第2話 猫の縁結び
高杉の使いと名乗る男がたつみ屋を訪れたのは、昼を少し回った頃のことだった。
廊下の雑巾がけをしていた草月は、前掛けで濡れた手を拭きつつ、はて、と首をかしげた。
「草月は私ですけど……。高杉さんがどうかしたんですか」
「とにかく連れてこいとのことで。すいやせんが、一緒に来ちゃもらえねえでしょうか」
「急にそう言われましても……」
草月は困って眉根を寄せた。
先日の一件以来、高杉ら三人は時々たつみ屋に顔を出すようになった。芸者遊びをしに、というよりは草月とおしゃべりをしに、というのが正確なところで、彼らが来た時には、草月は見習いの芸者として座敷に上がることになる。
話に上るのは、たいてい互いの近況など、他愛のないこと。ただ時折、草月には分からない難しい政治の話を始める時がある。そういう時は黙ってお酌をして、口を挟まないように気を付けているのだが、一度、うっかり割って入ってしまったことがある。久坂が『長井』という名前を口に出した時だ。
「長井さんって、確か前にも言ってましたよね、牢屋敷のところで」
言ってしまってから、慌ててすみません、と頭を下げたが、久坂はかまわないよ、と安心させるように微笑んだ。
「君に会いに来ておいて、君そっちのけで話をした僕が悪かった。そうだね、少し説明しておこうか。今、日本が攘夷派と開国派に分かれているのは知っているね?」
「はい。久坂さん達は攘夷派なんですよね」
「僕ら個人はそうだ。でも、長州藩内では開国派の勢いが強い。ことに長井雅楽の唱える航海遠略策が絶大な支持を集めている。簡単に言うと、国の危機を救うためには幕府と朝廷が協力して事に当たらなければならない、という意見だ」
「はあ」
ひどくもっともな意見である。普段温厚な久坂がやけにこけおろすものだから、どんな無茶苦茶なことを言う人なのかと思っていた草月は拍子抜けしてしまった。
正直にそう言うと、久坂は、何がいいものか! と勢いよく畳を殴りつけた。
そして据わった眼を草月に向けると、いかに長井の論が空虚で、朝廷の叡慮に背いたものであるか、猛烈な勢いでまくし立て始めたのである。
助けを求めて視線を送った高杉と伊藤は、慣れているのか、触らぬ神に祟りなし、とばかりに素知らぬふりで芋の煮っ転がしに箸を伸ばしている。
おかげで草月は延々と久坂の講義を聞く羽目になり、図らずも今の政治情勢にいささか詳しくなってしまった。
(それはともかく……。わざわざ呼び出すなんて、よっぽどの用事なのかな。まさか、この間の芝居がばれたとか)
にわかに不安になり、女将に許可をもらって店を出る。男に案内された先は日本橋にほど近い甘味処だった。階段を上がった二階の座敷で、高杉が一人、窓枠に腰かけて三味線を弾いていた。
落ち着いたその様子を見るに、何か悪いことが起きたわけではなさそうだ。ほっとすると同時に、なにやら腹が立ってきた。
「何ですか、一体。よほどの重大事なんでしょうね。お店の仕事放り出して来たんですよ」
勢い喧嘩腰になる草月だったが、高杉は頓着する様子もなく身振りで入るように促した。
「まあそう怒るな。花代はちゃんと払ってやるけえ」
「私はまだ正式な芸者じゃありませんって。それに高杉さん、これまでのツケ全然払ってくれてないじゃないですか」
草月の皮肉を高杉は綺麗に無視した。
「今日は、ちょっと手伝って欲しいことがあってな。――ここの向かいに、大和屋という呉服屋があるじゃろう」
高杉の視線を辿って窓から通りを見下ろせば、『大和屋』と濃紺に染め抜かれた暖簾の下を大勢の客が出入りしている。
「ええ、繁盛してるみたいですね」
「実はそこに、間諜として入り込んでもらいたいんじゃ」
「……間諜? 間諜って……。ええと、確か、誰かの秘密や情報を探る人のことですよね?」
「そうじゃ」
「いや、『そうじゃ』、じゃないですよ! なに、とんでもないことさらっと言ってるんですか。その辺の八百屋に大根買いに行くんじゃないんですよ? 嫌ですよ、そんな。何があるのか知りませんけど、人の秘密暴くみたいなこと」
「まあ落ち着け。これには、大和屋の後継ぎと若い娘の行く末がかかっちょるんじゃ」
「……え?」
高杉は三味線を置くと、ゆっくりと事情を話し始めた。
*
それは、昨夜、品川にある妓楼『相模屋』でのことである。
相模屋はその真っ白な土蔵造りの外見から『土蔵相模』とも呼ばれており、長州藩の下屋敷に近いことから、高杉を初め、多くの長州藩士が常連客となっていた。
「ねェ、高杉様。何か変な声がしませんか」
いつものように訪れた高杉に酌をしながら、ふと綺麗な弓なりの眉をひそめて言ったのは、敵娼の菊乃だ。言われて耳を澄ませてみると、確かに廊下の方から「ぶー、ぶー」という押し殺した声が聞こえてくる。
興味を引かれた高杉は、襖を開けてひょいと廊下を覗いてみた。すると、奥の暗がりで、なにやらごそごそと動く影がある。
「……初音? あんた、そんなところでなにやってるの」
高杉の後ろから怖々顔を出した菊乃が、その正体に気付いてすっとんきょうな声を上げた。物の怪かと思われたものが、妹分の初音だったからだ。
「若旦那がおいでじゃなかったの?」
「お菊ちゃん、それが……」
初音と呼ばれた妓は、菊乃の顔を見るなり、わっと泣き出した。
*
「初音は今、身請け話が進んでいるんです」
初音が泣き止むのを待って、菊乃が説明する。
「お相手は、日本橋にほど近い大和屋っていう呉服屋の若旦那で、妾じゃなくちゃんとした本妻として迎えたいと言ってくれてましてね。若旦那もいいお方だし、これ以上ないお話なんですけど……」
一つだけ問題があった。初音の飼っている猫の『ぶぶ』である。若旦那の母親が大の猫嫌いで、初音の嫁入りは許すが、それには猫を絶対に連れてこないという条件付きであった。
「ぶぶと離れるなんて嫌!」
それくらいなら、一生遊女でいると言い張り、今日もそれで若旦那と喧嘩になったという。若旦那は怒って帰り、その後、猫がいないことに気が付いた。
「あの人が意趣返しに攫っていったに違いないわ!」
涙が引いたら、今度は一気に怒りが湧いてきたようで、初音は大和屋に乗り込んで猫を取り返すと息巻いた。
*
「……それを、どうにかこうにか宥めてな」
「どうせ自分が見つけてやるとか、格好いいこと言ったんでしょう」
「良く分かったな」
「それくらい分かりますよ。でも、大丈夫なんですか、そんな大見得切って。本当にその若旦那さんが猫を連れて行ったとは分からないじゃないですか。単に外に遊びに出ただけかも」
「じゃけえ、それを確かめに店に行くんじゃ。正面切って聞いても、しらを切られる可能性があるけえの。しかし、密かに探るには、男一人で呉服屋に長居するのはいかにも怪しい」
そこで、草月の出番という訳だ。確かに、おなご連れなら自然に見える。
「これも、おのしの度胸の良さを見込んでのことじゃ。頼む」
そこまで言われたら、断れない。
「分かりました。協力します」
結局、頷いていた。
*
簡単な打ち合わせの後、二人は大和屋の前に立っていた。客足は途絶えることなく、奉公人たちの威勢のいい挨拶が通りに響いている。
草月はマタタビの入った巾着をぎゅっと握りしめた。
さあ、作戦開始だ。
高杉の後に続いて店の暖簾をくぐると、たちまち、目に鮮やかな色とりどりの反物が目に飛び込んでくる。
きょろきょろ見回していると、いらっしゃいまし、と愛想のいい声がして、若い男が応対にやって来た。
「本日はどのような物をお探しでしょうか」
「ええと、秋らしい帯をいつくか見せてもらえますか」
打ち合わせ通り、自然な客を装いながら、こっそり相手を観察する。
細面の顔に、おっとりした話し方。
(この人が、若旦那さんかな。優しそうで、猫を盗むような人には見えないけど)
こちらの思惑をよそに、若旦那は熱心に品物の説明をしてくれる。
流水に紅葉の上品な柄の帯、秋の七草が繊細に描かれた淡い色の帯。
その着物に合わせるなら、こちらの紫紺地の帯はいかがですか――。
頃合いを見計らって、草月はうっとお腹を押さえて蹲った。
「どうした」
高杉が驚いて草月の顔を覗き込む。もちろん、芝居である。
「痛たたた……。急に、お腹が……」
「これはいけない。立てますか? どうぞ奥で休んでください」
若旦那は素早く近くにいた男に案内を命じ、草月は高杉に支えられて、店の奥へと入って行った。
男は二人を部屋に通すと、すぐに「薬湯をお持ちします」と言って部屋を出た。その足音が十分遠ざかるのを待って、草月は大きく息をついた。
「とりあえず、作戦の第一段階は成功ですね。次はどうします」
「おのしは、さっきの奴が戻ってきたら、店で猫をみかけなかったか、それとなく聞いてみてくれ。直接若旦那に探りを入れるのは危険じゃけえの」
「分かりました。……高杉さんは?」
「僕は少しこの辺を探してみる」
「えっ!?」
いくらなんでも大胆すぎやしないだろうか。
大いに心配だったが、当人は「いざとなったら厠に行こうとして迷ったと言えば良い」と、実にあっけらかんとしている。
人の近づく気配がして、草月は慌ててお腹を押さえて顔をしかめた。
「失礼します。……お加減はいかがですか」
気遣わしげな声と共に入って来たのは、なんと、若旦那本人だった。
「薬湯をお持ちしましたので、どうぞ。味は酷いですが、腹痛には良く効きますよ」
そう言って差し出されたのは、どろりとした濁った沼のような色の液体が入った湯呑。飲むのにとてつもない覚悟が要りそうだが、せっかく親切で持ってきてくれたものを飲まない訳にもいかない。えいっとばかりに一息で飲み干した。
妙に舌に絡みつく不快な感覚と後から強烈に襲ってくる苦味に、声も出せない。
そんな草月に代わって、高杉が自分たちの姓名を名乗った。
「私はこの大和屋の倅で、正太郎と申します。どうぞゆっくりお休みください」
「ご親切かたじけない。重ねてすまんが、厠を貸してもらえるか」
「どうぞ。この廊下を左に曲がって裏庭に出てすぐです」
礼を言って高杉が出ていくと、部屋には草月と正太郎だけが残された。
なんとか猫のことを聞きたいが、当人相手にどう探りを入れたら良いものか。
(やっぱり、まどろっこしいことせずに、すぱっと聞いた方がいいんじゃないかな)
考えあぐねていると、正太郎が気遣わしげな目をして、
「痛みますか? ひどいようなら、医者をお呼びしましょうか」
「い、いえいえ、大丈夫です! だいぶましになりましたし、その……、ただの食べすぎですから!」
「食べ過ぎ、ですか」
「はい、お恥ずかしいのですが、お団子を食べ過ぎてしまって」
全くの嘘というわけではない。さっき、協力する礼として、団子をおごってもらったのだ。顔を赤くする草月を見て、正太郎はくすりと笑った。
「おなごはやはり団子や饅頭が好きなんですね。私の知り合いにも、甘いものに目がないおなごがいますよ。私が手土産に菓子を持っていくと、本当に美味しそうに食べてくれましてね。その笑顔が見たくて、何度も通いました」
「あの、それって、初音さんて人のことですか?」
愛おしげな表情に釣り込まれ、するりと言葉が口をついて出ていた。
「え? どうして初音のことを……」
(しまった!)
はっとして口を覆ったが、もう遅い。草月は観念して頭を下げた。
「ごめんなさい。白状します」
*
「……そうですか、初音の頼みで」
「本当にごめんなさい。騙すような真似をして」
何度も頭を下げる草月に、正太郎はいえいえ、と手を振った。
「そんなに謝らないでください。怒っているわけではないのです。むしろ、初音ならやりかねないと思って可笑しくて」
「あの、失礼ついでにお伺いしますけど、本当にあなたが猫を連れ出したんですか?」
「うーん、半分当たりで、半分はずれ、かな?」
正太郎はふふふ、と笑うと、もったいぶらずに絵解きをしてくれた。
「昨日、私はいつものように菓子を持って初音に会いに行きました。ですが、ご存じの通り、喧嘩になりましてね。菓子を渡す間もなく、早々に家に帰りました。ぶぶに気が付いたのはその時です。どうも、食べ物の匂いにつられて荷の中に入り込んでしまったようで……。しかも、間の悪いことに、母がその場に居合わせましてね。母は悲鳴を上げるわ、ぶぶは驚いて逃げ出すわで、昨夜はてんやわんやでした」
「え、じゃあ、ぶぶちゃんは今も行方知れずなんですか?」
「いえ、幸い、すぐに捕まえることはできたのです」
ただ、と正太郎は言葉を濁した。
「母が、今度の騒ぎを初音の嫌がらせだと思い込んで、私との縁談にますます頑なに反対するようになってしまって……」
「まあ」
何とも気の毒な話だ。話しているうちにすっかり正太郎の人柄が好きになっていた草月は、高杉の頼みということなど関係なく、正太郎の力になりたくなった。
「あの、お母さんのことは無理ですけど、私、初音さんに会って、事情をお話ししますよ。正太郎さんは猫をさらったりしてないって」
「よろしいのですか?」
「はい。きっと、初音さんだって、あなたが意地悪したなんて、本当は思っていないはずです」
「ありがとうございます。実はちょっと困っていたんです。すぐにでもぶぶを返しに行きたくても、昼間は店を離れられないし、母の目もあるので」
猫は物置部屋に隠してあるらしい。善は急げと廊下へ出た途端、出合い頭に男とぶつかりそうになった。先ほど、草月をここまで案内してくれた男だ。手には茶器を乗せた盆を持っている。
「ああ、重蔵。ちょっとこちらを厠までご案内するから、すまないけどお茶はそこに置いておいてもらえるかな」
「承知しました」
不審げな重蔵の視線から逃れるように、草月と正太郎はそそくさとその場を離れた。
店の最奥にある物置部屋は、薄暗く、中には所狭しと大小の箱が置かれている。正太郎曰く、先代が趣味で集めた骨董品なのだが、跡を継いだ今の主人も正太郎も全くその筋には疎いので、先代亡き後はこうして埃をかぶった状態になってしまっているらしい。
「もったいないので、いつかはきちんと整理しようと思っているのですが、なかなかその暇がなくて……」
言いながら部屋を見回すが、猫の姿はなく、こそりとも音がしない。
「おかしいな、確かにここに入れたはずなのに。入口の鍵もちゃんとかかっていたし」
「まさか、誰かが――?」
「いや、そんなことは……」
否定しつつも、正太郎は不安げに戸口を見やった。
「とにかく、事が大きくなる前に、早く見つけないといけませんね」
「はい」
頷きあって部屋を出ようとした時だった。
がたんと音がして積み上げられた箱の一画が崩れ、同時に上から何かが降ってきた。
「ぶぶ!」
「ええっ」
叫んだ正太郎には目もくれず、黒と白のぶち猫がさっと戸口から廊下へ飛び出していく。
「こら、お待ち!」
子猫を追って、草月と正太郎も間髪入れずに駆け出した。
ぶぶは脇目も振らず、一目散に逃げていく。
裏庭を通り抜け、土間の竈の間をかいくぐり、やがて目の前のわずかに障子の開いた部屋に飛び込んだ。
「まずい、あそこはおっかさんの部屋なのに!」
二人も続いて飛び込んで、次の瞬間、凍り付いたように動きを止めた。
部屋の中はまるで、嵐でも通り過ぎたかのような滅茶苦茶なありさま。燭台は倒れ、手文庫や箪笥の引き出しはことごとく開けられて中身が散乱しており、その中に埋もれるように、女将と思しき女性が、うつ伏せに倒れている。そしてその側にいたのは――。
「っ、重蔵!? お前、おっかさんに何したんだい!」
「くそっ!」
重蔵は物色の手を止めると、ぎらつく目を正太郎に向けた。
「この表六玉が! 大人しく、店の仕事にだけ精出しときゃあよかったものを!」
懐から出した手から、不気味に光る匕首が覗く。
「うわ」
草月は咄嗟に持っていた巾着を投げつけた。
結び目がゆるみ、中のマタタビ粉が重蔵の顔面に直撃する。怯んだのも一瞬、重蔵は顔中粉まみれになりながら向かってくる。
正太郎がかばうように草月の前に出た。その時だった。
に゛ゃおおおおうううん!
奇怪な鳴き声とともに、ぶぶが重蔵の顔に飛びついた。
「ぶぶ!」
「痛え! こいつ、離れろ!」
重蔵が必死にひき剥がそうとするが、猫は爪を立てて離れようとしない。たまらず重蔵は、二人を押しのけ逃げ出した。
「あっ、ちょっと、待ちなさい!」
女将の介抱を正太郎に任せ、草月は一人、男を追って廊下へ。
と、逃げる重蔵の前方から、ひょっこり高杉が顔を覗かせた。
「高杉さん! その人捕まえてください! 泥棒です!」
「何じゃと?」
驚く高杉のもとへ、重蔵ががむしゃらに突っ込んでいく。
ぶつかる――、と思った瞬間、ぐえ、という悲鳴と共に重蔵の体が崩れ落ちた。
高杉が咄嗟に刀の柄を、思い切り男のみぞおちに叩き込んだのだ。
「いったい、何があったんじゃ」
「それ、私も聞きたいです……」
ぽかんとする高杉の横で、草月は荒い息のままその場にへたり込んだ。
倒れた男の上で、子猫だけが嬉しそうに、にゃあんと鳴いた。
*
「まあ、そんな大捕物になったんですか」
菊乃がおっとりと小首を傾げた。
品川にある土蔵相模。海が見える眺めの良い一室に、高杉と草月、そして菊乃と初音がうちそろい、子猫を巡る意外な事の顛末を話していた。
でも、と初音は首を傾げ、
「その重蔵って人、なんで真っ昼間から盗みなんてしようと思ったのかしら」
「ああ、それは、ぶぶちゃんのことがあったからです」
「ぶぶの?」
初音は膝の上ですやすやと眠る子猫を見下ろした。
「何でも、重蔵さんは、以前から物置部屋の骨董品を少しずつ持ち出しては、お金に換えていたそうなんです」
店の者に気付かれないよう、後で、よく似た安物を元に戻しておくという念の入れようだった。
「ぶぶちゃんが正太郎さんの荷物に紛れて大和屋に来てしまった晩も、重蔵さんはこっそり木箱の中の壺を持ち出していたそうです。でも、ぶぶちゃんを探して一晩中店の人たちが走り回っていたから、代わりの品を置く機会がなかった」
「じりじりしちょる所に、僕らが現れたというわけじゃな」
「そうです。私と正太郎さんが物置のほうに行くのを見て、重蔵さんは気になって後をつけた。そして、そこでの私たちの会話を聞いて、自分の悪事が露見したと勘違いしたんです」
「それで、店のお金を奪って逃げようとしたのね」
「はい」
目を覚ました重蔵は観念したのか、洗いざらい白状した。幸い、正太郎の母親も大した怪我はなく、草月と高杉は、役人が来て厄介なことになる前にと、早々に退散してここへ来たのだった。
「でも、お二人が無事で良かった。私のせいで、こんな大変なことになってしまって、本当になんてお詫びしたらいいのか……」
「そんな、気にしないでください。私も高杉さんも無事だったわけですし。むしろ、お手柄ですよ。初音さんのおかげで、悪党を捕まえられたんですから。ねえ、高杉さん」
「そうじゃそうじゃ。間諜の真似事もなかなか楽しかったしのう。それに、猫が正太郎を助けたと聞いて、母親の態度も軟化してきちょる感じじゃぞ」
「えっ……」
初音はぽっと頬を染めた。
初音の動揺が伝わったのか、子猫がなおーんと鳴いて伸びをする。そして、何の気まぐれか、草月のほうへ歩いてくると、よじよじと膝の上に登り始める。
「あら、珍しい。ぶぶが自分から寄って行くなんて」
「マタタビの匂いでも残ってるんでしょうか。……おーい、もう何も持ってないよ」
言いながら、そっと撫でると、甘えるように顔を寄せてきた。ふわふわとした柔らかな感触に、思わず頬がゆるむ。
「……そういえば、“ぶぶ”って、変わった名前ですよね。何か由来があるんですか?」
「ええ。ぶぶ漬けから取ったの」
「ぶぶ漬け?」
「京の言葉で、お茶漬けのこと。私は京の出なんだけど、京では、お客にぶぶ漬けを勧めることが、すなわち早く帰れって意味なの。だから、この子も、いけ好かないお客を追い払ってくれますように、って」
「ははあ、招き猫ならぬ、追い払い猫、というわけじゃな」
横から手を伸ばした高杉が、くりくりと子猫を撫でた。ぶぶは気持ちいいのか、大人しくされるがままになっている。
「それで本当に悪党を追い払ったんじゃけえ、大したもんじゃ」
高杉の言葉に皆で笑い、ひとしきりぶぶを肴に会話の花が咲いた。
*
そして、後日。
草月のもとに、初音から文が届いた。
草月様
あれから一度も遊びにいらっしゃいませんが、お変わりありませんか。
実は、今度の九月吉日に、正太郎様に身請けされ、祝言を挙げることになりました。
これも、あなたと高杉様のおかげだと、本当に感謝しています。
もし、困ったことがあったら、いつでも言ってください。
今度は私たちが力になります。 初音
追伸 もちろん、ぶぶも一緒です。