私に似た人
これは、私が実際に体験した話をもとに創作したものである。
「何だか、初対面の人に会うような気分ね」
ダークブラウンのフローリングとスリッパの底を擦り合わせながら、山口菜々恵は興味深そうに室内を見回した。
「ま、長らく会っていなかったからな。中学生以来だから、二十年近くぶりか」
「十七年ぶりよ」
訂正した菜々恵を振り返って、吾妻鑑は苦笑する。
「十七年か。俺も歳をとるわけだ」
「そうかしら。あのころとあまり変わっていないように見えるけれど」
「褒めているのか、貶しているのかどっちなんだ」
「前者に決まっているじゃない」
吾妻は乱れた頭髪を搔いて、「そこに座れよ」とグレーのカウチソファを指す。背もたれ部分の取り外しが可能なこのソファは、ベッド代わりとしても重宝している。寝室として宛がわれた空間を仕事部屋にしているためだった。彼の「仕事」とは、現役の推理作家である。
「でも、まさか中学時代の同級生同士が、お互い作家になっているなんてね。分野は違うけれど」
「俺が参加したアンソロジーを出版する会社に、まさか山口が世話になっていたとはな」
「今は、七知江麻で呼んでちょうだい。私も、吾妻鑑としてあなたと会っているんだから」
七知江麻は、この数年で一気に頭角を現した女性ホラー作家だ。ブルーのサマーワンピースが似合う可憐な容貌と、人間の底深い闇を抉り出すような作風はあまりにちぐはぐ。そのギャップもまた、作家七知江麻の魅力のひとつでもある。吾妻が小耳に挟んだところによると、編集部内には密かに「七知江麻親衛隊」なるものが結成されているとかいないとか。彼女が未婚であることが、親衛隊の熱をさらに上げていることは指摘するまでもない。
「それで、話したいことってのは何だ。まさかホラーとミステリを融合させた共作でも――なんてことを持ちかけるつもりじゃないだろうな」
「もちろん、そんなことじゃないわ。あなたが非科学的な物語を好まないことは、よく知っているから。でもね、今日の相談は残念ながら、科学的に説明できそうにないお話なのよ。二週間前、私の身に起きたある奇妙な出来事について」
「奇妙?」
挽き立ての珈琲を並々と注いだマグカップが、女流作家に差し出される。
「こんなこというのもなんだけど、ホラー作家の私に似つかわしい体験だと思うの。でもね、怪奇現象が次々に起こるような作品を書いていても、実際自分が経験すると気になって仕方がないのよ。幽霊や妖怪の仕業だとか、そんなこと言われても、ってね。もちろん、ただの偶然なんて言葉じゃ納得できないわ」
「現役のホラー作家が、怪奇現象を疑うのか」
「推理作家が、みんな殺人狂でないのと同じよ」
「極論だな」
推理作家の男は、一人掛け用の小さなソファに腰を落ち着かせた。ガラステーブルを隔てて、二人の作家の間には二メートルほどの距離がある。
「話を聞くことは構わんよ。だが、いち推理作家の愚答に、新進気鋭のホラー作家さまが満足するかどうかは別問題だ」
「随分謙虚なのね。でも、正直なところちょっと期待しているのよ。あなたの口から、私好みの意外な結末が語られることを」
カップを小さく持ち上げて、七知江麻は微笑む。推理作家は長い手足を優雅に組んで、女流作家が体験したという奇妙な話に耳を傾けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今から、二週間前の日曜日だったわ。朝から霧のような雨が降っていて、部屋の中も妙に湿っぽかった。前の土曜日から日を跨いで、私はある文芸誌に載せる掌編の仕上げにかかっていてね。脱稿したときに時計を見たら、朝の六時三十分を過ぎていたわ。その瞬間、一気に体の力が抜けてベッドに倒れこんだの。だから、その電話がかかってきたとき、私はベッドの中で夢うつつの状態だったのよ。
電話のベルが、どのくらいの間鳴り続けていたのかは分からないわ。意識がはっきりしたときには、すでに音が聞こえていたから。「ああ、電話に出なきゃ」って思いながらも、まだ体が重くて億劫な気分だった。それで、しばらくベッドの中でぐずぐずしていたの。やっと体を起こしたときに、電話はふいに鳴り止んだ。それが、その日最初に、私の部屋にかかってきた電話だったわ。時間は十時頃だった。
二度目の電話がかかってきたのは、同じ日の午後一時頃よ。その日の夕方に出版社の人と打ち合わせが入っていたから、私は鉛のような体に鞭打って出かける準備をしていたの。詳しくいうと、化粧の真っ最中だった。「ああ、またか」って、正直思ったわ。でも、もしかしたら朝と同じところからかかっているかもしれないじゃない。だから、今度こそ出なきゃってつもりで、クリームだらけの手を慌てて洗っていたの。そうしていたら、電話は切れた。多分、十秒鳴っていたかどうかくらいの時間よ。洗面台の水も出したまま、私、呆然としていたわ。朝の電話は、随分長い時間鳴っていたようだったから。「もしかすると、別のところからだったのかも。それか、セールスとか」って、結局自分に言い聞かせて準備に戻ったの。
そう。それだけなら、何の恐怖でも怪奇でもない。別に、私は電話恐怖症じゃないのよ。問題はその日の夜、明らかになるの。
打ち合わせが終わって家に帰ったとき、今度は私の携帯に電話がかかってきたわ。電話の相手は、私の母方の親戚だった。小さいころお世話になった人でね、私の小説のファンを公言してくれているの。ちょっと認知症の気があるおばさんなんだけれど、とっても良い人なのよ。
そのおばさんがね、開口一番にいったの。「今日、あなたのところに二回も電話をしたのよ」って。私、すごく申し訳ない気持ちになったわ。朝の電話も、化粧の最中にかかってきた電話も、二回ともおばさんからだったなんて。言い訳をするつもりじゃないけど、状況を話して謝ろうかと思ったの。
でもね、次のおばさんの言葉を聞いて、私は謝るどころじゃなくなくなった。彼女、何ていったと思う?
「あなた、私の電話に出たのに『うちは山口ではありません』って切っちゃったのよ。どんな冗談だったの」って。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「つまり、きみのおばさんがかけたのは間違い電話ではなかった、と」
「彼女の話を信じるなら、そういうことになるのよ。でも、そうすると私が疑われることになるじゃない」
「きみが、何かの悪戯心が働いておばさんをからかったと」
「無論、言いがかりもいいところだわ」
七知江麻はきっぱりと言い放った。推理作家の男は尖った鼻先を搔きながら、片方の手でピースサインをつくる。
「可能性はふたつにひとつだ。きみのおばさんが二回とも間違い電話をかけたか、きみがおばさんの電話を何らかの理由で拒否したか」
「私が寝ぼけていたとでも?」
「可能性を提示しているだけだよ。別にきみを疑っているわけじゃない」
「ふふ。何だか、私が殺人事件の容疑者で、吾妻くんが探偵みたいね」
カップを両手で包むように持って、江麻はおかしそうに含み笑いをする。
「実はね、話はこれだけじゃないのよ」
「どういう意味だ」
「この奇妙な電話事件には、もうひとつ、科学的に証明できないような謎が潜んでいるの」
組んでいた足を解き、吾妻は前かがみの姿勢で座りなおす。七知江麻はカップの縁を指先でなぞりながら、窓の外へと視線を移した。雨とも靄ともつかぬような、鬱屈とした天候が朝から続いている。
「二度目の電話がかかってくる前にね、私、本を読んでいたの。去年買ったミステリのアンソロジー。残念ながら、その本には吾妻くんの名前はなかったけれど。私でもミステリを読むのかって? そうね、正直、どうして私もその本を買ったのか、あまり憶えていないのよ。そのときの気分で、何となく手が伸びたのかもしれないわ。
それはいいのだけれど。その本の中でね、こんな話があったのよ。ある女性の家にね、夜、電話がかかってくるの。仮に、その女の人を原田さんとするわね。原田さんのところに電話をかけた相手は、二十代から三十代くらいの男の人。その人は、『川口さんのお宅ですか』って電話先で口にしたの。要するに、間違い電話だった。でも、原田さんはどういう気まぐれか、その相手に『ええ、川口ですけど』って嘘をついたのよ。男の人は、『川口サナエ――川口もサナエも、もちろん仮名ね――さんはいますか』って訊ねてきた。原田さんは、相手の間違い電話を楽しむように、川口さんになりきって『サナエは不在ですけど』って答えるのね。最初の電話は、それで終わり。ところが、その後も三十分おきに、同じ男性から電話がかかってくるの。最初はちょっとした悪戯心で電話に出ていた彼女も、徐々に狂気を感じはじめる。そして、ついに男の本性が姿を現して」
「――現して?」
低く問うた男に、七知江麻はゆっくりと顔を向ける。切れ長の目を凝視しながら、だが次の瞬間にはくすりと笑うと唇に人差し指を当てた。
「ひ、み、つ」
「は?」
「だって、最後まで話したらつまらないでしょ。そうだ、この先の真相を、吾妻先生に推理してもらおうかしら。現役の推理作家同士の、推理合戦。おもしろそうじゃない」
「お前なあ。というか、話の筋がずれていないか。その話と、七知江麻の体験とがどうつなが」
ふいに、男は口を閉ざすと女流作家から視線を逸らす。顎に手を当て、目の前のガラステーブルを睨みながら、推理作家は「そうか」と呼吸をするように囁いた。
「お分かりかしら。これが、私が体験した二つ目の出来事よ。まるで、二度目の電話を予知するように、私はその話を読んでいたの。しかも、私はその本のページををそのとき初めて開いたのよ。間違い電話の話が載っているなんて、知る由もなかったわ」
「なるほど。その間違い電話予知事件を含めて、きみが体験した一連の奇妙な話が完成するわけだ」
「そういうこと。ね、ちょっとしたホラーでしょ。でも、考え方によってはれっきとした推理物にもなりそうじゃない。事実、私が呼んだその電話の話は、ミステリのアンソロジーで組まれていた内容だったのだから」
物思いに耽るような表情でガラステーブルに視線を投じる吾妻。カップに残った珈琲を飲み干すと、七知江麻は満足そうな笑みを浮かべてみせた。
窓の外では、靄がかっていた景色はすっかり雨模様に変わり、ベランダのアスファルトを雨粒が打ちはじめている。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「まず、きみの家にかかってきた二回の電話について推測をしてみよう」
ソファの背もたれに深く体を預け、吾妻鑑は虚空を仰ぐ。
「先にもいったように、起こり得た可能性はふたつ。きみのおばさんは間違い電話をかけていた。あるいは、おばさんからかかってきた電話に出たきみが、何らかの理由でおばさんに嘘をついた」
「おばさんが単純に記憶違いをしていた、なんて話で片付けないでよ」
ローズ色に染まった唇を尖らせる女流作家に、男は「手厳しい先生だ」と肩を竦める。
「それじゃ、まずはおばさんが間違い電話をかけた説についての推察。これはミステリの定石中の定石だが、きみのおばさんはアリバイ工作を画策していたという可能性だ」
「いきなり推理小説みたいな展開ね。どういうことなの」
「簡単なことさ。きみのおばさんは、何らかの犯罪、あるいはそれに近い行為に関わっていたんだ。
おばさんには、その日の朝十時と午後の一時に、どうしても確固たるアリバイが必要だった。それで、アリバイ証人に相応しい人物としてきみを思い出す。てきとうな親戚や近隣住民よりも、現役の作家として活躍しているきみの言葉が強い証言になると踏んだのだろう」
「けれど、結果的におばさんの電話に私が出ることはなかった」
「犯罪か、それに近しい行為をしていたためだろう。極度の緊張下にあったきみのおばさんは、きみの電話番号を間違えるという失態を二度も犯してしまった。それでも、何としてでもアリバイの確保が必要だった彼女は、強行手段としてきみが電話に出たという嘘をでっち上げることにした」
「うんうん。それで、おばさんは一体どんな犯罪に関わっていたのかしら。電話をかけたのが自宅だったとすれば、そこで何らかの事件が起きていたとか」
「いや、事件に関わっていたことを隠すために『電話をかける』という行為に出たのだとすれば、その事件は外で起きた可能性が高い」
「どうして?」
「ひとつ訊くが、きみのおばさんは携帯電話を使うのか」
「いいえ。おばさん、そういう文明の利器には疎いらしいの。機械音痴ともいうのだけれど。だから、自宅の固定電話しか使わないって言っていたわ」
「だとすれば、そんな彼女が自宅の電話機を使ってアリバイを作ることには大きなメリットがある」
「メリット?」
「そう。自宅の固定電話は、携帯電話みたいにあちこちで使うことはできない。文字通り、自宅で固定されているのだから。そうなると、きみに電話をかけるという行為は、電話をかけた時間におばさんは自宅にいたということとイコールになるわけだ。つまり、電話をかけた時間、おばさんが外部で起きた犯罪に関わっていたという可能性を潰すことができる」
「なるほどね。確かに、電話機を持って外から電話をかけて家にいたふりをする、なんてことはできないものね。固定電話機だと」
「そういうことだ。しかしながら、結果的におばさんのアリバイ工作は失敗に終わる」
「ふうん。でも、それって結局、おばさんが間違い電話をしたということに変わりはないわけよね。となると、私の部屋にかかってきた二度の電話の時間と、おばさんがかけた二度の間違い電話の時間がぴったり一致していることにはどういう説明がつけられるのかしら」
「そうだな――たとえば、共犯者の仕業という仮説はどうだ」
「共犯者? おばさんは複数犯で事件に関わっていたということなの」
「ああ。だが、きみのおばさんは共犯者に半ば脅される形で犯行に協力していたのかもしれない。共犯者――仮にXとしよう――はおばさんよりも力関係が上の立場にいる人物だ。そして、Xはおばさんが自分を裏切ることを阻止するために、おばさんの自宅に盗聴器を仕掛けた」
「盗聴器?」
「そう。この盗聴器が、彼女のアリバイ工作を見事に崩す役目を果たすわけだ。
Xは予防線として盗聴器から、おばさんが自分を裏切ってアリバイ工作をしようとしていると勘付いた。そこで、彼女よりも僅かに速いタイミングでXはきみに電話をかけた。きみとの関係も、Xは事前に把握していたんだろう。もしもの場合、きみが証人として利用されるかもしれないという推測もできていた」
「つまり、私にかかってきた二回の電話は、おばさんのアリバイ工作を阻んだXからの電話だったってことね」
「だとすれば、おばさんの電話がきみに繋がらず、なおかつおばさん以外の人物からほぼ同じタイミングできみに電話がかかってきた説明もつくだろう」
「ちょっと強引だけど、おもしろい展開ね。吾妻くんの話を聞きながら、おばさんが加担した事件の中身を考えちゃったわ」
声を弾ませる女流作家に、吾妻は冗談めかした口調で「不謹慎なやつだ」とぼやく。
「それじゃ、きみのおばさんは確かにきみのマンションへと電話をかけていたという、第二の仮説に移ってみようか」
「私がおばさんに嘘をついていたという説ね」
「ああ。きみに喧嘩を売るつもりはないから、ま、俺の戯言だと思って耳に入れてくれ」
「私、そんなに子どもっぽく見えるかしら」
七知江麻は白い足をゆったりと組み、片方の手で頬杖をつく。垢抜けた仕草だった。推理作家は江麻の艶っぽい視線を交わし、小さく咳払いをする。
「そもそも、電話事件があった日、きみは本当に自宅のマンションにいたのだろうか」
「何よ、そこから疑うつもり」
「仮定の話だよ。たとえばだ、その日、七知江麻は朝からマンションにいなかった。そこへ、何らかの理由によって第三者が侵入してきたんだ」
「何のために? 空き巣かしら」
「それらしい被害でもあったのか」
「その質問に答えてしまうと、私がその日マンションにいなかったと認めてしまうことになるじゃない。答える必要はないわ。だって、私は夕方の打ち合わせに出るまで、確かに部屋にいたのだから」
「なるほど。まあ、あくまで憶測だからな、ひとまずは最後まで聞いてくれ。仮に、その日きみがマンションにいなかったとしよう。そこへ、空き巣か知らんが何者かが七知江麻の部屋を訪れる。その何者か――面倒だから、今度は闖入者をYとしよう――が部屋に滞在しているとき、二度の電話がかかってくる。Yは慌てる。電話に出るべきか、出ないべきか。Yは葛藤の末、受話器を手に取った」
「それで?」江麻の好奇に満ちた丸い眼が、男の背中に向けられる。
「Yは電話に出た。相手は七知江麻の親戚らしい人物だ。さて、相手から『山口菜々恵はいますか』と訊ねられ、Yはどう答えるか」
「そうね。もしYが私のふりをして『山口菜々恵です』と答えたとする。でも、そこから続く話の中身によっては、Yが会話を続けることが難しくなる。特に、ごくごくプライベートな話になればなるほど」
「そう。だから、Yはこの電話を間違い電話に仕立て上げることにした」
「なるほどね。それなら、おばさんがかけた電話の相手が、二回とも『山口ではありません』と拒絶したのも納得――いえ、やっぱりちょっとおかしいわ」
「何故だい」
「そもそも、それならば電話に出なければいい話じゃない。電話に出たってことはつまり、山口菜々恵が部屋にいたことを示す。なのに、出た相手が肝心の本人じゃない、なんてなれば、話がとんちんかんになってしまうわ。私は一人暮らしだし、私以外に電話に出る人物もいないのだから」
「ふむ、さすがは作家さまだな。これくらいの誤魔化しは通用しないか」
「失礼ね、私を試したつもりかしら」
「じゃあ、こういう話はどうだ――Yは、電話の相手に山口菜々恵が不在、あるいは電話に出られない状況下にいることを悟られたくなかった」
「よく、意味が分からないわ」
「たとえば、Yは山口菜々恵を何らかの理由で脅迫、監禁をしていた。その最中に電話が鳴る。きみはYにこう告げる。『もしかすると、家族や親戚かもしれない。もし電話に出ないままだと、私の身に何か起きたのではと勘付く可能性もある。だから、電話に出させてほしい』。Yは渋ったが、きみの言うことにも一理あると考え、きみは電話に出ることになる。だが、きみがどこで口を滑らせ、電話相手に助けを求めるか分からない。そこで、Yはきみに命じた。『電話に出ても、自分は山口菜々恵ではないと言ってから切るんだ』と」
「わあお、さすが推理作家さま。突飛な発想だけれど、無理にねじ込めば合理的といえなくもないわ」
大げさな拍手を送った七知江麻に、吾妻は「お褒めいただき光栄でございます」と慇懃無礼に低頭してみせた。
「それで、Yの目的は何だったのかしら? 強盗か、あるいは私に心酔するファンが及んだ凶行だったとか。だとすれば、私は解放されてすぐにでも警察に駆け込むでしょうね。けれど、残念ながら私は警察になんか行っていないわ」
「行けなかったのかもしれない。きみはYに弱みを握られ、脅されていた。もしこの犯行を誰かにばらせば、次はもっと酷いめに遭わせるぞ、とかな」
「ちょっと、話がどんどんおかしなことになっているじゃない。被害妄想も甚だしいわ。お遊びはここまでよ」
蝿でも追い払うように片手を大きく振る江麻。推理作家の男は肩を震わせながら、声を立てて笑った。普段から無愛想な彼には珍しいことである。
「それじゃ、一時のゲームはここまでだ。これからは、ちょいとばかり真面目な推理をしてみようじゃないか」
「今までは茶番だったってことね」
「茶番とは随分な言い草だな。せめて推理遊戯とでも言ってくれ」
「そんな知的なゲームではなかったと思うけれど」
軽口を叩きながら、江麻は白い歯を見せる。吾妻は足を組みながら、どこからともなく拉げた煙草の箱を取り出した。
「では、山口菜々恵、もとい七知江麻は確かに二度の電話があった日時、マンションの自室にいたとしよう。電話の音に気がつかなかったわけでもない。きみは確かに、電話がかかってきていることを認識していた。そして、その二回の電話に出た」
「問題は、電話の相手がよく知った人物――つまりおばさんのことね――に対して、どうして『私は山口菜々恵ではない』なんて嘘をついたのか」
「そう。何より一番の問題はそこだ。正直、一度目と二度目の電話の間に、きみが間違い電話に関する話をたまたま読んだことに関してはどうとでも説明がつく。電話の問題はともかく、その程度なら偶然の一言で片付けられてしまうからな。残念ながら」
「そうね。でも」
「でも、何だ」
「吾妻くん、何だか分かっているみたい。何もかも――私の気のせいかしら」
長い睫毛に縁取られた両の目が、男に焦点を定める。男は女流作家からついと視線を逸らし、煙草を一本、指先に挟んだ。
「俺は、『七知江麻が、何故電話口でおばさんに嘘をついたのか』という問題を提示した。だが、それは厳密には正しくない」
「どういう意味?」
「そもそも、七知江麻は果たして本当に、おばさんに嘘をついていたのだろうか」
「言っている意味が分からないわ。私がおばさんに嘘をついていなかったとしたら、おばさんの電話に出た山口菜々恵が、『私は山口菜々恵ではありません』と言ったということになるじゃない」
「そうだ」
「そうだ、って。吾妻くん、さすがにその推論は飛躍しすぎじゃないかしら」
「飛躍でも何でもない。残念ながら、俺なりに一種の確信を持っている仮説だ」
「ふうん。まあ、いいわ。それで、山口菜々恵が『私は山口菜々恵ではありません』と大胆な嘘をついた、その理由を説明してもらおうかしら」
「確かに、山口菜々恵が『私は山口菜々恵ではない』と口にするというのは、ちょいとばかり不自然だ。だが、もしその言葉を発した本人が、自分を『私は山口菜々恵である』と認識していなかったとしたら、どうだ」
七知江麻――あるいは山口菜々恵は、口をぽかんと開けて対面に座る男を見つめる。およそ一分間の沈黙を守った後、壊れた玩具の人形のようにゆるゆると首を横に振った。
「ごめんなさい。まだ理解が追いついていないわ。どういうこと? 私が、私を山口菜々恵だと認識していない? まさか、私が多重人格者だとでも言い出すつもりかしら」
「推理小説にはありがちなパターンだ。加害者が多重人格者などの人格障害の持ち主で、主人格とは別の人格が殺人を犯してしまう。その人物は、果たして殺人犯となり得るのか。難しい問題だ」
「らしい発想ね。だけど、もし私がその多重人格者だったとすれば、こんなに当たり前のように日常生活を送ることができるものかしら。少なくとも、ホラー作家としてデビューしていることはあり得ないわ」
「ああ。俺は、きみが多重人格者だと断言するつもりはない」
「焦らしたがりなのね。それじゃ、他にどういう説明がつけられるのよ」
半ば躍起な口調で、女流作家は詰問する。男はふと口を閉ざすと、話しつかれたというように虚空を仰ぎ、指に挟んでいた煙草を口に咥えた。そのまま、重圧的な沈黙が作家の部屋を満たしていく。
「――夢の、」
擦れた声が洩れた。独り言のような、誰に語りかけるでもないほどの、小さな声だ。
「夢?」
「きみが、今ここにいるという現実は、果たして現実なのだろうか。あるいは、きみも俺も、覚めない夢の中を彷徨っているのだろうか」
「何よ。江戸川乱歩みたいなことを言って」
「『うつし世は夢、夜の夢こそまこと』か。だとすれば、これほど早く覚めてほしい夢はない」
「もったいぶった言い方もあなたらしいけれど、私、じらされるのはあまり好きじゃないのよ」
七知江麻は苛立たしそうに眉をきゅっと寄せた。男はもたげていた首を下ろすと、シャツの胸ポケットからライターを取り出す。緩慢な動作で煙草に火をつけると、何か言いにくそうな、戸惑ったような表情で対面の女を見た。
「きみは、レム睡眠行動障害というものを聞いたことがあるか」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「レム睡眠行動障害。世間では『夢遊病』と混合されがちだが、厳密には夢遊病とレム睡眠行動障害は別物だ。
夢遊病は小児に多く発症する睡眠障害のひとつで、眠った状態にも関わらず無意識に起き出し、室内を歩き回るなどの行為をする。ときには家の外に出ようとしたり車を運転するという複雑な行動をとる症例も報告されているようだ。
レム睡眠行動障害も夢遊病と非常に似ていて、患者は眠った状態のまま、起き上がって様々な行動を起こす。だが、夢遊病が子どもに多く発症するのに対して、レム睡眠行動障害は成人以降、特に五十代以上の中年期に多く見られる症状だ。しかも、レム睡眠行動障害は文字通りレム睡眠という睡眠状態の最中に起きる症状である一方、夢遊病はノンレム睡眠という、レム睡眠の前段階にやってくる眠りのときに発症する。つまるところ、夢遊病とレム睡眠行動障害は似て非なるもの、というわけだ」
論文でも読むような調子で淡々と述べる吾妻に、七知江麻は困惑の面持ちを向けた。
「随分、詳しいのね」
男は意味ありげに目配せをすると、唇の端をほんの少しだけ上げてみせる。
「何、ちょいと機会があって文献を調べたことがあったんだ」
「そう――それで、その文献の説明が、今回の電話事件とどういう関係があるのかしら」
「先にも言ったように、レム睡眠行動障害は睡眠中にもかかわらず、寝床から起き上がり複雑な行動をとる症状が多く見られる。叫び声を上げたり一人でに喋り出したり、時には周りにある物体を破壊したり、そばで眠っている者に対して暴力行為を起こす例まであるらしい」
「電話に出て、相手と話をすることも?」
江麻は喘ぐように問う。吾妻は紫煙をくゆらせながら、
「可能性としては、あるかもしれない」
ゆっくり、噛みしめるような調子で答えた。女は顔を歪めて、黙々と煙草を吸う同業者を睥睨している。
「つまりあなたは、私を人格障害だとかデタラメな診断をした挙句、今度は睡眠障害を患っているといいたいのね。随分ひどい扱いじゃないの」
「ああ、ひどい男だよ。だが、この結論ならば、きみの証言もきみのおばさんの証言にも、どこにも嘘がないという結果に落ち着くんだ」
「どこをどうすれば落ち着くのよ」
「まず、おばさんは間違いなくきみに電話をかけた。朝の十時と、午後の一時。そしてきみもまた、その二度の電話に応答した。ただし、レム睡眠下にあったきみの意識は、己を山口菜々恵ではなく、七知江麻として認識していた。だからきみは、電話の相手であるおばさんに『自分は山口菜々恵ではない』と告げて、電話を切った。おそらく、一度目の電話から二度目の電話の間まで、きみは『七知江麻』として活動していた。まだ覚めていない夢の中で」
「ちょっと待って。二度目の電話がかかってきたとき、私は出かける準備をしていたのよ。その間も、私は眠っていたということ?」
「睡眠の最中に暴れ出す症例も報告されているくらいだ。眠っている間に化粧をしていても不思議ではない」
吾妻は煙草の煙をゆっくりと口から吐き出した。
「睡眠というのは、ノンレム睡眠とレム睡眠をひとつのまとまりとして、平均四つのサイクルを繰り返していると考えられている。ひとつのサイクルにかかる時間は九十分前後だ。
きみがその日眠りについたのは、朝の六時三十分頃だと言っていた。きみの睡眠時間を今話したサイクルに当てはめてみると、一度目に電話がかかってきた十時は、第二段階のレム睡眠時であった可能性が高い。そして、二度目の電話があった午後一時には、最後の第四段階のレム睡眠に突入していた――勿論、これは一般的な睡眠に関する知識に俺が強引に当てはめただけの推論だ。結果をどう受け取ろうが自由だし、俺を法螺吹き野郎だと一蹴してもらっても一向に構わない。ただ、きみが体験した一連の出来事に対するひとつの見解を提示したまでだ」
「吾妻くんは、私を医者にでも突き出すつもりかしら」
男はただ静かに首を横に振るだけだった。その答えにほっとするように吐息を漏らして、江麻はカウチソファから立ち上がった。女流作家の帰り路を阻むように、外では遣らずの雨が一層激しく降り続いている。
「――ねえ、最後にひとつだけ、訊いてもいいかしら。一度目と二度目の電話の間に、私が間違い電話の話を読んだこと。あれだけは、やっぱり偶然だったの? 謎めいたことなんて、どこにもなかったのかしら」
男は短くなった吸殻を煙草の箱にねじ込むと、テーブルに放り投げた。無言を貫く推理作家に、江麻は諦めたような顔で頭を振って、玄関へと歩き出す。
「――似ていたんだ」
「え?」
低い声に振り返る。だが男は雨の篠突く窓外に顔を向けたまま、とうとう最後まで江麻を見ようとしなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『そうですか――七知先生、そのまま帰られたのですね』
溜息交じりの声に、吾妻は「ええ」と頷いた。
『どうですかね。先生、無事に病院へ行ってくれるでしょうか』
「どうでしょうね。こればかりは本人の問題です。どうしてもというのならば、周りの人間が強引にでも彼女を連行するしかない」
『それができないから、吾妻さんに頼んだんです。あなたの助言なら、彼女も耳を貸すのではないかと思った次第なのですから』
「随分買い被られているようですね。私はただ、山口菜々恵の中学時代の同級生で、たまたま同業者として再会したにすぎない身です」
『ご謙遜を。彼女、吾妻さんに会うことをとても楽しみにしているようでした。実は、学生時代からの密かな想い人だったりして』
「であれば、彼女にひとつ忠告しておいてください。男の趣味に気をつけろと」
『ははは。ええ、進言しておきますよ。七知江麻親衛隊としては、現役の推理作家が恋敵というのはどうにも分が悪いですからね』
「私の専門は謎解きであって、恋愛の指南役ではありませんがね」
『あ、それもそうですね。はは――あ、そういえば、ですね』
「何か」
『七知先生、去年買ったミステリのアンソロジー集の話、していませんでしたか』
「ええ、伺いました」
『その作品の中に、間違い電話が云々という話があって、彼女、それをいたく気に入ってたみたいでしてね。今度は、電話をモチーフにしたホラー話を書いてみようかなんて意気込んでいたんです。吾妻さん、その話読まれたことは』
一瞬の沈黙の後、吾妻は「ええ、ありますよ」と答えた。返事に窮していたのではない。ポケットから新しい煙草の箱を取り出そうとして、話を聞き漏らすところだったのだ。
『ああ、やっぱり。さすがは推理作家の先生。同業者の作品にはいち早く目を通されておいででしたか』
「いえ。私も書店でたまたま見かけて、気まぐれで購入しただけですよ。推理作家といえど、すべての推理小説を読破しているわけではありません」
『あ、そうでしたか。いやいや、失敬しました』
「ですが、私もその話は記憶に残っています」
『ということは、推理作家先生のお眼鏡に適った話を、七知先生もまたお気に召したというわけですね』
「そうなのかもしれませんね――ところで、七知さんがお気に召したというその話の中身はご存知ですか」
『簡単なあらすじ程度なら。確か、主人公の女性のところに、男から間違い電話がかかってきたんですよね』
「ええ。最初こそ間違い電話にしか認識していなかった主人公でしたが、その後も三十分と間を置かないで男から電話がかかってくる。男は、主人公の家に一人娘がいると思い込んでいたのですね。主人公の女は、電話の相手は自分の架空の娘に恋心を抱く男ではないかと想像を巡らせる。だが、実際には娘など存在していない。それでも、退屈を紛らわす遊びを見つけた主人公は、男に対して嘘を重ね続ける」
『しかし、その嘘を嘘とも思わない男は、次第に本気になってくるんですよね』
「そう。主人公には娘などいないわけだから、いくら男に『娘を出せ』と言われても当然無理な相談です。ですから、『娘は外出していて、今夜は帰ってきそうにない』と言い張るわけですね。ところが、男は次第に豹変し、ついには恐喝めいた言葉まで口走るようになる」
『たかが電話の一本なのに、随分な恐怖体験ですね』
「そこが作家の腕の見せ所でもありますからね――結局、電話の途中で男の話はすべて真っ赤な嘘であったことが判明するわけです。男は、夜の孤独な一時から逃れるためにランダムに悪戯電話をかけていたという話だったんですね」
『なるほど。電話の男も主人公の女も、同じような思いを抱いていたというわけですか』
「その通り。そして、男は話の終盤に驚くべきことを告白します」
『驚くべきこと?』
「『自分は、殺人を犯した。母親を殺めてしまった』と主人公に打ち明けるのです」
『それはまた、随分急な展開ですね』
「最終的には、その告白も嘘だと男は弁明するのですがね。さすがに戸惑いを隠せなかった主人公は、そこで男との電話を終えるわけです」
『そりゃあ、気味悪くもなるでしょうねえ』
「ところがですね、実はこの主人公も、電話の男に対してひとつの嘘を隠していた」
『主人公もですか』
「ええ。主人公の女もまた、同居していた舅を手にかけていたのです」
『――はあ。何だか、妙な余韻というか、後味が悪いというか。すっきりしない終わり方ですね』
「まあ、ミステリ的と言えば退屈しない幕引きですがね」
『それもそうですがねえ。ああ、でも、七知先生がインスピレーションを受けたのであれば、私も読んでみたいですね。その話、何というタイトルなのですか』
指先に煙草を挟みながら、男は口許に微笑を浮かべていた。
「私に似た人」
作中冒頭にて七知江麻が語った体験談は、作者(真波)が実際に体験した出来事です(出版社への打ち合わせ云々を除く)。
なお、作中に出てきた作品「私に似た人」は、ミステリー傑作選第三十四弾「殺人博物館へようこそ」(日本推理作家協会編)に収録されている「私に似た人」(今邑彩)を参考にしたものです。
真波を素敵な謎へと誘ってくれた今邑先生に、感謝と敬意を表して。