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悪魔の悦び


 その洞窟の中は薄明るかった。

 アイリスは初め、外に立つ村人たちの持つ、松明の光が漏れ入っているのかと思ったが、どうやら違う。


 岩肌に外に通じるような亀裂はなく、しかし一定の青白い光をたたえていた。

 洞窟の内側が自ら発光しているように見えた。


「……歩きやすいわ」


 勿論洞窟なので、足元には石ころがころがり、ゴツゴツとしてはいる。

 とはいえ、普通の洞窟と比べると不自然なほど歩きやすかった。まるで歩くために整備されているかのように。


「静か、ね」


 ギースやその手下たちが追って来る様子はない。

 ……アイリスは、それを悲しく思うわけではない。

 ただ、何故追って来ないのだろうかと思った。なんとなく、アイリスはギースなら追ってくるのではないかと考えていた。

 アイリスがリーラのために洞窟に入ってきているように……ギースもまた、アイリスを助けたいと願っているのならば、そうするのではないか、と。


 しかしアイリスの予想を裏切り、アイリスが見知らぬ洞窟の中で慎重に歩を進めていく中、追っ手が追いついてくる気配はなかった。

 それどころか、外の音が少しも聞こえてこない。

 生き物の気配も感じられない。

 この洞窟はとてつもなく不気味なところだった。


 洞窟の幅は大の男が六人ほど並んでも歩けそうなほど。高さは男が二人分くらい。

 魔物が出てきたとして、アイリスが拳や足を思う存分ふるえる程度の広さはある。

 壁に触れると、妙に生暖かく感じられるが、頑丈そうで、アイリスが素手で対峙するのを躊躇するほどの巨大な魔物が出てくる心配はなさそうだった。


 道は平坦で、行く道はゆるやかに右に曲がっている。

 地下に続く道があるのかと思いきや、下る様子がない。

 外から見えていたのは洞窟の入り口だけだったのに、おかしなことだとアイリスは思った。


 けれど……ここは生贄を求める神のいる場所で、普通の場所であるわけがないのだから、気にするだけ無駄なのかもしれない。

 何もかが奇妙で、おかしいのが、正解なのだろう。


「――リーラ!」


 アイリスはしばらく歩いていて、この洞窟がどうやら一本道らしいと気づいた。

 だから声をあげた。リーラか魔物か、どちらが出てくるにせよ、やってくるのはアイリスの進む道の先からだ。

 もしも魔物が出てくるとしたら、その更に奥にいるであろうリーラが無事でいるとは思えない。

 

 リーラに助かる道があるとすれば、まだ魔物に遭遇はしていないが、ギースたちに咎められるのを怖れて洞窟の中に止まっている場合くらいだ。


「リーラ! 助けに来たのよ! アイリスよ! 入り口のほうへ戻ってきて!」


 再び、愚かな真似をしている、と――アイリスは声を張り上げながらも自らの行為を冷酷に分析せずにはいられなかった。

 魔物どころか、生き物の気配すらない、無機質な洞窟だ。

 しかし決して安全なわけではないことは、ひしひしと肌で感じられた。

 このような恐ろしげな場所へ追い立てられて、リーラがもしも無事でいるのなら、逃げてこないはずがない。

 いや、けれど、リーラを追い立てるためにギースたちがよほどリーラを恐がらせた可能性もある。

 

(……でも、リーラはこんなわけのわからない、不気味な場所にいるくらいなら、ギースたちに殴られた方がましって思うのではないかしら?)


 リーラとは長い付き合いだ。

 アイリスが最も長く一緒にいたのはギースだけれど、ギースよりもリーラを熱心に観察してきたつもりだ。 

 それでも、リーラについては未だにわからないことがたくさんある。


 ――でも、いくら変わった娘だとしても、何もかもが理解できないわけではないのだ。


 その時、ざり、と小石を踏む微かな音を感じてアイリスは跳ねるように走り出した。


「リーラ!?」


 己のした行動は、愚行としか言いようがない、とアイリスはやってから思った。

 魔物の出る洞窟だと聞かされていたというのに、道の先に何がいるのかを確認せずに飛び出した。

 思考が理屈を見つけるより先に、身体が勝手に動いてしまった。心に動かされてしまったのだ。


 きっとリーラやギースたちは、いつもこんな風に動いているのだろうなとアイリスは頭の隅でぼんやりと思った。

 時に、アイリスに言い知れぬ苛立ちすら感じさせる、非合理的な行動の数々の理由は、これだ。

 これほどの激しい感情に、常に支配され続けている人々は、毎日大変なのだろうと頭の片隅で考えながら――たどり着いた先で、アイリスは、自らの性急すぎる行動を評価せずにはいられなかった。


「ああっ、リーラ!」


 壁に寄りかかり、項垂れている。その姿は間違いなくリーラのものだった。

 凍り付いていた心臓に血が流れ出したかのように胸が熱くなり、目が潤んだ。

 こんな場所で視界をなくすわけにはいかないのに、どうしても感情を抑えられずに景色が歪む。


(私がしっかりしないといけないのに! リーラにはきっと任せられないんだから――)


 アイリスの存在に気づいたリーラがどんな行動を取るかわからない。

 リーラだって、絶対に死にたくないと思っているはずで、助かりたいと願っているはずだ。

 なのに、アイリスが取るべき選択肢を間違え、かけるべき言葉をかけず、誤った文言を選択すれば、ともするとリーラは泣き叫びながら洞窟の更に奥へ走って行ってしまっても不思議ではない。


 どうしてそうなるのか、アイリスにはさっぱり理解できないけれど、リーラがそういう行動を取る可能性があり得るということだけはわかる。長い付き合いだ。

 だから、顔をあげないリーラを前にして、アイリスは慎重に言葉を選んだ。


「……生贄は、必要なくなったのよ、リーラ」


 十分とはいえない時間の中で、アイリスがとった苦肉の策は、嘘だった。

 アイリスの口から出任せの言葉でしかない。

 何故嘘を吐いているのだろうかと、アイリス自身不思議に思う。

 けれど、リーラを安心させ、アイリスの思うとおりに動かすためには必要なのだと感覚で理解している。


 アイリスの目的は、リーラに現状を正しく理解させることではない。

 リーラを安全な場所まで逃がすことだ。


 勿論、この洞窟を出れば、アイリスの嘘はたちどころにバレるだろう。

 けれどそれでも、構わないのだ。構わない、というより……アイリスにできることはそれ以上ない、と言った方がいいのかもしれない。

 生贄が必要なのに、リーラをその役目から降ろすのだから――リーラが抜けた分の穴は、アイリスが塞ぐことになるだろう。

 その後のことは、アイリスの手にはあまることだ。


 これはアイリスの我が儘なのだ。

 もしリーラが死んでしまうのなら、せめて自分の後にしてもらいたいというだけの。


 ……できれば自分が死んでしまった後も、末永く長生きしてもらいたけれど。

 アイリスには、できることと、できないことがある。

 誰にだってそうだろう――そして、アイリスにできることは驚くほど少ない。


「ね? リーラ、行きましょう。ここは危ないわ」


 その腕を取って、アイリスは引いた。

 けれどリーラは足を踏ん張ってその場から動こうとしない。

 

 リーラは俯いている。だからその表情は窺えない。

 けれど、アイリスはリーラに嘘が露見しているとは思わなかった。

 リーラは希望があればまずは縋る。そういう人間だ。

 それが誤っていたとはっきりした後で、滂沱の罵詈雑言で偽の希望を見せた人間を責め立てるだろう。

 どのような仕組みなのかアイリスには把握しきれてはいないのだけれど、これまで幾度となく、リーラがそういうやり方で己の心を守ろうとしてきたのをアイリスは見ている。


 臆病なリーラにとって、魔物とギースたちにの叱責は同じくらいの脅威に感じられているのではないだろうか?

 アイリスには正直、認識が歪んでいるとしか思えない。

 けれど、リーラにとってはリーラの心が感じることが真実で、全だ。

 だからアイリスは、嘘を吐く。


「だからもう安心よ……戻りましょう、リーラ。早く戻らないと、おばさんが心配しているのよ」

「……ぁあ」

「泣いていたわよ。あのおばさんが。……私、すごく驚いてしまったわ。きっと失礼なことよね」


 なるべくいつも通りの口調を心がけていたのに、どういうわけか早口になってしまう。

 アイリスは嫌な焦燥感を覚えていた。

 荒れ地の犬の様子がおかしかった時と似た感覚だった。


 けれどあの時よりも、ずっとずっと嫌な感じがする。


「行きましょう、リーラ。ここは危なくて……お願い、動いてちょうだ――」


 歯が、見えた。だからアイリスは言葉を切って後ろに飛んだ。

 リーラが歯をむき出しにして、アイリスに噛みつこうとしているのだと気づくのに、もう二拍ほどかかった。


 気づく前からアイリスの身体だけは正解の動きをしていた。

 アイリスの心は、リーラがゆっくりとした動作でその顔を上げきる頃に、追いついた。


「その、目――ッ!?」


 アイリスの言葉は喉につかえて、それ以上は出てこなかった。

 どうして、そんなことになってしまったのだろう?

 アイリスは考えてみたが、全く想像ができなかった。そんな目に、リーラが遭遇してしまったのだ。

 

 リーラは、毒々しい、真っ赤な目をしていた。

 

 一体どれほど恐ろしい目に遭えばそうなるのだろう?

 どうしてそういう目に遭遇したのが自分ではなく、リーラだったのか。

 アイリスの胸に悲しみや絶望、やりきれない思いが渦巻いた。

 

 よくよく見ると、リーラの白目は血走っているというより、赤い奇妙な黴に蔓延られているように見えた。

 焦点の合わない目は一体どこを見ているのかわからない。


 けれど目の前にいるのが誰なのかくらいは、理解することができるらしい。


「あぃ――り、す……ぅっ――」


 名前を呼ばれたことでアイリスは更に衝撃を受け、呆然自失した。

 リーラが変わり果ててしまったのだとしたら、まだアイリスは理解も納得もできただろう。

 魔物によって、リーラはその姿のまま、全く別の存在に変えられてしまったのだ、と……そう言われた方がよほど楽だった。


 それなのに、そこにはリーラの記憶か、あるいは意思が、僅かに何かが残っていて――だから、アイリスをアイリスと見分けることができているのだ。

 アイリスは情報を得て、理解した。理解できたというのに混乱してしまった。

 本来なら、情報は多い方が状況を理解する上で役に立つものだろうに。


「ぁ、イ――リ、す?」

「リーラ……わ、私……どう、したらいいのか……」

「ぅううううううっ!」


 戸惑うアイリスに向かって、リーラが獣のような動きで近づいてきた。

 本来のリーラにならできない動きだ。

 アイリスは軽く横に移動することで、それを難なく避けた。

 それなのにアイリスの心臓は激しく脈打った。


 恐怖を感じていた。

 いつも、アイリスは己が何をすべきなのかを知っている。正解は大抵いつもそこにあり、それに沿って行動すればいいだけなのだ。

 迷ったことなどなかった。だから何かを恐いと思ったことなどなかった。

 けれど、今のアイリスはとてもとてもとても怖い。


 己が何をするべきなのかわからない。


 リーラは身にまとう身体の筋肉のどこかを傷めかねない動きを繰り返し、アイリスに迫った。

 彼女はアイリスに噛みつきたいようだった。そのために、己の身体を酷使する。痛みを感じていないようだった。

 そこにいるリーラは、アイリスの知るリーラではない。


「――ぃす、りす、あい! リス!!」

「やめて!! 私の名前を呼ばないで――あなたはもうリーラじゃないのに!!!」

「いいや。彼女はリーラ、君の唯一の友人だとも」


 誰! と叫びかけて、やめた。

 アイリスは、その声の主をよく知っていた。すぐに誰なのか、わかってしまった。

 リーラの様子に注意を払いながら、アイリスは入り口の方から近づいてきたその人物を視界に収めた。


「――アラルド、どうしてこんなところに?」

「約束しただろう? 君と一緒にここへ入り、君を死へと送ってあげるって」


 約束をしたけれど、守らない人は多い。

 だからアイリスは約束をする時、自分が守るつもりであっても、誰かが守ってくれると期待することは少ない。


 けれどアラルドの約束については珍しくも期待して、その期待は裏切られてしまったのだと思っていた。

 だからこそ、アイリスは自分でも意外なほど嬉しかった。

 緊張を強いられていた心のどこかが慰められた。


 アイリスにとって、リーラはとてつもなくわかりにくくて不可思議な生き物だけれど――アラルドは奇妙だけれど理解しやすい存在だった。

 アイリスは、彼なら約束を絶対に守ってくれるだろうと理解していた。

 その理解は、間違っていなかったのだ。


「そして君が死ぬ寸前まで見守っていてあげよう」

「そう……っ、ええ! お願いするわ」

「……やけに嬉しそうだね、アイリス? ちょうど死ぬのが嫌になっていたところだったのかな?」


 頬を紅潮させるアイリスを見て、アラルドは慈愛によく似た何かの滲む笑みを浮かべた。


「命が惜しくなったのかな? まだ賭けは有効だよ、アイリス……君は村の他の人々の全てを犠牲にしてでも、自分の生を望むかい?」

「望まないわ。そんなことより、リーラが静かね」

「そんなのはどうでもいいことだよ、アイリス」

「よくないわよ! ……私にとっては」


 アイリスは、自分以外の人々にとってのリーラの価値の低さをよく知っていた。

 だから自分にとってはと付け加えたけれど、とても不愉快な気持ちになる。

 事実を事実だと理解しているのに、その事実が認めがたかった。

 奇妙な感覚に、アイリスは溜め息を吐いた。リーラはいつもアイリスに、アイリスの知らないことを教えてくれる。


 アイリスにとって、リーラはかけがえのない存在だった。


「……リーラを助ける方法は何か、ないかしら?」

「へえぇ? 助けられると思うのかい?」

「わからないわ。わからないから聞いているのよ。あなたはたくさんのことに詳しいから」


 それに、何故か今、リーラは動きを止めている。

 先ほどまで、アイリスに襲い掛からんとばかりに、獣のように構えていたのに、今は壁際でじっとしている。

 できるだけ手出しをしたくなかったから好都合だけれど、理由が気になる。

 何故だか、アイリスの目には彼女が怯えているように見えた――アラルドに対して。


「そうだね……君の友人を助ける方法は、なくもない」

「本当に!?」

「ああ、そうだね……けれどその小娘を助けるのであれば、条件は君の命を助けるより厳しいものとなる。何故なら、僕はその小娘に対して興味を一切抱いていないからね」


 アラルドの言葉はアイリスにとって非常にわかりやすくはあったけれど、同時にとても不愉快だった。

 リーラを無価値だと言われたのだ。……けれどそうだろうとも思ってしまう。

 己の考えが不愉快さを増して、たまらなく嫌だけれど、それでもやはり村の人たちが使う奇妙な理屈よりよほどわかりやすくて――アイリスはそんな自分をこれほど情けなく思ったことはなかった。


「僕に失望したかい?」


 アラルドは何が面白いのか、肩を落とすアイリスを眺めながら微笑する。

 そんなアラルドを見て、アイリスは溜め息を吐いた。


「あなたに失望なんてしていないわ。あなたが口にするのは、とてもわかりやすい理屈だわ。そう思ってしまった自分に、そうね――失望しているのかも」

「へえ、君には理解できてしまうのか」

「あなたの要求は明白だもの。誰でも理解できるでしょうね……それで、リーラを助けるために何が必要なの?」

「そうだね……その小娘を助けることでアイリス、君を含む村の人間全てが死ぬ……と言われても、君は少しも驚かないだろうね」

「そうね。私の命ですら村の人間全てと引き換えにする必要があるとあなたは言うんだもの。私以上に興味のないリーラの命を救うには、もっと他の命すら必要なのではない?」

「命が必要って……僕が村人を殺すわけではないよ? 結果的に死ぬだろうというだけでね」


 アラルドは心外そうに言うと、しばらく迷うように首をひねっていた。

 壁際にたたずみ俯くリーラを見て、洞窟の奥をしばし眺め――やがて結論が出たようだった。


「アイリス、君は自分を含むこの村の人間全ての命と引き換えにしてでも、この小娘の命を助けたいと願うんだね?」

「そうよ」

「迷いがないね。……面白くない」


 アラルドは嫌そうに高い鼻に皺を寄せた。

 アラルドを面白がらせたくて言っているわけではないアイリスは困惑した。


「私だって迷ったわよ。でも、やっぱり私にとってはリーラの方が大切なのよ」


 ギースの決定を無視し、村長の言葉を振り払ってここまで来た。

 その時点で、アイリスにとって一番大事なものは決まっていたのだ。

 だからもはや、迷わない。

 ――リーラを救うことができるのであれば。


「決断してしまっているなんて、面白くないよ。僕は君が悩み、苦しんでいるのが見たかったのに」

「……残念そうに言われても困るわ。困るわよ」

「この小娘の何がいいのか、僕にはさっぱりわからないよ。育ての親や村の人間全てを見捨ててまで救う価値があるのかい? わからないんだ」


 今度は、リーラの価値が貶されているのに、不愉快には思わなかった。

 アラルドは本当に困惑しているようだった。お互いに困り果てていた。


「あなたにはわからないわ。きっと」

「僕が人間だとしてもわからないだろうね。絶対に」

「――人間だとしても?」


 アラルドの奇妙な言い回しをアイリスが復唱すると、アラルドは美しい顔を歪めて笑った。


「そう……この際だから、言ってしまおうか」

「言うって、何を?」

「君がそこまでして救いたいと願うあの小娘を、見捨てるところが見たいから」

「――――見捨てたりしないわ」

「いいや、きっと見捨てるだろう。僕の話を最後まで聞けばね」


 アラルドはまだ見ぬ未来を見据えるように目を細めながら、うっとりとした口調で言う。


「趣向が少し違ってしまったけれど、構わないさ――陛下には悪いことをしてしまうけれど」

「ヘーカ?」

「僕にとってはどうでもいいことだからね。僕にとっては僕の愉しみが一番大事だから」

「何を言っているの? ……アラルド?」

「実のところ、この洞窟の奥にいるのは神なんかじゃない。魔族なんだ」

「は?」

「――ついてくるといい」


 呆然としているアイリスを置いて、アラルドが行く。アイリスは動けなかった。

 その後をリーラが続くのを見て、初めてアイリスの足は動いた。


 もつれそうになる足を必死に動かして、アイリスは二人の後をついて行った。


後もう少しでおしまいです

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