沼地の化生
沼地には人が集まっていた。村の人たちはアイリスの姿を見ると道を譲った。
アイリスに疑惑の視線を向ける人と、哀れみの視線を向ける人、どちらもいる。
(……残りは、怯えている人たち)
沼地の、ちょうど先日アラルドという男が立っていた位置に立つと、アイリスは沼の中を覗き込んだ。
どどめ色をした沼に羊はほとんど沈んでしまっていたけれど、その足が一本突き出しているのが沼面に見えた。
「沼地だ! 昨日、アイリスがいたと自白していた! そうだろう? え?」
沼の反対側で叫んでいるのはリーラの叔母さんだろう。
彼女はアイリスを見つけると聞こえよがしに更に声を張り上げたけれど、アイリスは気にしなかった。
いや、気になってはいたが、それ以上に心に引っかかっていることがある。
あの羊はいつの時点で沼にはまったのだろう。
アラルドはあの時、この羊を見ていたのだろうか? それとも、アラルドがいた時にはこの羊はまだいなかったのか――。
(何かとても、嫌な予感がするわ)
ふつ、ふつと……沼の底からあぶくがわいてくる。
こんな風に淀んだ沼の中でも生きられる魚などの生き物の呼吸だろうか。
不注意で沼に落ちて抜け出せなくなった村人の最後の一息だという怪談を聞いたことがある。
沼に浮いた蓮の葉に、沼の淵に咲いた妖精の花――いつもと同じ景色に見える。
いや、いつもより……淵に咲く妖精の花が多く感じる。
赤や白、緑に黄色。色んな用途に使える美しく便利な花。
ふと、花びらが舞って、沼にはまった羊の爪に触れた瞬間、羊の足がぴくりと動いた。
アイリスは総毛立ち、思わず後退した。
「ここにいてはいけない」
「何を言ってるんだい! 今! うちの羊が動いた! アイリスが沼に落としたうちの羊だ! ――誰か手伝っとくれ! まだ生きてる! 引き上げるのを手伝っておくれ!!」
「いえ、やめて――やめなさい!」
「なんだって、アイリス? 一体誰にそんな口をきいているんだい! 生意気な小娘め!!」
リーラの叔母さんが沼の向こう側から、スカートの裾を摘み上げて、どすどすと足を踏み鳴らしてやってくる。
その後ろで、リーラの叔母さんと付き合いのある大人たちが沼へと降りていく。
「待って――!」
「村で養ってやっている恩も忘れて、いつもぴーちくぱーちくと、目障りな小娘だよ。一度がつんと拳で言い聞かせないとわからないかい――」
アイリスの元までやってきて、アイリスの頭を掴みながら喚くリーラの叔母さんの言葉は耳をつんざくような叫び声に紛れて聞こえなくなった。
「ぎゃああああああああ!」
「うわああああああああ!?」
「助け、ぐぼ、がぼばぼ――――」
何が起きたのか、リーラの叔母さんの太い腕に頭を抱えられていたアイリスには見えなかった。
次の瞬間、悲鳴をあげたリーラの叔母さんがアイリスを突き飛ばした。
「きゃ……!」
沼地の方へと倒れ込む身体。
自分ではどうにもならない。
ゆっくりと感じる時間の中で、沼地の奥から出てきたぬるぬるとした黒く巨大なミミズのような腕が暴れる村の男の人を沼の中へと引きずり込むのをアイリスは見ていた――。
「っと――危ないな」
沼に倒れ込みかけていたアイリスの腰を、誰かが抱き留めた。
村の人間の声ではない――妙に艶やかで、優雅な声。
「あ……アラルド!」
「アイリス、大丈夫かい?」
アイリスを抱き留めた男、アラルドは――被っていたフードを外すと、黒く艶めく黒い髪をなびかせながら、沼地を遠巻きにする村人たちを見やった。
「まったく君らも、気が早い……荒ぶる神を沈める儀式のために、生贄を捧げるにしても、手順というものがあるだろうに」
「あ、荒ぶる神……?」
村の人たちは茫然として、今は静かに平らになった沼を見やった。
時折ごぼりと空気が浮いてくる以外は、いつもと同じ沼だった。
その奥底に何かが潜んでいる。
そして、村の男はその何かに引きずり込まれて、まだ生きている可能性が高いけれど――助けようとする者はいない。
アイリスは思わず沼の方へ身を乗り出そうとしたけれど、あばら骨が痛んで息が詰まり、動くことができなかった。
「う……」
痛みを我慢すれば、動くことはできるだろう。
だが、あの奇妙な化け物をこの体で退けることが果たしてできるだろうか?
――例えアイリスが命をかけたところで、沼に沈んだ男を助けることができるとは思えない。
その必要があるのなら、そして、その甲斐があるのであれば力を振り絞るが、無駄に命を使いたいわけではない。
アイリスも、他の村人たちと同じように沼に沈んだ男のことを諦めた。
沈んだ男と親しい人間が淵にしがみついて、叫んでいる。
「どうしたんだい、アイリス? ……ああ、怪我をしているんだね。今の衝撃で骨が完全に折れてしまったかな?」
「だ、大丈夫……あなたは悪くないわ」
「ああもちろん、僕はとても親切に君を助けてあげただけだよ」
あまり村では聞かない種類の反応に、アイリスは思わずアラルドという男の顔を見上げた。
にっこりと笑って見せるその顔は、やはりとても、不思議なくらい美しい。
何故か、とても――腹が立つほどに。
(なんなのかしら……この気持ち)
ギースが古典から選んだ言葉をつぎはぎしただけで作った詩を自分の作品として朗読しているのを聞いた時。
あるいは信仰心に満ち溢れたエレナが精霊からの愛を受けられずに病床に沈む時、それでも精霊への敬愛に満ちた言葉を口にする時。
そんな時に一瞬だけ胸をよぎる感情を、この男に感じるのは何故なのか。
「おまえたち! 一体何があったんじゃ――」
一部始終は、村長を出迎えた村の男たちが説明した。
村長の決断は素早く賢明だった。彼もやはり沈んだ男の命を諦めるように嘆く親族に伝えた。
沼の化け物を目撃した親族は、それ以上は食い下がらなかった。
「それで、おまえは誰だ?」
村長は村人たちへ沼から離れるように指示を出すと、アラルドを見た。
そして、アラルドに抱えられて、辛うじて立っているアイリスを確認すると、村長は怪しむようにアラルドを見直した。
「……あんたがアイリスが言っていた旅人かね」
「ええ、昨日ここでアイリスと会った」
「何をしていた?」
村長の言葉に、遠巻きにしているざわりと村人たちが騒ぐ。アラルドは笑みを浮かべたまま淡々と言った。
「はぐれた羊がやってきて、この沼に落ちるのを見ていたんだ」
「……あんたが盗んだのでは?」
「僕が? 僕に――羊を盗む必要があるように見えるかな?」
アラルドはわざとらしい身振りで自分の全身を見下ろした。
何もかもが、村の人間とは別の生き物のように整っていて、それだけでアラルドの言いたいことを村の人間はみんな理解しただろう。
他人の財産を盗まなくてはならないほど生活に困っているようにはとても見えなかった。
旅の空にあるはずなのに妙に整えられた髪、埃のついていない外套、指には宝石のついた指輪がはまっている。
荷物は少量。腰には細い剣。どうやってこの村までやってきたのか。
村長が苦々しい顔をした。
「あんたが羊を盗むようには見えないとアイリスが言った意味がわかったわ。……どこかの坊ちゃんか、貴族か何かかね? どんな道楽でここへ?」
「この近くで知り合いの子が生まれると聞いてきたんだけれど、どこかで道を間違えたかな?」
「……ここは最果ての村じゃ。道を間違えたとしたら、うんと手前でじゃろう。この先には何もないぞ」
「どうやらそのようだね」
赤茶けた西の荒野を一瞥すると、アラルドは村長を見下ろした。
「こんなところでいつまでも話していたくないね。君の家に行ってもいいかな?」
「あなたのようなご立派な方をうちに招くことができるのは光栄の至りではあるが、もてなしなどなんもできんので、さっさと目的の場所へ旅立ってはいただけないかね?」
「僕が君の希望を聞くのかい? 君が僕の希望を聞くのではなく?」
「――ついてくるがいい」
「初めからそうすればいいのに。……アイリス? 大丈夫?」
アラルドが発するきれいな声。美しい顔。村の人たちはみんな納得したような顔をしている。
彼の言葉は正しそうに聞こえた。村長は苦り切った顔をして彼の言葉を受け入れた。
村の女性たちが音楽でも聞くかのように耳を澄ませている。
アラルドの顔を見ようと前列の男を押しのける。
何故? ――アイリスはアラルドの胸に身体を預けながら、内心首を傾げていた。
アイリスは、アラルドの言葉を聞いているとまるで蝶番がきしむ音を聞いているかのような不快感を覚えているのに。
不思議、と思いながら近づいてきた顔を見つめ返す。
「アイリス? ……僕の顔が見えているかい?」
「ええ、不思議な顔が見えているわ」
「不思議? そんなことを言われたのは初めてだよ」
「なんだか……あなたすごく妙だわ。なんだか、本当に変よ」
「魂を抜かれそうなほど魅力的な顔だとはよく言われるんだけど。変だなんてひどいな」
「アイリス!」
村長が鋭い口調でアイリスを呼んだ。
アイリスは息を吸い込むと、痛みをこらえてアラルドから離れた。
アラルドは支えてくれてはいたけれど、アイリスが離れる意思を見せるとそれ以上追ってはこなかった。
村長の傍へ寄ると、アイリスだけに聞こえるように村長は鋭く注意した。
「おまえがあの男のことで騒ぎ立てなかったのは、今となってはよい判断じゃったと思える。……いらぬ刺激をするでない」
「貴族、だからですか?」
「貴族だろうが裕福な商人のドラ息子だろうが、どちらにせよ厄介事じゃ。さっさと村からいなくなってもらわねばならん……腹をどうした?」
「……少し、痛みが」
動かなければどうということはないけれど、ここからすぐにでも離れたいから、動くしかない。
「魔物みたいなのが出たんです。この沼の中にいる。けれど、あの人は荒ぶる神だって言っています。一体何?」
「魔物なら……襲ってくるはずじゃが、この沼の中で大人しくしているとすれば、魔物ではないのかもしれん」
村長とアイリスが話しているところへ、アラルドがやってきて、訳知り顔で指摘する。
「荒ぶる神々のことを知らないのかい? シーザリア王国ではすでに有名なのに」
「なら、エレナが知っておるじゃろう」
村長は話に加わってくるアラルドを胡散臭そうに見ながら言う。
アイリスは自分自身理由もわからず、同じような眼で彼を見ていたから、村長がそうしている理由が気になった。
アラルドの容姿に気おされて、ギースがおどおどと彼を案内するのを見送りながら、アイリスは村長に訊ねた。
「ねえ、村長……あの人なんだかおかしくないですか? 何か、すごく、噛みあわない気がするんです。変な感じで」
「変、か。――村の人間以外ほとんど知らないおまえには妙な気がするのだろう。腹の内で妙な考えを抱きながら、口先ではまるで別の言葉を口にする人間なんぞ、どこにでもいるが、あの男ほど食い違っているのは珍しいじゃろう。あの男、何を考えているのかまるで読めん」
それでは、思っていることが伝わらないのに、どうしてそんなことをするのだろう。
「……思っていることを言うと、怒られるのかしら」
「ああ。わしらが怒り狂うようなことを考えているんじゃろう。だから言わない」
「そうなんですね。それなら、なんとなくわかります」
「いや……おまえの場合はまた少し違うがな。まあいい。すぐに会議じゃ! 広場に集まれ!」
村長がひとまずの結論を下すと、緊張と恐怖に顔をこわばらせた村の人たちも、そそくさと家路をたどった。
誰もが何度も沼地を振り返った。
あの化け物が追ってくるんじゃないかと誰もが不安だったに違いない。
けれどあの化け物は追ってこなかった。
だから、あの化け物の正体を知っているらしいアラルドの説明を聞くことができるだろう広場の集会には、間違いなく誰もがこぞってやってくるだろう。
(おばさん、とても静かだわ……どうしたのかしら)
リーラの叔母さんはいつでも何かがあるごとに金切り声を張り上げるけれど、アラルドが現れてからそれがない。
でも、それはいいことだとアイリスには思えた。
とても、彼女の心に寄り添ってあげられるような余裕が村にない。
今、この村は何らかの危機に瀕している。
(――それを、村人の誰もが理解するべきだわ)