魔界へ
膝から足の間にかけて感覚がないくらい痛い。どうにか這うように歩いてはいるが、いつもの半分以下の早さだろう。今さっき、私は、私を連れてきた黒い翼の男に犯された。されてるときは痛覚も怒りも悲しみもなく、まさか快楽もあるわけなく、ただ終わるのを待っていた。乙矢と一緒に、私の感情も殺されてしまったのだろうか。涙も出ない。
「さて、ここはどこかな」
ひとり言のように空を見上げる。あの男、私を飛んでずいぶん長く飛んでたけど―見回すと、周りは木、木、また木。森の中らしい。少なくても歩いて学校に帰れる場所ではないようだ。男はどこかへ行ってしまった、私は一人、カバンすらないから携帯電話も所持金もない。
どこに行くのか、そもそもどうして歩いているのか自分でも分からないが、私はとにかく足を動かしていた。いくらか歩いていくと、ふとかん高い音が聞こえた。なんだろうと興味本位で覗いてみると、ゲームで見る村人その1みたいな格好の男が、まきを割っていた。ひげが首まで伸びそうだが、人好きそうな男だった。彼は私に気付くなり、驚愕して、そのまま近くの小屋へ走り返ってしまった。いくらかすると、髪の長い、また人好きそうな女性がやって来た。奥さんだろう。彼女は私を見るなり小さく叫び、タオルでくるんでくれると、そのまま小屋へ案内してくれた。私はほぼ全裸のことに、そのときようやく気付いた。
「 」
「 」
人好きそうな夫婦は、私を匿ってくれて、笑いかけ、話しかけてくれたが、申し訳ない、何言ってるか全然分からない。英語でもないようだ、中学生レベルの英語も分からない私に分かるわけない。私はあいまいに笑い返していると、奥さんが自分の服を持ってきてくれた。少し大きいが助かる、私が着替え終わると、奥さんによく似た女の子がスープを持ってきてくれた。暖かい湯気と美味しそうな匂い、私はいただきます、と、手を合わせると、遠慮なく頂いた。美味しい。遠慮なくどんどん食べていくと、ふと、顔中が熱くなった。そして私は、吐き出すように大泣きした。
「 」
震えながら号泣する私に、夫婦2人が必死で何か言ってくれている。あいかわらず言葉は分からない、でも、今、私には、ただ、目の前で生きていて、しゃべってくれているだけでありがたかった。大泣きする私を、女の子がずっと抱きしめてくれていた。
食べて、泣いて泣いて、私は泥のように眠っていた。まばたきすると、私はずいぶん小さなベッドで、女の子に抱きしめられて眠っていた。恐らく女の子のベッドだろう、寝顔が少し、乙矢に似ている。ってことは私にも似てるのか―旦那さんに怒られそうだなーそう思いながら、私は再び、また眠った。浅かったが、今度は少しだけ暖かい眠りだった。
朝になった。
何度もおじぎして出かけようとしている私に、旦那さんは何か言っている。恐らく引きとめてくれているのだろうが、私は笑って、首を横に振り続けていた。これ以上迷惑をかけられない。ここがどこか分からないが、小屋があるということは少なくても近くに町があるだろう。そこまで行けば、学校まで戻れる手段があるはずだ。乙矢が両親の元で眠るのを見届けるまでは、死んでも死にきれない。
不安げな奥さんと、泣いてくれている女の子に手を振り、私は強引に別れた。早足で森を進んでいくと、いくらか歩いていくと、ふと、可愛らしい人形が落ちていることに気付いた。あの女の子のものだろうか。ここで戻るとまた引きとめられそうだが―そうだ、小屋の外にでも置いておこう、そう思って私は引き返した。
小屋が、なかった。
一瞬、道を間違ったかと思った。消えるように小屋がなくなるわけがない。
「0738。目標、家ごと焼き払いました」
この言葉も、もう、聞くことはないと思っていた、思いたかったのに。乙矢を殺した女と声が違うが、そう言う問題ではない。この言葉と白い羽を私は知っている。この言葉は私の目の前で簡単に命を奪う声だ。もちろん、私の命も。
「0740。目標発見。生きていました。処刑します」
再び槍が私へ向けられる。私の足は、情けないくらい動かない。誰か―誰かって誰―ずっと私は、乙矢しかいなかった。その乙矢も私が守ってきた。私を守ってくれる人なんて誰も―
だあああああああああああんん!!!
すさまじい爆音と供に、白い翼の女が幻のように消え、入れ違いに黒い羽が現れる。
「よう、お姫様」
「…ん、生きてる」
一対ではない、二対の黒い羽。血のように赤い髪を小さく後ろでまとめた細身の長身の男、若葉のような短い髪の下から殺気を覗かせる中肉中背の男、少なくても白い羽ではない、私の足と口が一緒に動いた。とりあえず、何を言っているかは分かる。
「あなたたちは私を殺す?」
そう聞くと、赤毛は馬鹿みたいに大笑いした。もう一人の方は、そもそも私に興味がなさそうだ、むしろものすごく眠そう。
「殺さねえよ。むしろ助けに来たんだ。行こうぜ、お姫様。名前は」
「早矢」
「いい名前だ…おい、兄貴、寝てんなよ!行くぞ!!」
兄貴―兄弟、全然似てないけど。とにかく私は赤毛の手を取った、兄の方は立ちながら眠りそうだったため、手を引っ張ったのは私だった。
空を飛ぶという感覚は、ただ現実離れしていた。さほど乗り物酔いが酷くなく、高所恐怖症でなくても、ただ、怖かった。私は赤毛に掴まっているしかなく、おまけに今にも眠りながら落ちてしまいそうな兄の方を必死で両腕で支えて何やら忙しかったため、その怖さはあまり考える暇はなかった。
そうしていると、大きな街についた。拓けた街道、両脇に商人が忙しく客を呼びかい、角では男たちが喧嘩し、別の角では若い女が話している。色んな髪の色がいるし、ときおり黒い羽の者もいる、おまけにこんな街道、学校の近くにない。
「…どこ、ここ」
「あ?魔界第十三番街だよ」
私は落ちたジャガイモに転んでしまいそうになった。
街の中央部には大きな噴水があり、特に人通りが多い。赤毛が私に林檎を投げ渡してきてくれた、どうやって食べるんだろう、私の向かいで赤毛がワイルドに噛みついた。なるほど、真似して思い切り噛んでみる。歯ぐきが痛いが、美味しい。そういえば、と、横を見ると、兄は噴水にもたれかかって寝息をたてていた。
「妹の方は」
「殺された」
「そっか」
まるで今日の天気を聞くように聞き、それを聞いたように返事を受け入れる。この淡泊な流れが、逆にありがたい。
「どこまで聞いてる」
「何も。いきなり白い羽の女が襲ってきて―妹が死んで―私は黒い羽の男に連れてこられて―あなたたちが来てくれた」
「へえ。どんな男だった」
「それは」
あれ、上手く思い出せない。思い出そうとすると、全身をおもちゃにされた感覚がよみがえる。足先が震える、ふと、私の頭をかなり強引に撫でてきた手があった。兄の方だ。起きたのか。私が力なく笑うと、彼はそこで力尽きたように、また眠った。
「ごめん、思い出せない」
「まあ、いいか誰でも…世界を渡る力がある奴なんて限られてるし…まさか…いや、いいか。とにかく。俺は長話苦手だから、簡単に言うわ。俺は一己。そっちは南鳥。俺たちは、お前たちが言うところの悪魔だ。これで意味が分かるか」
「分かる…けど」
空を飛べる、羽がある、黒い羽、なるほど悪魔だ。あっさり納得できるあたり、私の脳は、実はものすごく混乱しているかもしれない。
「どうして悪魔が私を助けてくれるの。私たちの世界では、悪魔は人間を滅ぼしたりしたがる話が多いけど」
「まあ、野望は誰にでもあるんじゃねえの。俺の知り合いにはいねえけど。あと、お前、人間じゃねえから」
「…え、じゃあ、私、何なの」
「魔王の剣。魔王の剣は代々魔力が強すぎっから、植物の中に隠したりするんだが、何か色々あってなぜか人間の子供になって産まれたんだ。それがお前と、死んだお前の妹だ」
「ご、ごめん、どっからつっこんでいいか分からないんだけど」
「俺も何言ってんだか自分で分かんねえわ。とにかく会った方が早いな、魔王に」
何だかものすごく真っ赤な空の中、真っ黒いカラスが飛び交う、更に真っ黒い城の中、見上げるような鬼のような大男が高笑いしながら待っているかと思ったか。
「…っ、おお!待ちわびていたぞ、私の剣!!」
私を迎えてくれたのは、木造平屋の中で、ひげもじゃもじゃで私とあまり背丈が変わらない、小さいおっさんだった。泣きながら私をぎゅうぎゅう抱きしめる。痛い。
「王様」
(起きていた)南鳥が猫の子のように私をつまみ上げ、王から引き離す。王と呼ばれるわりにはかなり扱いがぞんざい―というか、距離が近く見える。
「確かにこれは間違いなく剣ですが、人間の女として産まれ育ちました。あまりそのようなお戯れは」
「おお、すまん…すまんのお、嬉しくての…よくぞ無事で…妹の方は残念じゃった…すまんかったのお…辛かったのお…」
「…い、いえ…こちらこそ…危ないところを私だけでも…」
言いながら、私は両目からは知らず涙を流していた。父が生きていたらこんな感じだろうか、などと思うくらい、心が暖かく、涙が止まらなかった。
それから魔王様は私に事情を説明してくれるつもりだったようだが、泣きながら私の身を案じてくれ、くれすぎるあまり、話が全く進まず、兵らしき人が迎えに来て、時間切れになってしまった。
「分かった?」
「全然」
「だろうな。まあ、兄貴が起きてるときにでも聞けや。魔王よりは説明上手いだろ」
一己に言われて南鳥を探すと、彼はまた眠っていた。倒れるように眠ってしまっているらしく、痛そうな寝相で。
「彼は、徹夜明けか何か?」
「気にするな、そのうち慣れる。そだ、今日、どこ泊まるんだ。俺の腕枕なら開いてるぜ」
「あはは、ありがとう…でも、大丈夫。魔王様が泣きながら言ってくれてたの。部屋が開いてるって」
「お帰りなさいませ、早矢様」
「お帰りなさいませ」
開いてるって聞いて、あの木造平屋の部屋のどこかだと思った私が悪かったんだろうか。案内されたところは、まさしく真っ黒な城、恐らくここが魔王様の本当の家だろう。広すぎて、使いの人が多すぎて、一歩一歩歩く度に貧乏アレルギーが発症して全身かきむしりそうだ。
豪華な夕飯も、広すぎるお風呂も、ただ、申し訳ない。服を脱ぐと、ふと、いい匂いがした。あの奥さんの香水だろうか。あんないい人たちが私を泊めたせいで―
私の涙も声が出ないくらいの叫びも、全部、広すぎるお風呂のお湯が溶かした。もう泣くのは止めよう、明日は一己がまた会いに来てくれるらしい。そのときに、今後のことを決めよう。
生きなくては。乙矢に、叱られてしまう。
予想はしていたが、ベッドはふっかふっかの巨大なものだった。ラブホテルみたい―下世話なことに一人で笑いながら、私は横になる。今日も色んなことがありすぎた―考えながら、いつの間にか熟睡していた。
いくらか眠った後、私は口の中に違和感が生じて目が覚めた。私はこの忌々しい唇を、私の体を好き勝手這うこの手を知っている。叩きつけるように振り払うと、闇の中で、私に跨った影が笑った。
「今日は抵抗するのか」
ぞ、と、頭のてっぺんからつま先に向かって恐怖が走った。うまく言えないが、なんだろう、この男は怖い。そうだと今更思い出す。一己をはじめ今日会った悪魔たちは誰も怖くなかったのに、この男はものすごく怖い。自分をおもちゃにしたというだけではない。この男の存在自体が怖いのだ。
また好きなようにされる―もしくは殺される。私はカーテンを開けランプをつけると、その火を落としてしまいそうになった。お城よりも深く黒い短い髪―私はどうして忘れていたんだろう。こんな綺麗で恐ろしい顔。
「お姫!」
「…っ、ちいちゃん!!」
一己だ、私はとっさにやって来てくれた彼に軽く抱きつくと、彼はそのまま流れるように窓を突き破り、夜空へ飛び去った。いくらか夜風を浴びていると、震えがようやく止まった。
「あー、絶対間に合わないと思った…あいつ帰ってくるの早すぎだろ、ってかちいちゃんって何だよ」
「ご、ごめん。いちいって呼びづらくて」
「まあ、何でもいいけど…おい、兄貴!起きてるか!?」
「どうにかな」
気配が変わる。初めて会ったときと同じような殺気を帯びた南鳥がかばうように目の前を飛んでくれている、と、魔王城が激しく揺れた気がした。
「貴様ら、その女を渡せ…それは俺の肉だ!!!」
城が一瞬にして炎上したことよりも、私は、肉発言に度肝を抜かれていた。やっぱり私の脳は混乱しているかもしれない。自分が思っているよりずっと。