6.想いがあればあるだけ、余計に
『王太子の耳』はどちらかというと庶民の多く暮らすエリアにある。その方が相談をしやすいだろうという配慮からだ。
あまり高そうな服を着ては相談者の顰蹙を買ってしまうため、相談員は皆、シンプルな制服に身を包んでいる。
それでも、行き交う人々は皆、アルヴィア様を見る度に、ウットリとため息を吐いていた。
(アルヴィア様が夜会に出席されたら、すごいんだろうなぁ)
今でさえこれだもの。おびただしい数の令嬢たちが、彼に群がる様子が目に浮かぶ。彼にエスコートをしてもらえる女性、ダンスを踊ってもらえる女性はきっと、たくさんの羨望と嫉妬の眼差しを送られるのだろう。わたしもきっと、その内の一人だから。
「リュシー、もうすぐ着くよ」
離れないようにと、手が繋ぎなおされる。さり気なく合わせられた歩幅。肩が触れ合う程の近い距離。心臓はずっとドキドキと鳴り続けている。
路地裏を抜けると、大きな柵で囲まれた一帯が目に入った。
「ここ、ですか?」
尋ねたわたしに、アルヴィア様はニコニコと微笑みながら振り向いた。
「うん、そうだよ」
柵の中へ入り、また少し歩を進める。
美しい花のアーチ。上品すぎず親しみやすい雰囲気の庭園が広がっている。広場にはテーブルやイス、ベンチなんかが設置されていて、ゆっくりと寛ぐには最適な環境だ。
「これは……どういうことでしょう? だって、この場所は――――」
これでもわたしは『王太子の耳』。この辺一帯のことぐらい、把握するよう努めている。
ここはついこの間まで、草も生えない寂れた広場だった。しっかりと整備された街の片隅。暗くジメジメとし、ゴミや糞尿が散乱している。浮浪者がウロウロしていて怖い、何とかして欲しいって陳情が来ていた場所だというのに。
「殿下が書いていただろう? 民の声に応える努力をしているって。ここもその内の一つだよ」
わたしをエスコートしながら、アルヴィア様が優しく微笑む。
「だっ……だけど、ここで暮らしていた人達は? どうなっちゃったんですか?」
わたしにとって大事なのは、整備を望む声だけじゃない。ここで暮らす人達だって、わたしにとっては大切な相談者だった。
仕事が欲しい、食事や水を恵んでほしい、住む場所が欲しい――――そんな風に苦しんでいたのを知っている。彼等は、ここ以外に行くところがない。それなのに、一体どこへ追いやられてしまったのだろう?
「大丈夫。ここを整備したのは他ならぬ彼等だよ」
アルヴィア様の言葉に目を見開く。真摯な眼差し。温かい笑顔。それだけで、何だか答えが分かった気がした。
「国が彼らを雇ったんだ」
「……じゃあ、皆がここに居ないのは」
「うん。ここ以外に帰る場所ができたから、だよ」
もう一度、美しく整備された庭園を見回す。涙が溢れそうになった。
「そっか……」
ずっと拠り所を求めていた人々。話を聞いてあげることぐらいしか出来なくて、もどかしくてたまらなかった日々。
「そっかぁ!」
思わず笑い声が漏れた。
彼等の声は、ちゃんと国に届いている。形になっている。そうと実感できることが、とても嬉しい。
「連れてきてくださってありがとうございます、アルヴィア様」
「うん。リュシーに一番初めに見てもらいたかったんだ」
ニコニコと微笑むアルヴィア様に、わたしの心が温かくなる。
嬉しくて、幸せで、堪らなかった。
***
それからというもの、わたしはお昼休みに職場を抜け出し、アルヴィア様と一緒にこの庭園に来るようになった。
二人きりの花園。誰にも邪魔されない穏やかで温かな時間。
だけど、いつまで経っても柵が取り払われないので、ある日、アルヴィア様にその理由を尋ねてみた。
「一般向けのオープンはもう少し先なんだ。もう少し整備が必要な箇所が残っているからね。
それに、元々貧民街だったって印象が強いし、俺達貴族が利用することで、少しずつ印象を変えて行こうって思ってる」
「そっか……そうなんですね」
とはいえ、こんなに素晴らしい景色を何日も独占するのはあまりにも贅沢だ。許可は得ているって話だけど、何だか申し訳なくなってくる。
「それより、今日はこれ、食べてみてよ」
そう言ってアルヴィア様は、瑞々しい野菜がふんだんに挟まれたバゲットをわたしへと差し出す。傍らには、どこから出てきたのか、ホカホカと湯気の立ったスープ迄準備されていた。
「で……でも、毎日毎日戴いてばかりじゃ」
「リュシーのためだけに作ってもらったんだよ」
屈託のない笑みを浮かべ、アルヴィア様は首を傾げる。そんな風に言われては、受け取らないわけにはいかない。
「ありがとうございます」
おずおずと頷けば、彼はまた嬉しそうに笑った。
(何だか餌付けされてるみたい)
一口含むその度に、心が悦ぶ。
アルヴィア様が下さる食事は、食べやすさ重視の貧相なわたしのランチとは雲泥の差だった。そりゃあ、専属シェフがいらっしゃる侯爵家と一緒にしたらいけないって分かってるけど、格差ってものを思い知ってしまう。
だけど、これまでおざなりにしていた食事をきちんと取るようになったおかげで、随分と身体の調子が良くなった。たかが食事だなんて馬鹿にはできない。
「今のうちに、リュシーの好みをしっかり把握しておきたいんだよね」
「…………ふぇ?」
唐突にもたらされた情報に、頭が全く追い付かない。素っ頓狂な声を上げたわたしに、アルヴィア様は瞳を細めた。
「胃袋を掴んだもん勝ちって言うだろう? どうせなら、毎日喜ばせたいし」
「――――んん?」
『胃袋を掴む』とか『毎日』とか、ただの同僚であるわたし達には、全くしっくりこない言葉だ。
(もしもわたしが絶世の美女か、由緒正しき公爵令嬢あたりだったらなぁ……『口説かれてる』って思えたかもしれないけど)
生憎、勘違いをしない程度には弁えている。
いや、勘違いをきちんと『勘違い』だと認識し、喜びながらも地に足を付ける程度の分別はある。そうじゃなかったら、一緒に食事なんてできない。浮かれて、舞い上がって、取り返しのつかないことになるから。
「リュシーは本当に、何でも美味しそうに食べてくれるよね」
ポンポンと頭が撫でられ、頬に熱が集まる。
(餌付けだ……これは餌付け)
「可愛い」
「…………へ?」
何が?って聞き返そうにも、視線は真っすぐこちらに注がれている。
「リュシーが可愛い」
蕩けるような笑顔。物凄い追い打ちだ。
(やめて~~! 既にキャパオーバーなんですってば!)
耳を塞いでしまいたいのに、残念ながら両手がアルヴィア様に握られてしまっている。
もしもこれが叶うような恋なら、わたしだって素直に「ありがとう」って言える。恋の気配に飛びついている。
だけど、アルヴィア様への想いが叶うとは到底思えない。
貴族の恋は結婚とセットだ。結婚の方がメインで、恋は二の次三の次。政略結婚の方が断然多い。互いに想い合えても、家柄が釣り合わなければ成立しない――――そういう世界。だったら、最初から本気にならない方が良い。
「ねえ、どうやったらリュシーは俺の気持ちを聞いてくれる?」
(そんなの、わたしだって分からない)
『聞く』っていうのは実に難しい。想いがあればあるだけ、余計に。
「喜べ、リュシー」
それは昼休みを終えて職場に帰った時のこと。やけに上機嫌の所長から声を掛けられた。隣にはアルヴィア様もいるのに、彼には声を掛けることすら無い。あまりにも露骨なその態度に、何だか無性に腹が立った。
「一体どうなさったのですか?」
ため息を一つ、わたしは所長をちらりと見上げる。
「人員要求が通った! あと二週間で補充されるぞ」
「……え?」
所長はそう言ってニヤリと口の端を吊り上げる。彼の視線はアルヴィア様に意地悪く注がれ、それからゆっくりと細められる。
アルヴィア様との別れの日が近付きつつあった。