敬虔な女
「アイリス――起きるのじゃ!」
「ふぁ、はい!」
あくびをかみ殺して飛び起きる。
納屋の扉を乱暴に開け放って入ってきたのは村長だった。
「どうにもまずいことになったようじゃ」
「まずい……こと?」
「まだ寝ておるのか、アイリス!?」
「起きています!」
眠いけれど、目を押し開いて立ち上がる。
あばらは痛いけれど動けないほどじゃない。村長がこう言うということは何か理由があるはずだ。
「例の、おまえの言っていた沼地で死んだ羊が見つかった。タスク氏が、おまえが沼地に沈めたんだと騒いでおる」
「……そんなことはありません」
「そうじゃろう。羊が迷って沼地に足を踏み入れたんじゃないかとわしは思う。それか、なんらかの凶兆じゃと考えた方がいい。おまえが沼地の危険を知らせてくれたのじゃからな――じゃが、バカな連中はこんな時にほど騒ぎ立てる」
昨晩、アラルドの存在を話さなかったのはまずかったかもしれない。
アラルドがいればアイリスが羊を連れていなかったことの証人になってくれただろう。
けれど、昨晩彼はどこへ泊ったのか、集会で姿を見かけなかった。
「……村長、ひとつご報告が」
「なんじゃ?」
「あの……昨日、外の人を見かけたんです。たぶん、旅人なんですけど」
「まさか、そいつが羊泥棒の犯人じゃないのか? 何故そんな大事なことを言わなかった!?」
「すみません。……羊を盗みそうな人じゃなかったんです」
「どうだか。アイリス、わしはおまえには知恵があるとは思っておるが、じゃがまだまだ嘴の黄色い若造だとも思っとるんだ!」
村長は怒りながら行ってしまった。
アラルドは沼地にいた。けれど、アイリスは彼を羊泥棒だとは全く思わなかった。
彼が羊を欲しがるような人間だとはとても思えなかった。
(それに……また話をしてみたかったから)
これまで見たこともないほどきれいな人だったから?
それとも外の人だから?
理由は自分でもよくわからない。
――とにかく、村長に内緒にしてしまった。このことで何か厄介事が起きるようなら、アイリスがその分の負担を負わなければならない。
アイリスはまず自分の身体の状態を確認した。
「痛い、けど、動けないほどじゃないわ」
身体には青あざ。恐らく肋骨のどこかの骨にひびが入っているか折れていて、呼吸は苦しい。
羊の放牧は免除してもらうにしても、不必要に騒ぐ人をなだめることぐらいはできるだろう。
例え身体が辛くとも、身から出た錆は、自分自身で拭わなくては。
納屋を出て母屋に行くと、エレナが心配そうな顔をして出迎えてくれた。
萌黄色の髪色の、優しそうな女性だった。
「アイリス……具合はどう?」
「エレナさん、平気です。村長に内緒でこっそり何か食べさせてもらえませんか?」
「ええ! チーズと昨日作ったパイを少し、残しておいたわ……」
「ありがとう、エレナさん」
お礼を言うと、エレナはやわらかな笑みを浮かべた。
「アイリスに精霊様のご加護がありますように、昨晩もずっとお祈りしていたの。きっとその願いが届いたのね。アイリスが元気で、あの人を憎まずにいてくれて、嬉しいわ」
「ええ……」
「アイリスも精霊様に感謝するのよ」
「……はい、エレナさん」
アイリスは疑問を飲み込んで、頷いた。
アイリスが元気なことは、精霊に感謝をしてもいいのかもしれない。
もし精霊に愛されていることでアイリスが健康でいられているのならば、祈りも感謝も捧げるべきだろう。
けれど、アイリスが村長を憎んでいないことと、精霊のことはどうつながるのだろうか。
(なんでもかんでも、関係のないことさえ精霊に結び付ける人のことを、敬虔な精霊信者っていうんだったかしら)
それは、アイリスからしてみると褒められた行いではないように思える。
因果関係のないことを結び付け、事実から目を逸らすことは、どちらかというと悪い事では?
(それとも、何か関係が? 関係があると彼女は言うけれど、証拠はない……それを指摘するととても怒る)
その怒りは取り付く島もない、会話も成り立たない激しいものだ。
村長は怒りっぽい人だと村の人は言うが、アイリスはそうは思わない。
村長は大きな声を出したり、大げさな身振り手振りをすることはあるけれど、いつだって話をすることができる。
「それを指摘してはいけない……考えてはだめ……」
「アイリス? どうしたの?」
「あ……なんでもないんです」
アイリスはとり置いてもらった食事をとるために机に向かった。
少しだけれど、肉の入ったジャガイモのパイに栄養価の高いチーズ。
エレナは料理がとても美味い。
控えめで、信心深く、優しく、料理が上手。
女性は彼女のようにあるべきだと村長は言う。けれど、アイリスにはアイリスらしくいてもいいと言う。
アイリスはまだ、その矛盾をうまく噛み砕くことができていない。
(村長は……いつか色んなことがよくわかるようになると、言ってくれたわ)
いつまでもわからないままでいるのなら、時にはヒントを与えてくれるだろうし、本当に困っていたら助けてくれるだろう。
今は疑問を脇に置いておいて、目の前の問題を解決すべきだ。
アイリスは食事を手早く済ませると、心配をかけないようエレナに脇腹が痛むことを気取られないように慎重に笑顔を取り繕い、沼地へと向かった。