可哀想なのはどちらか
私の夫はとても可哀想。
「私には愛する人がいる。だからお前を愛する事はない」
初夜の花嫁に、いきなりこんな事を言ってしまう程、追い詰められているのだもの。
「親から強引に押し付けられた婚姻なのだ。結婚証明書には署名させられたが、それ以上は強制される謂れはない。私は勝手にするから、君も勝手に、自由に過ごしたまえ」
「あらまあ」
秀麗な顔立ちの夫、アラン・シュゼットからは酒の匂いがした。多分間違いなく、酒に酔った勢いで言いにきたのねとショコラは思った。
わざわざ主屋敷から中庭の離れまで、こんな夜中に歩いてやってきたらしい。なんだか一生懸命過ぎて可哀想なのに可愛いわと、ショコラは笑みを浮かべた。
私の夫は不憫で、可哀想で、とっても可愛いの。
王国の貴族であるショコラーテ・ブノワとアラン・シュゼットの結婚は、いわゆる政略結婚というものであった。
ブノワ家は伯爵家でありながらも、成金と陰口を叩かれるような家であり、シュゼット家は名門の血筋なれど諸事情で家が傾いており、お互いの利益が一致して結婚に至ったと世間では言われている。
だけれども実際はそうではない。
ブノワ家の長女ショコラーテ、家族や親しい間柄の者からはショコラと呼ばれている彼女が、夜会でアランに一目惚れしたのだ。
そして、父親にアランと結婚したいと願い、わざわざ手を回して仲を取り持って貰ったのである。
なにせショコラはアランの事を殊更気に入ってしまったのだから、仕方がない。
だってアラン・シュゼットはとってもとっても不憫で可哀想なのだもの。
まず一つ目は、異性同性の両方から羨まれる程の整った顔立ちに、政務官というほぼ内向きの仕事なのに引き締まった身体。女性から熱い視線を送られてるのに、本人はそれを優れているとは一切思っていない。
というのもアランには兄がいて、その兄の容姿は美の神が祝福したかのような、見る者が思わず息を呑む程に美しい男だった。その為、容姿の賞賛の言葉は兄へと向けられており、醜いわけでもないのに、むしろ人より秀でている見目であるのに、お兄様に比べると地味ねなんて言われ続けていたのだ。
それ故に、自身の容姿が人を惹きつけるものだと理解出来ない。異性からの好意に気付けず、同性から意味なく疎まれてる可哀想な人。
それから二つ目、政務官の資格試験に最年少で合格したというのに、兄の醜聞の所為で閑職に回されてしまっている事。
シュゼット家の跡取りはアランの兄だったのだが、この兄が市井の娘と駆け落ちして出奔したのだ。
兄には婚約者の令嬢がいたわけで、相手方は面目丸潰れとなり激怒。しかも相手方は宰相職に就いている家の寄子であった為、兄の責任を弟がというわけでもないが、それでも面子がある為、アランは何もしていないのに出世コースから外されてしまった。
何でも王宮に出仕して、ひがな一日、資料室で紙の枚数を数えるか、古びた倉庫の整理をしているかだそう。辞めたくともアランの父であるシュゼット伯爵がそれを許さないから、その扱いに甘んじなきゃいけない。
問題児である兄の代わりに必ずなれと言われてなった政務官だったというのに、本当に可哀想。
そして三つ目。アランが愛する人は、既婚者であるという事。
その相手とは、兄の婚約者だったヘルディナという令嬢。金色の巻き髪に白磁の肌、可憐な容姿の彼女を、アランの兄は何故か嫌った。何かと理由をつけてアランに相手をさせていた為、ヘルディナとは本当の姉弟のように仲が良かったのは、周知の事実だ。
アランは可憐な兄の婚約者に恋をしてしまったようだけど、秘めた想いはそのまま消え去るはずだったのに。
兄が駆け落ちした後、ヘルディナとアランが婚約を結び直すなどという話も出たのだが、淑女の鑑などと評されるヘルディナに恋する男は多く、求婚が相次いだのだ。そしてその中に、この国の第二王子がいたのだ。
必然的に優先されるのは王家であるし、ヘルディナの実家も自分の家を蔑ろにした伯爵家より良いとばかりに、第二王子との婚約を認めた。そして変な横槍を入れられる前にと、異例の早さで結婚したのである。
それだけならきっとアランは、いずれは諦められたかもしれない。
なのに第二王子妃となったヘルディナは、慣れない王宮での暮らしの慰めとして、何度もアランを呼び寄せた。アランを本当の弟のように思っていると公言し、更にはアランには私が認めた令嬢でなければ結婚させたくないなどと零している程で。
第二王子妃のお気に入りと言われるアランは、第二王子からも睨まれる存在となってしまっている。とはいえヘルディナの親愛の情により、表立って排除される事もなく、誰からも腫れ物扱いである。
それなのに彼は報われない愛に身を捧げようとしているのだ。
ほうらね、私の夫はとっても可哀想でしょう。
何一つ報われないのに、自ら苦しむ方へと行ってしまうアランが、とっても哀れで仕方ない。その生き方もとっても不器用だ。
だけれどもショコラは、可哀想な生き物が、殊更大好きなのだ。哀れで可哀想で不器用な生き物を、溢れるほどの愛で溺れさせる事が至上の悦びであった。
この可哀想で不憫な旦那様が今日から自分のものになり、目一杯溺愛出来るのねと歓びに満ち溢れたショコラは、ほうと熱い吐息を漏らす。
その仕草にアランは僅かに目を見張ると、ショコラから顔を背けた。視界に入れるだけでも忌々しいと言わんばかりの態度である。
だがそんな態度も子供っぽくて可愛いわと、ショコラは微笑ましく思い、そうして主屋敷へ戻ろうとするアランを引き止めた。
「お待ちになって、ねえアラン様。この結婚での私の立場をご存知?」
「行き遅れのアバズレを押し付けられただけだろう」
会話するのも鬱陶しいと言わんばかりに、アランは振り返った。眉を顰めて、嫌悪を隠そうともしない。
ショコラはあらまあと肩を竦め、そして扇子で口元を覆い隠す。
ショコラーテ・ブノワは大変な美人である。
緩い癖のある黒い髪を持ち、下がった目尻には黒子が二つ。すらりと伸びた鼻筋に肉厚の唇、そして艶黒子が一つ。どこか妖艶さを感じさせる美しい顔に、張りのある大きな乳房にくびれた腰、そして程よく肉付きの良い尻。
派手で男を誘うようなドレスを身に纏い、連日夜会に顔を出しており、積極的に男を誘うふしだらな悪女という噂がショコラには常にあった。
未婚の貴族令嬢にしては醜聞である。
なのでシュゼット家側は、そんな問題のある娘をわざわざ貰ってやったんだという心持ちでいるらしい。ショコラは自分の愛を捧げられる相手を探し求めていただけなのに。
まあ確かに一般的に行き遅れと言われる年齢であり、アバズレと呼ばれるほど夜会で男性方にモテているので、どちらもショコラは否定しないが、そもそも別にそういった醜聞なんて気にしないので問題ない。そしてショコラの家族の誰もが気にしていなかった。
そう、ショコラは家族から愛されているのだ。
通常ならば結婚式より前に相手方の屋敷で暮らすというのに、ショコラはそれが許されず、結婚式の翌日にようやく屋敷に迎え入れられるという非礼に、ブノワ家がなんら抗議しなくとも。
『相当な瑕疵がシュゼット家に生じない限り、王家は離婚を認めない』なんて、一見するとブノワ家に不利な一文がある誓約書に、父親が素知らぬ顔でサインしたとしても。
それら全ては、ショコラの為であるのだから。
だから勘違いをしてもらっては困るのだ。ちゃんと知っておいてもらわなければならないのだ。
ショコラは決して、蔑ろにして良い存在ではない、という事を。