そして僕は妄想の世界で君と歌う
「ねぇねぇ、今日の放課後どっか遊びに行かな~い?」
「おい、この前のあれ見たか?マジウけるんだけど」
「本当本当っ! 超やばいよね♪」
ここは、とある学校の教室の中――。時刻は正午を回り、昼休みを迎えた学校の生徒たちの声は、学校の外にまで聞こえるほど賑やかしかった。
その騒がしい教室の端で一人……誰かと話すでもなく、昼ご飯を食べるでもなく、ただただ机に突っ伏して頭を抱える少年がいた。
(うるさい…うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!)
心の中で、何度もそう叫ぶ月影深夜は、この昼休みの時間を一日の間で最も嫌悪していた。
その理由は……極度の人嫌いで、学校でも友達はおろかまともに会話をする相手すらいない、いわゆるスクールカーストの底辺に存在する人間の深夜にとって、このざわめく騒がしい教室の中一人きりで四十五分という永遠にも思えるほどの時間を、ただじっと耐え忍ばなければならないというのは、想像以上に過酷だったからだ。
しかし、次の瞬間……深夜はうつ伏せの態勢はそのままに、右ポケットに何やらすっと手を伸ばすと、あるものを取り出した。
それはイヤホン――。
そして、そのイヤホンを耳に着け、慣れた手つきで音楽プレイヤーをセットすると、おもむろにその画面上のとある曲の再生ボタンを押した。
するとその刹那。少年の目の前から……あれだけうるさかった生徒の声全てが消失し、そしてその世界から誰もいなくなってしまったのである。
深夜は、ずっと願っていた。この地獄のような昼休みから逃れ、一人きりになりたいと――何度も、何度も。すると…ある時を境に、ある驚くべき特技を身に着けることに成功した。
それが、この……〟妄想〝
一見、目の前の生徒が一斉に煙のように消えて、次元空間ごと別世界に来てしまったように見えるのだが、実はそうではない。種は単純。現実世界にはこれっぽっちの影響もなく、深夜の作り出した……深夜にしか見えない……誰も存在しない妄想世界が、その頭の中にあるという、ただそれだけのことだと深夜自身も、間もなくして理解した――。
そして、深夜はこの妄想世界を生み出すことが出来ることを知ってからというもの……今まで苦しく煩わしい…どうすることもできなかった地獄のような昼休みの時間を、自分だけのこの世界に入り浸ってやり過ごすようになっていた。
「んっ……………………」
一度大きく深呼吸をした後、これでもかと息を肺に送り込んだ。そして……
「うおあぁぁぁぁぁっぁぁぁ!」
声が擦れるほどの声量で、深夜は何の前触れもなく教室のど真ん中でそう叫んだ。
「はぁ~~っ……。すっきりしたー」
そう……これが、深夜のこの場所での日常なのだ。現実世界の溜まりに溜まった鬱憤、怒り、ストレス――それらすべてを、この自分が生み出した誰もいない世界で放出するのである。
「よしっ……お次は――」
その日の深夜は、いつも以上に溜まっていたのか…叫ぶだけでは飽き足らず、あろうことか体育の授業も、球技をして遊ぶ者も、誰もいないだだっ広い運動場に降り立ち、躊躇う様子も一切見せることなく、身にまとっていた制服、カッターシャツ、挙句の果てにその下の下着までも勢いよく脱ぎ捨てたのである。
そして、閑散としたその運動場のトラックを……深夜は下品な高笑いを発しながら、全裸で爆走し始めたのである。
「ぎゃはははははっ! この世界は最高だ~~~! 人間なんて、俺以外全員いなくなればいいんだぁ!」
それからも、もし現実世界の出来事だったならば、何の疑いようもなく逮捕されるであろう……それほどの常軌を逸した行動を、深夜は延々と取り続けた。
それが終わりを迎えたのは、実に数十分が過ぎたころの午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴った時であった。
「おっと……もう時間か――。本当…あっちにいたときは、時計が壊れて動いていないんじゃないかと思うくらいに時間経つのが遅かったけど…ここに来てからはむしろ足りないくらいだな」
この妄想の世界は、どういう訳か…昼休みにしか行くことのできない限定的な空間らしく、現実の世界で聞こえた始業のチャイムが、ちゃんと同時に聞こえることが分かっていて、その音と同時に、深夜の意志とは関係なく、強制的に現実世界に引き戻されることになっていた。そして、
「…………」
つい数秒前まで全裸で走り回っていたとは到底思えない……元の暗く陰鬱な表情で深夜はうつ伏せの状態から身体をゆっくり起こすと、何食わぬ顔で教科書を広げ、その後も誰とも会話することなく、午後の授業を平然と受けるのだった。
そして翌日――。
その日の昼休みも、いつものように机上にうずくまった態勢で苦い顔を一人浮かべる深夜。
(あ~うるせぇうるせぇうるせぇ! 本っっ当に耐えがたい雑音だな、この教室の中は……)
その日は……昨日以上に手早く、ポケットからイヤホンを装着すると、そのままあっという間に妄想世界へと入った。
「ふぅ…………。やっぱりこの世界以外に俺の居場所はないな」
ぽつりとそう呟き、現実世界と同じ位置の端の自分の席から腰を上げ、深夜はのっそりと立ち上がった。
すると、おもむろに目についた机に手を掛けると、驚くことにそれを力いっぱいにぶん投げたのである。
「うおおおおぉぉ! んっとにどいつもこいつもぴーぴーわめきやがって! クラスの奴らなんか全員いなくなっちまえ!」
物凄い音と共に、机や椅子が傷つき散乱する教室。
「はぁ……はぁ……見たか…くそったれ! さぁてと、次は何してストレス発散をしよう――」
するとそのとき、その……あまりに心胆寒からしめる光景を前にして…思わず深夜は声を失った。
「えっ…………」
それは何と、深夜の頭の中にしか存在しない……誰も存在しないと疑いもなく信じていた妄想世界で、その深夜のいる教室の扉の前に今、見たこともない一人の少女が立っていた――。
その容姿は、強気に見える性格を体現するために粉飾されたような明るいブロンドの髪と、低い身長とは対照的に大きく凛々としたややツリ目の瞳、そして、警戒心が強いのかきゅっと真一文字に結ばれた口元が深夜の眼には印象的に映った。
(何だ……一体どういうことだ? この世界は、俺だけが見ることのできる妄想の世界のはず……)
沈黙の間に、様々な想いを駆け巡らせながら、とうとう堰を切ったように深夜が口を開いた。
「お、お前……一体何者だ!? この世界には――いつからいたんだ? 歳は? 俺と同じ学校なのか?」
こみ上げる動揺の色を隠せずに、息をやや荒らげながらその少女の返答を待っていると、ようやくその沈黙が破られようとした。
「――――――」
……しかしそのとき、その少女の声を上塗りするかの如く、現実世界での昼休みの終了を告げる始業のチャイムが鳴り響いた。
「ちっ…………」
そして、結局――その少女の声を耳にすることなく…深夜は強制的に元いた教室の机上に意識を戻されるのだった。
(くそっ……今の女は、一体何だったんだ)
自分にしか行くことが出来ない、存在することが出来ないはずの世界に他の人間がいたことに、深夜はひどく動揺して……次の授業の教科書を取り出すのも忘れて、ただ茫然と瞳も虚ろに、冷や汗を流すのだった。
そしてその翌日、深夜はいつもとは違う緊張感を胸に抱きながら……昨日のは何かの間違いだったのか? それとも……と、例の謎の少女のことに考えを巡らせながら再生ボタンを押した。
――それから、ゆっくりと…そして静かに…深夜は両の目を開いた。
「………………はぁ。嘘だろ――」
開口一番にそう漏らした深夜の目に真っ先に飛び込んできたのは、きつい目つきで偉そうに自分を見下ろす昨日の少女の姿だった。
色々と混乱する頭を右手で押さえながら、深夜はゆっくりと上体を起こして…その少女と顔を合わせた。
「……じゃあ、昨日聞けなかったから改めて聞くけど……お前は一体何者だ? どうして俺の妄想世界に存在しているんだ! 後、同じ制服を着ているっぽいが、俺と同じ学校なのか?」
矢継ぎ早に深夜がそう聞くと、その謎の少女は遂にそのとき口を開いた――。
「…………は? 何でわざわざあんたにそんなこと教えなくちゃいけないのよ。そんなことより、早く私の世界からとっとと出て行ってくれない?」
「なっ――――」
確かに、見た目からして…気が強そうで誰かに従うような素直な性格ではなさそうだと深夜自身も思っていたが、その見た目以上に棘のある開口一番の辛辣なセリフに、思わずたじろいだ。
「な、何が私の世界だよ! ここは毎日俺が前から昼休みに使ってる楽園なんだっつーの。出ていくんならお前が出ていけよ」
その反発的な言動にカチンときたのか、少女は澄ました顔から眉間にしわを寄せると、負けじとこう返した。
「あ、あんたこそ…あたしをお前呼ばわりするなんて……いい度胸してるじゃないの」
「お前が何も話そうとしねーんだからそう言うしかないだろ――」
「………………」
そのとき、口角を真下に下げ…少し考える素振りを見せると、少女は少ししてわざとらしくぷいとそっぽを向く仕草をしてみせた。すると……
「夕夏……あたしは天音夕夏よ!」とだけこぼした。
その言葉を聞き、形式的に深夜も、月影深夜という名を口にするのだった。
「深夜……そうか、深夜か……」
「ん? なんだ?」
ふと深夜がそう尋ねると、
「別に……ただ見た目通り暗い名前ねーって思っただけ」
そう言い、再び挑発的にそっぽを向くのだった。
「っ………………」
(こ、こいつには……絶対この世界は渡さねぇ)
終始気に食わない態度を取るその目の前の少女に腹を立てながら、そのとき深夜は静かに心にそう誓うのだった――。
「何あんた……今日も来たの? ったく、いつになったらここから出ていくわけ? 毎日毎日あたしに同じこと言わせて、学習能力がないの?」
「その言葉……そっくりそのままお返しするぜ。この世界は……初めから俺の、俺だけのものなんだよ! お前こそ、さっさと出て行けっつーの」
それからというもの、二人はこの妄想世界で顔を合わせるたびに…毎度同じような口喧嘩を繰り広げ、互いに相手を世界から追い出し、自分の世界を取り戻そうと躍起になっていくのだった。
「私の世界!」
「俺の世界だ!」
そんな日々を過ごし始めてしばらく経過し、最早その口喧嘩をすることが深夜と夕夏の昼休みの日課にまでなりつつあったある日――。
いつもの妄想世界で深夜が目を開けると、もうすでに夕夏は教室の一番前の席に腰を下ろして、深夜を待ち構えていた。
「………………」
しかし、どこかいつもの夕夏とは雰囲気や表情が違っていることがすぐに感じ取れ、深夜は僅かにそのとき違和感を覚えた。
「おい夕夏……どうしたんだよ。辛気臭い顔して……学校で嫌なことでもあったのか?」
すると、表情を変えることなくゆっくり立ち上がると、深夜の真正面に向かい合った。そして、同時に目をじっと見つめ合わせた。そして、よどみのない口調でこう一言こぼしたのである。
「深夜……この世界から今すぐ出て行って。お願い――」
一見、いつもの世界から追い出し、自分ひとりで独占しようという…口喧嘩の口火に見えたのだが、深夜にはその言葉を話した時の夕夏の表情が引っ掛かった。
なぜなら、こういう台詞自体は、今までにも幾度となく耳にしてきたのだが…今日のような悲しげで、かつ真剣な顔つきは実に初めて目にしたからである。
しかし、
「ふっ……その手には乗らねぇぜ! そうやって大人しく頼めば俺が折れると思ったら大間違い。大体、これだけの時間一緒にいるんだから…とっくにお前の性格は分かってるってーの。だからそんなくさい演技しても無駄無駄……」
得意げに、深夜はそう言ってみせた。
……いつもならば、ここで憎まれ口の一つでも強気に言い返してくるのだが、その日は――。
「私の気持ち…………伝えたからね? ――さよなら。深夜」
尚も物憂げな表情を崩すことなく、夕夏はそれだけ言い残すと……そのまま呆気に取られる深夜を横目に、いつもより早く世界から立ち去ってしまうのだった。
「…………なんだよ、あいつ」
流石の深夜も、その夕夏の様子に戸惑い、もやもやとした気持ちが全身を覆った。
そして翌日――。
昨日の奇妙な夕夏の様子がずっと何だかんだ気にかかっていた深夜は、昼休みになった瞬間に妄想世界へと入った。
「はぁ……はぁ…………」
慌ただしく、飛び起きるようにして顔を上げ……深夜は真っ先に夕夏の姿を確認しようとした。すると……その深夜の目には、意外なものが映っていた。
「…………ゆ……夕夏――。いたんだな……」
そこには、いつもと何も変わらない様子の夕夏が、教室の椅子に腰かけていた。
「どうしたの? そんなに慌てて……」
「な、何でもねーよ!」
(ちっ……俺は馬鹿か。何柄にもなく夕夏の心配なんかしてんだよ――大体こいつがいなくなった方が俺にとって断然好都合なのに!)
夕夏がいつものようにその妄想世界にいたことに、どこか安堵してしまっていた自分がいて、そのことが深夜は無性に気恥ずかしく思えた。
「あ、夕夏こそ……それどうしたんだよ」
そして、その自分の焦りをごまかすかのように深夜は咄嗟に話題をすり替えた。
「あー、これ? ちょっとね…昨日怪我しちゃって。それで絆創膏貼ったの」
そしてその日は、そんな他愛もない話をするだけで、深夜もさきの気恥ずかしさで無意識に遠慮したのか、いつものように口喧嘩をすることもなく、二人は穏やかに時間を過ごすのだった。
それから、そのことがきっかけになったのか……深夜と夕夏は驚くほど喧嘩をすることが少なくなり、今まででは想像もしなかった平穏な日常が送れるまでに変わっていった。
そして……深夜の気持ちも初めの頃に比べ、重度の人間嫌いとは思えないほど穏やかになり、誰かと楽しく話すのも悪くないかもな――と感じるようになっていた、そんな時。
「…………」
深夜は、その嬉しい気持ちの変化とは裏腹に、ある小さな懸念を胸に抱えていた。
それは、違和感。
深夜自身も…それを言葉では上手く言い表せないほどに不透明なものなのだが、やはり、以前のように口喧嘩をすることもなくなり…明らかに以前の夕夏からの変化というものが、その違和感を生んでいるように思えた。そのためふと――
(夕夏も…俺と同じように今までの気持ちから少しずつ変化しているのかな?)
とそんな考えを、一人悶々と授業中に考えていた時、ちょうど昼休みの始まりを告げる、チャイムが鳴ったのだった。
「まぁ、とりあえず今日も行きますか」
ぼそっとそう口にし、深夜は物替わりなく妄想世界でいつものように目を開けた。
「………………」
しかし、その日は不思議なことに……待てど暮らせど夕夏は妄想世界に姿を現さなかった。
「…………一体どうしたんだろ」
今までこんなことは一度もなかったため、深夜も首を傾げて、ぼんやり教室の窓の外を眺めるようにしていると、そのときだった――。
ピシッ――――
深夜の遥か頭上で、今までに聞いたことのない鈍い大きな音が…突然深夜の耳に届いたのである。
「なっ……何だ!?」
驚いて深夜は教室の窓から身を乗り出して上空を見てみると、そこには……空間一体に亀裂のようなものが入り、今にも世界が崩壊しそうな状態になっていた。
「おいおい……嘘だろ!? こんなことって――」
かつてない異常事態に、深夜もただただ目を白黒させていると、その世界崩壊の影響か、次の瞬間……時間でもないのに強制的に現実世界へと引き戻されてしまうのだった。
「ん…………くそっ。一体何が――」
全く何が起こったのか理解できず、困惑した面持ちで上体を起こしたそのとき、
「………………」
そのあまりの驚きに、深夜は思わず時が止まったかのように静止した。
「初めまして……いきなりごめんね。深夜――」
何と、そこにいたのは……深夜を見下ろす形で待ち構えていた、天音夕夏だったのである。
「お前…………どうして現実世界で――」
ますます混乱の様相を見せる深夜に、対照的に余裕のある態度で夕夏はこう言った。
「〟あの世界〝ではできない……大切な話があるの」
「大切な話……?」
まるで、その夕夏の言う大事な話というものに心当たりのないといった顔を見せる深夜を背に、夕夏は髪をわずかになびかせて、少しの間の後に静かにこぼした。
「ちょっと……屋上にでも行こっか」
真っ青な空が果てしなく広がり、同時に心地よい風が二人の体を吹き抜けた。特に言葉を交わすこともなく、その屋上からの景色を堪能する夕夏の姿を、後ろから複雑な面様で眺めていた深夜は、さっきの夕夏の言葉が気になり、しびれをきらしてとうとう言葉をかけようとしたそのとき、
「blue note――――いい曲だよね。私も好きだよ」
沈黙をようやく破ったかと思えば、そんな何てことない世間話……。だがそのとき、その夕夏が発した言葉に、深夜はひどく驚いていた。なぜなら、その曲はもう絶版で市場では決して手に入らないほどのマイナー曲で、今まで生きてきてその曲を知っている人間など、深夜以外に誰もいなかったからだ。
「な……何でその曲を知ってるんだ!?」
当然と言わんばかりに、食い気味に深夜がそう尋ねると…尚も晴れやかな景色を穏やかな表情で夕夏は眺め続けながら、その深夜への返事としてこんな話を始めた。
「昔ね……生まれつき体の不自由な女の子がいて、長い間入院生活を送っていたの。そしてあるとき、車椅子で病院の近くの公園に何気なく行ってみると、そこには自分と同じ年代の子供たちが楽しそうに走り回って遊んでいた。もう慣れたこととはいえ、やっぱり自分にできないことを目の前でされるっていうのは辛いことで、悲しそうな顔をして俯いていたんだけど、そのとき、そんな女の子の前に一人の少年が現れた。すると、その名も知らぬ少年はその彼女の様子に見かねたのか、おもむろにある曲を勧めてきて、そしてこう言ったの。
「音楽はね……どこにいても、どんな身体でも、平等に楽しめるんだよ!」って。
それから、その女の子は…本当に何度も何度も繰り返しその曲を聴いた。以前ならばすぐに悲しくなっていたこと……辛くなっていたことも……その曲を聴けば、女の子は笑顔を見せることが出来るようになっていった。だから、その曲は……その女の子にとって本当にかけがえのないものになったの」
「……………………」
そこまで話を聞いたとき、深夜は思い出した――。
その女の子の前に現れた少年というのが、自分だということに……。そして、
「じゃあ、夕夏――――。まさかあの女の子って、お前なのか!?」
確信に触れるその台詞を、過去のそのときの映像を脳内で映し出しながら口にしたそのとき、深夜は同時に……あることにも気づいた。
「いや、でも待てよ……。じゃあどうして夕夏は今、こうして普通に学校に通っているんだ? 車椅子にも、乗っていないし…」
……その深夜の言葉を聞くや否や、屋上に足を運んで以来…ずっと深夜に対して背を向けていた夕夏がそのとき、ようやく深夜と向かい合う形になるように歩み寄った。
そして――何を話すでもなく、なぜか夕夏はそこでおもむろに、しばらく前からずっと貼っていた首元の絆創膏を、ゆっくりと……はがし始めた。
ぺりっ――――
『あ、夕夏こそ…それどうしたんだよ』
『あー、これ? ちょっと…昨日怪我しちゃってね。それで絆創膏貼ったの』
あのとき……夕夏が確かにそう言っていたはずの傷は、その絆創膏の下にはなぜかなかった。
代わりにそこにあったもの――それは、〟ホクロ〝だった。
…………深夜はそれを目にしたとき、驚嘆の余り茫然自失としていた。なぜなら、今まで見てきた夕夏の首元には……ホクロなど全くないことを知っていたから。
「夕夏……いや、違う。お前は……じゃあお前は、一体誰なんだ!!」
さっきよりも心なしか風が強く吹き付け、制服にこすれる音が鈍くする中……俯き加減だった顔を静かに上げ、夕夏…いや、その目の前の少女は口を開いた。
「私は――天音 朝日香。夕夏の……双子の姉よ」
そう言った瞬間、ずっと夕夏と同じ位置で留めていた髪をほどき、心なしかその表情も…夕夏のそれとははっきり違うといえるほどに変わっていた。
しばらく、その言葉を飲み込めずにいた深夜は、続けて恐る恐る聞いた。
「じゃあ……夕夏は。本物の夕夏は今どこにいるんだよ!?」
「…………」
答えづらそうに顔を曇らせると、姉の朝日香は小さな声で一言だけ……こう口にした。
「夕夏は…………もうこの世にいない。死んだんだよ」
「君も……ある日を境に何か違和感みたいなものを感じていたんでしょ? 夕夏が、気持ちを伝えて……さよならって言ったあの日。あの日に夕夏は死んだ。そして、君が息を切らせて妄想世界に来たその翌日……そこから、私がずっと〟夕夏〝になり代わっていた――」
「っ…………!」
(そうか……俺が最近抱えていた違和感は――これだったのか。口喧嘩もしなくなって、どこかいつもと違う夕夏。まさかそれが……夕夏じゃなかったなんて)
ようやく、朝日香の言う違和感の正体に深夜も気づき、表情をしかめた。
「なんで……なんでお前はそんなことをしたんだ。夕夏に、成り済ますなんてこと」
すると、迷いのない口調で間髪入れずに朝日香は言った。
「夕夏に……頼まれたからだよ」
「えっ……?」
「夕夏は、さっき話した通り……辛い自分を支えてくれた〟あの曲〝を教えてくれた君に、ずっと感謝していた。だから……病院にいて、妄想世界でしか君に会えない時も、学校に行っている私を通じて深夜君のことを何度も聞かれた。だから……今の人と全く関わろうとしない、灰色の学生生活を送っている君のことを、ずっと影から救おうとしてたんだよ……あの子は」
「………………」
「でも、あの子本当に不器用だから……。結局、妄想世界に逃げたりしないで、現実世界で楽しみを見つけて頑張ろうよ!っていう簡単なことを伝えられないで、いつも喧嘩になっちゃってたんだよね。だから、自分がいなくなっても、お姉ちゃんが私の代わりに、深夜を現実世界に戻して、助けてほしいって――そう、言われたのよ」
『深夜……この世界から今すぐ出て行って。お願い――』
『私の気持ち…………伝えたからね? ――さよなら。深夜』
深夜はそのとき、夕夏が自分に向けて発した…あの最後の言葉を思い出していた。
(夕夏…………)
「それにね…………」
続けてそう繰り出す朝日香に、深夜は思わず視線を向ける。
「どうして、君と夕夏だけがあの妄想の世界に行けたのか知ってる? あの世界はね……実は妄想世界なんかじゃないのよ。だってもし本当に妄想が生んだ世界だったら、君たち二人が出会うことなんて有り得ないことでしょ? あの世界の正体は……これなのよ。そう言って掲げたのは、さっき目にしたblue noteの曲の再生画面。さっき、あの世界の空が割れて強制的にこっちの現実世界に戻されたのは、何でだかわかる? 私が、君の流していた曲を止めたからよ。そう、あの世界の秘密はこの曲。誰よりもこの曲を好きでいた二人だから…この曲を聴いて生まれた世界で、二人は出会ったのよ。そのことを、夕夏は初めから知ってた。でも、そのことをあえて夕夏は打ち明けずに、君を現実世界へ返すことだけを考えていた」
全ての話を聞き終えたそのとき、深夜の中で何かが変わった。
そして一人……自問自答を終えた深夜は、何か大きな覚悟を決めたという顔つきで、屋上の扉へと迷いのない一歩を踏み出した。扉を開け…どこかへ向かおうとしたその時、なぜかその場でぴたりと立ち止まり、そして勢いよく後ろを振り返った。
「あの……朝日香、さん」
「朝日香でいいよ……。どうしたの?」
「えっと、その……ありがとう。夕夏の――気持ちを伝えてくれて。朝日香がいなかったら……ずっとあいつの願いに気付いてあげられなかった。だから俺は、これからその願いを叶えるために行ってくるよ!」
今までの、陰鬱とした表情とは正反対の――まるで、過去に夕夏の前に現れたあの時の少年のような精悍な顔つきをした深夜が、そこにはいた。
――――バタンッ
間もなくして屋上の扉が閉まり、一人残った朝日香は……ようやく自分の役目を果たしたと言わんばかりに、とても晴れやかな表情をしながら屋上からの景色を再び眺めると、おもむろに携帯電話を取り出した。
♪
爽やかな風に乗り、屋上で流されたのは…blue note。そしてぽつり……
「ああ、やっぱりいい曲……」と――。
そう呟いた朝日香の瞳からは……数滴の涙が、風に乗って零れ落ちていた。
そして屋上を後にした深夜が向かった場所……それは、教室だった。
(大丈夫……俺ならできる。夕夏のために……頑張るって決めたんだから)
深夜が屋上で朝日香から全ての話を聞いて決意したこと――それは、今まで自らその存在を極力避け、雑音扱いし、全く心を開こうともしなかったクラスメイトと、友達になることだった。現実世界で、楽しみと呼べるものが…少しずつでもできれば、あの妄想世界に逃げ出すこともきっとなくなる――そう思ってのことだった。
ガラッ――――
ざわざわざわざわ
「………………」
教室の扉を開けると、そこは相も変わらぬ騒々しい言葉の嵐で埋もれ、それは思わず深夜も顔をしかめてしまうほどだった。極度の人嫌いである深夜にとって、今までまともに話したこともない人に自分から話しかけるというのは本当に……想像以上に困難なことで、ここにきていっそう尋常でない緊張感と動悸が襲ってきた。
そして、それは酷く引きつった苦渋の表情として表に現れ…結局、その想いを拭い去ることのできないまま、まるでこれから鬼退治にでも向かうような形相で……深夜はとうとう数人の男女が固まる教室の中心へと歩みを進めるのだった。
「……あ、あのぉ!」
「…………………」
普段教室で声など出すことのない深夜は、思わず声の加減を間違えてしまい、数人に話しかけるつもりが…教室中に響く声量を上げてしまい、瞬間――クラスの生徒全員が深夜の方へ視線を集めた。
当の話しかけられた数人の男女も、何か返事をするでもなく、じっと深夜の方を見つめるだけで嫌な沈黙が教室に漂った。ひっそりと事を運ぶつもりが、予想だにしない展開になり、頭が真っ白になった深夜は、もうこのまま言うしかないと――気力で用意していた台詞ををこれでもかと振り絞った。
「俺……今まで、人間を避け、嫌なことを避け、暗闇で生きてきた。でも、その灰色の生活の濁りを……少しづつでも変えていきたいって、〟ある人〝に出会って初めて思えたんだ。だから、俺と……友達に、なってください!!!」
頭をこれでもかと献身的に下げ、一世一代の思いを懸けた深夜の告白だった。
その返答は――――。
「ぶっ……! あははははははっ!!」
……それは、誠心誠意伝えようとした深夜の願いに対して、最悪なものだということが如実に判明した瞬間だった。そのとき……クラス中の生徒は嘲笑し、その深夜の行動を馬鹿にした。
そして、最も近くにいたグループの中の一人が…言葉に笑いを薄ら交えながら立ち上がり、こう言ったのである。
「おいおい……いつも隅で孤独を決め込んでる深夜君が何を言い出すかと思えば…友達になってくださいだって? はっ、あのな~てめぇみたいな協調性の欠片もねぇ根暗には、誰も関わったりしたくねーの。分かる? ってことだから、分かったらとっとと失せろ」
「っ…………………」
心が握りつぶされそうなほどの残酷な言葉をぶつけられた深夜は、その場で呆然と立ち尽くすことしかできず、しばらくの間……収まらないクラス中の嘲笑の渦に巻き込まれて消えていくのだった――。
ハッ――――!?
ざわざわざわざわ。
それは……深夜が緊張のあまり見ていた〟妄想〝であったことに、今ようやく気付いた。
「はは…………。いつもあれだけ妄想世界に何度も行っている俺が、今さらここで普通の妄想を見るなんて――」
そのとき、ちらと自分の両掌に視線を向けて、じわっと滲み出す手汗の量に……かつてないほどの緊迫感と深刻さを感じていた。だが、
「………………よし」
言い直すかのように、ぽつりとそう強い口調でそうつぶやくと、例の数人の男女が固まる教室の中心へと歩みを進めた。
(怖い……確かに怖いけど……夕夏との約束を守れないことの方が、俺にとってはもっと怖いから――)
その想いが……深夜の足を一歩、また一歩と後押ししてくれた。そして――
「あ、あの……話があるんだけど、いいかな?」
――ここは、とある学校の教室の中――。時刻は正午を回り、昼休みを迎えた学校の生徒たちの声は、学校の外にまで聞こえるほど賑やかしかった。
その騒がしい教室の端で一人……誰かと話すでもなく、昼ご飯を食べるでもなく、ただただ机に突っ伏して頭を抱える少年がいた。
(うるさい…うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!)
心の中で、何度もそう叫ぶ月影深夜は、この昼休みの時間を一日の間で最も嫌悪していた。
〟少し前までは――――〝
そして深夜が、うつ伏せの態勢はそのままに、右ポケットに何やらすっと手を伸ばし、あるものに手を掛けようとした。そのとき……
「深夜ー! 一緒に飯食おうぜ~」
その言葉を聞いて、深夜は静かに口元を緩ませると……手にかけようとしたイヤホンを再びしまい直して、
「ああ、もちろん!」と笑顔をみせるのだった。
そう……深夜は、あの妄想のような最悪な事は現実では起きず、無事に友達を作ることができたのだった。
「ごちそうさま」
「あれっ……深夜どこに行くんだ?」
昼食を食べ終え、深夜が席を立ち、どこかへ向かおうとする様子に、友達が思わず声を掛けた。
「少しだけ……涼んでくるだけだよ」
そう言って、その言葉通り…深夜は一人屋上へと足を運んだ。
「相変わらず……ここの景色はいいなー」
実はこの日――深夜はあることをこの屋上でしようとしていた。それは……。
パチッ――
深夜が次に目を開いたのは、妄想世界の教室の席だった。
そう……約束通り、この妄想世界から離れるための友達作りに成功し、思い残すことの無くなった深夜は、〟最後の〝別れとして、今日この世界に来たのだった。
「………………」
そこにいるだけで、今までの夕夏との思い出が自然に思い出されて、深夜の表情は何とも形容しがたい穏やかなものになっていた。自分しか存在しない――一人きりの楽園。そこで出会った一人の少女。今の自分があるのは…夕夏のおかげだと、その気持ちを絶対忘れないようにしよう、そう今一度心に刻んで、深夜は教室を……そして妄想世界に別れを告げたのだった――。
――――深夜――――
それは、まるで天から頭の中に直接聞こえてきたかのような……そんな一声だった。
「……………………」
今にも教室を出て、この最後の妄想世界から一歩を踏み出そうとした、その瞬間の出来事だった。そして、無言のまま……深夜は教室の方を振り返った。
それは――窓の隙間から僅かに吹き込んだ風と光が、一人の見慣れた少女を幻想的に映し出した光景だった。
もうそのとき、声どころか微かな息を漏らし、勝手に高まっていく心臓の鼓動と体温を感じる余裕すらなかった深夜が漏らした一言は、こうだった。
「あ、朝日香…………?」
すると、その間の抜けた言葉に少女はすぐにふっと笑った。
「ばーか……。またホクロ見ないと分かんないわけじゃないでしょ?」
「本当に……夕夏なのか? でも、どうして死んだはずのお前がここに!?」
「……正直、それは私にも分かんない。でも、此処――だからじゃない? 現実世界じゃ、どう足掻いても私は会いに行けないけど、この世界は…これまでにも、色んな無茶を許してくれたからね。もう一回だけ会いたい! あの公園のときと同じように願ったら…また叶えてくれたの。この曲が……」
「…………そっか」
「じゃあ、改めてお礼を言わせてちょうだい。私に、生きる希望を…いろいろな困難を乗り越える力をくれてありがとう。そして、ずっと黙っててごめんなさい。お姉ちゃんにも、伝えておいて」
「……わかった。じゃあ俺からも一つ、聞かせてほしい。一番最初……この世界で俺と出会ったとき、チャイムにかき消されて聞こえなかったけど、夕夏……何か俺に言ってたよな? 何を、言ったんだ?」
「初めは私も……あのときの公園の男の子なのか確証はなかった。だから、こっそり同じ学校のお姉ちゃんに頼んで、こっそり確認していたの。でも、あのとき……初めて深夜と会った時の一言は……無意識だった。無意識に、〟やっと会えた〝そう言ってた」
「ねぇ……最後に一つだけお願いきいてくれない?」
そして深夜の隣に腰掛け、取り出したのはイヤホン。
二人はそのあと……崩れていく最後の妄想世界の中で、しばらくの間思い出の曲を聴き続けているのだった――。