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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第4話 別れ

 慌ただしく過ぎた昨日から一夜明けて。朝餉を済ませた草月の元へ、伊藤がやって来た。

「草月、お前に客が来てるぞ」

「お客さん? もしかして、栄吉さんですか?」

 伊藤はただ、来れば分かるよとだけ言って、草月を奥の小さな庭に面した座敷に案内した。逸る気持ちで中に入ると、待っていたのは草月が一番会いたいと思っていた人物だった。

「女将さん!」

「草月、良かった。ちょいと顔色は悪いけど、大丈夫そうだね。無事だとは聞いてたけど、顔を見るまでは安心できなくてね」

「私もです。女将さんこそ、栄吉さんや、店の皆も大丈夫なんですか」

「ああ、あれくらいで参っちまうような柔な奴らじゃないから安心おし」

 そう言って、女将は貫録のある笑みを見せた。

「でも……」

 草月にはずっと気になっていたことがある。

「私を逃がしたことで、何か後でお咎めを受けたりするんじゃ……」

「心配ないよ。実情はどうあれ、あんたは世間的には足抜けした身だ。たつみ屋とは関わりないと取られて、役人もあたしらには手が出せない」

「そう、なんですか」

 安堵すると同時に、ふと思う。

 もしかして、高杉はここまで計算して、草月を足抜けさせるなどと言ったのだろうか。

「あんたのことは、さっき、桂というお人から聞いたよ。あたしなんかに頭を下げて、あんたのことを責任持って保護すると言ってくだすった。あのお人なら、あんたを託しても安心だ。……寂しくなるけどね」

 ふっ、と悲しげに微笑んだ女将を見て、唐突に悟った。

 そうだ、もう、たつみ屋には二度と帰れないのだ。こんなにも突然、別れが来るなんて、思ってもみなかった。

 草月は目頭が熱くなるのを感じた。

 もっと、ずっと、一緒にいられると思っていた。いつか別れる日が来るとしても、それは自分が元の時代へ帰る時だと。

「女将さん、私……」

 胸が詰まって、うまく言葉が出てこない。

「私、迷惑ばっかりかけて。何にも、恩返し、できなくて……」

「何言ってるんだい、あんたは良くやってくれたよ」

 女将は小さな子をあやすように草月の肩を抱いた。

「異人のお客様が来た時も、あたしが捕まった時も、助けてくれたじゃないか」

 しっかりと草月の目を見つめ、

「いいかい、これだけは覚えておきな。どこへ行っても、何があろうと、たつみ屋は江戸でのあんたの家なんだよ。いつでも好きな時に帰って来ていいんだ。分かったね」

 涙があふれて止まらなかった。草月はただただ頷いた。

「さあ、もう行きな。あたしはもう少し桂様と話がある。……達者でね」

「はい、女将さんも」

 立ち上がった草月は、戸口の前で振り返り、その場に膝をついた。

「今まで、本当にお世話になりました。このご恩は生涯忘れません!」

 万感の思いを込めて深々と頭を下げた。


                         *


 泣きながら歩き去る草月と入れ違いに、桂が部屋に入ってきた。

「お邪魔だったかな」

「いいえ、ちょうど」

 女将は目じりの涙をそっと袂で拭った。そして、改めて桂に向き直る。

「桂様、どうか草月をよろしくお願いいたします。時々、世間知らずなことをしでかすこともありますが、決して頭が悪いわけでも、性根が曲がっているわけでもないのです。ただ、物知らずなだけで。どうか、長い目で見てやってください」

「無論、お約束する。……しかし、それは、彼女が洋行の疑いをかけられたことと関わりがあるのだろうか。えげれす語が話せると聞いたが、どこで習い覚えたと?」

「分かりません」

 女将はゆっくりと首を振った。

「不思議な子です」

 草月の去った方を見やり、

「あの子は突然、この江戸の町に現れました。何の前触れもなく、突然に、文字通り何もないところから現れたんです。人通りの多い場所でしたから、人混みに紛れて、その瞬間を見たのはあたしだけのようでした。でも、異人のようななりをした草月は、すぐに周りに見とがめられました。まるで幼子のように怯えて何も言えずにいるあの子を見て、咄嗟に自分の知り合いの娘だと言ったのです。横浜から来たのだと」

「……」

「にわかには信じられない話だというのは分かっております。ですが、これがまぎれもない真実なのです。あの子は、こことは別のところから来た。当人も、なぜそうなったのか、分からないようでした。博物館という場所にいて、気が付いたら江戸にいたと」

「その話、他には?」

「誰にも言っておりません。草月も話してはいないでしょう。桂様を信頼できる方と見込んでお話ししました」

「確かに承った。すぐに信じる、とは言えないが、心に留めておこう」

 そう言ってもらえただけで十分だった。

 女将はくれぐれも草月を頼むと言い置いて、藩邸を出た。

 柔らかな秋の陽射しがいたわるように身を包む。

 店では、栄吉たちがやきもきしながら待っていることだろう。草月がもう帰ってこないと知ったら、どんな顔をするか。

 もっと、教えたいことがあった。もっと、話したいことがあった。

(でも、これがあの子の運命(さだめ)なのかもしれない)

 自分はそれまで、草月を預かっていただけ。

 ぽつりと零れた頬の涙を、風が優しく撫でていった。


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