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客間に向かう足がすくみそうになる。今すぐ回れ右をして部屋に逃げ帰りたい。
浮気した婚約者と向かい合わせで何を話せというのだろうか。
「お嬢様」
先を歩いているメリーが気遣うように振り返る。
彼女にちょっと笑いかけながら軽く、すくみそうな足を叩いてゆっくり歩を進める。
私の部屋の扉をノックしたのは古参の使用人の一人、執事のオズワルドだった。
すでにその時点で40分、客を待たせていた。オズワルドもさすがに対処しきれなくなったらしい。
着替えの用意をしようとするメリー達を制して、髪だけ整えてもらい、待ち時間が1時間に届くところで私は客間に到着した。
「大変お待たせいたしました」
入口で部屋着のワンピースの裾をつまんでお辞儀をする。声はなんとか震えなかった。淑女教育の賜物だ。
「…………今日も会ってもらえないかと思っていた」
立ち上がった彼はいつもより憔悴しているように見える。
以前、一方的に謝罪された時もひどく顔色が悪かったが、あれから2週間ほどたっても彼の顔色は悪い。
彼の前にゆっくりと進み、向かいに腰かけると紅茶が目の前に置かれた。彼の前に置いてある紅茶も新しいものに取り替えられる。下げられる紅茶に口を付けた跡はなかった。
腰を下ろしてしばらくたっても彼は口を開かない。木目調のテーブルに目線を落とし、手は膝の上で拳を作っている。
彼は一体、何をしに来たのだろうか。1時間待っている間にうちの屋敷のテーブルの木目を数え始め、その途中なのだろうか。
こちらから口を開くのも面倒なので黙って紅茶に口を付ける。
私の好きなアップルティーだ。使用人の小さな気遣いにささくれた心が少し解れる。
「彼女の処分が決まった」
唐突に彼が口を開いた。視線を上げると彼はテーブルから顔を上げて私をまっすぐに見ていた。彼の目を見るのも本当に久しぶりだ。
「殿下や私、他の高位貴族の令息達に魅了の呪いの道具を使って操ろうとしていたことが判明した。道具の入手ルートを吐かせ、今日、王立研究所送りになった」
魅了の呪いの道具。兄が仕入れてきた情報と同じだ。
そんなおとぎ話に出てくるような、魔女が使うような道具があるのかと半信半疑だったが、やはり兄の情報は本当だった。
彼女、ルルがいつもしていたあの趣味の悪いブレスレット。
第3王子殿下を筆頭に、婚約者のいる高位貴族の令息達にしなだれかかるルルの腕でいつもシャラシャラと耳障りな音で鳴っていた。
「そうですか」
興味のない返事をしたが、王立研究所送りというのは初耳だった。
これが意味するところは研究者たちの人体実験に使われるということだ。
他国のスパイや何度も罪を犯した重罪人が送られる場所。その実情は処刑よりも酷いと聞く。
王宮で働いている兄が仕入れたウワサによれば、送られた人間たちは生きたまま埋められて植物の養分にされるとか、体の半分が犬になった人間がいるとか、血を死なない程度に毎日抜かれるとか。
一発で彼女がそこに送られたのは、王族まで標的にしていたからだろう。第3王子で王太子ではないが、王妃殿下の息子。そして目の前の私の婚約者を含む4人の高位貴族の令息達。
「彼女を養子にしたハドスン男爵の関与はなかったが、責任を取り領地と爵位を国に返上した」
「そうですか」
ハドスン男爵を思い浮かべる。あの人の良さそうな、恰幅の良い男性。
王宮のパーティーで酔っ払って楽しそうな声を上げていた男爵。ルルが本当に彼と一度だけ関係を持ったという平民女性との子供だったのかも今では疑わしい。
私の気のない返事に彼はまた沈黙した。
「ご用件はそれだけでしょうか? 体調が思わしくないので今日は失礼したいのですが……」
とりあえず会って話はした。これで十分だろう。
この2週間の間に何度か会いに来た彼に振りかざした体調不良を理由に、さっさとこの場を辞そうとアップルティーを飲み干す。
「ま、待ってくれ!」
切羽詰まったような声と共に立ち上がった彼にカップを持つ方の腕を掴まれた。
強い力に指からカップが離れ、テーブルに当たって砕ける。
「エリーゼ! 本当に……申し訳なかった! いくら呪いの道具とはいえ、あんな女に現を抜かすなど……。本当にどうやって君に償ったらいいか……」
彼が何か叫んでいるが私はぼんやり割れたカップを見ていた。
小さな薔薇の絵がいくつも描かれているそのカップは少し気に入っていたのに。
彼は何を思ったのか、私のもう片方の手首も握ってきた。なんだろう、なんだか気持ちが悪い。
「お嬢様!」
彼が涙声でなにか訴えている内容はぼんやりした頭でよく聞き取れなかったが、メリーの声ははっきり聞こえた。
なんだか胃のあたりがムカムカする。気持ち悪い。
「お嬢様!」
今度はオズワルドの焦った声が聞こえた。その直後、私の視界はセピア色になって暗転した。