惚れんなバーカ。」
----くっ…こいつ!!
ルーシーは握った拳をプルプルと震わせ、ギリッと歯を食いしばった。どうしてこう、わざわざ人を馬鹿にするような言い方をするのか。イニアスはルーシーの一つ年上だが、精神年齢は五歳児並みに違いない。
二十二歳にもなって『バーカ』はないだろう、『バーカ』は。
「はぁ……」
ルーシーはわざとらしく溜息をつき、目を伏せた。こうなったらさっさと用件を終わらせて、とっとと立ち去ってもらおう。
「自惚れてません。それで、私に何かご用ですか?」
「お前、俺の見合い用の書類を書く手伝いをする事になっただろ?」
「何の事でしょう。」
「隠さなくていい。お前に協力させるよう、父上に言ったのは俺だ。」
「お……お、ゴホン」
お前か、と言いそうになってしまった。
「そうでしたか。では隠す必要はございませんね。でもなぜ私に……」
「お前が俺のどこを良いと思っているのか興味あってな。」
「そんな、私などが畏れお……」
「まぁ、お前なんかに俺の良さが分かるわけないのは分かっている。俺はただ、様々な立場から見た俺の良さを客観的に知りたかっただけだ。」
「そうでしたか。でも、それでしたら私などよりもっと相応しい者がいると思……」
「話はそれだけだ。じゃあな。」
相変わらず人の話をちゃんと最後まで聞かない。イニアスはいつも言いたい事だけを言って、ストレスを発散するようにルーシーを馬鹿にしていく。それは初めて出会った三年前から始まった。
ルーシーがトランデール子爵邸にやってきたのは、彼女が十八歳の時だった。平民の中でも比較的裕福な家庭の娘であるルーシーは花嫁修行も兼ねて下働きの求人に応募し、見事採用されたのだ。
立派な屋敷。美しい調度品。花の香りに満ちた空間。
天井も壁も床も、どこを見てもキラキラと輝き、初めてそれらを見た時は開いた口が塞がらなかった。
文字通り、塞がらなかった。
偶然その場にいたイニアスが、ルーシーの開いた口に後ろから布を噛ませたからだ。それも相当太くねじった布を。
そして彼はルーシーの後頭部で布をギュッと結び、驚き固まる彼女の前に優雅に回ってこう言った。
「お前、名前は?」
これが初対面だった。
何度思い出しても馬鹿馬鹿しい出会いだった。この日から今までほぼ毎日、ルーシーはイニアスの暇潰しの餌食となった。
とにかく、今は望み通りさっさと立ち去ってくれたので良かった。しかし時々、忘れた頃にまた後ろに立っていたりするので油断ならない。そしてあの手この手でルーシーを驚かせていくのだ。
ルーシーが驚く様を最後まで見届けず、一人その場に残して立ち去るという鬼畜技まで使う最低男、それがイニアスという男だった。
----ったく、なんで私があんな奴の結婚に協力……あ、そうか!
突然、頭の中でキラリと閃く。
なぜこの事に気が付かなかったのか。
イニアスが結婚すれば、奴は必然的にこの屋敷から出ていくではないか。
----そうよ!そうしたら、もうあいつと会う事もなくなるじゃない!
時々は妻子を連れて帰ってくるかもしれないが、さすがに彼らの耳に入って困るような真似はしないだろう。その頃にはルーシーの事も綺麗に忘れているだろうし、もしまだ下らない真似を続けるようなら奥方様に密告すればいい。子がいれば父親の威厳を失墜させてやる。
そう思えば俄然やる気が湧いてくる。
ルーシーは軽くなった肩をグルグルと回して仕事に戻った。
*
数日後。
ルーシーは再びフェルデンの執務室に呼ばれ、開口一番に告げられた言の葉に呆然とした。
「ルーシー、聞いているのか?」
「へ?あ、えと……申し訳ありませんがもう一度……」
「だから、君を息子の妻に迎えたいと言っているんだ。」
何を言っているんだ。
空耳であれと願ったそのセリフは、どうやら聞き間違いですらないらしい。ルーシーは主人の手元にある紙をチラと見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの…なぜ私なのでしょうか。その紙は確か、イニアス様のお見合い用の書類の参考にする為のものだったと記憶しているのですが。」
「最初はそのつもりだったのだが、これを見て思わず吹き出してしまってな。息子に聞いたら全部本当の事だと言うじゃないか。」
「はい、確かに全て本当の事ですが…」
ルーシーは首を傾げて、紙をヒラヒラと揺らすフェルデンを見返した。
ルーシーとしては絶対に見合いを成功させて、一直線に結婚まで進んでほしかった。その為にはまず、その日までにイニアスが直すべきところを怒られる覚悟で書いたのだ。良いところの列挙など他の者に任せればいいのだから。
例えば、
・挨拶をする時は、水鉄砲ではなく笑顔を向けましょう。
・人を呼んだら、隠れたり移動したりせずにその場で待っていましょう。
・後ろから声をかける時は、真後ろではなくせめて十歩分は距離をとりましょう。
・声もかけずに人を追い抜いたり追い抜かれたりして、チラチラと視界の端に入ってはいけません。
・相手の真正面から突進して直前で直角に曲がる行為は、落ち着きのない印象を与えてしまいます。
・『笑うと面白い顔だね』は褒め言葉ではないので気を付けましょう。
と、こんな感じだ。ちなみにあと七つある。
どんなに見た目が良くても中身が五歳児並みの鬼畜では話にならない。会って五秒でサヨウナラだ。そうならないようにと願ってサラサラサラと書いたのに、狙った結果とは真逆の状況が己を迎えにやってきた。
ルーシーはふと、最も大きな疑問が浮かんだので手を上げた。
「あの、よろしいでしょうか。」
「なんだ?」
「イニアス様はなんて仰ってるんですか?好きでもない上に一介の使用人と結婚なんて、そんな罰ゲームみたいな事…」
「実は今回の件は本来の目的とは別に、君が息子をどう思っているのかを知る為に行った事なんだ。」
「はい?」
「二人の関係がどういったものか知りたかったのだが…これを読んだだけでも息子がいかに君を愛しているかが伝わってきた。そして君も、少なからず息子を良く思ってくれている事もな。」
待て待て。どうやったらそんな風に解釈できるのか。深読みなどせずそのまま素直に読み取れば、迷惑がっている事しか伝わってこないはずだ。そして息子の馬鹿さ加減も。
ルーシーがポカンとした顔で二の句が告げないでいると、フェルデンは紙を置いて苦笑した。
「親の私が言うのもなんだが、イニアスは真面目で礼儀正しく、対人関係もそつなくこなす器用な男だろう?」
「はい。」
イニアスのもう一つの表の人格。それはただの表向きのものではなく、紳士的な立ち居振る舞いや落ち着いた物腰、磨かれた知性もまた、彼の本当の姿だった。誰にでも優しく穏やかな笑顔を向ける彼に、密かな想いを抱いている女は少なくない。
「そんな息子が唯一君にだけ見せる姿が可笑しくてね。君には素の自分が出せるんだろうなと思うと、背中を押してやりたくなったんだよ。」
「あれは、そういうのでは無いと思うのですが……」
「本当にそう思うかい?」
「え?」
「本当は気付いていたんじゃないのか?イニアスが君の前でだけ見せる表情は特別だと……」
コンコンコンッ
来訪を告げるものとは違う強めのノックにフェルデンがクスリと笑う。
これ以上は勝手に言うな、という事だ。
フェルデンは言葉を切り、椅子にゆったりと背を預けた。
「どうやら迎えが来たみたいだな。」
「え?え?」
「話の続きは本人としてくれ。さ、行きなさい。」
「あ…はい、失礼します。」
と言いつつ、できれば部屋から出たくない。しかしそういう訳にもいかず、ルーシーは一礼してからノロノロと部屋を出た。
「おい。」
「ひっ」
イニアスは壁にもたれて腕を組んでいた。出てくるのがルーシーだけだと分かっていたからだろう。そのいつもと変わらない無愛想な声に、早くもゲンナリしてきた。
「なんだよ。」
「いえ、なんでも…あれ?」
「うん?」
「なんでそんなに汗をかいてらっしゃるのですか?」
「……。」
「イニアス様?」
どうしたというのか。いつものイニアスならばフンと鼻を鳴らして、手で拭いた汗をベチャッと付けてくるだろうに。
ルーシーが静かに出方を待っていると、イニアスは深く息を吸い込みポツリと呟いた。
「今は一度しか言わないからな。」
「はい?」
「……。」
「何です?」
「……………好きだ。」
「………。」
「俺と結婚してくれ。」
「………。」
「返事は。」
もがっ!
返事をしようとした口を勢いよく手で塞がれ、ルーシーは思わず吹き出した。