1.逃げる人間、取り残されたわたし
王都のど真ん中、城に程近い場所に建てられたこじんまりとした建物の中、グッと大きく背伸びをする。
一日中座っていたから、身体は全然疲れていない。だけど、疲労感は半端なかった。
(ようやく一日が終わった……)
目を瞑れば、今日一日の間に話を聞いた人々の顔が浮かび上がる。
不平、不満。提案や要望、苦情や陳情。
それらを国民から聞くことが、わたし――リュシー・ドゥ・ファオスに与えられた仕事だった。
「お疲れ様、リュシー。今日も大変だったわねぇ」
そう言って先輩が声を掛けてくれる。わたしより二つ年上の伯爵令嬢だ。
元々は花形である騎士団付き女官だったのを、二年前に出来た、この『王太子の耳』なんていうふざけたネーミングの部署に引っ張られてきてしまった。
入職と同時に配属されたわたしはさておき、意に反して異動をさせられた先輩たちの不平は決して小さくなく。二年前は七人いたこの部署には今、わたしを含めて四人しか残っていない。だけど、業務量は減るどころか増えるばかりだし、辞めた三人のうち二人は、この二ヶ月の間に相次いで居なくなってしまった。当然、残ったわたし達の負担は恐ろしい程大きい。
「早く人員補充してよ……」
呟きながら涙が浮かんでくる。幼子じゃあるまいし、こんな風に本音を吐露するとか、涙を流すとか馬鹿げているって分かっている。だけど、最近の惨状は本当に酷い。
胸の中がモヤモヤして、苦しくて堪らなくなったその時、先輩が「そのことなんだけど……」と言葉を挟む。
「実はね、リュシー。わたくし、結婚の日程を早めることにしたの」
「……へ?」
気まずそうに微笑む先輩を前に、わたしは目を丸くする。
結婚――――先輩は元々、寿退職を予定している。つまり、彼女はもうすぐ、この部署から居なくなってしまうということだ。
(おめでたいことだって分かっているけど)
残念ながら、今のわたしは素直に喜んであげることが出来ない。
「それで、いつ辞められるんですか?」
「それが――――――今日が最後の勤務日なのよ」
あまりの爆弾発言に、足元が崩れ落ちる心地がした。
***
(何よ、何よ! 知ってたなら教えてくれたら良かったのに)
先輩の退職は、二週間前には決まっていたことらしい。それなのに、わたしが憤慨――――落胆するだろうからと、揃いも揃って黙っていた。そのことが腹立たしくて堪らない。
大体、先輩が結婚を早めたのだって、仕事がきついからに他ならない。
(わたしだって、出来ることなら逃げ出したいわ)
ただでさえ回っていないのに、更に人員が減ってしまった。残った人間の負担は如何ばかりか――――逃げ出した側は、そんなことは全く気にしない。己の幸せを謳歌し、逃げそびれた人間だけが損をする。全くもってふざけた話だ。
(真面目にやってる自分が馬鹿みたい)
神経をすり減らして、謝り続ける日々。誰からも褒められることも、認められることも無く、ただただ王太子の耳となる。
(それだって嘘。どうせ届くことなんかないのにね)
この二年間、王都で暮らす人々の生活を、彼等の想いを、わたし達は全部、報告書に纏めている。けれど、それらに対する答えは一度だって来たことが無いし、読んでいるのかすら定かじゃない。
『王太子の耳』っていうのは、この国の王太子が適当に、思い付きで作った部署だ。それ以外の人からは見向きもされない。存在する意味も意義も価値も全く見出せなくて、涙が自然と溢れてくる。
(帰りたいなぁ)
未だベッドの中に居るというのに、そんなことを考えてしまう。頭の中に響き渡る、人々の罵声や懇願の声のせいで、今夜もまともに眠れていない。先輩がいなくなることで、一人あたりが捌かなきゃいけない相談の数だって当然増える。先のことを考えると頭が痛くなるし、身体が重くて動かない。
(だけど行かなきゃ)
それでも、仕事を投げ出すことができない。大きな深呼吸を一つ、頬をペチペチと何度も叩く。ゴクリと唾を呑み込んでから、わたしはベッドから起き上がった。
***
「遅かったな、リュシー」
職場につくと、真っ先に所長から声を掛けられる。中年の宮中伯。王子の命令で出来た部署だからってことで宛がわれた人物らしいんだけど、どれだけハードなクレームを受けようとも相談を代わってくれることはないし、人員が減ろうが、業務量が偏ろうが、彼がわたし達のために動いてくれることは殆どない。何のために存在するのか全く分からない人だ。
「おはようございます、所長」
別に遅刻をしたわけじゃないし、嫌味に付き合うだけの元気もない。不機嫌な表情をお辞儀で誤魔化しつつ、わたしは小さくため息を吐く。
「喜べ。今日から人員が増えるぞ」
だけど、彼が口にしたのは思わぬことだった。
「ほっ、本当ですか!?」
顔を上げ、ずいと身を乗り出せば、所長は顔を引き攣らせつつも小さく頷く。
(天はわたしを見放してなかった……!)
胸の中のわだかまりが溶け出し、気分が一気に高揚する。現金なもので、さっきまでめちゃくちゃ腹立たしかった所長が、まるで神様みたいに見えてきた。心の中で無能だとか散々罵っていたのが申し訳ない。彼は物凄く素晴らしい人だ。
「ありがとうございます、所長!」
「ああ。……まあ、期間限定だけどな。正式な補充が来るまでの繋ぎとして、扱き使って構わないとのお達しだ」
「良いです、良いです! 今が凌げればそれで良いんです!」
だって、元々今日を乗り越えられる気すらしていなかったんだもの。期間限定だろうが猫の手だろうが、喜んで縋りつくに決まっている。
「で? 救世主様はどちらに?」
「――――初めまして、リュシーさん」
所長の後ろからスッと、長身の男性が顔を出す。サラサラの黒髪に、黒曜石みたいな切れ長の瞳をした、美しい顔立ちの人だった。引き締まった身体つきは、文官というより騎士と言う方がしっくりくる。まだ若くて、わたしと同じか少し上位。身なりもシャンとしてるし、かなり高貴な家柄だろう。彼はニコリと微笑むと、こちらに向かって手を差し出す。
「アルヴィア・エラゴンと申します。よろしくお願いします」
(エラゴン?)
わたしの記憶違いじゃなければ、彼が属するのは王族の覚えもめでたい侯爵家だ。王太子フェリクス殿下の側近が、エラゴン家の長男だというのは有名な話。彼には弟が二人いるって聞いたから、アルヴィア様はその内の一人なのだろう。
「リュシー・ドゥ・ファオスと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
差し出された手を取り、そっと微笑み返す。
キラキラと希望に満ちた眼差し。疲れのちっとも見えない爽やかな笑顔。恐らくは王子が作った部署での勤務ってことで、色々と期待しているんだろうなぁって思う。
(ああ、この笑顔がどうか曇りませんように)
そんなことを切に祈りながら、わたしは笑みを深めるのだった。