第5話 宴
長州藩上屋敷は、江戸城を間近に臨む外桜田門外に位置し、東西五十五間、南北百三十三間(約二万二千五百平方メートル)もの敷地を有する広大な武家屋敷である。
表には重厚な櫓門を配し、四方をぐるりと白い外壁が囲っている。この壁、一見するとただの白い壁なのだが、実は江戸詰の藩士たちが住む長屋の壁がそのまま外壁になっている。
草月はその長屋の一つを与えられ、そこで寝起きすることになった。
半年前、突如江戸に来た時とは違い、多少の常識は身についているとはいえ、やはりたつみ屋にいた頃とは勝手が違って、戸惑うことも少なくない。その日も、藩邸に来て二日も経つというのに、桂に呼ばれた帰り、広い邸内ですっかり迷ってしまい、途方に暮れていた。行きは伊藤が案内してくれたが、帰りまで手を煩わせるのはどうかと思い、一人で帰れますと強がりを言ったのが裏目に出た。
どこを向いても同じような造りで、もはやどっちから来たのかさえ分からなくなる始末。誰かに聞こうにも、こんな時に限って誰も通らない。
頭を抱えたくなった時、ようやく一人の武士が通りかかった。まるで、戦国時代の絵巻物から抜け出てきたような厳つい顔つきに、がっしりとした大きな体。反射的に逃げ出そうとした草月の挙動を不審に思ったのか、武士は大股にずんずんと近づいてくる。
「こんなところで何をしちょる。この先は重役たちが政務を執り行う表じゃぞ。見ない顔じゃが、最近江戸に来た者か?」
「は、はい。一昨日の夜からお世話になっております、草月と申します」
「儂は来島又兵衛じゃ。慣れておらんのなら仕方ないが、無闇にこの辺をうろつくな。よいな」
凄まじい威圧感に気圧されて、はい、と答えるのが精一杯だ。
来島は尚もじろじろと無遠慮に草月を見て、
「しかし、何じゃ、その細っこい成りは。そんなんでは、これからの時代、やっていけんぞ。もっとしっかり食って、力をつけろ、いいな!」
「は、はいっ」
「声が小さい! もっと腹に力を込めて言え!」
「はいっ!」
思い切り元気よく答えると、ようやく来島は満足したのか、その調子で励めと頷き、悠然と立ち去った。
(こ、怖かったー)
ほっと胸を撫で下ろした草月の耳に、くっくっ、と押し殺した笑い声が届いた。
「……あ」
くるりと振り向いた廊下の角で、高杉が腹を押さえて体を震わせている。
「いたんですか? いつから……」
言いかけて、気付く。
「もしかして、最初から見てたんですか? もう、なら、さっさと助けてくれたら良かったのに」
「いや、ちょうど出ていく機会がなくてな」
絶対わざとに違いない。
じろりと睨みつけたが、当の本人はどこ吹く風。
それより、と笑いの残る顔を向けて、
「来島のじい様は、おのしを男と勘違いしたようじゃな」
「……やっぱりそう思いますか? まあ、この格好じゃ無理もないかもしれませんけど」
言いつつ、自分の姿を見下ろす。
今の草月は、結髪を解いて耳の後ろで簡単に一つ結びにし、男物の着物に袴という出で立ちである。着替えがないため、とりあえず高杉の着物を借りたのだ。
「どうしましょう。さっきはいきなりで驚いてしまって、そこまで頭が回らなくて」
「ええんじゃないか。また会った時にでもそれとなく訂正しちょけば。――ああ、そうじゃ。肝心なことを忘れるとこじゃった。このためにおのしを探しちょったんじゃ」
「何ですか?」
「周布さんから伝言じゃ。今日の夜、宴会を開くからおいで、じゃと」
「えっ! 本当にやってくれるんですか」
草月は驚いて目を見開いた。
話は昨日、桂に連れられ、上役である周布政之助という人物に挨拶に行った時にまで遡る。
周布は、まだ四十歳手前という若さながら長州きってのやり手の政治家で、旧習にとらわれない斬新な発想で次々と藩政改革を断行してきた傑物らしかった。しかし、当人はいたって気さくな人柄で、開口一番、「やあ、君が仮面組の紅一点か」と言って草月を驚かせた。まるで重臣らしからぬ様子に最初は戸惑ったものの、徐々に打ち解け、請われるままにたつみ屋騒動の顛末を語った。話が女将救出作戦のくだりに及ぶと周布は手を打って喜び、
「それで、高杉と二人、東禅寺に乗り込んだのか? そりゃあいい!」
「周布さん、笑いごとではありません。たまたま上手くいったからいいものの、一歩間違えれば国際問題ですよ」
渋面の桂にたしなめられていた。
「いいじゃないか。藩邸に一人で乗り込んできたことといい、俺はこの子の度胸の良さが気に入ったよ。そうだ、今度、君の紹介も兼ねて宴を開こう。身元は……、そうだな、桂の知り合いの娘ってことにでもして。とりあえず、君の本当の素性は桂と俺以外には伏せておくように。いいかな?」
そういうやり取りがあったのだ。
「堅苦しく考えんでも、ただの顔見せみたいなもんじゃ。気楽に楽しめばええ。村塾の仲間にも紹介してやるけえ」
「はい」
刻限になったら長屋に迎えに行く、と言い置いて、立ち去りかけた高杉を、草月は慌てて呼び止めた。
「すみません! 長屋はどっちですか? ……というか、ここどこですか?」
振り返った高杉は、心底呆れた表情をしていた。
*
道を教えてもらい、ようやく長屋に帰り着いた草月を待っていたのは、一抱えほどの風呂敷包みを持った伊藤だった。たつみ屋から、草月の荷物を取ってきてくれたのだ。
「すみません、伊藤さん。わざわざ取りに行ってもらった上にお待たせして」
「いいって、いいって。それより、荷物、たったのこれだけ? おなごの荷物って、もっと色々あるのかと思ったけど」
「人によるんじゃないですか? 私の場合、替えの着物が何枚かと、後は櫛とか手鏡とか、身の回りのものが少しだけですから。でも良かった。これでおなごの姿に戻れます。この格好も動きやすくていいですけど、さっき、来島さんて人に男と間違われちゃって……」
「え、来島って、あのじい様?」
伊藤はぶっ、と吹き出し、
「そりゃ災難だったなあ! 怖いだろ、あの人。昔の戦国武将みたいでさ」
「あ、やっぱり伊藤さんもそう思います? 鎧兜とか絶対似合いますよね!」
二人で失礼なことを言って盛り上がった。
「そうだ、今日の夜、周布さんが宴を開いてくれるそうなんですけど、聞きました? 伊藤さんも来ますよね」
「ああ、行くよ、行く! ただ酒飲めるからね」
にっ、と笑うと、伊藤はそれじゃあ夜に、と言い置いて仕事に戻って行った。
*
宴が開かれるのは、藩邸内にある有備館という二階建ての建物で、桂が館長を務める藩士達の学び舎だ。
集まったのは草月を初め、高杉、久坂、伊藤、桂、周布など十人ほどで、草月と同年代くらいの若者がほとんどだ。
目の前には、美味しそうな料理が並んだ膳。豆腐の味噌汁に焼き魚、芋の煮つけに香の物。まだほかほかと湯気の立っているところが何とも嬉しい。
上座に座った周布が、簡単に草月を紹介して、
「さあ、堅苦しい挨拶はここまでだ。今日は好きなだけ食べて飲んで暴れてくれ!」
「最後のは余計です!」
すかさず桂が突っ込んだ。
どっと沸いたところで、早速、隣の若者が声をかけてきた。
有吉熊次郎と名乗った男は、肉付きの良い大きな体を窮屈そうに縮めて、内緒話でもするように顔を近づけてくる。
「なあなあ、あんたさ、ホントは高杉さんが遊郭から攫ってきた子なんじゃろう?」
「ええ!?」
ちょうど飲み込んだばかりのお茶が変なところに入って、げほげほとせき込んだ。
「な、何ですか、ソレ……。どこをどうしたらそんな話になるんですか」
ようやく落ち着いて問い質すと、有吉はぐるんと目を回し、
「俺たちの間では有名だぜ? あの高杉さんが夜中におなごを担いで帰って来たんじゃけ。さすがは高杉さんじゃと噂しちょったんじゃ」
そうそう、と向かいに座った男二人も同調し、
「二人の仲を引き裂こうとする奴らから逃げ出し、手に手を取っての逃避行!」
「捕まれば辛い仕置きが待つのを覚悟で、惚れた男について行く、いじらしいその姿! いやあ、泣けるなあ」
完全に面白がっている。
「ご期待に添えずに申し訳ないですけど、ここへ来た経緯が多少劇的なだけで、周布さんに紹介していただいた通り、私はただの居候ですよ。……それより、皆さんは高杉さんたちと同じ、村塾のご出身なんですか?」
「俺はな」
と言ったのは有吉で、
「俺たちは桂さんや高杉と同じ、萩の出だ」
とは向かいの二人の言葉。
四角い顔のほうが大和国之助、細面のほうが長嶺内蔵太と名乗った。歳が二十六と二十五で、一つしか違わないことから、お互いに「クニ」「クラ」と呼び合うほど仲がいいらしい。
「それじゃあ、お近付きのしるしに、一献どうぞ」
挨拶がてらに、一人ひとり酒を注いで回る。
「いやあ、若いおなごの酌はいいもんじゃな」
「白井さん、その言い方は年寄りくさいですよ」
白井と呼ばれた武士は白井小助といい、名前とは正反対の色黒で大柄な男性で、歳は三十代半ば頃。身分は低いが学識は高く、吉田松陰とも親交が深かったらしい。
がははははと豪快に笑う白井とは対照的に、一人静かに飲んでいるのは楢崎弥八郎だ。
「僕と楢崎は江戸で同じ私塾に通った仲じゃあ! のう、楢崎?」
「お前は退屈だと言ってさっさと辞めたじゃないか」
「そうじゃったかな」
たった数杯の酒で酔っぱらった高杉が絡んでも、慣れているのかさらりと躱す。
すい、と視線を草月に向けて、
「こいつのお守りは大変だろうが、根は素直な奴だ。まあ見捨てずに付き合ってやってくれ」
「は、はあ」
噂を信じているのかいないのか、今一つ判断に困る言い様だ。酔っていないように見えて、実は酔っているのかもしれない。
曖昧に笑って頷いたところへ、
「すまん、すまん、遅くなった!」
聞き覚えのあるだみ声と共に、どかどかと男が入って来る。
「思いのほか、仕事に手間取ってな。……んん?」
「あ」
草月が腰を浮かせたのと、男がこちらを見たのは同時だった。
男の目が、くわっ、と見開かれる。
「き、貴様は!」
「あ、あの、来島さん、今朝はどうも――」
「貴様、その成り……、さては貴様、女形だったのか!」
「は?」
(お山?)
呆気にとられる面々の中で、高杉だけが分かったのか、ぶっと吹き出した。
「何だ、どうしたっていうんだ」
来島と草月、高杉の顔を交互に見て周布が不思議そうに問うと、
「どうしたもこうもないわ!」
来島は顔を真っ赤にして肩を震わせ、
「こ、こやつは男だぞ! 男が女装するなど、けしからん!」
「おいおい、何言ってるんだ、じい様? 酒を飲む前から酔ってるのか? この子はれっきとしたおなごだよ」
「お、おなご!? しかし、今朝は……」
「ごめんなさい! 私、あの時は着替えが無くて、高杉さんの着物を貸してもらってたんです。最初にちゃんと言えばよかったんですけど……。本当にすみません!」
「な、なんじゃ、そうじゃったのか」
ひとまず静まったかに見えた来島だったが、次の瞬間、再び爆発した。
「――ということは、高杉、貴様が遊郭から攫ってきたというのは、この娘か!」
草月は思わず膳に突っ伏しそうになった。
(どこまで広まってるんだ、このデマは!)
仁王のように怒り狂う来島を何とか宥めて、桂が改めて説明することでどうにかその場は収まった。
「あの、来島さん、どうぞ」
「う、うむ……」
気分直しに、と酒を勧めると、来島はまだ先ほどの盛大な勘違いが照れ臭いのか、面映ゆげに杯を取った。ごつい外見に似合わぬ小さな子供のようなその仕草に、自然と笑みが零れる。
「な、なにを笑っておる。はよう注がんか」
「はあい」
いつしか座はすっかり無礼講で、高杉が三味線を弾き、白井が唄い、伊藤と有吉が踊る、まさに、『飲んで、食べて、暴れて』の大宴会になっている。
「すまないな、騒がしくて。ここじゃ、宴会となるといつもこうなんだ」
久坂がそっと草月の隣に座って言った。
「いいえ、賑やかなのは私も楽しいです。久坂さんこそ、飲んでますか? お注ぎしますよ」
「ありがとう。大丈夫だ。……それより、草月。こういう席の周布さんには気を付けろ」
「周布さん? どうしてですか?」
「あの人は仕事もできるし、部下にも理解がある良い上司だが、一つだけ欠点がある。……酒乱なんだ」
「え?」
冗談かと思ったが、久坂はいたって真面目な様子。
「酒が入ると、いつも何かしら問題を起こして、その度に桂さんが苦労するんだ」
「はあ」
つられて桂を見る。確かに、いかにも苦労性な感じの人だ。
(きっと、その問題児の中には高杉さん達も入ってるんだろうなあ)
失礼ながら、笑ってしまいそうになって、慌てて口元を手で隠した。
「おい、何をにやついちょる。おのしも踊れ、踊れ」
「ええっ!? ちょっと、高杉さん、そんな急に……。わっ!」
たつみ屋を恋しがる暇もあらばこそ。賑やかな宴は深更まで続いたのだった。