4.吐露
翌日から、報告書の回収のため、『王太子の耳』に騎士が毎日訪れるようになった。所長は渋っていたけど、殿下直々のお達しにノーとは言えない。
受け渡しにはアルヴィア様とわたしが立ち合うようにと、騎士側から指示があった。
「今日もご苦労様です」
黒髪の騎士が、人懐っこい笑顔でそう声を掛けてくれる。犬みたいな愛らしい雰囲気をした、若い騎士だ。アルヴィア様とも顔見知りらしく、気軽に挨拶を交わしている。
「例の件は?」
「問題ありません。報告書の通り、地盤がかなり緩んでいたため、周辺住民の避難と補強を行いました。報告書の周辺地域についても、同様の対応を行っています」
「ならば良し」
至極満足そうな表情で、アルヴィア様は微笑む。
「リュシー、今日の報告書を」
「はい」
この数日の間に、アルヴィア様はわたしを名前で呼ぶようになった。口調も当初より砕け、何だか接しやすくなった気がする。
「必ず王太子殿下に届けてくださいね」
「はい、確かに」
そう言って、遣いの騎士が微笑む。
相談者たちの想いは、絶対に殿下に届く――――そう思えるようになっただけで、わたしの心は随分と楽になった。
嫌で嫌で堪らなかった答えのないクレームも、わたし一人で受け止めなくて良いんだって思えるだけで、ブレずに立ち向かえるようになっている。
おまけに、アルヴィア様がかなりの数の相談を受けて下さっているから、自然、わたしに掛かる負担がかなり減った。
(もしかしてだけど、他の職員は皆、自分の相談件数が多くならないように、かなり調整をしているんじゃ……?)
恐ろしいことだけど、そう考えるとしっくりくる。本当にとんでもない職場だ。
「あっ、そうだ。今日は殿下からの預かりものがあるんですよ」
「預かりもの?」
『王太子の耳』っていうふざけた名前の癖に、これまで殿下がこの部署に関わることは皆無だった。それなのに、預かりものがあるって言われても、全然ピンと来ない。
「所長宛でしょうか?」
「ううん、リュシーさん宛。はい、どうぞ」
騎士はそう言って、一通の封筒をわたしに手渡す。王家の封蝋。確かに王太子本人からの手紙らしい。
「それじゃあ、僕はこれで」
颯爽と手を振り、騎士が去っていく。気が緩む。ほっとため息を吐いた。
「リュシーはああいう男性がタイプなの?」
騎士の後ろ後姿を見送りながら、アルヴィア様が尋ねる。騎士は時折こちらを振り返ると、大きく手を振り続けていた。
「いえ、そんなことはありませんけど」
見ていて微笑ましいなぁと思うし、癒される。だけど、わたしのタイプは全然違った。
「だったら、どんな男がタイプなんだ?」
「……そうですねぇ。可愛い系よりカッコいい系がタイプです。背が高くて凛々しくて、見てるだけで目が悦ぶみたいな。
あと、強くて頼りになって、いざという時に守ってくれる人。優しくて温かくて、ダメなところも全部ひっくるめて愛してくれるような、包容力のある人が良いです」
思いのほか条件が多くなってしまったことに驚きつつ、うっとりと胸をときめかせる。だって、理想ぐらいは好き勝手に想い描いて良いじゃない。王子様みたいな素敵な人が、この苦境から救い出してくれる――――そんな夢を見たって仕方がないと思う。
「なるほどね……」
だけどアルヴィア様は、わたしのことを全然バカにしなかった。寧ろ、妙に感じ入った様子で、何やら考え事をしている。
「そういうアルヴィア様はどうなんです? どうせ、めちゃくちゃ可愛い婚約者がいるんでしょう?」
わたし達の年齢なら、婚約者が居る方が普通だ。あと二年も経てば、わたしは立派な嫁き遅れ。職はあれども、貴族としては中々に苦しい立場に立たされてしまう。やっかみ半分で尋ねた質問に、アルヴィア様は声を上げて笑った。
「残念ながら婚約はまだだよ。
だけどそうだね、俺のタイプは頑張り屋の女性かな」
そう言ってアルヴィア様は、目を細めて笑った。その表情が何とも魅惑的で、思わずドキッとしてしまう。
(変なの。ただ微笑まれただけなのに)
このぐらいでドキドキされては、アルヴィア様の方も不本意だろう。気を引き締めなおし、わたしは彼の方へと向き直った。
「頑張り屋って、中々に抽象的な例えですね」
「そう? かなり具体的なんだけどな。
真面目で、不器用で、意地らしくて。苦しくてもそれを乗り越えようって努力しているのも良いし、堪えきれずに落ち込んでしまう様子も可愛いと思う。向上心が高いと、自然浮き沈みが激しくなるからね。
あと、周りに気を遣って、自分のことを後回しにしてしまう子だから、俺が守ってあげたいと思うし、甘やかしてあげたくなる。
それから、優しさの本質を履き違えていないのも良い。相手に嫌われてでも、本当に相手のためになることをする人間の方が好ましい。
正直にものを言うから、あまり周囲に理解されないし、好かれるタイプじゃないかもしれないけど、俺は好き」
「…………なんだか本当に具体的ですね」
具体的、というより最早、既に特定の誰かがいるといった方がしっくりくる。
「アルヴィア様は案外、情熱的な人なんですね」
爽やかな雰囲気に反し、その内側はかなり熱い。端正な顔立ちをしているし、スタイルも抜群だし、彼が愛を囁けば、大抵の女性は呆気なく堕ちると思う。
「そう? リュシーの瞳にそんな風に映ったなら光栄だな」
そう言ってアルヴィア様はわたしの髪を一筋掬う。それだけでもドキッとするのに、彼はあろうことか、そのままそこに口づけた。
「なっ……! な、な」
「ごめん、嫌だった?」
美しく整った顔を寄せられ、熱っぽく見つめられる。
この状況で『嫌』だと言えるのは、美醜フィルタがいかれているか、余程の男嫌いか――――いや、よくよくよく考えたら、この状況を嫌がる女性は案外多いんじゃなかろうか。だって、もしもさっきの遣いの騎士にいきなり同じことされたら、ちょっと嫌かもしれない。彼だってアルヴィア様に劣らないイケメンなのに。
「リュシー?」
「…………驚きましたけど、嫌ではありません」
寧ろ、ちょっと嬉しい、なんて思ってしまっていることは黙っておく。だって、はしたないって思われたら嫌だし、恥ずかしいし、あんまり良いことではないだろうから。
「嫌ではない、ね。良かった」
そう言ってアルヴィア様は嬉しそうに笑う。さっきまでの表情とのギャップに、少しだけ安堵してしまった。
(過剰反応しなくて良かったぁ……)
アルヴィア様としては少し揶揄ったつもりなのに、いちいち本気にされては面倒だろう。高潔ぶるつもりは更々ないけど、痛い女認定はされたくない。
「そういえば、殿下からの手紙、開けてみないの?」
「あっ、そうでしたね」
話に夢中で、すっかり存在を忘れていた。だけど、思い出したその途端、ずっしりと異様な程の重さを感じる。凄まじい存在感。開封しなきゃって分かってるけど、得体が知れなくてとても怖い。
「えぇ? ……っと、怖がらなくても大丈夫だと思うよ」
震えているわたしに驚いたのか、アルヴィア様が困ったように笑う。
「本当にそうでしょうか?」
こんな下っ端女官に対し、殿下直々の手紙が来るなんてどう考えてもおかしい。お叱りとか、罷免とか、そういう類の内容なんじゃなかろうか。
「ほらほら、勇気を出して」
促され、渋々封を切る。開けたそばから漂う、上品な癖にどこか刺激的な香り。ドキドキしながら便箋を開くと、そこには力強く、けれど流麗な文字達が並んでいた。
「何て書いてある?」
耳元でそんなことを囁かれて、ビクッと身体が震える。元々ドキドキしていたのに、更に拍車が掛かってしまった。
(罪作りな男だなぁ)
若干の腹立たしさに唇を尖らせたものの、勢いも手伝い、わたしはようやく文面へと視線を落とした。
【親愛なるリュシー・ドゥ・ファオス
君からの報告書は、全て大事に読ませてもらっている。報告書を読むだけで、君がどれだけ熱心に仕事をしてくれているか伝わってくる。一体どんな女性なのだろうと気になっていたのだが、昔馴染みのアルヴィアから話を聞いて、こうして手紙を送ろうと決めた。
これまで国のために頑張ってくれて、本当にありがとう。
君達が居なければ、私は民がこんなにも苦しんでいることを知らないままだった。騎士や文官達がくれる報告は、綺麗な上澄みばかりで、濁った感情、要望、民の叫びは全く届いてこなかった。これだけでも『王太子の耳』を作った甲斐がある。本当にありがとう。
それに、民から寄せられた意見の中には、是非とも採用したい、というものが多くあった。実現までに時間が掛かるものばかりだから、今はまだ形になってはいない。だが、どうか安心してほしい。民の声――君の頑張り――は決して無駄にはならない。無駄にはしないと約束しよう。
それからもう一つ。
『王太子の耳』の惨状は、今君の隣にいるであろうアルヴィアから聞き及んでいる。
短期間に複数の職員が辞め、大変だったね。君のような真面目な女官を苦しめてしまったこと、発案者として心苦しく思っている。言い訳のようになってしまうが、所長には何を聞いても『全てが順調』の一点張りだったから、何も知らずにここまで来てしまった。必要な人員はすぐに手配をする。もう少し待っていてくれ。
君は私にとって大事な女官だ。これからも『王太子の耳』として、君の力を貸してほしい。
王太子 フェリクスより】
「――――――ね? 怖くなかっただろう?」
アルヴィア様が目を細める。彼はきっと、はじめから手紙の内容を知っていたのだろう。
「うっ……」
ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。嗚咽が漏れ、堪えることができない。
「堪えなくて良いんだよ。ここは何と言っても『王太子の耳』。声を上げるべき場所なんだから」
アルヴィアがそう言って背中を撫でる。ただでさえ役に立たなかった涙腺が崩壊して、子どもみたいな声が溢れ出た。
もういい大人なのに。これでも一応貴族の端くれなのに。
そんな躊躇いを、殿下とアルヴィアが取り払ってくれる。
「アルヴィア様……わたし『王太子の耳』なんて無くなってしまえば良いって、ずっとずっと思ってたんです。考えの甘い、馬鹿みたいな思い付きだって。もっと対応する側の職員のことを考えろとか、そんなに民の意見を聞きたいなら、自分でやれ、とか、そんな風に思ってました」
「………………うん、そうだろうね」
これまで誰にも打ち明けることのできなかった想い。だけどここは『王太子の耳』で、今のわたしは届けたい声のある一人の人間。
(今だけは声を上げることを許してほしい)
そんなことを願いながらアルヴィア様を見上げると、彼は力強く頷き、穏やかな笑みを浮かべる。心がすっぽりと包み込まれ、優しく撫でられているみたいだった。
許されている――――その事実が、心を溶かす。凍らせて、見ない振りをしていた感情達が、雪解け水のように溶け出して、一気に押し寄せてくるのが分かった。
「わたし……自分勝手な同僚達も、何かあってもわたし達を守ってくれない所長も、大嫌いでした。最低だなって。本気で本気で腹立たしかった。
皆、自分が良ければそれで良い。誰か一人に負担が偏ろうと『え? 全然気づかなかった』みたいな顔をして逃げていく。わたしには気づくことを求める癖に、わたしの苦しみには全然向き合ってくれない。
だけど何よりムカついたのは、彼等は――――あの人たちは本気で仕事に――――相談者に向き合ってなんかいなかった。聞いてるようで聞いてない。本気で国を変えようなんて人、ここには一人もいないんです。それがわたしは腹立たしい」
心の奥底に眠らせていた芯の部分。今でも触れることはとても怖い。だけど――――
「わたしはきっと――――この仕事が好きなんです!」
アルヴィア様が目を見開く。襲い掛かる気恥ずかしさに俯きつつ、わたしは言葉を続けた。
「腹立たしいことばかりだけど! 嫌な言葉ばかり浴びせられるけど! それでも、こんなわたしが誰かの役に立てるのかもしれないって――――この国が少しでも良くなるならって、そんな風に思っている自分がいるんです。
他の職員にも同じように思って欲しい。
だけど、価値観は押し付けるものじゃない。本人がそう思わなきゃ意味が無いって分かっているから、誰にも……誰にもこんなこと、言えなくて」
認めたくなかった事実。だって、認めてしまったら最後。周囲との温度差を感じて、余計に辛くなるって分かっていたから。
だから今、アルヴィア様や殿下がこうして同じ目線に立ってくれることがとても嬉しい。
「リュシー」
アルヴィア様がわたしを抱き寄せる。逞しい胸板。ふわりと香るのは、彼のように爽やかで温かく、けれどスパイシーな香りだ。
(何だかすごくドキドキする)
心と身体が物凄く熱い。苦しくて堪らないのに、いつもの苦しさとは全然違う。甘やかで優しい、胸を擽るような苦しさだ。
(ずっとこうしていられたら良いのに)
彼に吐露した想いの数々。だけどその夜、その一言だけは言葉にしないまま、大事に胸に仕舞いこむのだった。