それは散りゆく花の様に、
愛していた方が居たの、と、少女は、まるで熱に浮かされた様に、ゆっくりと呟いた。
愛していた方が居たのよ。私の、つまらない価値観や、世界の不条理さ、傷ついた心の廃棄場所を教えてくれた、唯一の方が居たの。
彼女は、まるで熱に浮かされた様に、何処か恍惚とした表情で呟く。
僕と彼女は、縁側で、揃って月を眺めて居た。
右側が膨れた、歪な月が、ぼんやりと空へ浮かんでいた。
「……それは、どの様な方なのですか?」
何処か歪で、けれど、妙に愛しい程の穏やかな時間が、ゆっくりと僕と彼女の間をすり抜けていく。
ゆっくりと、桜の花弁が舞う。彼女の呑む、柔らかな酒の香りが、鼻孔へ突き刺さる。
「そうね……」
彼女は、薄く口元を緩めると、また月を仰いで、緩やかに首を降った。
「桜の様な方だったわ」
そう呟くと、彼女は立ち上がり、自室へと戻る。
「ねぇ、裏人」
足を止めた彼女は、まるで泣き出しそうな子供のように、ゆっくりと微笑んで
「若しも、貴方が光の名前で無かったのなら」
こんなにも、苦しい事は無かったのにね、と、呟き、彼女の姿は完全に、屋敷の闇に紛れて見えなくなる。
暗闇の中に、独り取り残された僕は、庭の池に反射した月の光を、呆けたように、ただ、見詰めている他無かった。
僕は彼女であり、彼女は僕ではない。即ち、数学的な記号で云うところの、「不等号」の様な存在である。
それは、形式的なもので表すならば、「彼女≠僕」であり、「僕=彼女」であると言える。
だが、これは、「彼女」が「彼女」であると、仮定された場合のみであり、現在の状況では、「彼女」は「彼女」では無いのである。
この世界は、創造された、ある種の夢のような世界だ。登場人物は、僕と彼女。そして、彼女の口から時々聞く、「桜の様な愛していた人」のみであり、それ以外の人々について、僕はまだ知らない。
僕はリヒト。光の名前。
彼女の名は何だっただろう。何か、花の名前だったような気がする。
けれど、花はもう散ってしまった。
彼女はもう、あの頃のように、美しく咲き誇る事はない。歪み、歪み、自ら花を散らしてしまった。
散ってしまった花はもう、元に戻ることはない。零れた水が、もう元へ戻る事が無いのと同じ様に。
僕も彼女も、互いに酷く歪み、そして、「何か」を失っている。彼女は「それ」を未だに探し続け、僕は「それ」を探す事を諦めた。
「花は枯れて仕舞いました」
「希望は潰えて仕舞いました」
「夢に沈んで仕舞いました」
「創造へ溺れて仕舞いました」
何処かで読んだことのあるフレーズが、幾つも口から零れ出る。
「私は愛して居りました」
「あの御方を、ただ一途に愛して居りました」
「けれど、運命は残酷に御座いました」
「私は気付いてしまったので御座います」
この庭には、僕の他には誰も居ない。
彼女が消えた屋敷の暗闇からも、物音は聞こえない。
「愛して居りましたあの美しい御方は」
「本当は」
「私の生み出した、想像の産物だったので御座います」
僕がそう呟くと、不意にぐらり、と世界が歪む。彼女の部屋からは、人がいる気配すら感じられない。
愛して居りました。愛して居りました。
「それ」が、誰を指しているのか解らないまま、口は勝手に、言葉を紡ぎ続ける。
愛して居た。あの、何処か夢を見て居る様な、儚げな目をした少女を、僕は確かに愛して居た。
嗚呼、あの子の名前は何だったのだろう。花の様な、可憐な名だった。
……いいや、彼女は此処には居ない筈だ。
醒めた思考が、事実をありのままに映し出す。
そうだ。彼女が居る筈は無いのだ。
この屋敷は、作中では空き家だったのだから。廃れていく空き家を不憫に思った少年が、その空き家を掃除し、花を植え、大切に大切に、守り続けてゆく作品だったのだから。
それならば、彼女は?
僕は、ゆっくりと屋敷を見渡す。
手入れは隅々まで行き届いて居る。屋敷の池には、少年が見つけた時の様な緑色の藻に覆われては居ない。
屋敷の柱は?
彼が見つけた時の様に、朽ち果てては居ない。
抜けた床は?
成人男性である僕が歩いても、抜ける事は無い。
錆びた水は?
彼女は先日、綺麗な水を井戸から汲み、米をといで居た。
そして、何よりも。
あの作品に出てくる筈の無い「僕」が、此処で生きて居り、「彼」は此処には居ない。
「愛して居たのは、彼女では無くて」
──彼女を愛して居たのが、僕だった。
……りぃーん……りぃーん……
何処か遠くで、鈴虫が、羽を震わせて、鳴いて居る音が聴こえた。
──花が散る理由を知っておりますか?
それは、酷く昔に、彼女に良く似た少女に言われた言葉だ。
──さあ……。気候の変化では?
私の答えが酷く詰まらなかったのか、少女は、愛らしく頬を膨らませて、
──いいえっ、そんな面白みの無い答えではありません
──ならば、何故?
──兄様が仰っていたのですが、
──花が散る理由は──……
ぽたり、と、水滴が落ちる音がして、はっと視界が急に開ける。
開けた視界には、いつもと変わらない、私の暮らす六畳一間の小さなアパートの、薄汚れた天井が映った。
机の上には、先程まで書いて居た小説の原稿用紙が辺りに散らばっており、ベランダには、干したままの洗濯物がぶら下がっていた。
目だけを動かして、現在の時刻を知ろうとする。
布団の脇に置かれた、小さなアナログの目覚まし時計は、午後三時四十五分を指していた。
「………っ………」
フローリングの床に寝ていた所為か、痛む身体を起き上がらせて、ゆっくりと辺りを見渡す。
紛れもない、普段通りの僕の部屋だった。
壁の、笑った顔に見える染み。出したままの布団。使ったまま、洗って居ない食器。
それらが指し示すこの空間は、どうしようもなく僕の部屋だった。
ぽたり、と、雨が落ちる音がする。
チカチカと光る、二つ折りの携帯電話を開くと、担当編集者からの不在着信が、数十件に上って入って居た。
メールの項目を呼びだすと、思った通り着信と同じく数十件に上る担当からのメールが入っており、そのどれもが、『何があったんですか?』という文面で埋め尽くされていた。
「一体何僕は何を送ったんだ……」
自分が送っていた筈の文面さえも憶えて居ない自分に苦笑し、送信履歴を開けると、担当へと送られていた、見覚えの無い文面を見つけ、思わず、携帯を床へ落とした。
『送信者:担当
件名:無題
本文:それは散りゆく花の様に、
花が散るのは、新たな希望を見つけたからではなく、目に見えぬ希望を、失ったからにすぎないのだ。
愛して居た。僕は彼女を愛して居た。
……否、僕は、「彼女を愛して居る」と云う希望を持った「僕自身」を愛して居た。……嗚呼、どうか許しておくれ。
僕の花は、散ってしまった。僕が、僕の花を、傷つけてしまった。嗚呼、嗚呼、』
僕は思わず、携帯を床へと叩きつける。耳障りな金属音が、何処か彼方から聞こえる様な気がした。
──花が散る理由を、知っておりますか?
少女が、此方へ問い掛ける。少女の姿は、やがて変化し、「彼女」の姿になって問い掛ける。
嗚呼、彼女が屋敷の闇に紛れた夜。
あの日は、酷い嵐で。
彼女の元へ、一人の男が尋ねてきて。
彼女は、彼を招き入れて。
その後から、僕は彼女を書くことが出来なくて。
彼女を奥の暗闇の中で──
彼女を──
──花が散る理由は、二つあるのです。
一つは、花が自らの生涯を終え、旅立つ時と。
二つ目は──……
「うわあああああああああああああああああああああああああ!」
二つ目は──……
僕は、思わず自分の両手を見詰める。
そして、眼球が、そこにある筈の無い赤黒い染みを捉え、小刻みに何度も首を左右に降る。
彼女が、廊下の闇へと消えた夜。
彼女は、自ら──
彼女には、愛していた唯一の人が居た。
それは、彼女の、血の繋がらない兄だった。
兄は病弱な子で、屋敷の跡取りとしては、もう、とうに見放されていた。
彼を世話するものは、使用人の中でも居らず、仕方無く、分家である彼女が、本家の彼のもとへと引き取られ、彼の世話係を命じられた。
彼女は、甲斐甲斐しく彼の世話を焼き、彼も、そんな彼女に依存していたのだろう、彼らは次第に互いに惹かれ合っていった。
あの物語は、本当ならば、彼が快癒し、彼女と結婚して、本家を出て、幸せに暮らす物語だったのだ。
──しかし、僕は、その物語の骨格をねじ曲げてしまった。
彼は病気で亡くなり、彼女は独り、屋敷の奥の部屋で孤独に死んだ。
僕が、彼女を殺した。
──花が散る理由を知っておりますか?
頭の中に、不意に少女の、高く澄んだ声が響く。
嗚呼、彼女はなんて名前だったのだろうか。酷く賢くて、酷く整った顔の子供だった。
──さあ……。気候の変化では?
対する僕は、何事にも興味の無さそうな、無愛想な冴えない男だった。
嗚呼、そうだ。これは、昔、私が家庭教師として雇われていた頃の話だ。
──いいえ、そんな面白味の無い答えではありません
──ならば、何故?
嗚呼、この先を聞いてしまいたいような、聞いたらもう元へは戻れないような、そんな不気味な高揚を感じる。
少女が笑う。何処か歪で、得意気な顔だった。
──花が散る理由は──…………
──その花を愛する誰かが、手折った為に御座います。
ざあ、と、突然雨が降りだす。直線に降る雨ではなく、叩き付けるような、殴り付けるような、横に流れる雨だった。
嗚呼、思い出した。彼女の名は、家名は「凛藤」、名は、「百合」。
百合の花言葉は、「純潔」。そして、リンドウの花言葉は──
「悲しんでいるときの、貴方が好き」
何処からか、楽しそうな彼女の声が聴こえて、僕は、訳の解らない言葉を、ただ叫び続ける。
それは、散りゆく花のように。
花を手折った者の罪のように。
いつまでも、いつまでも、消えない。
──火傷のような、恋であった。