第3話 藩邸へ
いつしか季節はうつろい、江戸の町にも秋の気配が濃くなってきた。急に朝晩冷え込むようになり、昼の陽射しはまだ暑くても、気持ちのいい涼風が吹き抜ける。
女将の使いで外へ出ていた草月は、帰り道、団子屋の店先に見知った顔を見つけた。
「高杉さん、伊藤さん!」
「よう」
小走りで駆け寄りながら呼びかけると、気軽に片手を上げて答えた高杉の横で、伊藤がにっと笑って言った。
「ちょうどいいや。これから、たつみ屋に行こうと思ってたんだ」
「わ、ホントですか? ちょうどいいタイミング……、じゃない、ええと、奇遇ですねえ」
慌てて言い直して、鮮やかな夕日の朱に染まった町を、三人連れだって歩き出す。伊藤は今しがた買ったばかりの包みを持ち上げて見せ、
「これ、お土産ね。何が入ってるかは店に着いてからのお楽しみ」
「わあ、ありがとうございます。あそこの店、美味しいって評判なんですよ。一度食べてみたいねって、栄吉さんと話してたんです」
他愛ない話をしながら、もうすぐたつみ屋に着くというところで、三人はぴたりと足を止めた。店の前に、数人の役人がいるのが見えたからだ。
「何でしょう」
草月は不吉な胸騒ぎを覚えて声を潜めた。
「この前のことは、片が付いたはずなのに……」
「まさか、あの芝居がばれたとか!?」
伊藤も不安げに眉を寄せた。
「ここで話しちょっても埒があかん。とにかく、店に入ろう」
高杉の言葉に頷いて、三人はこっそり裏口に回った。音を立てないよう、用心して中へ入ると、栄吉が目ざとく見つけて飛んできた。
「草月! 無事だったんだね、良かった」
「栄吉さん、一体何があったんですか。どうして、また役人が来てるんです。女将さんのことで、何か……」
「女将さんのことじゃない、草月、あんたのことで来たんだよ!」
「え、私の?」
「どういうことじゃ」
絶句した草月に代わって、高杉が問い質す。
「――ああ、旦那方もご一緒だったんですか。それが……」
栄吉は玄関のほうを気にするようにちらりと目をやり、ちょっとこっちへ、と三人をすぐ横の部屋に引っ張り込んだ。
「草月、あんた、えげれす語がしゃべれるんだろう。ここ以外で、しゃべったことがあるかい」
「え?」
「いいから、さっさと答えな!」
「は、はい……。ええと、確か、東禅寺で、ジュードさんに会った時に」
「その時か……」
栄吉はぎり、と唇を噛んだ。
「栄吉さん、はっきり言ってください。私が英語を話したのが何か……?」
「何かじゃないよ! あんた今、大変なことになってるんだよ。あんたに洋行の疑いがあるから、取り調べるって言ってきてるんだ」
「え――」
血の気が引くのが自分でも分かった。この時代、幕府の許可なく異国へ渡ることは御法度である。高杉たちの師、吉田松陰も、かつて密航を企てて失敗し、捕えられている。
草月は洋行したわけではないが、かといって素性を問われても答えられない。
(どうしよう、どうしたら……)
考えようとしても、頭の中が真っ白で何も浮かばない。
「きっと、あの異人が役人に話したんだ! 畜生、だから、異人なんか信用ならないんだ!」
「いや、僕は十兵衛が話したとは思わん。あそこには他にも何人も異人がいた。その中の誰かが聞きつけたんじゃろう。しかし、これだけ日が経ってから来たということは、かなり草月の素性を調べちょるな。前の女将の一件がある。確信がなければここまで強気に出んじゃろう。……きっぱり申し開きができるなら、あんな奴ら、怖がることはない。じゃが……」
高杉は真っ青な顔で震えている草月をちらりと見た。
「その様子では、無理なようじゃな」
「あのねえ、人間なんて、生きてりゃ人に言いたくないことの一つや二つ、あるもんさ! 特に、花街の女にはね! 芸者の過去を根掘り葉掘り探ろうだなんて、無粋もいいとこだよ!」
「分かっちょる。じゃが、それを役人に言っても通じんじゃろう? 今、役人はどうしてる?」
「女将さんが対応してます。なんとかごまかそうとしてくれてるんですけど――」
その時、玄関のほうからひときわ大きな声が上がった。
「いいから、さっさとその者を出せ! 隠し立てするとためにならんぞ!」
「先ほどから申し上げている通り、あの子は洋行などしておりません。横浜にいたのです。多少異国の言葉が話せても、おかしなことはないはずでございます」
高圧的な役人を前に、女将は常と変らず堂々としている。
「では聞くが、横浜のどこにいたのだ? あちらの役所に問い合わせたが、誰に聞いても、そのような娘は知らぬとのことだったぞ?」
「それは……」
女将は言えずに言いよどむ。
横浜にいたというのは、時々耳慣れない異国語を使い、どこか浮世離れした草月の素性を偽るため、女将が考えた嘘である。
それが、こんなところで仇になるとは……。
「言えぬのだろう」
役人が勝ち誇ったような声を上げる。
「出てっちゃ駄目だよ、草月」
前のめりになった草月の肩を、栄吉がぐっと掴んで押しとどめた。
「あいつら、前の女将さんのことがあるから、そう強く出られないんだ。脅すだけで、中に踏み込んでこないのがいい証拠さ。知らぬ存ぜぬで通しゃ、そのうち諦めて帰るさ」
だが、事態はそう容易くは運ばなかった。
「ええい、強情な。貴様、儂がこの店に手出しできぬと高を括っているのだろう。そうはいかんぞ! 罪人をかくまうなら、貴様も、この店の者も、全員同罪だ。みんなまとめてお縄にして――」
「いい加減にしとくれ! さっきから大人しく聞いてりゃ、あることないことべらべらと。あの子はうちの大事な娘だ。ちょっと異国語が話せるからって、何が罪人だい。あの子にも、他の子たちにも、指一本触れさせやしないよ!」
「貴様!」
女将の啖呵に、役人の顔がみるみる真っ赤になった。
「もう勘弁ならん、踏み込め!」
「――ちょっと!」
気付いた時には飛び出していた。
その場にいた全員の視線が、草月に集中する。
「いたぞ、あいつだ、捕らえろ!」
飛びかかろうとする役人を、女将が身を挺して押しとどめた。草月に向かって叫ぶ。
「逃げな! 早く!」
「でも……」
躊躇する草月を栄吉が強く引っ張った。
「あたし達は大丈夫だから。あんたは早く!」
戸惑いと怯えの感情がない交ぜになった瞳が揺れる。
「っ、ごめんなさい!」
草月はさっと身を翻すと、今入って来たばかりの裏口から外へ飛び出した。すでに辺りは夕闇が濃い。
表には役人。後ろは堀。
――隣家の塀を乗り越えるしかない。
裾をからげて、思い切って木塀に取りついた。必死に登ろうと足掻く間にも、背後から、草月を追う役人の足音が近づいてくる。
今にもこちらに手が届くというところで、間に割り込んだ者がいる。
(――高杉さん!)
手拭いで顔を隠した高杉は、素早く役人に肘鉄を食らわせると、
「こっちじゃ!」
草月の腕を掴んで表へ向かって走り出す。
「待て、貴様ら!」
「待つわけないだろ!」
前方からやって来た新手の役人を、横合いに隠れていた伊藤が体当たりで吹っ飛ばした。そのまま三人、囲みを突っ切り表通りへ飛び出す。
時は暮れ六つ。花街が一番活気づく時刻である。店頭の提灯には赤々と火がともされ、通りは大勢の客や芸者達で賑わっている。
ここだけ見れば、たつみ屋の騒ぎなど、まるで別世界のことのようだ。
高杉と伊藤は、頬かむりをはぎ取ると、何食わぬ顔で人混みの中に紛れ込んだ。だが、後方からは役人が執拗に追ってくる。
このままでは捕まるのは時間の問題だ。
「しつこいの」
高杉は舌打ちすると、草月の腕を掴んだ手を強く握り直した。
「よし、僕はおのしを足抜けさせることにする」
「え?」
「ふりじゃ、ふり! 騒ぎを起こして撹乱するんじゃ。この人数が騒乱状態になってみろ、役人も容易に身動き取れんじゃろう。――俊輔、おのしは足抜けじゃと大声で触れ回ってこい。僕は草月を連れて、藩邸へ行く。そこで落ち合おう」
「心得ました!」
即座に応じて、伊藤はすいすいと人混みの中に消えていく。
やがて、後方から、「足抜けだー!」という声が上がった。
一瞬にして騒然となる周りに逆行するように、草月は高杉に手を引かれて足早に永代橋を渡る。そのまま西へ西へと進み、八丁堀を抜けて麹町へ差し掛かったところで、草月は小さく叫んで立ち止まった。
「どうした」
「痛った……、足が……」
尖った小石でも踏んだのか、むき出しの足の裏が切れて血がにじんでいる。
「馬鹿、なんで草履を履いて来んかったんじゃ!」
「だって、あの状況でそんな余裕なかったですよ!」
「しょうがないのう」
高杉は手早く手拭いを裂くと、草月の足に包帯代わりに巻き付けた。そして、背を向けてしゃがむと、ほら、と言って振り返る。
「……?」
意図が分からず突っ立ったままの草月に、
「何をボーっとしちょる。おぶってやろうと言うちょるんじゃ」
「えっ!? い、いや、いいですよ、そんな! 一人で歩けます」
「その足で歩けるわけないじゃろう。早くせい。ぐずぐずしちょったら、すぐに追いつかれるぞ」
「いえ、でも……」
なおも尻込みする草月に業を煮やしたのか、
「ええい、面倒じゃ」
高杉は言うなり立ち上がり、ぐいと草月に近づいた。
何だと思う間もなく、くるりと視界が回り、気付いた時には米俵よろしく高杉の肩に担がれていた。
「うわっ、ちょっと、高杉さん!」
「暴れるな、落とすぞ!」
慌てる草月に物騒な言葉を返し、高杉はそのまま小走りに走り出す。人目につかぬよう、細い路地裏を巧みにすり抜け、やがて武家屋敷の並ぶ一画に来ると、勢いそのままに長州屋敷の裏門から邸内になだれ込んだ。
「ふう、なんとか逃げ切れたようじゃな」
そっと草月を下ろし、大丈夫か、と問う。
「だ、大丈夫です……」
正直に言えば、吐き気はするし頭はぐらぐらするし、足の裏はずきずきと痛むけれど、そんなことは言っていられない。
「伊藤さんはまだでしょうか」
「すぐ来るじゃろう。名前の通り、すばしっこさは折り紙付きじゃからな」
高杉の言葉通り、いくらも経たないうちに、額に汗を浮かべた伊藤が駈け込んで来た。
「伊藤さん!」
「ご苦労じゃったな。首尾は?」
「上々です。ばっちり撹乱してきましたよ。今頃、奴ら、明後日の方向を探してるはずです」
得意げに胸を反らした伊藤が、げ、と言って急に居住まいを正してかしこまった。
桂さん、と小声で呟いた視線の先には、廊下からこちらを見下ろす長身の武士の姿。
きっちりと折り目のついた袴に、綺麗に整えられた髷。眉の太い端正な顔立ちは、しかし、今は眉間の皺のせいで台無しになっている。
「高杉、俊輔! こんな夜中に一体、何の騒ぎだ! 何度問題を起こせば気が済む……」
言いかけた武士は、草月に気付いて目を見開いた。
「どうしたんだ、その女性は」
「攫ってきた」
「攫っ……、何だって!? お前は何をしたんだ! 事と次第によっては、ただでは済まんぞ」
「分かっちょる、分かっちょる。ちゃんと説明するけえ、そう怒鳴らんでくれ。……こんな夜中に」
言われた言葉をそっくり返せば、桂の眉間の皺がぐっと深くなった。何か言いかけて、思い直したように唇を引き結ぶ。
「……いいだろう、中に入れ。……君も」
最後は草月に言って、自分はさっと背中を向けた。
*
(とりあえず、助かった、のかな)
草月はふっと詰めていた息を吐き出す。
高杉と伊藤は、桂と呼ばれた武士と共にどこかに行ってしまった。先ほどまで怪我の手当てのためにいてくれた女中も去り、広い部屋に一人、ぽつねんと取り残されている。
追手から逃げられたという安堵感。だが、落ち着いて考えられるようになると、じわじわと事の重大さが身に染みてくる。
今はいいとして、では、これからどうすればいいのだろう。役人に顔を知られた以上、むやみに外を出歩くわけにはいかないし、たつみ屋にも戻れない。
(そうだ、女将さんたち、どうしただろう)
役人に逆らったことで、お咎めを受けたりしていないだろうか。もし、何かひどいことをされていたら……。
悪い方向にしか考えが至らず、草月は体を丸めるようにして膝に顔をうずめた。
どれくらいそうしていただろうか。
草月、と遠慮がちに呼ぶ声がして顔を上げると、良く見知った顔が現れた。
「久坂さん」
「草月、たつみ屋でのことは聞いたよ。大変だったな。……大丈夫か?」
はい、と答えた声は情けないほど震えていた。
久坂は気遣うように草月を見て、
「悪いけど、桂さん――、上役が話したいそうなんだ。入ってもらってもいいかい」
頷くと、久坂は廊下に待機していたらしい桂を招き入れた。後ろから高杉と伊藤も続く。
「草月、と言うそうだな」
向かいに座った桂はおもむろにそう切り出した。
「私は長州藩士、桂小五郎だ」
草月は微かに頷いて見せることで内心の動揺を押し隠した。
『桂さん』、と呼ばれていたことから薄々察していたが、いざ本人の口から聞くのとでは受ける重みが全く違う。
「事情は高杉たちから聞いた。我が藩の者がひどく迷惑をかけたようだ。誠に申し訳ない」
そう言って、深々と頭を下げられたのには驚いたが、次の言葉にはもっと驚いた。
「仲間の不始末は私の不始末でもある。君のことは、私が責任を持って藩邸で保護する」
「え?」
二の句が継げず、固まってしまった草月に、高杉が横から言葉を足す。
「こうなったのも、もとは僕らのせいじゃけえの。藩邸の中なら、幕府の手も及ばんし、安全じゃ」
「でも、店は……。女将さんや、栄吉さんたちは……」
しどろもどろの草月の言わんとすることを正確に読みとって、桂はきっぱりと頷いた。
「店の方には人をやってある。様子を確かめて、もし捕まっているようなことがあればすぐに対応する。何もなくても、君の無事を伝えて安心させるよう言ってあるから大丈夫だ」
「そう、ですか……。ありがとう、ございます」
「ともかく今日はもう休みなさい。疲れただろう」
明日また話そう、と言い置いて、桂は部屋を出ていった。
「草月? 大丈夫か?」
惚けたままの草月の顔を、伊藤が心配そうに覗き込んだ。
今日は何度この言葉を聞いただろう。
「……大丈夫じゃないです」
草月はとうとう本音を言って顔を覆った。
もう虚勢を張る気力もない。
あまりにも目まぐるしく事態が動いて、頭の中がぐちゃぐちゃで、何が何だか分からない。今すぐ一人になって、大声で泣き喚きたかった。
「――ごめん!」
突如、伊藤ががばりと頭を下げて、草月は驚いて顔を上げた。
「いきなりここで暮らせとか言われても、そりゃあ、驚くよな。それに、もとは俺たちが起こした騒ぎが原因だし。ホントごめん!」
高杉と久坂も伊藤に倣って頭を下げた。
「僕からも謝る。東禅寺でえげれす語を使えと唆したのは僕じゃしな。……すまん」
「草月、本当にすまない。人の人生を変えるような真似をして、謝ってすむようなことではないけど、僕にできることがあれば何でも言ってくれ」
「そ、そんな、頭上げてください! 皆さんのせいじゃないです。もともと、私、不審人物でしたし。それに、今日だって、高杉さんと伊藤さんのおかげで、役人に捕まらずにすんだんです!」
いや自分が、私が、と不毛な押し問答になりかけたところに、不意にきゅるるる、と間抜けな音が響いた。
高杉、久坂、草月の視線が、一斉に伊藤に向く。
伊藤は情けなさそうに、へにゃりと笑って、
「いや、それが夕飯も食わずに走り回ってたもんで、腹が減って……」
「……そういえば、私もお腹が空きました」
思わず、といったように腹に手をやる草月の横で、久坂もちょっと笑って「僕もだ」と言い、高杉が「ならば」と立ち上がった。
「皆で食いに行くか。朝飯の残りで悪いが、火を焚いて温めれば不味くはないはずじゃぞ」
「それは楽しみです」
草月もつられて笑い、そして自分が笑えていることに驚いた。
でも、笑ったことで、少し気持ちが楽になった気がする。
これから先、どうなるかは全然分からない。でも、きっとなんとかなるだろう。
三人の後を追って歩き出しながら、草月はようやく強張っていた肩の力を抜いたのだった。