8.耳
翌日、アルヴィア様の配属最終日を迎えた。
「いやぁ残念。実に残念だ。だが、人員が補充されて本当に良かった。な、リュシー?」
アルヴィア様のお陰で、これまでのスタンスを見事に崩されてしまった所長は、この日が来るのを本当に楽しみにしていたらしい。鼻歌交じりにニコニコと笑っている。
とはいえ、補充の全容は未だ明らかになっていない。
普通の人事異動なら、数日前には内示が出て、どんな人が何人来るのか、予め分かっているものだ。
(もしや、補充があるって言うのは所長の嘘なのでは?)
そんなことを思わないでもないけど、遣いの騎士も『異動がある』って言っていたし、嘘ではないと信じたい。
「リュシー」
アルヴィア様が優しく微笑む。わたし達の手のひらはこっそりと繋がれている。『大丈夫だよ』って言われているみたいで、すごくすごく心強い。
「そうですね、所長」
そんな風に返せば、所長は満足気に笑った。
***
夕日が沈み、相談者たちが扉を潜る。
(あっという間だったなぁ)
頭の中に、この数週間の出来事が鮮やかに蘇る。
相談員としてのアルヴィア様を慕っていたのだから、どう足掻いても、しんみりしてしまうのは仕方がない。そんなわたしの気持ちを理解しているのだろう。アルヴィア様は黙って側に寄り添ってくれた。
閉所を継げるベルが鳴る。
いつもの様にアルヴィア様と二人、入り口を施錠しようとしたその時だった。
「すみません! 遅くなってしまったのですが……お話、聞いていただけませんか?」
余程急いでやって来たのだろう。汗と泥にまみれた男性が『王太子の耳』へと駆け込んで来た。
「構いませんよ。こちらにど――――」
「ダメに決まってるだろう」
そう言い掛けたその時、所長がわたし達の前へと立ちふさがる。
「閉所のベルは鳴ったんだ。明日出直しなさい」
「……! ですが、そのぅ……明日の朝一には帰りの馬車に乗らなければならないのです。車両故障で半日足止めされてしまって……本当だったら昼頃にはこちらに着くはずだったのですが。
そもそも、王都に来るのに、片道二日掛かりまして、何分これ以上仕事を休む訳にも――――」
「それが何だというのです? 私達には関係ないことでしょう?」
「ちょっと待ってください!」
あまりにも冷たい所長の物言いに、わたしは眉を吊り上げる。
「良いじゃありませんか! わざわざ王都まで相談に来てくださったんでしょう? 本当だったら開所時間に到着する予定だったみたいですし、少しぐらい――――」
「ダメだ、ダメだ」
汚いものでも見るかの如く、所長は顔を顰める。
「どうしてですか!? これまで、わたしがどんなに遅くまで相談を聞いていても、全く文句を言わなかったでしょう?」
「これまでは、な。全く、とんでもない人員を寄こされたもんだ」
そう言って所長はアルヴィア様を仰ぎ見る。侮るような眼差し。腸が煮え来るような心地がした。
「アルヴィア様は何も悪くないわ! 誤りを正してくださっただけだもの!」
「何が誤りだ! 全く、こいつのせいで私が相談室に入らなければならなくなった! おまけに無駄な残業代迄払わねばならない! 良い迷惑だ! こんなことなら増員など断ってしまうべきだった」
「ふざけないでください!」
胸の内にしまっていた怒りが一気に表出する。これ以上、堪えていることなんて出来ない。わたしの豹変ぶりに、所長はたじろぐような表情を浮かべる。だけど、そんなことはどうでも良かった。
(今、伝えなきゃ)
これ以上黙っているわけにはいかない。わたしだって、声を上げねばならない時がある。それは今だ。
「相談員の数が圧倒的に足りなくても、相談者からどれだけ不当な要求を突きつけられても、あなたは一切相談室に入ることが無かった! わたし達のために動いてくれたことは無かった! それなのに、アルヴィア様を貶めるなんて――――絶対に許しません!
大体、これまで散々残業を強いてきた癖に、こんな風に相談者の方を追い返そうとするなんて酷すぎます! 折角王都まで足を運んでくださったのに……! そうまでして伝えたい想いを無視するなんて、わたしには出来ません!
ここは『王太子の耳』! わたし達は王太子殿下の名代なんです! あなたの好き勝手は許されない!
分かったら、わたし達にこの方の相談を聞かせてください!」
「小娘が……何をバカなことを! 殿下がそんなことを望むとでも? お前のような小娘に一体何が――――」
「リュシーの言う通りだ」
その時、それまでずっと黙っていたアルヴィア様が、唐突に口を開いた。力強い言葉。それだけで勇気が湧いてくる。
「アルヴィア……様?」
けれど、アルヴィア様の方を振り向いたその時、そこに立っていたのは、わたしの知ってる彼の姿ではなかった。
眩いまでの金色の髪、星空を映したみたいな深い青色の瞳。美しい顔立ちはそのままに、けれど醸し出す雰囲気は全く異なる。
思わず跪きたくなる程の威圧感。身体を震わせる凄まじい覇気に、所長はハクハクと口を開け閉めする。
「え……えぇ?」
残っていた他の相談員も、相談に訪れた男性も、皆が大きく目を見張る。
「アルヴィア、居るか?」
「はい、ここに」
そう言って現れたのは、いつも報告書を受け取りに来る、若い黒髪の騎士だった。
(アルヴィア様がアルヴィア様を呼んだ? 一体、どういうこと?)
訳が分からなさ過ぎて、頭の中がこんがらがっている。
「あ……ああ…………」
床にしりもちを付き、所長がアルヴィア様――――金髪の方だ――――を仰ぎ見る。彼の顔面は蒼白で、傍目でもわかる程にガクガクと震えている。
「案外気づかれないものだな。数週間、毎日顔を合わせていたというのに。余程、相談員に関心が無かったと見える。いや、私に対しては随分と憤っていたようだが」
「それは、その……」
平伏する所長を前に、皆が動揺を隠せない。
黒髪の騎士がアルヴィア様に一枚の書状を差し出す。それを突き付けながら、アルヴィア様は所長へと向きなおった。
「私が聞いていた相談員の数と、実際の従事者数が違っている。女官や文官以外から補充を行ったと報告を受けていたが、彼等は一体どこに消えたんだ?
おまけに、職員が上げた残業申請と、実際に支給された手当の額が著しく違っている。その差額は? 一体どこに消えたというのだ?」
「それは、その! あ……あぁ…………!」
所長はその場に蹲ったまま、唸り声を上げ続けている。
「これ以上おまえに、私の大事な『耳』を任すことは出来ない」
アルヴィア様の瞳が所長を射抜く。
(私の大事な『耳』? 一体、どういうこと?)
「殿下……!」
絶望の断末魔が上がる。
(殿、下?)
瞳を数回瞬かせ、アルヴィア様へ目くばせする。けれど、彼は何ら否定をしない。悠然とその場に佇むばかりだ。
「えっ? えええぇっ!?」
王太子の耳に、わたしの声が轟いた。