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磨かれた床に持っていた本が散らばる。
「俺をバカにしてるんだろう」
顔を上げると見たこともない表情をした婚約者がいた。
「そんなことはないですが……」
「うるさい! いつもその取り澄ました顔でバカにしているくせに!」
私は気づかないうちにかなり浮かれていたのかもしれない。
素晴らしい友人達もできて、雲の上の存在だったゼイン様やアシェル殿下ともお話して。
信じられないことの連続でフワフワと浮ついていたからこんなことになったのだろう。
叩かれたはずの頬は不思議とまだ痛まない。
話がしたいと私が婚約者に手紙を書き、約束した日は明日。
明日から2日間の休みを控え、授業後の学園はいつもより閑散としていた。
クロエ様は明日、新しい婚約者候補に会うから準備があると勇んで帰って行った。ナディア様は隣国に嫁ぐ前の勉強で忙しい。フライア様はお母様と観劇へ。何でも、幼いころからの婚約者を捨てて真実の愛に走ろうとする騎士に復讐する物語らしい。今後の参考にすると綺麗な笑みを浮かべていたのが怖かった。
私は明日キャンベル侯爵家に行くのに少し気が重く、図書館で過ごしてから帰るところだった。
後ろから急に腕を取られ、振り払おうとすると以前より憔悴した婚約者だった。
話があると言われ躊躇したが、あまりの顔色の悪さに近くの空き教室について行ったのが間違いだった。
「なんなんだ、あの噂は」
「……噂? ですか?」
ただ問い返しただけなのに、突然叩かれた衝撃で床に体が投げ出された。
「第2王子に構われて喜んでいるんだろう。お前は婚約者という自覚があるのか? お前のせいで俺は笑い者だ」
一体何を言っているのか。アシェル殿下に構われている? 私が喜んでいる? 婚約者の自覚?
そもそもあなたが何故そんなことを言うのか。
アシェル殿下と私の根も葉もない噂なんて、最近発表されたナディア様と隣国王太子の婚約でかき消されていた。私自身も噂を忘れかけていたほどだ。
そもそも、彼がルルにかまけていた頃から家同士の契約をないがしろにして貴族の責務を果たしていないと彼は笑い者だった。彼自身が周りが見えず知らなかっただけで。今更、彼は自分の置かれた状況を知ったのか。
「噂のようなことはありません」
反論の声は震えて小さくなってしまった。
「殿下もこんな愛想のない大女のどこがいいのか」
取り澄ましたの次は愛想のない大女、である。
なんだ、彼はそんな風に私のことを思っていたのか。
愛想一杯のルルに浮気をするわけだ。ルルの場合は愛想というより媚だが。
彼は私がバカにしていると言ったが、私のことを見下してバカにしているのは彼の方だ。
自分より下だと思っていた私に浮ついた噂が立つのが許せないのだろう。
学園で冷たい視線にさらされて針の筵状態な上、噂でいたくプライドが傷つけられたようだ。
ここでフライア様なら、「この顔だけの浮気男!」と言い返すんだろうか。ナディア様なら上手く切り返すのだろうか。
フライア様の反論を考えてちょっと笑ってしまった。
そんな私に目もくれず、彼は罰として与えられている王城の掃除のことや、学園での同級生の態度を非難している。
「あいつら、これまですり寄ってきていたくせに、今では侯爵家の跡取りの俺をバカにして……そもそも何で掃除なんてやらなきゃいけないんだ。使用人の仕事だろう。こっちはあの女の呪いの道具のせいで被害者なのに……なんで俺がこんな目に……」
あぁ、これが彼の本音なのか。
謝罪の時も俺は悪くないという雰囲気をなんとなく感じていたが実際に彼の口から聞いたのは初めてだった。謝罪しているのにそうやって感じてしまう私は心が狭いのかと思っていたがそうではなかった。
私も兄に甘やかされていると思うが、彼も大概だ。
ようやく叩かれた頬がじんじん痛んでくる。熱を持った頬とは対照的に心はひどく冷えていた。
呪いのブレスレットの仮説についてはほんの一握りの上層部しか知らないとナディア様が言っていた。彼の家には伝えられていない。だから彼は被害者と言い張れるのだろう。
立ち上がろうとすると手が震えていた。
婚約者のことも自分のことも、とても滑稽だ。
私はこんな人に浮気をされてウジウジしていたのか。そして、今は根も葉もない噂のことで叩かれても手が震え足が竦んで立ち上がることができない。
私は自分で何もせずに被害者ぶって自虐していただけで、彼は被害者ぶって他虐している、なんて。
なんて似た者同士の婚約なのだろう。
あまりに情けなくて渇いた笑みが漏れた。
その時、視界に小さい動く影が見えた。




