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レンチン彼氏

 いつもの調子で顔見知りの宅配のお兄さんが、「ありがとうございましたー」と立ち去っていく。

 私はその背中を見送ってから、腕の中にあるずっしりとした荷物に視線を落とす。

 送り状の品名は、『鮮魚』と記入されていた。


 なんかネットで注文したっけ? それとも実家から?

 でも冷蔵便でくるって。鮮魚って。

 頭に疑問符を浮かべつつ、送り先の住所を見て、ようやく思い出す。


 冷凍コーポレーション


「そうだ、注文したんだっけ。アレ」


 私はようやく荷物を注文した経緯を思い出し、荷物を開ける。

 白い無地の箱の中に入っていたのも、箱だった。

 その箱はちょうどお弁当箱くらいの大きさで、「随分と小さいなあ」と思わず呟いてしまう。

 思ったよりも小さい箱を、恐る恐る手に取り、眺めてみる。

 箱の正面にはポップな雰囲気の書体でこう書かれてあった。


『レンジで3分チンするだけ! レンチン彼氏』と。


   

 事の起こりは、一週間前にさかのぼる。

 私は高校時代からの友人の里夏りかを誘って、縁結び神社に行った。

 社務所に並ぶのはお守りや絵馬だけではなく、ミサンガも売られている。


「ここのミサンガって縁を繋ぎとめる、ってことで人気なんだって。あ、ピンクかわいい」


 私の言葉に、里夏は「へー。ミサンガなんだー」とあまり興味がなさそうだった。

 ミサンガを購入すると、里夏が唐突にこんなこと言い出す。


「ねえ、愛美まなみさ、別に普通の男の人にこだわること、ないんじゃない?」

「ん? どういう意味?」

「うちらもう二十八歳だから、周りはみんな婚活なんか始めちゃってるけど、私は正直興味なくて」


 うれしそうに話す里夏を見て、てっきり二次元にでもハマったのかと思った。

 しかし、彼女が次に紡いだ言葉は意外なものだった。


「レンチン彼氏って、知ってる?」


 家に帰ってから、すぐにスマホで『レンチン彼氏』を検索。

 最初は里夏がおかしなものにハマっているのかと心配したのだけど。

 ネットの情報を集めていくにつれ、最近密かに話題になっている商品だと知った。

 そして、レンチン彼氏を製造している『冷凍コーポレーション』のサイトに行き着いたのだ。


 ちなみに製造しているのは、彼氏以外にも彼女、兄、弟、姉、妹などさまざまなラインナップがあった。


 サイトの説明によると、レンジでチンするだけで、人間が現れるらしい。


 何かの比喩ではなく、本当に人間が――もしかしたら生粋の人間ではないのかもしれないが、レンチンで出現する。


 理想の彼氏がそこに立っているらしい。


 サイトにはそう説明されているし、ネットの噂にも同じようなことが書いてあった。

 色々と怪しさ満点ではあるが、好奇心が勝ってしまい、彼氏のラインナップを見る。


 写真付きで紹介されていた男性陣は、みんな二十代半ばくらいで、アイドル系、美形、俳優系、塩顔、強面などなど。

 顔や背格好を含めれば、かなりの種類があった。

 さまざまなタイプのイケメンを眺めていたら、自分も欲しくなってくる。

 ああ、私みたいな惚れっぽいのは、こういうサイトを見るべきじゃないんだよなあ。

 でも、どうせ、お高いんでしょう?

 そう思いつつ、値段を確認。


 ……思ったよりも安い。


 いや、ちょっと安過ぎでは?


 これが冷凍食品であれば、一食にこの値段ってどこの貴族だよと思うところだが。

 冷凍とはいえ、彼氏が出てくる。

 注意書きには、一晩で消えますと書いてあるが。

 むしろ一晩でこの価格はは安いよね、という結論に達して、ポチってしまった。


 ご購入ありがとうございました。


 画面に表示された文字を見た瞬間、我に返る。

 なんだか取り返しのつかないことをしてしまった、かも。

 


 こうして、取り返しのつかない『鮮魚』が今日、私の元に送られてきた。

 冷たい箱を持ったまま、どうしたらいいの、と呟いていたら、箱の中が幽かに動いたような気がして、「うわあ!」と驚く。

 その拍子に箱が手から離れ、床に落下。

 ごとん、という鈍い音がする。


「死んでないよね?」


 私は恐る恐る箱に手を伸ばす。

 箱は、動くことも、うめき声をあげることもなかった。

 ホッとしたと同時にようやく脳みそが冷静になる。


 こんな小さな箱に、人間が入れるわけがない。

 大の男を弁当箱サイズに収納できる技術があるのなら、もうとっくに何かに利用されているだろう。

 もっと大騒ぎになっていたり、大手企業が人間輸送とか始めてもおかしくない。

 だけど、怪しげな民間企業が、そんな魔法みたいなこと、できるはずがない。

 つまり、これはあれだ。


「ただの冷凍食品なのかも。本当に魚なのかも」


 私はそこまで言ってから、「彼氏ならぬカレイとかな」と親父ギャグを決める。

 一人で笑ってから、小さくため息をつき、それから箱をテーブルの上に置く。


 箱をあけずにレンジで三分。

 できあがるのを待つ間にパッケージの説明を読む。

 レンチン彼氏は、夜に解凍してください、とか、朝になると消えています、などと書かれてある。

 残り三十秒を切ったところで、レンジから煙がもくもくと出てきたのが見えた。


「え?! なに?! 壊れた?!」


 狭いキッチンを覆う真っ白い煙。

 前が見えない。

 チン、という音がするものの、レンジの場所すらわからない。

 消火器、という単語が脳内に浮かんだ瞬間。

 煙が少しづつ減っていく。

 窓を開けたわけでもないのに、煙がどんどん晴れ、そしてようやくクリアになった視界には。


 男性が立っていた。

 しかも、素っ裸だった。


 あの箱をレンジの中に入れたという認識がなかったら、変態の強盗だと判断して家から飛び出すだろう。

 男は、ウィンクをしてからこう言う。


「やっと会えたね。こえ、子猫ちゃん」


 あ、噛んだ。



 レンジから登場したのは、切れ長な瞳が印象的な線の細い、王子様のような雰囲気の外見の男性。

 パッケージの写真通りだ。

 だけど素っ裸なのはいただけない。

 男性に適当なTシャツとジャージを用意して、ソファに座るように促す。


「これ、どう見ても男もののTシャツだね、俺以外の男を家に連れ込んでいたなんて悪い子猫ちゃんら」

「それ……弟の。そしてまた噛んだね」


 私の言葉に、男性は急に両手で顔を覆った。

 そしてくぐもった声で言う。


「だって、工場長からそういうキャラのほうが受けるって聞いて……。俺、これが初仕事なんだよ」

「は?! 冷凍彼氏って使い回しされるの?!」

「あ」


 男性はしまった、という顔をしたがもう遅い。すべて聞いてしまった。

 私の視線に気づいた男性が、無理やりつくった笑顔を浮かべて言う。


「そんなに見つめて俺に惚れたか? やけちょ、火傷するぜ」

「ねえ、あのさ、そういう板についていないキャラはやめたほうがいいよ」

「でも、女子はこういうの好きだろ?」

「別に」

「あれ? そうなの? 工場長はそのほうがモテるし、仕事も増えるって言ってたんだけどな」


 ぶつぶつと呟く男性に、私はため息をつく。


「ってゆーか、その工場長が間違ってる気がする」

「そうか。そうだよな。五十歳の独身彼女いない歴イコール年齢って言ってたから、あまり良いアドバイスはもらえないな」

「それはアドバイスをもらっちゃいけないし、アドバイスできることなんてないだろうに」


 私はそこまで言うと、キッチンに戻ってアイスコーヒーのボトルを冷蔵庫から取り出す。

 グラスを二つ手に持ったままで、聞く。


「アイスコーヒーでいい?」

「あ、おかまいなく」


 なんだかやけにかしこまった様子の男性の分のアイスコーヒーをグラスに注ぎ、リビングの方に戻る。


「冷凍君さ」

「え?」

「君の名前。どこにも書いてなかったから冷凍君でいい?」

「レンです」

「ああ、名前はあるのね。レン君さ、なんでこんな仕事してるの?」


 私の質問に、レン君はグラスを受け取り、それから黙りこむ。


「別に言いたくないならいいんだけどね」

「『冷凍人間』って知ってますか?」


 レン君がそう言い終えると、グラスの中の氷がとけ、カランと音を立てる。


「え? 冷凍、人間?」

「そうです。俺は、冷凍人間という種族なんです」

「普通の人間じゃないの?」

「ええ。暑さに異様に弱く、昼間は活動できません。朝になると溶けてしまいます。まあ溶けると言っても一時的なんですが」

「え、溶けるって……」

「冷凍人間は、溶けた瞬間に工場に強制的に戻されるんです。どういう仕組みかはわからないんですが」


 レン君はそこまで言うと、グラスに口をつけた。


「溶けるとまた人間に戻れるの?」

「はい。熱が加わった時にうまいこと人間に戻る冷たさ、というのがあるらしくて、溶けるとその加工をされて、またパッケージされます」


 彼の言葉に、私は人間がパッケージされていく様子を思い浮かべて嫌な気持ちになった。

 それを買った私も私だけれど。


「その仕事は、冷凍人間の間では、憧れの職業なの?」

「いいえ、僕たちは冷凍人間だというだけで普通の仕事には就けませんから」

「別に嘘つけば……。ああ、溶けちゃうのか」

「はい。冷凍人間の中には、急に溶けなくなって普通の人間みたいに生きてる奴も稀にいますが、本当にレアケースです」

「夜だけの仕事とかできないの? それとも在宅とかさ」

「夜の仕事とかは、門前払いで。あっても低賃金でとてもじゃないけど生きていけない仕事ばっかり。在宅……か」


 レン君が「なるほど」と呟いた。

 見たところ、まだ二十代前半くらいだろう。

『冷凍人間』という特殊な人間だからという理由で、仕方なくこの仕事をやっているなら気の毒だ。


「在宅、良さそうですが、そもそも住む家がないので。冷凍コーポレーションは住み込みで働けるのが大きなメリットでもあります」

「そっか……」


 私はそれだけ言うと、グラスに視線を落とした。


 気の毒だ、なんて思っていても、私に何ができるというのだろう。

 私の稼ぎでレン君を養う? それは無理だ。

 自分だけで手いっぱいだというのに。

 しかも、溶けてしまうと、工場に強制的に戻されるなら引き止めることもできない。

 しん、と静まり返ったことに居心地の悪さを感じたのか、レン君は声を張って言う。


「変な話はこれで終わり! そもそも今までの話は全部、うそうそ!」

「いや、嘘ってのは無理やり過ぎるでしょ」

「とにかく! ぼ、俺は今晩だけ君の、彼氏なんだにょ」

「新しい語尾なの? それとも噛んだの?」

「新しい語尾です!」


 笑顔で言いきったよ、この子。


 レン君はこほんと咳払いをしてから、私のすぐ隣に座り、足を組んで右腕を肩に回してきた。


 その腕はひんやりとしている。

 しかし、レン君の腕はぶるぶると震えていることに気づく。

 緊張しているのだろうか。


「なにしてほしい? 壁ドン? 顎くい? それとも床ドン? 豚丼?」

「最後にさらっと食べ物混ぜてきたね」

「なんか食べたいなあと思って、つい」

「じゃあ、作ってあげるよ」

「いや、いい! お客様にそんなことさせるわけにはいきません!」


 レン君が首をぶるぶると左右に振ったその瞬間。

 ぐーきゅるるるるる。

 腹の虫が大音量で鳴った。

 これは私じゃないぞ。

 レン君が顔を真っ赤にして俯いていた。


「はいはい。作るよ。むしろ作らせて」


 私はそれだけ言うと、キッチンに行き、冷蔵庫の中身を確認する。

 豚肉ではなく、牛肉があった。

 そういえば、昨日スーパーで安くなってたから買ったんだ。


「牛丼でもいい?」


 私の言葉に、「はい! お願いし……君のつくったものなら何だって食べりゅよ」とレン君が返事をする。

 私が適当に作った牛丼を、レン君はあっという間に平らげた。


「すごく料理上手なんですね!」


 目をキラキラと輝かせ、ついでにほっぺたにご飯粒をつけてレン君が言った。


「いや、適当に作っただけだよ」

「適当にこれだけのものを作れるってのがすごい!」

「ありがとう」


 なんだか照れくさくなって、私は俯いてしまう。


「料理が上手だとモテモテだお」

「噛むとリップサービスだってことが即バレるよ」

「そうですよね……。噛まないようにしなきゃ」

「そこじゃなくて、そのキャラをまずやめるべきだよ」

「じゃあ、どういうキャラでいけばいいと思います?」


 まじめな顔でレン君が聞いてきたので、私は不意打ちを食らう。

『お客様』にそれを聞いたらダメでしょ。

 そう言おうと思ったけど、彼の今後のために真剣に考えることにした。

 私は少しだけ悩んでからふいに思いつく。


「弟系?」

「ああ、それはもう田中先輩がやってて」

「誰だよそれ。ってゆーかレンチン仲間とのキャラかぶりダメなの?」

「『彼氏』シリーズの中は、キャラかぶりはあんまり良くないみたいです」

「えー……。面倒。じゃあ、あ、そうだ。弟シリーズとかあったでしょ。あっちに行けば?」


 私の言葉に、レン君は顎に手を当てて唸る。


「ううーん。部署異動となると、課長に頼まないといけないんですよね」

「ああ、そこは結構、きっちりしてるのね。じゃあ、それなし」

「はい。できればキャラ変でお願いします」

「ドジっ子とか?」

「ああ、考えたんですけどね! 難しくないですか?」

「ありのままでいい。むしろ今のままでできそう」


 わたしの言葉に、レン君は突然、すっと立ち上がったかと思ったら。

 思いきり床に尻もちをついた。


「え?! なに?! 大丈夫?!」

「いったーい! 転んじゃった!」


 レン君が芝居がかった口調で顔をしかめる。

 心配して損した。


「雑なドジっ子キャラだなあ」

「え? 違うんですか?」

「違うね。世のドジっ子キャラに謝罪しなきゃいけないレベルで舐めてるね」

「そうですか……」


 レン君は床に座り込んだまま、しゅんとしている。

 まるで怒られた子犬のよう。

 その姿に少しだけ笑い、私は言う。


「そのままでいいんじゃない。別にキャラ作らなくても」

「でも」

「こうして、話し相手になってくれるだけで、それだけで楽しいから」


 私の言葉に、レン君は口を開こうとして、それからやめた。



 それから私とレン君は、テレビゲームをやった。


「うわっ! 強くないですか?!」


 コントロールを握りながら、レン君がこちらを見る。


「『ふよふよ』をやりこんだ私は、そんじゃそこらのプレイヤーとは違うのよ」

「じゃあ、僕の設定は『普通』でいいですか?」

「うん。だから最初にそうしな、って言ったじゃん」

「こんなに強いと思いませんでしたから」


 レン君はそう言って笑う。

 私は彼の笑顔を見て、それから視線を窓の外にそらす。

 夜の色が、薄くなってきている。

 時計を見ると午前二時過ぎだった。


「わーい! 勝った!」


 その言葉に、慌てて画面を見ると、私は負けていた。

 レン君はうれしそうに笑ってから、言う。


「どうしたんですか? 手を抜きすぎましたか?」

「ああ、うん。ごめんね」

「あの」


 レン君はそこで言葉を切って、それから続ける。


「なにか、悩みとか、愚痴とかあるなら聞きますよ」

「え?」

「さっきから、心ここにあらずというか、寂しそうな顔をする時があるのが気にかかっていたんです」


レン君の言葉に、私は「別に何も」と答える。


「僕は、朝には溶けます。もう二度と、あなたには会えないと思うんです。だから、ぬいぐるみにでも話す感覚で」

「ぬいぐるみって」

「あ、もちろん守秘義務もあるので聞いた話は口外しませんし」


 レン君はそう言って、あっさりとこう続ける。


「僕たち『冷凍人間』は、溶けると記憶が消えるんです。すべての記憶ではなく、数日間の記憶だけですが。だから、秘密は守れるというより記憶できません」


「なんだそれ。初耳だよ」

「ここまで言う必要はないかなーと思ったんです。ただ何となく浅い会話をするだけなら、この説明は省いても良いと言われていますし」

「他の仕事が門前払いになる理由は、記憶のリセットが原因?」

「そうですね」


 レン君は、そう言うと笑う。

 それが自嘲のように思えた。


 なんかそれ、すごく悲しいな。

 だからそういう仕事しかないのか。

 住む家がないのは、全部忘れちゃうからか。

 それならそれで、対策とかできないのか。メモとか。

 でも、メモ書いたことも忘れるのか。色々と厄介だな。


 そんなことをうだうだと考えて、レン君を見ると、まじめな顔でこちらを見ていた。

 私と目が合うと、ふにゃりと頼りなさ気な笑みを見せる。

 私は大きな大きなため息をつき、それから口を開く。


「恋人ができても、長く続かないの」

「どのくらい続かないんですか?」

「今まで最長、五ヶ月かな。大体一、二ヵ月で別れちゃうの」

「それは……愛美さんがフラれるんですか?」

「なぜ私がフラれる前提?!」

「あ、いや、すみません」

「私が、フるのよ。なんか好きな気持ちがすーっと冷めちゃうっていうか、愛せる自信がなくなるから」


 そこまで言ってから私は、「最低よね」と呟く。

 レン君は少しだけ笑ってから言う。


「ええ。まあ」

「そこはフォローしよう?」

「え?! でも、僕、思ってもないこと言えませんし」

「そうだろうね」


 私の言葉にレン君は罰が悪そうに視線をそらしてから、自分の着ている服に視線を落とす。


「もしやこれも、元彼の?」

「うん。元彼は最長五カ月、続いたのよ。だからここにも何度か泊まりにきてたんだけどね」

「弟ではないのですね」

「うん。なんか元彼の話するの嫌だったから」


 私はその場にごろんと寝転んでから続ける。


「あー。私、恋愛向いてないのかなー」

「違いますよ」


 レン君がまじめな口調でそう言った。

 それから彼は、私を見下ろしつつ続ける。


「まだ本当に愛せる人に出会っていないだけですよ」


 レン君のその顔は真剣だけど、なんだかきれいで、ついつい見とれてしまう。

 時刻は午前三時。 見とれているひまも、眠気と戦っているひまもない。

 眠気と必死で戦っていたその瞬間。


 ピーンポーンとインターフォンが鳴り響いた。


「お客さんですか? こんな時間に?」


 レン君が立ち上がる。


「午前三時過ぎだよ? もしかしたら私たちがうるさいってお隣からの苦情かも……」


 うるさくしている自覚はなかったけれど、ついつい声が大きくなってしまったかもしれない。 

 そう思いながら私は玄関へ。


 ドアスコープを覗くと、ドアの前に立っていたのはアロハTシャツにサングラスといったいで立ちの男。


 元彼だった。


 うわ、よかった先に相手を見ておいて。

 私はドアの鍵もチェーンもかけていることを再度確認して、それからドアに背を向けた。


「いいんですか? お客さん」


 不思議そうなレン君に、私はうなずく。


「うん。午前三時に人の家を訪ねてくる非常識な人、相手にしないほうがいいよ」

「それもそうですね」

「じゃあ、『ふよふよ』またやる? それとも、現世ゲームにする?」


 私がレン君にそう提案した瞬間。

 ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン……。

 インターフォンが連打される。


「あ、現世ゲームはふたりじゃ退屈かな」


 インターフォンを無視して私がそう言い終えた時、ドンドンとドアを叩く音に代わった。


「おい、いるのは分かってんだよ!」 


 元彼の声がドア一枚を隔てたところで響いてくる。

 私は思わず耳をふさぐ。


「電話一本で別れた気になってんじゃねえよ! 俺は別れたつもりはねーんだよ!」


 元彼の怒鳴り声に、私は思わず玄関のドアから一番遠い部屋の隅へ走る。

 そこでしゃがみこんで耳をふさぐ。

 体が震える。

 レン君がオロオロして、「え、あの、」と言っているのが聞こえた。

 でも、状況を説明できるほど、私は冷静ではない。

 早く嵐が過ぎ去れ、と言わんばかりに身を硬くして耳をふさぐだけだ。


「おいっ! いい加減にしろよこのブス! 早く開けろクズが!」


 元彼の怒鳴り声に、私は布団をかぶろうとする。

 その時、レン君が玄関に行くのが見えた。

 レン君は何を思ったのか、玄関のドアを開けようとしている。


「レン君、開けちゃダメ!」


 そう叫んで、私も玄関に走る。

 レン君はドアを開け、元彼をにらみつけた。

 それから元彼の胸倉をつかんだ。 ものすごい力らしく、元彼は慌てていた。

 レン君は、それから力いっぱい叫んだ。


「愛美さんのことを、ブスだとかクズだとか言うなあああああ」


 廊下に響いた声に、お隣さんどころか、その隣の人まで何事かと家から出てきた。

 私はチャンスだとばかりに大声で言う。


「このアロハでサングラスの男に、乱暴されそうになったんです!」


 タイミグよくレン君が元彼から手を離す。

「警察を呼ぼうか?」とご近所の人が言う。

 その言葉に、元彼は「覚えてろよ!」と捨て台詞を吐いて逃げて行った。


 迷惑をかけたご近所さんにお詫びとお礼を言い、私は再びレン君と部屋に戻った。

 本日何杯目かわからないアイスコーヒーを飲みながら、落ち着いたところでレン君に切り出す。


「元彼への愛が冷めたってのは本当。でも、気に食わないことがあると私の物を壊したり、突き飛ばしてきたりして乱暴なの。それで別れた」

「なるほど。控えめに言って最低な元彼だったんですね」

「うん。最初は、出会った頃はそんな人じゃなかったんだけど、でも、まあなんてゆーか、最初から変に威圧的なところはあったかも……」

「それで別れたってことですか。でも、元彼は別れた気ではないみたいですよ」

「他に女がいるってのは分かってた。だから、もうここには来ない思ってたんだけど、その女にも愛想つかされたんでしょ」

「なるほど。控えめにいってクズ男ですね」 


 レン君はうんうんとうなずきながらアイスコーヒーを飲む。 

 その横顔が、すごく愛しい。

 さっき元彼に言い返してくれた場面が、頭の中で何度も何度も再生される。

 うれしかった。 

 それに、すごくかっこよかった。


「ありがとう。怒ってくれて」

「そりゃあ、僕は今日限りとはいえ、愛美さんの彼氏なんですからね。怒るに決まってますよ」


 それから自分の服を見てつぶやく。


「そんなにクズ元彼なのに、ジャージは取っておくんですね」

「ああ、それは……。あんなクズとの付き合いでも楽しい時はあったから」


 私は視線をジャージに向けて続ける。


「それに、そのジャージ、高かったのよ……。元彼、ちゃんとしたブランドじゃないと着ないって言って。お金出すのこっちなのに」

「わかりました」


 レン君はなんだかキリッとした表情で言った。

 それから、私をまっぐす見て続ける。


「僕がこのジャージを着れば、元彼の思い出に上書きされますよね?」

「それはまあ、そうだけど」

「だから、僕が着て、何か楽しい思い出を作りましょう」

「もう十分、今日は楽しいよ」

「本当ですか?」

「うん。本当だよ」

「でも、まだまだ僕の実力はこんなものじゃないんらよ、子猫たん」


 二回も噛んだ。


「いや、そのキャラ、もうやめたほうが」


 言葉が出なかった。

 だってレン君の唇が当たっていたから。 

 レン君はゆっくりとわたしから顔を離して、それから数秒後。

 ぼんっと音がしそうなくらいに顔が真っ赤になる。


「レン君、顔が真っ赤だよ」

「えっ? 溶ける!」

「ええっ? 自分の体温で?!」

「あ、大丈夫っぽいな?」

「やだもー、驚かせないでよ」


 私がそう言って笑うと、レン君も笑った。



 私とレン君は、そのまま二人で並んで座りながら、たわいもないお喋りをした。

 すっと一緒にいたい。 

 でも、それは叶わない。 

 レン君みたいな人なら、ずっとずっと好きでいられるって確信できたのに。

 レン君だって私を傷つけるような人じゃないって、わかるのに。

 でも、今日でいなくなっちゃうのなら。

 今日の記憶が消えちゃうなら。

 意味がないよね。 

 そう思うのに、レン君とつないだ手をほどくことはできなかった。

 彼の手は、冷たくて心地良い。



 いつの間にか眠ってしまった私は起きてからハッとする。

 レン君は消えてはいなかった。 

 だけどもう、窓の外は明るくなっていた。

 そろそろお別れの時間が近づいてきたんだ。 

 レン君はぼーっと窓の外に視線を向けている。

 まだお互いに手を握ったままだ。


 レン君の腕を見て、ふと思い出す。

 それから引き出しからミサンガを取り出した。

 縁結び神社のものだ。

「腕出して」とレン君に言う。

 彼の腕にそれをしっかりと結びつけながら私は続ける。


「記憶が消えても、このミサンガで何か思い出すかもしれないから」

「良い考えですね」


 レン君がニッコリ笑ったところで、外の景色は完全に朝になっていた。

 こんなに朝が憎らしいと思ったのは初めてだ。


「そろそろ、ですね。なんだかちゃんと接客ができたのか不安です。むしろ、色々とお世話になってしまって、ごめんなさい」

「そんなことないよ。元彼追い払ってくれてありがとう」

「あんなに力があったことに、僕も驚きました。火事場の馬鹿力ってやつですかね」

「頼もしかったよ。それに一緒にいてすごく楽しかった」

「僕も、とっても楽しかったです。最初のお客さんが愛美さんで良かった」

 

 レン君はそう言うと、穏やかに微笑んだ。

 私も彼ににっこりと笑った。


 この暖かい春のような幸せな時間。 

 私は、こういう時間を求めていたのかもしれない。 

 レン君が普通の人間だったら、それで本当の恋人だったら、『続かない』なんて嘆くことはなかったんだろう。

 暴力に怯えて浮気に傷つくこともなかったんだろう。

 どうせ今日の記憶がレン君から消えてしまうなら、私のこの本音を伝えても良かったかもなあ。




「そんな言葉を交わして、かれこれ丸三日が経とうとしていますが」


 私の言葉に、レン君は申し訳なさそうに俯いている。


「いや、なんか、溶けませんね? なんででしょう」

「溶けてほしいわけじゃないよ。ただ、不思議なだけで」

「僕、昼間の光に当たるといつも溶けるんですが、溶けませんね」

「この部屋、涼し過ぎるのかなあ」

 時刻は既に午前五時。 つまり、彼は溶けずに昼間を生き抜いたのだ。

 しかも三日間も。 


 一応、『冷凍コーポレーション』に電話をして聞いてみたけど、担当者だという中年男性がこう言った。


『あーあ、たまにいるんだよ、そういうの。何かしらで体質変化しちゃうんだか知らないけど、理由は不明で。それはもううちとしてハズレだから。クビ』 


 電話を切ると、私は内容をレン君に伝えた。


「え?! クビ?!」

「問題、そこ?! 体質変化なら喜びなよ!」

「でも、体質変化って急にするものなのでしょうか」


 レン君が顎に手を当てた途端、右手のミサンガが視界に入る。

 私が三日前に彼の腕にきつく結んだ縁結び神社のミサンガだ。


「そういえばこれ……縁を繋ぎとめる効果があるって……」


 私の言葉に驚いて、レン君はミサンガに視線を落とす。


「縁って、愛美さんと」


 レン君はそう言うと私を見る。


「もしかして、私と縁があるのは嫌?」

「いいえ、めっそもうない!」


 レン君はそう言って首と両手を大きく左右に振る。

 それからわざとらしく前髪をかきあげた。


「君と運命の赤い糸でつながっていることは、最初からお見通しだっちゃよ」

「ラ〇ちゃんか」


 私がそう言うと、レン君は顔を真っ赤にして笑う。

 彼の腕のミサンガが、ほわっと光ったような気がした。


 了

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