全ては予想の範囲内
女官からの冷たい視線に晒されながらも、アランが行く事を伝えた時、ふと昨夜のショコラの言葉を思い出した。アランを揶揄っているのだとわかっているのに、どうしてだか今日は朝から何度も、あの声を思い出してしまう。
それと共に昨夜の己の失態も思い出し、身を掻き毟りたくなる程の衝動に襲われるが、女官の前であるのでなんとか押さえ込んだ。そして眉を顰めて一切歓迎してませんと言わんばかりの態度の女官の後ろを、アランは付いて行く。
城の中庭の一角で、ヘルディナが優雅にお茶を飲んでいる姿が見えた。金色の巻き髪が陽だまりの中で輝いて見えて、とても美しく神々しい光景だと、アランはその場に立ち尽くした。ヘルディナはアランに気付くと、顔を綻ばせて名前を呼んでくれた。
「アラン! 来てくれたのね、ありがとう」
アランの名前をこんなふうに柔らかな声色で呼んでくれるのは、ヘルディナだけだった。幼い頃からずっと、アランを笑顔で迎えてくれたのもだ。
両親は兄のフェリクスに掛かりきりで、いつも頭を抱えていた。だからアランは良い子でいようと心掛け、必死に両親の期待に沿える様に頑張った。
けれどもその努力を褒めてくれたのは、ヘルディナだけだった。
いつもヘルディナは、アランは凄いのねと輝く笑顔で褒めてくれて、優しく頭を撫でてくれた。
まあ成長するに従って、そういった行為はなくなったが。それでも、嫌厭されるアランに対し、他意のない優しさを向けてくれる存在だった。
だからどうしても、アランはヘルディナから離れられなかった。だってヘルディナがいなくなってしまったら、アランには一体何が残るというのだろうか。
ヘルディナに勧められて対面の席に座ると、すぐにお茶が出された。侍女や随従から歓迎はされていなくとも仕事は完璧である。美味しいお茶を飲みながら、ヘルディナの愚痴という建前の第二王子の惚気をアランは聞き続けた。
王宮に来た頃から、第二王子の政務が忙しくて寂しいから弟代わりのアランに会いたいという理由で呼び出されていた。ヘルディナはやましい気持ちが一切ないからこそ、夫である第二王子にアランに会いたいと言えるのだろう。第二王子はアランの存在を疎ましく思っているようだが、面会を許可するのはヘルディナとの仲に絶対の自信を持ち、そしてアランが何も言えず何も出来ない事を理解しているからだ。
ヘルディナとのお茶の時間では、基本的にアランは聞き役にしかならない。偶に仕事の事を聞かれるが、答えられるようなものはないから、適当に誤魔化すしかない。それにアランは、ヘルディナの柔らかな声を聞くのが好きだったから、なんの問題もなかった。
なのにだ。
「…そういえばアラン、結婚生活はどうなの?」
「……どう、とは…?」
ヘルディナは眉を寄せ、心配そうな表情を浮かべた。日頃からアランの結婚相手は自分が見付けると言っていたヘルディナだ。第二王子がそれを聞き、ブノワ家に内々に打診したらしいというのは、父から聞いていたので、多分だがヘルディナもその辺の事情は知っているのだろう。
そしてショコラーテ・ブノワの宜しくない噂の数々も。
「私がアランの事をレオナールに話したら、それがどこからかリチャード皇太子殿下に伝わったみたいで。殿下が良き伴侶を見つけてやろうと仰ったの。だから全てお任せしたのだけれど…」
結婚誓約書に王家云々の文面が入っていたのは、第二王子もしくは皇太子の采配だろうか。落ちぶれた伯爵家の婚姻にわざわざどうしてと思ったが、兄弟揃っての盛大な嫌がらせだったのかもしれない。父は王家から目をかけられていると勘違いして、喜んでいたようだが。
ヘルディナの目があるから、多少年上で行き遅れであったとしても、釣り合う年齢のショコラーテを充てがったのだろうとしか思えない。いくらショコラが、アランの元に望んで嫁いできたと言っても、信じられなかった。
何も言えないアランに、ヘルディナが何かあったら相談してちょうだいと言ってきた。
「私にとって貴方は、大事な弟のようなものなのよ。何か大変な目にあったら、絶対に助けるわ」
ふと、綺麗なヘルディナの手が視界に入った。真っ白で傷一つない、細く美しい指だった。労働などしたことのない、そしてこれからもする必要のない手。
きっとヘルディナは、洗濯などした事がないし、する事もないだろう。ましてや、大事な弟のようなものという、あやふやな立場のアランの服など、絶対にその手で洗ってなどくれやしない。もしかしなくとも、昨夜のような粗相をしでかしたら、軽蔑されて終わりだ。
だが、悪女と名高いショコラだったが、彼女は甲斐甲斐しくアランの世話をしてくれた。何があっても愛してあげると言ったのだ。
そこでアランは、またショコラの事を考えてしまっている事に気付き、慌てて頭を振って女の姿を消し去ろうとした。
愛しのヘルディナとの、唯一の安らげる時間に、ショコラの事を考えてしまうだなんて。
「…アラン、本当に大丈夫? 昨日、何かあったの?」
昨日と言われ、アランの肩が大きく跳ねた。だが何があったかなんて言えるわけもないので、アランは何もないと必死に取り繕う。だがヘルディナは納得していない様子だった為、アランはその日初めて、お茶の時間の途中で退席した。
昨夜飲み過ぎたので気分が悪くてと言い訳をして。嘘は言っていないし、結婚式の翌日も羽目を外す夫婦は、ごく少数だが居る事は居るのだ。まあ伯爵家のしかも政務官では聞かない話であるが。
しかしこれ以上この場所にいても返答に困るだけなのだ。自身の人生で唯一と言っても良い程に想っていたヘルディナよりも、心の内をショコラの事で埋め尽くされる程だった。
逃げ込むように資料室へと戻り、意味のない仕事が手に着かないまま日が暮れてしまった。いつまでも資料室にいるわけにもいかず、アランは重い足取りでシュゼット家の街屋敷へと戻った。
途中、酒場にでも行って時間を潰そうかとも考えたが、酒を飲んだ事による失態が蘇ってきて、その考えを振り払う。そしてアランは家に泊めてくれるような友人など皆無だったので、結局帰るしかなかったのだ。
陰鬱な顔で屋敷を見上げた。だがすぐに、離れにはいかず自室に閉じこもっていれば良いと思い直した。
だからアランは、ショコラと顔を合わせないようにするという事にばかり気を取られ、玄関の扉を開ける執事が、いつもの若い執事見習いではない事には気付けなかった。
食堂に案内され、迎えたのが父母ではなくショコラであった事に驚き、顔馴染みのマンディがいない事にも気付けなかった。
両親が揃って保養地に招待されたと聞いて、一緒に行ったのだろうなくらいに思ったのだ。
ショコラは昨夜の失態を口にせず、聞き上手であったからか、アランはいつもより口数が多くなり色々と話し込んでしまった。
思えばアランは聞き役に回る事が多く、自身の話を聞いてもらえるなんて滅多になかった。
だからなのか、つい話し込んでしまって、気が付いたらソファで隣り合って手を握られ、マッサージだと言われて揉まれて。
そうして。
床に脱ぎ捨てられた二人分の衣服が視界に入り、翌朝のアランは再び、もう死んでしまいたいという気持ちに苛まれたのだった。