だからお前を愛する事はない
次に目を開けた時、アランの視界に入ったのは天井だった。
身体中が引き攣るような痛みに呻くと、視界の中に見覚えのある少女の顔が入り込んできた。ヘルディナ付きのメイドであるネリーが、心配そうな表情を浮かべながらも、気が付いたのですねと声をかけてきた。
「アラン様が事故に遭われたと聞いて、本当に心配しました。いてもたってもいられなくて、……ヘルディナ様にお願いして、看病させてほしいと我儘を…」
胸の前で手を組んで、ネリーは眉を寄せて悲痛な表情を浮かべた。
「…フェリクス様を庇った所為で、焚き火に倒れてしまっただなんて。少し火傷は負いましたけれど、命には別状はないそうですよ」
視線を動かせば、右手には包帯が巻かれていた。痛みが少ない左手でそっと己の顔に触れれば、頭から右半分ほど、目を覆うように包帯が巻かれている。ネリーが触ってはいけませんよと制止してきた事から、少しの火傷ではない事がわかった。
そしてアランが自ら炎の中に飛び込んだ事も、なかった事にされたようだ。
ネリーが奥様と旦那様を呼びますと言って部屋を出て行くと、少しして両親が入ってきた。ネリーには部屋の外に出て行くように言いつけると、すぐに父であるユーグは、あの娘がお前の婚約者だと言ってきた。
「お前とショコラーテ・ブノワとの婚姻は、皇太子レオナール様の温情でなかった事にしてもらえた。お前はまだ未婚だ。そしてヘルディナ様の後ろ盾があるあの娘と縁を結べば、我が家はさらに…」
「名門シュゼット家は再び王宮で…」
父と母は、アランの体の心配など一つもしない。それどころか、いつの間にかネリーと婚約を結んでいて、自分達が良い目を見るためだけにご執心のようだった。
フェリクスは一旦、隣国の使節団が泊まっている屋敷へと戻ったそうだ。
蒸気機関に関して、リチャードは熱心に取り入れようとしていたらしく使節団を招いたという。ただ隣国で少しトラブルがあり、本来訪れる予定より大幅に遅れてしまったらしい。そのため、皇太子リチャードはすでになく、新たな皇太子レオナールが彼らと応対する事となった。
そのため、フェリクスの事情を理解している隣国の使節団は、王家と話をつけるまで王宮には顔を出すなと言われ、実家の方に来たという。元々、使節団にフェリクスは入っていなかったそうだが、マンディからの手紙を受け取って、無理を言って連れてきてもらったという。
そう言った事情が、父と母の口から紡がれていく。
けれどもアランにとっては、そんな事全てどうでもよかった。
「…ショコラは、…ブノワ家はどうなったんです…」
アランの問いに、ユーグは鼻を鳴らして不機嫌そうに、あの恥知らずの一家は王都から追放されたと言った。
「罪状が全て明らかになる前に、とっとと逃げたんだ。これだから、誇りも何もない成金が貴族を名乗るのが、嫌なのだ」
「ええ、本当に。何一つ尊き者としての責任を全うしない輩など、この屋敷に踏み入れていたというだけで、寒気がしますわ」
嫌悪を隠す事なく、両親は吐き捨てた。
今迄アランは、両親のそういった言葉に同意して、決して己の意見を言ったことはなかった。フェリクスが反論等をして、両親と口論する様子を見ていて、ずっと心が痛かったからだ。アランは家族の団欒というものに、憧れていたのだ。
でもマダム・ルリージュのサロンでショコラとルリージュの様子を見て、シュゼット家では不可能だと思うようになったのだ。何せ両親もフェリクスも、そしてアランでさえも、血の繋がった家族といえども信用すらしていないのだから。
アランは両親を見据えると、体を起こして言った。
「私はすぐにでもシュゼット家の籍を抜けます。この火傷がどれほどかわかりませんが、政務官の仕事に戻れるとも思えません」
しかしそれは聞き入れられないと、両親は反対する。可愛い我が子を捨てるような真似できないと、クロエが嘆いた。だがそれは、どこか白々しいと感じてしまう。
「今は体を治すことを考えなさい。…婚約者のネリーが世話をしてくれるそうだから、この機会に仲良くなれば良いわ」
第二妃直々に結んだ縁だものと強調された。
ああやはり何一つ聞き入れられないのかと、アランは呆れたような、全てを諦めたかのような視線を両親へと送ったのだった。
アランは、ショコラとの三カ月ばかりの結婚生活で、いくら心を寄せない相手でも、誠意ある対応をするべきだという事を学んだ。それと共に、相手が誠意ある態度を取らないのならば、相応に応対すべき、という事もだ。
ショコラーテとの結婚がなかったものとされ、新たに婚約者となったネリーはどうだろうか。
アランが炎の中に飛び込んで、大火傷を負った後から、ずっと付き切りで屋敷に泊まり込んで看病している。とはいえネリーは修道女ではないので、できる事と言えばアランのそばに居るという事だけであった。
包帯を取り替えるのは医師であったし、着替えなどはまだ婚姻前であるという事からネリーが手伝う事はない。ほぼ一日中側にいるだけなのだ。
アランは何度かそばに居なくても良いと、出来れば一人にして欲しいと、最初は遠回しに言い、それでも伝わらないとわかるとはっきりと一人になりたいと言ったのだが、ネリーは聞き入れなかった。
両親からか、それともフェリクスか、もしくはヘルディナか。誰かから何か言われているらしく、一人にしたらアランが自殺でもするんじゃないかと、そこまで思い詰めているのだと思い込んでいて、ネリーはアランが全く望んでいない未来絵図を語っていた。
結婚して子供を育み、ヘルディナを一緒に支えていこうだなんて。今のアランには何の救いにすらならない。それにショコラの行方を知りたいのに、ネリーは悪い奴らとは縁を切った方がアランの将来の為だと言って聞かないのだ。
果たしてこれは、婚約者として誠意ある対応だろうか。
ネリーは自身の望みをアランに押し付けてきた。大人しそうではあるが、しかしネリーは本人すら気付かぬ傲慢さを持っていた。いやもしかしたら、きっと誰もがそうなのだろう。それを相手が受け入れられるかどうかなのだ。
火傷は顔半分と、そして右腕と足の付近に広がっていた。引き攣った痛みを発し、アランは杖なしでは歩行が難しくなってしまっていた。そして醜い火傷の跡は仮面で隠すようにと、父から言われていたが、アランはそれが馬鹿らしくてそのままにしていた。
そんなある日、アランの元にヘルディナが訪ねてきた。ネリーの様子を見にきたという名目で、アランの見舞いにやって来たという。
杖を突いて応接室へと行けば、アランの姿を見てヘルディナは息を呑んだ。だがすぐに微笑みを浮かべると、優しげな声で言った。
「アランとネリーがどうなってるか、心配だったのだけれど。その様子ならネリーとは少しは上手くいっているのかしら?」
あの子は気立が良いでしょうと話すヘルディナに、アランは静かに首を横に振った。そして鬱陶しいから早くそちらで引き取ってくれと、今までにない程冷たい声色で、アランは突き放すように言った。
「…アラン、そんな事…」
アランはヘルディナが好きだった。この好意が報われる事がないと分かっていても、それでも好きだった。けれどもヘルディナは、この好意を決して認める事はない。自分の存在がヘルディナの助けになるのならばと、アランはずっと我慢してきたのだ。
そんなアランを理解し慈しんでくれたショコラーテではなく、ネリーを押し付けてきた。ネリーの方がアランに相応しいと、そう言ってだ。だがそれを決めるのは、ヘルディナではなく、アランなのだ。
入室を許したわけでもないのに、お茶を持ってやってきたネリーに向かって、アランはかつてのように言葉を紡いだ。
「私には愛する人がいる。だからお前を愛する事はない」
この言葉だけでは足りないなと、アランはさらに続けた。
「例え結婚しても、…どうせ王家の許可がなければ離婚できないという一文の入った、婚姻誓約書にでもサインするだろう。なら、待っているのは白い結婚での離婚だ。時間を無駄にする気なら止めないがな」




