まずは胃袋から掴もう
王宮の庭園は広く噴水もあり、平民でもお金を払えば入る事ができるのだ。もちろん身体検査をされるし、払うお金はそれなりの金額なので、王都での人気の場所ではあるが人混みができる程でもない。一度は恋人と散策に訪れたい場所として、年頃の娘の間で話題であった。
年頃は少しばかり過ぎたショコラであっても、この庭園は気に入っていたし、それが可愛い夫と一緒に歩けるともなれば、上機嫌になるというものだ。
アランの為に綺麗なドレスを身に付けてきたショコラは、タイピンとお揃いの宝石で作ったブローチを撫でながら、鼻歌を口ずさんだ。
「アラン様、この辺りはいかが?」
「…あ、ああ」
景色の良い場所にあるベンチに並んで腰掛けると、ショコラはバスケットから軽食を取り出してアランに差し出した。
突然職場に現れたショコラに驚いていたアランは、第二王子妃に呼ばれたと言うとさらに動揺していた。まともに話をする前に、知り合いでもない令嬢から難癖をつけられ騒ぎになってしまい中止になった事を伝えると、何も話してないのかとアランはホッとした様子だった。
ショコラが可愛い夫の痴態をあれやこれやと吹聴すると思っているのだろうか。可愛い夫は独り占めしたいから、ちょっと自慢するけれども詳しくは教えたりしないから、安心して欲しいのに。
そう、渡された軽食が自分好みの味である事に驚いているアランの顔は、ショコラだけが知っていれば良いのだ。昨日の夕食の準備の時、屋敷に残った料理人は昔から働いていた者だったのだが、それがまた全く役に立たない男だった。
昔からこうして作ってきたのだと言って融通が利かないし、まあそういう職人は頑固だというのは悪い事ではないけれど、アランの好みを知り尽くしているのかと思えばそうではなかった。シュゼット伯爵夫妻好みの味付けしか出来ず、せいぜい嫡男だったフェリクスの好物を把握しているくらいだったのだ。
だから昨夜の夕食は色々と用意しつつ、話を聞いて好きな食べ物を知ったのである。
アランは魚料理が苦手で肉料理が好き。豚のソーセージの煮込み料理を食べた時、ほんの少しだけ顔を緩ませたのをショコラは見逃さなかった。
なので今日持ってきた軽食も、味の染みたソーセージの煮込みをちゃんと持ってきていた。一人分が入るくらいの小さな蓋付きの鍋は、弟のブランが何処でもシチューが食べたいと我儘を言って、父が職人に作らせた物である。持ち運びに便利かもという事で、幾つか作らせて余っていたものを持ってきたのだ。弟の食への執着はどうかと思う事があるけれど、偶にこうして役に立つ物があるのでショコラは目を瞑っている。
ちなみにこの鍋は保温性能も優れていて、ブランの我儘に応えてくれた職人の腕は素晴らしい。やはり職人は腕で示してもらわねば。
食事をするアランをショコラは思う存分見詰めてから、夕食は何を食べたいか訊ねた。仕事をしている姿も見ていたいが、政務官は国家機密にも関わる職務である為それは許されない。まあアランがやってる事が雑用以下だとしても、建前上不可である。
なのでアランが食べたい物を用意して屋敷で待っていようと思ったのだ。
「た、食べたい物? いや俺は何でも良いが」
「アラン様、午後の仕事を乗り切るには、ちょっとした楽しみが必要でしてよ。夕飯に好物が出ると思えば、多少の嫌な事も吹き飛びますわ」
ショコラが微笑みながら言えば、アランは怪訝そうな表情を浮かべた。なので例えるならヘルディナのお茶会に呼ばれるのを楽しみに過ごすような事だと言うと、アランは理解したらしいがしかし、更に胡乱な視線をショコラへと向けた。
「……お前は、その事に関して本当に許容しているんだな」
「ええ、そう言いましたでしょ。その感情を持ってこそアラン様でしょう」
それにショコラは周囲の人々に愛されているので、アランの愛だけを求めたりはしない。そう、アランがヘルディナを想うような恋焦がれる愛を、ショコラは向けられた事があるし、夜会などで親しくしている友人からも向けられる事があるのだ。
だからショコラは、そういう愛をアランに求めたりはしない。だってショコラは、只管にアランに愛を与えたいのだから。
「アラン様は私に愛されていれば良いのです」
心からそう想うショコラの微笑みに、アランは顔を背けて目を逸らした。そっと手を握ると、びくりと怯えたように肩が跳ねたが、しかし振り払われる事はない。
なのでショコラは指先を這わせてから、より優しく手を握ったのだった。たったそれだけで、顔を背けているアランの耳が赤くなっているのがわかる。
肌を合わせた夫婦なのに、なんて初心なのかしらと、ショコラは頬を染めた。今夜はどんな風に可愛がってあげようかしらと、熱い吐息を漏らしながら秀麗なアランの横顔を見詰めていたのだが、休憩時間が終わるからと、アランは逃げるように去っていった。
その背中を見送ったショコラは、来た時と同じように上機嫌に庭園を歩き帰ろうとしたのだが、何やら仰々しい集団が近付いてくるのが見える。
「あらまあ」
一般公開されている場所とはいえ王宮であるから、王族が歩いていてもおかしくはない。ないのだが、それが第二王子ともなれば、ちょっとした騒ぎになるのは仕方ないだろう。淑女の鑑と名高いヘルディナに熱烈に求婚した麗しの貴公子レオナールともなれば、だ。
焦茶色の髪を纏め、整った顔立ちに浮かぶ微笑は、誰もが目を奪われてしまう程だ。道行く人々もレオナールに視線を向けて頬を染めている。
アランを月に例えるのならば、その兄フェリクスやレオナールは太陽のようだ。眩しいほどに輝いて、光の祝福に満ち溢れている。だが美形だなとは思うが、ショコラの趣味ではない。
道の端に寄り頭を下げて、レオナールの一行が通り過ぎるのを待った。しかしながらレオナールは、ショコラの前で立ち止まると、声を掛けてきた。
「やあショコラーテ夫人ではないか」
「これはレオナール殿下、ご機嫌麗しゅうございます」
夜会などで見掛けはしたが、こうしてレオナールと言葉を交わすのは初めてである。ヘルディナと結婚するまでは、レオナールは滅多に夜会に出て来ないし、出て来ても近しい者達に最低限の挨拶をして引っ込んでしまっていたからだ。当時は未婚の独身令嬢でしかないショコラには、挨拶の機会など一切訪れなかったわけだ。
「今日はすまなかったね。せっかく王宮に招いたというのに、ヘルディナの具合が急に悪くなってしまったものだから、急遽取り止めにしてしまって」
そういう事になったのねと、ショコラは心得たように頷いた。
「いいえ、ヘルディナ様のお体の方が大事ですから。どうぞ私の事はお気になさらないで下さいませ」
あんな礼儀のなっていない令嬢と友人であったのならば、具合が悪くなっても仕方のない事だろう。お優しい第二王子妃の心労は如何なる程かと同情する。
「ショコラーテ夫人の心の広い対応に感謝するよ。今回は残念だったけれど、またヘルディナと話をして貰えないだろうか。王宮の暮らしが慣れないらしくてね、ヘルディナには寂しい想いをさせてしまっているから」
「私でよろしいのでしたら」
ショコラの答えに、レオナールは両手を握って感謝の言葉を口にした。
満面の笑みを浮かべ、顔を上気させて見つめてくるレオナールの姿は、まるで愛を囁いているようにも見えた。
ショコラは自身に向けられる視線に気付くと、うっすらと笑みを浮かべ、いけないお方ねと呟く。
「近いうちにまた会おう、ショコラーテ夫人」