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後悔はいつも先に立たない

 どんなにもう死んでしまいたいと思っても、目を瞑って開いたら朝になっていた。


 最悪の目覚めだと、アランは暗澹たる気持ちで着替えを済ます。自身の身に起こった事を忘れ去りたくとも、記憶というものは到底消えやしない。しかも昨夜脱ぎ捨てたガウンが目に入り、居た堪れない気持ちがさらに込み上げてきた。

 えんじ色のあの女も着ていたガウンは、ブノワ伯爵夫人からの結婚祝いの品だそうだ。夫婦でお揃いなのと、やたらと甘い声色でアランの耳元で囁いていたのを思い出す。


 結婚。そう、自分は結婚してしまったのだ。


 シュゼット家とブノワ家の利害が一致して、政略としてアランとショコラは結ばれたのだ。そこにアランや妻となったあの女個人の感情など加味されず、貴族としての義務と家の血筋を守るためだけに存在するというのに。


 あの女、ショコラーテは、アランに一目惚れをしたのだと言ったが、到底信じられない戯言だった。何せアランの容姿は地味だと言われ続けており、人から好かれるようなものじゃない事は、自身が良く知っているのだ。

 兄のフェリクスと同じ金髪の筈なのに、どうしてだかアランの髪はくすんでいるし、顔立ちだって似ている筈なのに、陰鬱そうだと言われ、アランを見た瞬間に人はがっかりしたような表情を浮かべるのだ。

 あのフェリクスの弟がこの程度かと言わんばかりに。

 いつだって、今までだって、アランに言い寄ってくる年頃の令嬢達は、兄のフェリクスに近付きたくて声をかけて来たのだ。フェリクスが市井の娘と駆け落ちしてからは、周囲の人間はアランを持て囃していたが、今更信じられるわけがない。醜聞を消し去ろうと無理やりアランを話題にしているだけなのだ。

 アランに好意を寄せる令嬢が多いだなんて言われるが、学生時代は勉強しかできない奴だと遠巻きにされ、親しい同性の友人すらいないアランを揶揄っているのだ。


 きっとあの女、ショコラーテ・ブノワもそういった連中と同類に違いない。


 あまり社交に積極的でないアランですら、ショコラーテ・ブノワの事は知っていた。恋多き女、男心を弄ぶ悪女、様々な噂が取り巻いていて、そのどれをも否定しないから、古くから続く貴族には大変嫌われていた。

 いつだったかの夜会で、夫を誘惑しただとかで夫人に詰め寄られているのを見た事がある。普通の令嬢なら必死に否定し謝罪するところを、ショコラーテ・ブノワは不遜な態度を崩す事なく、夫人の魅力が足りないのを人の所為にしないでと言って退けていた。

 自分はただ運命の相手を探しているだけだもの、そう言っていたのを覚えている。

 碌な噂のない女なのに、言う事が随分と夢見がちだなという感想を抱いたからだろうか。まあきっと、好き勝手にするための建前にしか過ぎないのかもしれないが。



「坊っちゃま、お着替えはお済みですか?」


 ノックと共に部屋に入って来たのは、メイド長を務めるマンディだった。長年シュゼット家に仕えてくれていて、不在がちな両親の代わりにアランを育ててくれた人物だった。母親代わりとでもいうのだろうか。

「坊っちゃまはいい加減やめてくれないか、マンディ」

「あら失礼しました。朝食の準備は出来ておりますので、どうぞ」

 促され部屋を出ようとしたところで、マンディが目敏くガウンを見付けていた。こんなのあったかしらなんて言われ、アランは慌ててその手からえんじ色のガウンを奪い取る。出来れば手元において置きたくないが、昨夜の己のしでかした失態がある為、あちらの機嫌を損ねて変な噂を流されたりしても困る。

 それに先ほど気づいたが、洗濯してもらった衣類はまだ、あの女が持っているのだ。後で取りに行くべきだろう。その時にこのガウンも付き返そう。余計な事を言い触らさないでくれと、いざという時はあの女の望むように振る舞って、懇願しなければ。


 そこまで考えて、アランは同じえんじ色のガウンを着ていたショコラーテの姿を思い浮かべた。


 緩く癖のある長い黒髪が揺れていて、蝋燭に照らされた中で見えた、肉厚な赤い唇が弧を描き、愛して差し上げますわと言葉を紡いでいた。


 愛しているだなんて、そんな嘘、いくらでも言えるだろう。けれど昨夜、酔った結果、成人男性としてあるまじき失態を犯したアランを、蔑むわけでもなく、甲斐甲斐しく世話をしたのは、間違いなくあの女、ショコラーテだったのだ。


「坊っちゃま?」

「あ、いや、それは、知人から贈られたんだ。…それより、離れに一人でも良いから使用人を回せないか」

 アランの言葉に、マンディは眉を寄せて人手が足りませんのでと首を横に振った。

「奥様にも旦那様にも挨拶に来ない礼儀知らずですからね、あちらから頭を下げてお願いしてくるまでは手出ししないようにとの指示です。…坊っちゃまが心配するような事じゃ有りませんよ」

 そう言われても、ショコラは書類上はアランの妻だ。伯爵家の娘なのだ。少なくともシュゼット家はブノワ家の金が必要であるから、ショコラの言うように誠意ある対応を取るべきなのではと、アランは思うようになり始めていたのだ。

 いや冷静に考えるのならば、ショコラの言っていた事の方が正しい。押し付けられた結婚という事に嫌悪や反発を抱き過ぎて、シュゼット家の立場というものを理解しようとしなかったのだ。

 使用人達はどこかアランに同情的で、ふしだらな女なんて追い返してやると、意気込んでいる姿を見かけたりもしていた。結婚式前は特に気にも留めなかったが、今更ながらに使用人達に注意すべきだったと後悔した。

「まさか坊っちゃま、あの女に絆されたんじゃないでしょうねぇ?」

 探るようなマンディの目に、アランはそんな事はないと強く否定し、そして逃げるように部屋を出た。


 違う。そんな訳がない。だって愛してるのは、ヘルディナだけなのだから。


 心の中で否定したアランは、食事も取らずに逃げるように屋敷を後にした。


 同僚などいないため、誰と会話する事もなく仕事場へとたどり着いた。古い資料を押し込めてある倉庫に、無理やり机と椅子を備え付けただけのそこが、アランの職場だった。

 窓すらなく薄暗いこの場所で、日がな一日、古い資料の整理をするだけだ。意味のない仕事だが、時折監査だと言って上司に当たる政務官が様子を見に来ては、嫌味を言ってくるので、ただただ気が重い。


 こんな事をするために政務官になったわけじゃないのに。


 そこまで考えて、しかしアランは政務官という職務について情熱があったわけでもなかったなと、肩を落とした。

 アランの父ユーグ・シュゼットに、幼い頃から兄が伯爵家を継ぐのだからお前は政務官になりなさいと、そう言い聞かされてきたのだ。大人になってから知ったのだが、アランを政務官にさせたがったのは、父の見栄だ。ヘルディナの兄弟が文官をしているのを知って、うちはもっと優秀なのだと相手方の両親に言ったから、後に引けなくなったのだ。

 アランはそれを知らぬまま、父の期待に応えようと必死になって勉強し、それこそ勉強ばかりしている根暗だなんて級友から言われても頑張って政務官の試験に合格したが、結局は兄の醜聞でこの様である。辞めたくとも、父がそれを許さない。

 そして仕事とも言えぬ内容のこれでも、政務官としての給金は支払われているのだ。その金はシュゼット家の維持に使われていると言われては、アランは嫌でも我慢しなければならない。

 アランとて貴族子息なのだ。

 家の為に犠牲になるのは当たり前だと己に常日頃から言い聞かせていた。兄の元婚約者で第二王子妃のヘルディナが、いつも言っていたのだ。

 憧れのヘルディナの言葉こそ、アランの心を支えていた。だからこそ、そうだからこそ、アランの心の内に、ヘルディナ以外の人物が入り込む隙間なんてない。政略で結ばれた結婚相手ショコラーテを愛する事なんて出来やしないのだ。


 ぼんやりと手元の資料を見詰めていると、資料室に女官がやってきた。見知った顔はヘルディナ付きの女官で、そしてアランを疎ましく思っている相手だった。いやその女官だけではない。アランはヘルディナの友人の令嬢などからも嫌われていた。

 もちろん理由などわかっている。

 アランのような冴えない劣った人間が、ヘルディナの傍にいる事が許せないのだろう。王宮に務めるようになってからも、女官だけではなくヘルディナの護衛騎士や同僚の政務官から、ヘルディナに近付き過ぎるなと言われたのだ。

 お前の立場を理解しろと。優しいヘルディナにいつまでも纏わりつくなともだ。


「ヘルディナ様がお会いしたいとの事です。忙しいようならばそう伝えますので、お気になさらぬよう」


 アランが忙しい事など有り得ないのを知っていて尚、毎回このように言われている。嫌味である事はわかっているし、遠回しに誘いに乗るなと言って来ているのは、ちゃんと理解していた。

 ヘルディナの立場だって、アランは理解している。いくら弟のように思っているからと公言していたって、一度は婚約者候補になったのだ。あまり親しくし過ぎると、第二王子から睨まれるのも。


 だが、それでも、アランはヘルディナの誘いを断る事などできない。こんな出来損ないのアランに優しくしてくれるのは、ヘルディナしかいないのだから。

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