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奇妙な旅人


 やせ細った牧羊犬が独特の鳴き声をあげたから、アイリスとリーラはおしゃべりを打ち切り、それ以降無言で、できるだけ素早く、羊たちを追いながら村へ戻った。

 牧羊犬があの鳴き声をする時は、魔物が近くにいる証拠だと――一年前に魔物にやられて死んだハッシュ兄さんが教えてくれた。

 ハッシュ兄さんも孤児だった。

 魔物のいる荒れ地で羊を太らせるために牧草を追う仕事は、危険だから孤児に真っ先に割り当てられる仕事だ。


 全力で走って、村のすぐ傍まで戻ってきたとき、羊の数を数えていたリーラが悲鳴をあげた。


「アイリス、どうしよう! ――羊の数が一頭足りない!」


 きっと、逃げるのに必死で牧羊犬も見逃してしまったのだろう。

 青ざめているリーラに、アイリスは何も言うことができなかった。

 恐らく、リーラはお世話になっている叔母さんに殴られ、食事を抜かれ、隙間風の酷い納屋に毛布も与えられずに閉じ込められることになるだろう。


「アイリス、あなたなら、ギースがよくしてくれるじゃない? だからギースにちょっと言って……ねえ? 羊を一匹、今日だけでも、うちの分に混ぜてくれたら……」


 ギースというのは、アイリスが世話になっている村長の家の息子の名だ。

 リーラは親がいなくても親戚がいた。けれど、アイリスは死んだ両親の他には血縁者が一人もおらず、村長の家に厄介になっていた。


「ギースは、例え一日でも、羊を一頭あなたに渡してもいいと言うとは思えないんだけど……」

「だから、そこは……ギースはあんたを妾にしてもいいと思ってるみたいじゃない!」

「どういうこと? 妾と羊にどういう関係がるの?」

「……もういい。大丈夫よ、アイリス。あたしもそろそろ、殴られるのに耐えるべきよね」


 アイリスにも、リーラに何かを求められていることはわかった。

 けれど、何を求められているのかがわからない。


「リーラ、どういう意味なの?」

「言わせる気? それで、あたしだけを悪者にするの?」


 リーラが何を言っているのかがわからない。

 こういうことはよくある。リーラ相手だけじゃない。ギース相手でも、村の人相手でも。

 アイリスは途方に暮れながら思う。こういうところが頭の回転が鈍いと言われるところなんだろう――。


「もう行く。やなことはさっさと終わらせたいもの」

「……ごめんなさい、リーラ」

「謝らないで。――一緒について来ないで! あんたと一緒に戻りたくない!」


 リーラが叫んで、家への道を走っていく。

 その背中を少し見送ってから、アイリスも羊を数え、柵の鍵を確認し、――牧羊犬を連れてリーラの家の柵も確認しに行った。

 そうしたら、鍵をかけ忘れていた。


「……リーラってば、うっかりやさん」


 代わりに鍵をかけてやる。

 ……その時、牧羊犬がいまだに怯え続けていることに気が付いた。


「ここ、もう村よ? ……荒れ地じゃないのよ?」

「くうん……」


 きょときょとと、怯えたようにあたりを見渡している。

 魔物がすぐ近くにきているというわけではないだろう。もし近づいてきているのであれば、そちらへ向かって吠えるはずだ。


「……何かあるの?」


 感覚の鋭い犬が怯えている。よくない兆候ではないだろうか。

 アイリスたちに仕事を教えてくれた――今は死んだ孤児たちはみんな自分の判断よりも犬の判断を優先せよと遺言した。

 先達の死の原因は大抵、犬の判断を軽んじた結果だ。


「――危険が迫っている? ねえ、なら、そこへ連れて行って」

「きゅうぅん……」

「連れて行きなさい」


 主人としてぴしゃりと命じれば、犬は言うことを聞く。

 しっぽを丸めながらも、牧羊犬は歩きだした。おぼつかない足取りだけれども、足を進めていく。


 牧羊犬は村の外周に出たり、村の中に入り込んだりしながら、よたよたと歩いていった。

 アイリスを導いた先の、村はずれの沼地のあたりに、見慣れない男がたたずんでいた。


「……きゅうん」

「あの男?」


 牧羊犬は後50アンドもある距離を置いて、男へ近づかなくなってしまった。

 無理やり前へ進ませようとしても、全力で嫌がる。

 最後にはその場に伏せて震えながら動かなくなってしまった。


 溜息を吐いて、アイリスは一人で男に近づいた。遠目に見ても村人ではないことがわかった。


(こんな辺境に一体どうして、旅人が?)


 行商人でさえ、商売でやってきているというより、親切心に近い。

 ここへきても利点はほとんどないだろう。

 ここはかつて犯罪を犯して森の向こう側へと追いやられた人々が作った村で、辺境故に税金が安いという理由で、貧乏人が移り住んでくるぐらいだった。


「そこのあなた――ここは危ないわよ」


 アイリスが声をかけても、男は振り返らなかった。

 長い黒髪が傾いてきた橙色の陽を受けてつややかにきらめいている。


「うちの犬が怯えてる。このあたりに何かあるみたい。早く村の方に戻って」


 黒い外套を身にまとう男がゆっくりとアイリスへ振り返った。

 アイリスは暗闇がぽつぽつと落ちてきた沼地のあたりへ注意深く視線を落としていて、すぐには気づかなかったが――やがて視線をあげて驚いた。


「わ……あなた、すごい、その顔は何?」

「何、と言われてもね」


 何かの楽器のように涼やかで、艶のある声だった。

 耳のあたりがぞわぞわして、全身の産毛が逆立つ気がした。

 逆光でもその男の顔貌の――異常なほどの美しさは見てとれた。


 黄昏時の光の妙、迫りくる夜闇の妖しさも相まって、その男はまるで魔物のように見えた。


「……失礼、つかぬことを聞くけれど、あなたは逃げてきた犯罪者?」

「本当に失礼な言いぐさだね」


 男は何故だか楽し気に答えた。

 いきなり激高されるでもなく、アイリスはほっとして話を続けた。


「ごめんなさい。でも、こんなところへ来る人は貧乏人か犯罪者ぐらいだから。入居希望なら村長に話を通す必要があるのよ。わたし、村長の家に暮らしてるから、案内できるわ」

「ここで暮らす気はないよ。ただ立ち寄っただけだ――そろそろこのあたりで、生まれると聞いてね」

「え、何が?」

「――いや、なんでもないよ」


 気にしないで、と彼は艶やかに微笑んだ。白皙の美貌というのはこういうもののことを言うんだ、とアイリスは思った。

 村長の息子の、ギースが朗読していた詩の一節が頭の中に浮かぶ。

 ゾッとするほどの美しさに身震いをしてから、アイリスは気を取り直した。


「なんでもいいけど、さっさとこの場を離れましょう。犬が警戒してる。このあたり、危ないみたい」

「危ないとわかっているのに、君はどうしてここへ来たの?」

「誰かが様子を見なくちゃいけないでしょう? 何かが起きてからじゃ遅いわ」

「危険な役割なら、君のような可愛らしい女の子でなくてもいいと思うけど?」


 男が近づいてきて、アイリスは思わず及び腰になった。

 そんなアイリスを見て、男はふと足を止めてにっこりと笑った。

 年はいくつぐらいだろう――十代にも、二十代にも見える。十四歳のアイリスよりは年上だろう。

 こんなにきれいな人は男でも女でも、見たことがない。

 一瞬思考が漂白されかけて、それが煩わしくて頭を振る。


「ええと……でも、私たちのような孤児は適任なのよ。死んだところで村の負担が一番少ない」

「もしかして、君は村で不遇な扱いを受けているの? ――可哀想に」


 何故だか、アイリスは男の美貌と美しい声色がだんだんと煩わしく感じられてきた。

 こんなにもきれいな顔と声色なのに。

 不思議だわ――と内心ひとりごちながら答えた。


 先ほど、リーラには言えなかった言葉を。


「可哀想ではないわ。十分に優しくしてもらえていると思う。孤児にこれほど食べさせて、飲ませて、採算が取れているのかしら」

「……採算?」

「そう、採算、最近知った言葉なんだけど、こういうふうに使うのはもしかして間違ってる?」

「さあ……聞きなれない言い回しだね。君は……魔物の多いあの荒れ地で羊を追っていたね? それを不服とは思わないのかい?」

「思わないわ。一番危険な仕事は私たちのような孤児にさせるべきよ」


 男はちょっと目を瞬かせた。長いまつ毛が夕日に照らされキラキラと輝く。

 それが一番きれいだった。


「君が……本気で言っているように聞こえた」

「本気で言っているわ。だって、それが一番正しいことだと思う。みんなそれを知っているはず」

「いや……知ってはいても、人間はみなそれを受け入れがたく思っている」

「みんな? それは一体どこの人たちの話?」


 少なくともアイリスの村では、リーラ以外にこの考え方に異を唱える人はいないだろう。

 村の人たちは当たり前の顔でアイリスたち孤児に危険な仕事を与えているのだから。


「人間全体の話だよ。――僕の名前はアラルドという。君の名前は?」


 いくらこの田舎の村に暮らしているアイリスでも、見知らぬ男と軽々しく親しくなってはいけないことはわかっている。

 けれど、もう少しこの不思議な男と話してみたかった。

 会話を終わらせたくない。それに……何か、この男からは無視することのできない奇妙なものを感じていた。

 迷ったけれど、アイリスは名乗ることにした。


「私はアイリス。ねえ、どうしてなの? 教えて。私、リーラの考え方がうまく理解できないの」

「君は面白い人間だね」


 アラルドはくすくすと笑うだけで答えない。

 アイリスがむっとすると、彼は笑いながら言った。


「君もじきに理解する。――死の恐怖を間近に感じればね」


 そう言って、彼は村への道を歩き出した。

 その時アイリスも気づいた。すっかりあたりは暗くなっていて――闇の中から不気味なうめき声が聞こえてきていて、アイリスも慌てて村への道のりを戻っていった。



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