赤の花嫁
アイリスは、納屋から出ることが許されなかった。
アラルドが村を出て一週間が経っても、「もしかしたら近くの森に潜んでいて、アイリスを攫うかもしれない」というギースの判断により、許されなかった。
アイリスは用があればエレナの監督のもとで、少しだけ自由が許された。
それでも、母屋の周りからは離れられなかった。
だからその日も、エレナに連れられて納屋から出られはしても、あまり外を出歩くことはできないと思っていたから……敷地の外へと連れ出され、黙りこくって俯いていたアイリスは顔をあげて首を傾げた。
「……エレナさん? どうしたの?」
「ずっと納屋にいては気持ちが暗くなってしまうし……久しぶりに水浴びにも行きたいじゃない? ギースには言ってあるから大丈夫よ」
「監視の人は?」
「……女の人に変えてもらってるわ」
「もうすっかり……ギースが村の人たちの長になったのね。きっと、これはこの村にとっていいことだわ」
長い事、このあたりのことを村長は気にし続けていた。
ギースが何を理由に権力を握りたがったにせよ、村の人たちを従える凄みを得られたのはよいことだろう。
……村にとっては。
アイリスは心からそう思ったが、そのことを何故か喜べなかった。
「私……もしかして、神経質になっているのかしら。死を前にしているから? 自分が、いつもと違う気がするの」
「そうね、そうだと思うわ……きっと私でさえ、その時には恐いと感じると思うわ」
「エレナさんが? そうは思わないわ」
「そうかしら? あなたにそう言われるのは、とても光栄だわ。……あなたには真実を見抜く目があるものね、アイリス」
エレナに瞳を覗き込まれて、アイリスは見つめ返した。
彼女の萌黄色の目の中にある瞳孔は、ちょっと縦長に伸びている。
これが、怒る時には縦長のまま、とても細くなって少し怖い……けれどアイリスは、例え彼女を怒らせても、聞いてみたいことがあった。
「エレナさんは、精霊が人間にとっていい存在だと思っているの?」
「ええ……あなたは? アイリス」
「ごめんなさい、私は……沼地にいた生き物を見た時、私、化け物だって思ったのよ」
アイリスの予想に反して、エレナは怒りはしなかった。
「村のみんな、沼地でそのお姿を見た人たちは、そう思っているみたいね……私の前では言わないけれど、みんなとても恐れてるわね」
「怒らないのね、エレナさん」
「偉大な存在だからこそ、私たちちっぽけな人間は、怯えてしまうの。それは仕方のないことよ。ただ、精霊様の前で化け物だなんて言ってはダメよ」
優しく諭され、アイリスは頷いた。
二人で並んでゆっくりと歩いた。二人が向かったのは、村はずれの小川だった。
周りに人がいないのを確認すると、アイリスはさっさと服を脱ぎ捨てて川に身を浸した。
「アイリスったら! ――ほら、こちらへいらっしゃい。洗うのを手伝ってあげるわ」
「エレナさんも入りましょう」
「ええ? 私は、泳げないから……」
「溺れたら助けてあげるわ」
「もう、仕方ないわね」
せっかくギースの監視が見張りをしていてくれるのだから、存分にハメを外してしまえばいい。
エレナが服を脱いで、近くの岩場に畳んで置くのを見届けると、アイリスはエレナに水をかけた。
「きゃ、アイリス!!」
「ふふ、水が冷たいから、慣らしてあげようと思ったのよ」
「まったく、ほら、髪の毛を梳ってあげるわ」
髪の毛を梳かしてもらいながら、アイリスは空を見上げた。
空は青い。けれど、鳥の一羽も飛んでいない――
「きれいな髪の毛……とても艶やかなあかがね色ね。それが白い背中に流れるようで……とても美しくて、羨ましいわ」
「エレナさんの髪の毛だってきれいよ」
「髪の毛はいいけど……その、背中がね」
エレナがくるりとアイリスに背を向けてみせると、そこには萌黄色の短い毛が背骨にそってお尻までびっしりと生えていた。
「あら?」
「私の母もそうだったの……遺伝みたいで、あなたのきれいで華奢な背中が羨ましいわ」
「表も裏も華奢だけど、いいの? あなたのふくよかさは女性としてそうあるべきだとみんな思っているみたいだわ」
「男たちはね」
エレナはちょっと冷ややかな目つきで言った。
浅瀬で身体を洗うのをエレナに手伝ってもらった後、アイリスは深いところに潜り、魚を追った。
二匹の魚を掴み取ると、アイリスは浮上して、岩の上に魚をあげた。
「今夜は魚の塩焼きにしましょう」
「ええ、エレナさん。それじゃ、私たち二人で食べてしまいましょう」
「うふふ! それはいいわね」
川を上がり、魚を持って家に向かう。
途中、遠目にギースが村の男たちと一緒に何かを話している姿があった。
それを見て、エレナは「魔物討伐作戦は順調だそうよ」と言った。
「出てくるのは動物の化生ばかりみたい。ダヴィさんが腕を怪我したけれど、それ以外の人はみんな怪我もせずに毎日洞窟の中を浄化してくれているわ」
「……アラルドは、倒す為に魔法が必要な魔物が出てくると言っていたわ」
「あの方が、そんなことを?」
「……はっきりと言ったわけではないけれど、そう言わんばかりだった。だから、私に魔法を教えてくれたの」
「黒衣の神官様は……普通の神官様とはちょっと違う方々だから……」
「そうなの?」
エレナは頷いて、家の中へ入っていく。アイリスはその後に続いた。
お茶を淹れようとするエレナの手から薬缶を取り上げて、アイリスがお茶を淹れた。
先に椅子に座ったエレナは、黒衣の神官について語り出した。
「色々な教派があって、シーザリア王国では、国教の精霊神教以外の教義以外は、本来はないことになっているの。けれど、この世界にたくさんの精霊様がいるのはみんなが知っていることよ……一つの教えですべての精霊様のお考えを表せるわけがないわ……」
精霊がどんな存在なのかはアイリスにはよくわからないけれど、人間よりも高度な思考回路を持っているとしたら、人間よりも複雑で、多様かもしれないと思った。
「……だから、正教である精霊神教の目に留まらないように……影で、黒い神官服を身にまとい、注目されない他の精霊様のお言葉を代弁する方々がいるの……それが黒衣の神官様……影に隠れないといけない方々だから……変わっていることが多いのよね」
「アラルド、エレナさんの目から見て、変わっていたの?」
「そうね。人を食ったような方だわ。私たちの矮小な心を弄ぶようなことをする方ね。……私たちは愚かすぎて、あの方に見捨てられたのかもしれないわね」
アイリスの表情が暗く陰るのを見て、エレナはハッとした顔をして、お茶を一口飲むと立ち上がった。
「アイリス、あなたに見せたいものがあるのよ」
「見せたいもの……?」
「そう! ……そのために禊をしてもらったんだから」
エレナの部屋に招かれて、アイリスはベッドの上に広げられたその衣装を見て目を丸くした。
「これは何? とてもきれい……」
「花嫁衣裳よ。美しいでしょう? 私も母にもらったの……私の持ち物の中で一番の自慢だったわ。使うことはなかったけれど」
エレナは村長の後妻に入る時、結婚式を挙げていない。
彼女はうっとりとした顔つきで、衣装の横のベッドの淵に腰かけた。
白い、真っ白な布で作られたゆったりとした、チュニックのようなワンピースだった。
その布には、白いけれど、少し銀色に光ってもいるきれいな糸で花の刺繍がされていた……妖精の花のようだった。
その袖口や襟ぐりには精緻なレースの飾がついていた。
「エレナさん……この、淵についているきれいな玉は何?」
「真珠ね。お母さんは森真珠と言っていたわ」
「しんじゅ?」
「貝から採れるんですって。お母さんのそのまたお母さんが暮らしていた森の中で採れる貝から、一番大きな粒をもらって作ったんですって――ねえアイリス、着てみない?」
「え!? でも、これはエレナさんの……」
「いいのよ! もう私が着ることはないもの。ほら……さっさと服を脱ぎなさい!」
「あ、もう……」
エレナに掴まれて、アイリスは仕方なく服を脱いだ。
裸になったアイリスに、エレナはにこにこしながら衣裳を当てて、そして頭から被せた。
「……エレナさん、私の身体には大きいみたい」
「まあ、そうみたいね……袖も余っているし、丈も長いわね。もう少しこう……あげた方がいいわね。あなたは華奢なのが素敵だから、腰も詰めた方が……」
「エレナさん?」
「――私、本当はあなたに着せてあげたかったのよ、アイリス。でも、これをあなたが着たら、ギースの正妻さんよりいい花嫁衣裳になってしまうから……着せてあげられないと思っていたわ。でも、私はどうしてもあなたに着てもらいたかった」
「どうして?」
「……どうしてかしら? よくわからないけど、アイリス、あなたが眩しくて」
エレナはアイリスの腰のあたりの布をつまんだり、袖を引き上げたりしながら、微笑みを浮かべた。
「精霊様の廟に入る時には、これを着て行きなさい」
「そんな、きっと汚れてしまうわ」
「いいのよ。あなたの晴れの舞台なのよ? 精霊様の身許へ行くこと……精霊様に嫁ぐようなものじゃない。一番きれいな姿で行きなさい」
そこにはエレナの精霊に対する信仰心があって――
けれど他の何かもアイリスは感じて、戸惑った。
「どうして?」
「あなたは精霊様のものになることを光栄なことだとは思っていないのでしょうけれど……少しでも幸せなことだと思って欲しいの」
「幸せな……」
「そう。これは幸せなことなのよ。きれいな衣裳を着て、当日はきれいにお化粧もしてあげるわ。背筋を伸ばして、精霊様のところまで歩いていくのよ。あなたは厄介払いされるんじゃないの……みんなに祝福されながら行くのよ」
信仰心は。
未だにアイリスの胸の中にわいてくることはなかったけれど、エレナの心の中にある、願いは感じた。
アイリスに幸せであってほしいという、願い、祈り。
その心の在り方が、もしかしたら信仰そのものなのかもしれない――
「……エレナさん」
「泣かないで、アイリス。あなたは身も心も美しく尊い。まだとても幼いけれど、きっと精霊様は喜んでくれる――」
そうであってほしいとエレナが願うから、アイリスもそう願った。
涙で衣裳を汚しそうで、アイリスはエレナに手伝われながら脱いで、裸になってまた泣いた。
「喜んで、もらえるかしら……村のみんなを守るよう精霊様にお願いするつもりだけど、聞いてくれるかしら?」
「きっと聞いてくれるわ。アイリスはとても美しいから」
そこには何の根拠もなく、証拠もなく、因果関係もないようだった。
けれどアイリスはそれを指摘しようとは思わなかった。それはただそうであってほしいという願いだから。
理由に関係なく、ただ願うエレナの存在が、アイリスの心を幸福にするのだと、アイリスは知った。
「ありがとう、エレナさん……エレナさんの幸せを、私も願うわ」
エレナとアイリスはしばらくのあいだ、抱き合っていた。
しばらくして、扉が叩かれ声がかけられる。ギースの監視が、アイリスに納屋へと戻るよう促した。
そろそろギースが戻ってくるのだろう。
アイリスは服を着替え、涙を拭いて部屋を出て、納屋に戻った。
納屋に積まれた藁を背に、暇つぶしに縄を綯っていると、ノックもなしに扉が開いた。
そこにはギースが立っていた。
「アイリス――ここは窮屈だろう? こんな生活は辛いだろう」
「?」
「目が赤い。泣いたんだろう?」
アイリスは自分の瞼に触れた……腫れぼったい。
泣いたのは事実だけれど、この納屋に閉じ込められていることを辛く思ったわけではなかった。
「ここから出してやってもいい……だが、条件がある」
「え、何?」
ここにいることが辛すぎるわけではないけれど、退屈で、無意味だと思わないわけではない。
出られるのであれば出てしまいたかった。
逃げるつもりもないのに、監視がつくのは疑われているようで落ち着かなかった。
「オレの妻になれ」
「……え?」
「結婚しよう。うんと言えば、おまえをここから出してやる」
アイリスは、あげかけていた腰を藁の上に下ろした。
そんなアイリスを見て、ギースが顔を歪めて叫んだ。
「アイリス!」
「……私はもう死ぬのよ?」
「死なせたりはしない! 結婚すると言えば!」
「ありがとうギース……でも私、もう婚約しているの」
「まさか――あの男か!?」
少し誤解をさせるような言い方をしたかもしれないとアイリスが思った瞬間に、ギースが思った通りに誤解したから、アイリスは面白くなってコロコロと笑った。
「違うわよ、精霊に嫁ぐのよ。荒ぶる神に身を捧げるの!」
「そんな……」
「ふふ……もうすぐ死んでしまう私にそんな風に言ってくれるなんて、あなたはとても詩的なことをするのね」
「死なせたりしないと、言ってるだろうが」
「あなたが何を言おうと、私の気持ちは変わらないわ。私は人身御供として自らの足で精霊の元へ向かう」
「――おまえが人身御供になる前に荒ぶる神を鎮めればいいんだろ」
「え?」
「待ってろ……アイリス、おまえが人身御供になる必要なんかないんだからな」
「ギース……? 待って、ギース?」
熱に浮かされたような顔をして、納屋からギースが出て行く。
アイリスが追いすがろうとすると、、納屋の前にいた見張りたちに止められてしまう。
「ギース! それってどういう意味なの――ギース!?」
胸騒ぎがして、アイリスは叫んだ。
すると、ギースが足を止めて、振り返った。
「――ギース!」
「アイリスを気絶させておけ。余計なことをしでかさないように」
「そ、んな。やっぱり、まさかリーラを――やめて、ギース!!」
「人身御供にふさわしいのは、この村で一番いらない存在だ!」
「ギ――――!」
手を伸ばしたけれど、届かなかった。
アイリスの腹に見張りの男の拳が叩き込まれ、アイリスの身体は折れ曲がる。
ぶちりと何かがちぎれるように、目の前のすべては闇に染まった。




