表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
5/54

第3話 藩邸へ

 いつしか季節はうつろい、江戸の町にも秋の気配が濃くなってきた。急に朝晩冷え込むようになり、昼の陽射しはまだ暑くても、気持ちのいい涼風が吹き抜ける。

 女将の使いで外へ出ていた草月は、帰り道、団子屋の店先に見知った顔を見つけた。

「高杉さん、伊藤さん!」

「よう」

 小走りで駆け寄りながら呼びかけると、気軽に片手を上げて答えた高杉の横で、伊藤がにっと笑って言った。

「ちょうどいいや。これから、たつみ屋に行こうと思ってたんだ」

「わ、ホントですか? ちょうどいいタイミング……、じゃない、ええと、奇遇ですねえ」

 慌てて言い直して、鮮やかな夕日の朱に染まった町を、三人連れだって歩き出す。伊藤は今しがた買ったばかりの包みを持ち上げて見せ、

「これ、お土産ね。何が入ってるかは店に着いてからのお楽しみ」

「わあ、ありがとうございます。あそこの店、美味しいって評判なんですよ。一度食べてみたいねって、栄吉さんと話してたんです」

 他愛ない話をしながら、もうすぐたつみ屋に着くというところで、三人はぴたりと足を止めた。店の前に、数人の役人がいるのが見えたからだ。

「何でしょう」

 草月は不吉な胸騒ぎを覚えて声を潜めた。

「この前のことは、片が付いたはずなのに……」

「まさか、あの芝居がばれたとか!?」

 伊藤も不安げに眉を寄せた。

「ここで話しちょっても埒があかん。とにかく、店に入ろう」

 高杉の言葉に頷いて、三人はこっそり裏口に回った。音を立てないよう、用心して中へ入ると、栄吉が目ざとく見つけて飛んできた。

「草月! 無事だったんだね、良かった」

「栄吉さん、一体何があったんですか。どうして、また役人が来てるんです。女将さんのことで、何か……」

「女将さんのことじゃない、草月、あんたのことで来たんだよ!」

「え、私の?」

「どういうことじゃ」

 絶句した草月に代わって、高杉が問い質す。

「――ああ、旦那方もご一緒だったんですか。それが……」

 栄吉は玄関のほうを気にするようにちらりと目をやり、ちょっとこっちへ、と三人をすぐ横の部屋に引っ張り込んだ。

「草月、あんた、えげれす語がしゃべれるんだろう。ここ以外で、しゃべったことがあるかい」

「え?」

「いいから、さっさと答えな!」

「は、はい……。ええと、確か、東禅寺で、ジュードさんに会った時に」

「その時か……」

 栄吉はぎり、と唇を噛んだ。

「栄吉さん、はっきり言ってください。私が英語を話したのが何か……?」

「何かじゃないよ! あんた今、大変なことになってるんだよ。あんたに洋行の疑いがあるから、取り調べるって言ってきてるんだ」

「え――」

 血の気が引くのが自分でも分かった。この時代、幕府の許可なく異国へ渡ることは御法度である。高杉たちの師、吉田松陰も、かつて密航を企てて失敗し、捕えられている。

 草月は洋行したわけではないが、かといって素性を問われても答えられない。

(どうしよう、どうしたら……)

 考えようとしても、頭の中が真っ白で何も浮かばない。

「きっと、あの異人が役人に話したんだ! 畜生、だから、異人なんか信用ならないんだ!」

「いや、僕は十兵衛が話したとは思わん。あそこには他にも何人も異人がいた。その中の誰かが聞きつけたんじゃろう。しかし、これだけ日が経ってから来たということは、かなり草月の素性を調べちょるな。前の女将の一件がある。確信がなければここまで強気に出んじゃろう。……きっぱり申し開きができるなら、あんな奴ら、怖がることはない。じゃが……」

 高杉は真っ青な顔で震えている草月をちらりと見た。

「その様子では、無理なようじゃな」

「あのねえ、人間なんて、生きてりゃ人に言いたくないことの一つや二つ、あるもんさ! 特に、花街の女にはね! 芸者の過去を根掘り葉掘り探ろうだなんて、無粋もいいとこだよ!」

「分かっちょる。じゃが、それを役人に言っても通じんじゃろう? 今、役人はどうしてる?」

「女将さんが対応してます。なんとかごまかそうとしてくれてるんですけど――」

 その時、玄関のほうからひときわ大きな声が上がった。

「いいから、さっさとその者を出せ! 隠し立てするとためにならんぞ!」

「先ほどから申し上げている通り、あの子は洋行などしておりません。横浜にいたのです。多少異国の言葉が話せても、おかしなことはないはずでございます」

 高圧的な役人を前に、女将は常と変らず堂々としている。

「では聞くが、横浜のどこにいたのだ? あちらの役所に問い合わせたが、誰に聞いても、そのような娘は知らぬとのことだったぞ?」

「それは……」

 女将は言えずに言いよどむ。

 横浜にいたというのは、時々耳慣れない異国語を使い、どこか浮世離れした草月の素性を偽るため、女将が考えた嘘である。

 それが、こんなところで仇になるとは……。

「言えぬのだろう」

 役人が勝ち誇ったような声を上げる。

「出てっちゃ駄目だよ、草月」

 前のめりになった草月の肩を、栄吉がぐっと掴んで押しとどめた。

「あいつら、前の女将さんのことがあるから、そう強く出られないんだ。脅すだけで、中に踏み込んでこないのがいい証拠さ。知らぬ存ぜぬで通しゃ、そのうち諦めて帰るさ」

 だが、事態はそう容易くは運ばなかった。

「ええい、強情な。貴様、儂がこの店に手出しできぬと高を括っているのだろう。そうはいかんぞ! 罪人をかくまうなら、貴様も、この店の者も、全員同罪だ。みんなまとめてお縄にして――」

「いい加減にしとくれ! さっきから大人しく聞いてりゃ、あることないことべらべらと。あの子はうちの大事な娘だ。ちょっと異国語が話せるからって、何が罪人だい。あの子にも、他の子たちにも、指一本触れさせやしないよ!」

「貴様!」

 女将の啖呵に、役人の顔がみるみる真っ赤になった。

「もう勘弁ならん、踏み込め!」

「――ちょっと!」

 気付いた時には飛び出していた。

 その場にいた全員の視線が、草月に集中する。

「いたぞ、あいつだ、捕らえろ!」

 飛びかかろうとする役人を、女将が身を挺して押しとどめた。草月に向かって叫ぶ。

「逃げな! 早く!」

「でも……」

 躊躇する草月を栄吉が強く引っ張った。

「あたし達は大丈夫だから。あんたは早く!」

 戸惑いと怯えの感情がない交ぜになった瞳が揺れる。

「っ、ごめんなさい!」

 草月はさっと身を翻すと、今入って来たばかりの裏口から外へ飛び出した。すでに辺りは夕闇が濃い。

 表には役人。後ろは堀。

 ――隣家の塀を乗り越えるしかない。

 裾をからげて、思い切って木塀に取りついた。必死に登ろうと足掻く間にも、背後から、草月を追う役人の足音が近づいてくる。

 今にもこちらに手が届くというところで、間に割り込んだ者がいる。

(――高杉さん!)

 手拭いで顔を隠した高杉は、素早く役人に肘鉄を食らわせると、

「こっちじゃ!」

 草月の腕を掴んで表へ向かって走り出す。

「待て、貴様ら!」

「待つわけないだろ!」

 前方からやって来た新手の役人を、横合いに隠れていた伊藤が体当たりで吹っ飛ばした。そのまま三人、囲みを突っ切り表通りへ飛び出す。

 時は暮れ六つ。花街が一番活気づく時刻である。店頭の提灯には赤々と火がともされ、通りは大勢の客や芸者達で賑わっている。

 ここだけ見れば、たつみ屋の騒ぎなど、まるで別世界のことのようだ。

 高杉と伊藤は、頬かむりをはぎ取ると、何食わぬ顔で人混みの中に紛れ込んだ。だが、後方からは役人が執拗に追ってくる。

 このままでは捕まるのは時間の問題だ。

「しつこいの」

 高杉は舌打ちすると、草月の腕を掴んだ手を強く握り直した。

「よし、僕はおのしを足抜けさせることにする」

「え?」

「ふりじゃ、ふり! 騒ぎを起こして撹乱するんじゃ。この人数が騒乱状態になってみろ、役人も容易に身動き取れんじゃろう。――俊輔、おのしは足抜けじゃと大声で触れ回ってこい。僕は草月を連れて、藩邸へ行く。そこで落ち合おう」

「心得ました!」

 即座に応じて、伊藤はすいすいと人混みの中に消えていく。

 やがて、後方から、「足抜けだー!」という声が上がった。

 一瞬にして騒然となる周りに逆行するように、草月は高杉に手を引かれて足早に永代橋を渡る。そのまま西へ西へと進み、八丁堀を抜けて麹町へ差し掛かったところで、草月は小さく叫んで立ち止まった。

「どうした」

「痛った……、足が……」

 尖った小石でも踏んだのか、むき出しの足の裏が切れて血がにじんでいる。

「馬鹿、なんで草履を履いて来んかったんじゃ!」

「だって、あの状況でそんな余裕なかったですよ!」

「しょうがないのう」

 高杉は手早く手拭いを裂くと、草月の足に包帯代わりに巻き付けた。そして、背を向けてしゃがむと、ほら、と言って振り返る。

「……?」

 意図が分からず突っ立ったままの草月に、

「何をボーっとしちょる。おぶってやろうと言うちょるんじゃ」

「えっ!? い、いや、いいですよ、そんな! 一人で歩けます」

「その足で歩けるわけないじゃろう。早くせい。ぐずぐずしちょったら、すぐに追いつかれるぞ」

「いえ、でも……」

 なおも尻込みする草月に業を煮やしたのか、

「ええい、面倒じゃ」

 高杉は言うなり立ち上がり、ぐいと草月に近づいた。

 何だと思う間もなく、くるりと視界が回り、気付いた時には米俵よろしく高杉の肩に担がれていた。

「うわっ、ちょっと、高杉さん!」

「暴れるな、落とすぞ!」

 慌てる草月に物騒な言葉を返し、高杉はそのまま小走りに走り出す。人目につかぬよう、細い路地裏を巧みにすり抜け、やがて武家屋敷の並ぶ一画に来ると、勢いそのままに長州屋敷の裏門から邸内になだれ込んだ。

「ふう、なんとか逃げ切れたようじゃな」

 そっと草月を下ろし、大丈夫か、と問う。

「だ、大丈夫です……」

 正直に言えば、吐き気はするし頭はぐらぐらするし、足の裏はずきずきと痛むけれど、そんなことは言っていられない。

「伊藤さんはまだでしょうか」

「すぐ来るじゃろう。名前の通り、すばしっこさは折り紙付きじゃからな」

 高杉の言葉通り、いくらも経たないうちに、額に汗を浮かべた伊藤が駈け込んで来た。

「伊藤さん!」

「ご苦労じゃったな。首尾は?」

「上々です。ばっちり撹乱してきましたよ。今頃、奴ら、明後日の方向を探してるはずです」

 得意げに胸を反らした伊藤が、げ、と言って急に居住まいを正してかしこまった。

 桂さん、と小声で呟いた視線の先には、廊下からこちらを見下ろす長身の武士の姿。

 きっちりと折り目のついた袴に、綺麗に整えられた髷。眉の太い端正な顔立ちは、しかし、今は眉間の皺のせいで台無しになっている。

「高杉、俊輔! こんな夜中に一体、何の騒ぎだ! 何度問題を起こせば気が済む……」

 言いかけた武士は、草月に気付いて目を見開いた。

「どうしたんだ、その女性(ひと)は」

「攫ってきた」

「攫っ……、何だって!? お前は何をしたんだ! 事と次第によっては、ただでは済まんぞ」

「分かっちょる、分かっちょる。ちゃんと説明するけえ、そう怒鳴らんでくれ。……こんな夜中に」

 言われた言葉をそっくり返せば、桂の眉間の皺がぐっと深くなった。何か言いかけて、思い直したように唇を引き結ぶ。

「……いいだろう、中に入れ。……君も」

 最後は草月に言って、自分はさっと背中を向けた。


                 *


(とりあえず、助かった、のかな)

 草月はふっと詰めていた息を吐き出す。

 高杉と伊藤は、桂と呼ばれた武士と共にどこかに行ってしまった。先ほどまで怪我の手当てのためにいてくれた女中も去り、広い部屋に一人、ぽつねんと取り残されている。

 追手から逃げられたという安堵感。だが、落ち着いて考えられるようになると、じわじわと事の重大さが身に染みてくる。

 今はいいとして、では、これからどうすればいいのだろう。役人に顔を知られた以上、むやみに外を出歩くわけにはいかないし、たつみ屋にも戻れない。

(そうだ、女将さんたち、どうしただろう)

 役人に逆らったことで、お咎めを受けたりしていないだろうか。もし、何かひどいことをされていたら……。

 悪い方向にしか考えが至らず、草月は体を丸めるようにして膝に顔をうずめた。

 どれくらいそうしていただろうか。

 草月、と遠慮がちに呼ぶ声がして顔を上げると、良く見知った顔が現れた。

「久坂さん」

「草月、たつみ屋でのことは聞いたよ。大変だったな。……大丈夫か?」

 はい、と答えた声は情けないほど震えていた。

 久坂は気遣うように草月を見て、

「悪いけど、桂さん――、上役が話したいそうなんだ。入ってもらってもいいかい」

 頷くと、久坂は廊下に待機していたらしい桂を招き入れた。後ろから高杉と伊藤も続く。

「草月、と言うそうだな」

 向かいに座った桂はおもむろにそう切り出した。

「私は長州藩士、桂小五郎だ」

 草月は微かに頷いて見せることで内心の動揺を押し隠した。

 『桂さん』、と呼ばれていたことから薄々察していたが、いざ本人の口から聞くのとでは受ける重みが全く違う。

「事情は高杉たちから聞いた。我が藩の者がひどく迷惑をかけたようだ。誠に申し訳ない」

 そう言って、深々と頭を下げられたのには驚いたが、次の言葉にはもっと驚いた。

「仲間の不始末は私の不始末でもある。君のことは、私が責任を持って藩邸で保護する」

「え?」

 二の句が継げず、固まってしまった草月に、高杉が横から言葉を足す。

「こうなったのも、もとは僕らのせいじゃけえの。藩邸の中なら、幕府の手も及ばんし、安全じゃ」

「でも、店は……。女将さんや、栄吉さんたちは……」

 しどろもどろの草月の言わんとすることを正確に読みとって、桂はきっぱりと頷いた。

「店の方には人をやってある。様子を確かめて、もし捕まっているようなことがあればすぐに対応する。何もなくても、君の無事を伝えて安心させるよう言ってあるから大丈夫だ」

「そう、ですか……。ありがとう、ございます」

「ともかく今日はもう休みなさい。疲れただろう」

 明日また話そう、と言い置いて、桂は部屋を出ていった。

「草月? 大丈夫か?」

 惚けたままの草月の顔を、伊藤が心配そうに覗き込んだ。

 今日は何度この言葉を聞いただろう。

「……大丈夫じゃないです」

 草月はとうとう本音を言って顔を覆った。

 もう虚勢を張る気力もない。

 あまりにも目まぐるしく事態が動いて、頭の中がぐちゃぐちゃで、何が何だか分からない。今すぐ一人になって、大声で泣き喚きたかった。

「――ごめん!」

 突如、伊藤ががばりと頭を下げて、草月は驚いて顔を上げた。

「いきなりここで暮らせとか言われても、そりゃあ、驚くよな。それに、もとは俺たちが起こした騒ぎが原因だし。ホントごめん!」

 高杉と久坂も伊藤に倣って頭を下げた。

「僕からも謝る。東禅寺でえげれす語を使えと唆したのは僕じゃしな。……すまん」

「草月、本当にすまない。人の人生を変えるような真似をして、謝ってすむようなことではないけど、僕にできることがあれば何でも言ってくれ」

「そ、そんな、頭上げてください! 皆さんのせいじゃないです。もともと、私、不審人物でしたし。それに、今日だって、高杉さんと伊藤さんのおかげで、役人に捕まらずにすんだんです!」

 いや自分が、私が、と不毛な押し問答になりかけたところに、不意にきゅるるる、と間抜けな音が響いた。

 高杉、久坂、草月の視線が、一斉に伊藤に向く。

 伊藤は情けなさそうに、へにゃりと笑って、

「いや、それが夕飯も食わずに走り回ってたもんで、腹が減って……」

「……そういえば、私もお腹が空きました」

 思わず、といったように腹に手をやる草月の横で、久坂もちょっと笑って「僕もだ」と言い、高杉が「ならば」と立ち上がった。

「皆で食いに行くか。朝飯の残りで悪いが、火を焚いて温めれば不味くはないはずじゃぞ」

「それは楽しみです」

 草月もつられて笑い、そして自分が笑えていることに驚いた。

 でも、笑ったことで、少し気持ちが楽になった気がする。

 これから先、どうなるかは全然分からない。でも、きっとなんとかなるだろう。

 三人の後を追って歩き出しながら、草月はようやく強張っていた肩の力を抜いたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ