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夕陽亭そば勝負  作者: 杉下栄吉
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退職後 蕎麦打ち選手権出場を目指す

8、退職後 蕎麦打ち選手権出場を目指す 

 杉下が60歳の定年を迎えるのは令和2年3月、退職まで1年を切った。退職する前から退職後に何をするのかは大問題だった。教職員組合主催の定年後の生活についてのセカンドライフセミナーでは

「定年後に交流できるコミュニティーを今のうちに3つ以上持ちましょう。」

と言われた。杉下はセミナーから帰ってきて家で妻に

「俺ってさ、コミュニティー3つあるかな?」

と聞いてみた。妻は

「お父さんはいくつもあるほうじゃないの。合唱サークルの皆さんといっしょに2週間に1回は歌ってるでしょ。それにゴルフのお仲間は定年後も続くでしょ。アドベンチャークラブとかいって野村先生たちとカヌーに乗ったりBBQしているのもそうだし、畑仕事を3人でやってる杉下ファームもコミュニティーだと思うわ。4つあるんじゃない。」

そう言われてみれば、仲間でやっていることはいくつか抱えている。そう心配したものではないかなとも思ったが、合唱は2週に1回、ゴルフも2週に1回、アドベンチャークラブも2週に1回程度、畑も大体2週に1回のペースで続けている。定年後のスケジュール表には2週間に4回しか行事がないことになってしまう。そう考えると何かしないといけないかなという脅迫観念が湧き出てきた。

 ある日、妻に切り出した。

「おれ、退職したら蕎麦打ち選手権に出るよ。『けんぞう蕎麦』のご主人も丸岡の『お仙』のご主人も日本蕎麦打ち名人選手権の入賞者なんだ。僕も大会に参加して入賞したらいつか蕎麦店を開きたいと思っているんだけど、どうかな。」

そう言うと妻は

「それだけはやめて。この家を蕎麦屋に改造するなんて言い出すんじゃないの。せっかく退職したら静かに暮らせるかなと思っているのに、わざわざ苦労したくないわ。」

当然である。1年後退職して退職金をいただいたら、大切に貯金して細々と暮らしながら時々旅行などを楽しむ。そんなセカンドライフを夢見ていた妻には今更、割烹着を着て三角巾を頭に巻いて、お客さんに忙しそうに注文を聞いて回るなんてことはしたくない。そんなことはわかっているのである。杉下は

「退職後、やることと行くとこがないのはつらいらしいよ。体が元気なうちは働いたほうが元気にやっていけると思うけどな。」

そう言うと

「年金もらうまでの3年半は金銭的に苦しいかもしれないけど、退職金もあるんだし、64歳になったら年金だってもらえるわけでしょ。蕎麦屋さんなんてやり始めたら資金も必要なんだし、借金作って倒産なんてこともあるのよ。そんなことになったらどうするの?」取り付く島もないような剣幕で怒っている。杉下はこの計画は秘密のうちに進め、しばらくは静かにしておいて、機が熟したら妻を説得しようと思った。

 杉下の計画はこんな感じだ。

1、退職後蕎麦打ちの腕を磨くために毎日蕎麦を打って技術を磨く。

2、その年の日本蕎麦打ち名人選手権に参加して入賞する。

3、他店にはないオンリーワンの蕎麦を開発する。

4、妻に蕎麦店開店の許しを得る

5、家を蕎麦店に改装する

以上のような計画になっているが、計画がずさんなところは否めない。こんな計画で店がやっていけるならつぶれる店なんてないだろう。しかし、どんなに山奥のお店でもおいしかったら人は来る。竹田の山奥の油あげ屋は土曜日曜には客が列をなして順番を待っている。けんぞう蕎麦は平成年間に開業していて老舗蕎麦屋ではないが大盛況だ。おいしくて他にないようなものならば客は来るものだ。大切なのは店主のアイデアと技術だと杉下はおぼろげに考えていた。

 5の家の改装は杉下の頭の中では出来上がっていた。幸いにして杉下の家は川沿いの風光明媚な場所だった。客を入れる部屋は2階にして食べながら川の風景を見てもらうことにしようと思っていた。だから、極力お金をかけず1階のキッチンを調理場にして、玄関もそのまま靴を脱いで入ってもらう形にし、改装はキッチンの水回りとガスを業務用にするくらいで済ませようと考えていた。

 問題は3のオンリーワンの独自性である。二八蕎麦で蕎麦粉は福井県産、誰がやってもほとんど味は変わらない。けんぞう蕎麦さんは蕎麦をざるに乗せて1合ずつ好きな量を注文できるようになっているし、辛み大根を使った辛味蕎麦が特徴である。それぞれの蕎麦屋に特徴があり、その店の売りになっている。それがないとアマチュア蕎麦職人と何も変わらなくなってしまう。どんなオリジナリティーを出すといいのか。毎日頭の隅において考えていた。


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