魔法使い
アラルドは村の外のことをよく知っていて、アイリスは彼の話を聞くのを面白く感じた。
仕事を免除され、日がな一日暇なこともあり、アイリスはよくアラルドといた。
この村で今暇をしているのは、アラルドぐらいなものだったこともある。
「それで、それで? あなたはどうしたの?」
今は、魔物の勢力に飲まれながらも山林に潜み、抵抗を続けているデルタ小国群という民族連合の話を聞いていた。
沼地の近くの、最近はアイリスやアラルドによってすっかり踏み固められている草地に寝そべり、アイリスは妖精の花を摘みながら聞いていた。
アラルドはそんなアイリスの髪の毛にからむつる草を払いながら、話の凄惨な内容とは裏腹な微笑みを浮かべている。
――それはアラルドが各地を旅していた時の話だった。
デルタ小国群というのは、シルダリア王国の東に暮らしている小さな民族が寄り集まってできた連合だという。
民族同士は元々はとても仲が悪かったけれど、北東端の半島に現れた魔王と魔王が操る魔物の脅威を前にして、一致団結したらしい。
彼らが山林の合間にひっそりと作っていた隠れ里を、魔物によって蹂躙された時の話を、アラルドは臨場感たっぷりに話してくれた。
「そうだね、赤目雪狼の群れに襲われた隠れ里の長の決断は早く、動ける者だけが自らの命だけを背負って逃げることが決定した。……自力で逃げる力を持たない者たちはよく教育されていて、みんなそれがさだめだと命を諦めていた。……そんな彼らに、僕は手を差し伸べてみたんだ」
「助けようとしたのね」
「ああ、そうだよ……僕と逃げれば、頑健な者たちの為の囮という役目を果たせなくなるんだけど。女はみんな僕の手を取った」
アラルドは少し得意そうに微笑んで言った。
アイリスは意味がよくわからず目を瞬かせた。
「自力で逃げる力を持たない人たちは、村の為に、囮になるべきだったということ?」
「そうだね。そういう役目を期待されていた……老人たちはその役目に殉じる道を選んだよ。どうせ老い先短い命だから、誇りを優先したというところだね」
「彼らだけで囮は十分だったの?」
「いいや。自力で逃げ出す力を持たない者を逃がす為に、僕は力ある者たちへと魔物の群れの注意を向ける必要があった。……自分たちが助かろうとすれば先に逃げた男たちは死ぬと、女たちはわかっていたのさ。僕は説明したからね。それなのに、僕の手を取ったんだよ。誇りより伴侶の命より、自分の命を優先したんだ」
アラルドは嘲笑を浮かべて言った。
緑色の目が爛々と光って、その当時の記憶を思い返す興奮に震えていた。
「その選択を目の当たりにした時には、腹の底から笑ったよ。その数刻前に感動的な夫婦の別れの場面を見ていたから、尚更おかしくて、おかしくて」
「女の人たちは助かったのね?」
「……ああもちろん、僕は約束を守るよ。男たちへ魔物の注意を向けたことで、女たちは生き延びた。……狩りをする男を失ったあの女たちが、次の冬を越せたかどうかは知らないけどね」
「そうなの」
アイリスがあっさりと頷くと、高揚した顔つきをしていたアラルドが、ふと顔を顰めてアイリスを見やった。
「……君がどう思ったのか聞かせてくれるかい? そんな反応が返ってくるような話ではないと思うんだけど」
「え? えっと……村のために犠牲になるべきだった人たちが、犠牲になりたくなくてあなたの手を取ったという話よね」
「そうだよ。村のために己の身を犠牲にしようという君からすると、僕がしたような振る舞いは不愉快ではないのかな?」
「……でも、最終的に選んだのは彼女たちなんでしょう? あなたは何か嘘を吐いたの?」
「いいや」
「だったら、それがすべてだと思うわ」
「僕は人間の弱い心を迷わせる言葉を吐いたのに?」
「心が弱いのは悪いことではないけれど……心の弱さもその人の一部で、あなたがなした悪ではないでしょう」
そう言った後で、アイリスはアラルドの言葉からある意味を読み取った。
「……人の決意を、弱みに付け込んで揺るがせることは……褒められた行為ではないのね?」
「まあ、普通はそう言われるね」
「褒められないとわかっているのに、あなたはやってしまうのね。退屈だから?」
「退屈だから。その通りだ」
「……それでも、助かりたくて必死だった人にとっては、あなたは希望の光そのものだったのではないかしら?」
この世にはやるべきことがあると思う。アイリスは、逃げるべきではなかったと思う。
けれど、誰もが逃げずにいられるわけではないことも、アイリスは知っていた。
「その人にとって希望だったのなら、その選択をした人を愛していた人は、その人を逃がしたあなたに感謝したかもしれない」
「どうだろう? 逃がされた女たちは、厳しい冬が来て、凍えながら、これほどみじめな死に方をするぐらいだったら、誇りに殉じたかったと恨んだと思うけどね」
「――あなたは、そうなるようにその人たちを誘導したのね」
「どうだろうね」
アラルドは、以前、それがどうした、と言った時と同じ笑顔を浮かべていた。
アイリスは目を瞑って、瞼の裏の暗闇にその情景を投影できるようにと願いながら思い描いてみた。
会ったこともない人たちの顔を想像することはできなくて、代わりに、身近な人間の顔が思い浮かんだ。
――彼女は、例え最期に何かを恨み、誰かを憎みながら死ぬとしても、できるだけ長く生きたいと願うことをやめないに違いない。
その姿が――とても、とても、愛おしいから。
「あなたは悪いことをしているのかもしれないけど、生きたいとあがく人に希望をあたえるあなたのような人に、私は感謝するわ」
「君の行く手を阻むことになるのに」
「それでもかまわない――いいえ、なんて言えばいいのかしら」
ちょっと、適切な言葉がすぐに見つからず、アイリスは言葉選びに逡巡した。
「その……つまり、やるべきことを、邪魔しようとする人がいれば、私は力づくででもやめさせようとするけれど……やるべきことのために、犠牲になりたくないと感じる人を悪いと思っているわけではなくて……要は、私とその人の戦いで、私は命を賭して、懸命に戦い、負けた時には……それで仕方ないと思っているの」
「君は運命論者なのかな? すべては精霊様のお導きのままに、とか言う人間だとは思わなかったな」
「そんなことは言わないわ」
あまり好きな言葉ではないから、強く否定したアイリスに、アラルドは緑の目を見開いた。
「そう? 随分と精霊に愛されているようだけど」
「よく言われるわ、でも、実感はあまりないのよ」
実感はないし、アイリスはそもそも精霊に興味がなかった。
怒れる精霊だとエレナが言っていた――荒ぶる神の実像を見たせいか、アイリスは精霊に対する好感さえほぼなくしていて、人身御供になることは必要なことだと十分に理解はしているが、光栄だとは思っていなかった。
「……君が命を賭した戦いの時に、君の勝率をあげるためにも、どうだろう、魔法の使い方を覚える気はある?」
「え、魔法って、精霊の御使いが使うあの?」
「精霊の御使いって、そんなこと誰が言ったの? 精霊に関係がなくても、適正があれば伝えるよ。世界の理を表す力のある言語を操ることさえできればね」
「適正、理をあらわす、力のある、言葉?」
「そうだよ……魔法を使う者を呼ぶ時にはそのまま、魔法使いと呼ぶべきだよ。くれぐれも僕を精霊の御使いだなんて呼ばないように」
アラルドは嫌そうに釘を刺した。
アイリスも、精霊と関係ないのであれば、何もかもを無意味に精霊と結びつける慣習に反発心を抱いていたから、彼の言葉に素直に頷いた。
「精霊は存在値が高い者を愛することが多い。存在値が高い者は魔法への適正も高い」
「存在値?」
「魔法を使うためには、世界の中心により近い魂を持っている必要がある。世界の中心は高いところにあって、存在値が高いということは、世界の中心へと続く階段のより上の方にいるということなんだ」
「それじゃ……精霊に好かれている人は魔法を使う才能もある、と言い換えることができるのね」
「ああ。言い換えることはできるけど、直接イコールではないからね」
精霊と紐づけられるのを本当に嫌がっているらしい。
アラルドは重ねて念を押すと「君にはぎりぎりまで生き延びてもらった方が面白そうだから」と言って、笑った。
「だから、君には生きる手段を一つ教えてあげよう」
「……必要になるかしら?」
「ああ、なると思うよ。あの洞窟には魔物がわくんだ」
「え!?」
「ええと――荒ぶる神の誕生を邪魔しようと、邪悪な魔王が魔物を送り込むんだよ。近々、それを退治しに行く必要があるだろうね。その過程で村人の何人かは死ぬだろう」
アイリスが慌てて立ち上がろうとすると、アラルドは「村長は知っているよ。それで、討伐隊の編成に頭を痛めてる」と言ってアイリスを止めた。
「どうして私に教えてくれなかったの?」
「これ以上、君に負担をかけるべきではないと思ったんだろう」
三日後に、定期集会が開かれる日がくる。
その時に村長は議題として提案するつもりなのかもしれない。
アイリスを話から締め出したのは、確かにアラルドの言う通り、アイリスは人身御供になるつもりでいるから、それ以外の役目については気にする必要がないと判断したからだろう。
――それでも、アイリスは言った。
「……私が退治に行ってもいいのかしら? 人身御供だからって、魔物を倒してはいけない決まりはある?」
「いいや、ないね。……そう言うと思ったんだ。君は最後には死ぬ事になるんだから、そういう貧乏くじは望めば免除されるだろうに」
「だってあなたのその言い方……魔法を使える人でないと倒せない魔物が出てくるということじゃないの?」
「不可能だとは言わないよ。頑張れば倒せるはずさ。犠牲は出るだろうけれど」
魔法というのは精霊の御使いから弟子へと教えられる一子相伝の技ではなかっただろうか。
彼がこれまで魔法を教えようと思わなかったことも、討伐に魔法が必要な魔物が出てくることを言わなかったことも、その理由はアイリスの考え方でも理解できた。
「あなたは、討伐隊に加わるつもりがないのね」
「ああ、依頼はされたけれど断ったよ。どうして僕がこの村のために戦わないといけないの?」
「そうよね……」
アイリスも、この村に生かされているからこそ命を懸けようと思っているが、他の村の為だと言われれば躊躇しただろう。
最終的には断るかもしれない。――この村で必要になった時にこそ、命を使いたいからだ。
たまたま村に足を運んでいた旅人であるアラルドに魔物との戦いを強制することはできない。
「私以外に、この村に魔法の才能がある人はいる?」
「さあ? いるかもしれないけれど、教える気にはなれないかな。僕はきっと君なら自ら退治に行くことを選ぶと思ったから、教えてあげようと思っただけだ」
要は、魔法を教えてくれようというのはアラルドの気まぐれな親切心だということだろう。
魔法を教えてもらえないと、被害が大きくなる可能性がある。
彼の気分を害して、気が変わってしまってはいけない。
「――それじゃ、私にだけでもいいから教えてくれるかしら?」
「もちろん……君に、僕のやり方を教えてあげよう」
「ありがとう、アラルド」
「……君がより苦しむことになるように誘導しているだけなんだけどね」
はっきりと言ったアラルドの言葉がおかしくて、アイリスは笑った。
笑うアイリスを見て――願った反応ではなかったらしいアラルドは、苦笑を浮かべていた。




