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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第1話 たつみ屋騒動

 文久元年。

 それは日本において、嘉永七年のペリー来航に始まる外威と、それに伴う幕府の支配体制のゆらぎが顕著に表れだしていた時期である。

 国内は開国派、攘夷派に別れ、諸藩・朝廷をも巻き込んだ対立は激化の一途を辿っていた。

 近くは桜田門外での大老・井伊直弼の暗殺により、幕府の権威は地に落ちたも同然だった。これを憂いた幕府は、威信回復のために公武合体策を推進。攘夷断行を条件に、和宮降嫁が決定された――。

(黒船も大老暗殺も和宮の結婚も、歴史の授業で聞いたことばかり……。今更だけど、私、ホントに幕末にいるんだなあ……)

 彼岸も過ぎたというのに、残暑はまるで長っ尻の客のようにしつこく居座り、夕刻になっても空気は熱をはらんだまま、唯一、壁の花入れに活けられたススキだけが、秋を感じさせる。

 薄暗い土間に一人立って、膳に酒器を並べていた若い女は、額に滲んだ汗を腰の手ぬぐいで丁寧に拭った。

 仕事をしやすいようたすき掛けにした、洗いざらしの藍色の格子縞の着物。僅かに長さの足りない髪を無理やり島田に結ったその上には歯の欠けた古い白木の櫛が差してあるばかりで、色気も素っ気もない。

 彼女――草月そうげつが現代の京都から幕末の江戸へと迷い込んでから、半年余りが経つ。

 『草月』という少し変わった名前は、彼女が世話になっている茶屋『たつみ屋』の女将がつけてくれたものだ。

 『たつみ屋』は、江戸城の南東に位置する深川の一画にある。深川の芸者たちは羽織芸者、辰巳芸者とも呼ばれ、男のような源氏名をつけるのが習いであり、『芸は売れども身は売らず』の信条と、その気風の良さから、粋を好む江戸っ子の絶大な人気を得ていた。

 『たつみ屋』では女将を筆頭に五人ほどの芸者を抱え、一階を客用の座敷、二階を芸者たちの部屋として使い分けている。裏手には、縦横に水路の通る江戸の地形を利用して船着き場が設けられ、直接船で乗りつける客も多い。

 今でこそ、ここの暮らしにも多少は慣れたが、最初の一月ほどは本当につらかった。

 何しろ着物も一人で着られないし、火のおこしかたも、井戸水の汲み方も分からない。正座をすればすぐに痺れを切らす。箸の上げ下げから畳の歩き方、襖の開け閉めといった基本的な礼儀作法すら何も知らない。お金の単位も、重さや長さの単位もちんぷんかんぷん。

 朝から晩まで仕事に追われ、精根尽き果てて薄い布団に倒れこめば、今度は結った髷を崩さないよう、箱枕と呼ばれるやたらに背の高い枕に首を預けて眠らなければならず、落ち着いて眠ることも出来ない。朝起きれば、首ならず全身ががちがちに凝り固まった。

 殺菌消毒に慣れた現代人の虚弱な胃に食べ付けぬ食事は堪えたのか、腹までこわす始末。ちゃんとした医者も少ないこの時代で、その時は本気で死ぬかと恐怖した。

 体が回復してからも役立たずなのは相変わらずで、そんな自分が情けなく、何より愛想をつかされて放り出されやしないかと不安でいっぱいだった。

 それでも、厳しいけれど頼りがいのある女将、明るく面倒見の良い姉芸者らに囲まれて、少しずつ出来ることも増えていった。

 最近では、掃除や洗濯の合間に、文字の読み書きを教わったり、芸事の稽古をつけてもらえるようになったりして、もとの生活を懐かしがる暇もない忙しさだ。

 だが、ふとした時に考えてしまう。なぜ自分はここに来たのか、どうすれば帰れるのか……。博物館で展示されていた屏風を見ていてこうなったのだから、もう一度あの屏風を見れば帰れるかもしれない。

(確か、坂本龍馬暗殺の現場にあった屏風なんだよね、京都の何とかっていう店の……)

 だが、その肝心の名前が分からない。

(あー、こんなことなら、もっとちゃんと説明書き読んでおくんだった!)

 いささか乱暴にお銚子を膳に置いた、その時。

「草月! いつまでもたもたやってるんだい! さっさと終わらせて、栄吉を呼んで来とくれ!」

 表の方から女将の叱咤が飛んできた。

「はい、ただ今!」

 草月は慌てて膳を整えると、先輩芸者を呼びに二階へ上がった。


                      *


 黄昏時。普通の庶人には一日が終わろうとする時間だが、花街はこれからが本番だ。

 仕事帰りにちょいと遊んで帰ろうという男達や、華やかな着物に身を包んだ芸者達で通りは賑わい、そこかしこから三味線の音や客引きの声が聞こえてくる。

「栄吉さーん、支度は済みました? 女将さんが呼んでますよ」

 部屋を覗くと、窓から身を乗り出すようにして通りを見ていた栄吉は、視線を上げぬままに、こっちこっちと手招きした。

「早く! 下見てごらん、異人が来てる」

「イジン? イジンって……、ああ、あの異国の人とかの異人ですか」

「ほかに何があるのさ。わざわざ深川見物に来たらしいよ」

 促されるまま横に並んで通りを見下ろすと、なるほど、帽子を被った洋装の男三人が物珍しげに前の道を歩いており、その周りは異人見たさの野次馬で黒山の人だかりになっている。

「こっからじゃ、あの妙な被り物のせいで、よく顔が見えないねエ。ちょいと! その頭のもん取ってみておくれよ!」

「ちょ、栄吉さん、聞こえちゃいますって」

 焦って止めようとした時。何の拍子か、異人の一人がひょいと顔を上げこちらを見た。

「うわっ」

「なに、どうしたんだい」

 いきなりしゃがみこんだ草月を見て、栄吉が目を丸くしている。

「びっくりしたー……。目が合っちゃいました」

「ええっ、ほんとかい?」

 恐る恐る顔を出すと、相手もきょとんとした顔でこちらを見ている。

 驚いたからとはいえ、さすがに失礼だったかなと、ひょこりとお辞儀をすると、その人もにっこり笑って、ちょいと帽子を持ち上げ挨拶を返してくれた。そして、隣の連れに向かって、何やら早口でまくし立て始める。

「ちょっと、あの異人たち、こっち指差して何か言ってるよ。まさかうちに来ようってんじゃないだろうね」

 そうこう言っているうちに、にわかに玄関のほうが騒がしくなり、人垣を割って案内役らしい日本人の男が進み出てくる。

「この店の女将はいるか」

「私が女将の辰巳でございます」

 女将が挑むように前に出る。

「実はこちらの方々がここで休みたいと言っておる。部屋は空いておるか」

 一瞬の静寂。

 草月たちのみならず、野次馬たちもが固唾を呑んで見守る気配がする。

 そして、

「もちろんでございます。最高のおもてなしをさせていただきます」

 貫禄たっぷりに言い切った女将の返答に、周囲からどよめきが起こる。

 隣で、栄吉があちゃー、と額に手をやった。

「皆様、お疲れでございましょう。すぐにお部屋にご案内いたします」


                         *


 女将が奥座敷へと客を案内している間、残された芸者たちは騒然となった。

「どうするのさ、異人相手なんて!」

「あたしゃ嫌だよ、あんたお行きよ」

「あたしは今日、他のお座敷に呼ばれてるんだ。こういうのは妹分の役目だろ」

「姐さん、そりゃないですよ。こういう時こそ、年の功でしょう」

 押し付け合いになりかけたところを、

「静かにおし!」

 凛とした声が割って入った。

「――女将さん」

「いいかい、みんな。お客がどこの誰であろうと、あたしらのやることに変わりはないんだよ。それを異人に臆したとあっちゃあ、辰巳芸者の名折れだ。違うかい」

「その通りさね!」

 答える者があって、周りもそうだそうだと頷き合った。

「なら、最高の芸でもてなして、大和魂ここにありってとこをみせてやんな!」

「はい!」

 まさに鶴の一声。

 最前とは打って変わって、芸者たちは一様に高揚した顔でやる気をみなぎらせている。

「じゃあ私は、お酒の支度をしてきます」

 立ち上がって出ていこうとした草月に、女将が予想外の言葉を投げかけた。

「ああ、草月。お客様からのご指名だ。お座敷にはあんたもでてもらうよ」

「……え?」


                        *


 その頃。深川の通りを、両刀を手挟んだ三人の武士が歩いていた。

「長井の奴、まったくもってけしからん。航海遠略策など、いたずらに幕府の独断である開国を認めるようなものじゃないか」

 銀鼠色の着物を着た男が息巻く。

 身の丈は六尺(約百八十センチメートル)ほどもあるだろうか。並外れた長身に加え、それ以上に目を惹くのがきれいにそり上げられた頭である。

「高杉、お前だってそう思うだろう」

 坊主頭から湯気も出さんばかりに真っ赤になって怒る男は、隣を歩く小柄な武士に声をかけた。

 だが、高杉と呼ばれた男はそれには答えず、ぶすりとした顔で黙々と歩いていく。

 男の履いた高下駄の音だけが、返事の代わりのようにからりころりと通りに響いた。

「久坂さん、駄目ですよ。高杉さんのお父上は長井雅楽と昵懇なんですから。うかつなこと言っちゃ、お父上に逆らうことになってしまう」

 笑い含みに言ったのは、先頭に立って提灯で道を照らしていた小太りの男だ。

「俊輔、余計なことは言うな」

 高杉にぎろりと睨まれ、男はうへっと肩をすくめて前に向き直った。

 と、角を右に曲がったところで、ふいに立ち止まる。追いついた久坂が、不思議そうに問うた。

「どうした、俊輔。何かあったのか?」

「いや、やけに人が多くて……」

 花街が賑やかなのはいつものことだ。だが、今日はどうも様子が違う。

「ねえ、いやに人が多いけど、お祭りでもあるの?」

 手近にいた娘をつかまえ聞いてみる。

「あ、俺は別に怪しい者じゃないよ。俺は長州藩の伊藤俊輔。深川には可愛い子が多いって聞いてたけど、本当だね。君みたいな子に会えたんだから」

「まあ」

 娘はたちまち頬を染めて、俯いた。

「こら、いきなり口説いてどうする。――すまないね、君。知っていたら教えて欲しいんだが、この人だかりは何なのだろう」

「はい、あの、何でも、異人が遊びに来ているらしくて。みんな見物に集まってきたみたいです」

「おい、それは本当か!」

 高杉が血相を変えて割り込んだ。

「は、はい。三人連れだって来られて、今は『たつみ屋』という店にいるとか……」

「『たつみ屋』じゃな!」

 言うなり駆け出した高杉の後を、慌てて久坂が追いかける。

「あ、あの、私、何か悪いことを……」

「大丈夫、気にしないで。君に迷惑はかけないから。君、この辺の芸者? じゃ、今度また会えたら、その時に名前教えてね」

 さらりと調子のいいことを言い残し、伊藤も二人を追って人混みの中に消えていった。

「何事も起こらなければいいけど……」

 一人取り残された娘は、不安げに通りの先を見つめていた。


                         *


(ど、どうしよう……)

 華やかな着物に着替え、白粉を施された草月は、かちこちに緊張して客人の隣に座っていた。

 二階から目が合った、あの異人である。

 まばゆい金髪に、湖面のような澄んだ青い目。理知的な顔立ちは一見冷たそうに見えるけれど、笑うと目じりにしわができて人懐っこい印象になる。

「Nice to meet you.」

 嬉しそうに手を差し出され、おっかなびっくり握手する。

「ど、どうぞよろしくお願いします。あの、私、草月と言います」

 言いつつ自分を指差し、

「名前、草月」

「ソー、ゲッツ?」

「そ・う・げ・つ」

「Ah~……」

 外国人には発音しづらいらしい。眉をへの字にする様子が可笑しくて、思わずにっこりしてしまった。

「ふふふ、言いにくければ、ソウでかまいません。ソ・ウ」

「Oh,OK. ソウ」

「うまいうまい」

 手を叩いて褒めると、男はおもむろに自分の顔を指差し、

「――――」

 多分、名前を言ってくれたのだろうが、耳慣れない音のため上手く聞き取れない。

 分からない、と首を振ると、今度はゆっくりと、

「Jude・Bain」

「ジュード・ベイン……さん?」

 自信なげに返したが、ベインは大げさなくらいに手を叩いて喜んだ。

 そうして、ベインの片言の日本語や身振り手振りで、もたもたしながらも会話は弾み、草月はこの陽気な異人とすっかり打ち解けていた。

 案内役の話によると、ベインたち三人は、イギリスの領事館で働いていて、今日は護衛の役人の目を盗んで、こっそり遊びに来たのだという。

(でも良かった。思ったより何事もなく終わりそう。女将さんには、多少なりとも異国の知識がある人間として、この場を頼むって言われたけど)

 ベインの連れの二人も、それぞれ女将と栄吉に酌をしてもらったり、お座敷遊びに興じたりと楽しんでいる様子だ。

 ――その気のゆるみが、いけなかったのだろうか。

 折しも、女将が席を立ち、ベインが厠へと行っている時。

 にわかに表で聞こえた物音に、反応するのが遅れた。

 はっとした時には、土足のまま座敷に上がり込んだ男たちが目をぎらつかせてこちらを見下ろしていた。

「夷狄がいるというのはここか!」

「蛮族が、ようもぬけぬけと遊んじょるもんじゃ! ここで叩き斬ってやる!」

「天誅!」

 逃げ惑う異人や芸者たちで、和やかな場は一転、阿鼻叫喚の場と化した。

「な、何なんですか、あなた達は!」

 草月は、この場を女将から任された以上、自分がしっかりしなきゃと、精いっぱいの虚勢を張って暴漢の前に立はだかった。

 吊り目の暴漢は、ますます目を怒らせ、

「そいつらはこの国を土足で踏み荒らす害虫じゃ!放っておけば日本は夷狄に乗っ取られてしまう。分かったらどけ!」

「はあ!?」

 手前勝手な言い分に、恐怖も忘れてむくむくと怒りがわいてきた。

「何が害虫ですか! 土足で上がり込んでるのはそっちでしょう! 大体なんですか、お客様のお座敷にずかずかと。失礼でしょう!」

「何が客じゃ! 異人は敵じゃ! 異人をもてなす奴があるか!」

「異人だろうが、お大臣だろうが、お饅頭だろうが、私たちにとっては大事なお客様です!」

「なんじゃと!」

 男のこめかみに青筋が浮かんだ。その時。

「高杉! 異人どもが逃げた!」

 戸口で背の高い坊主が叫んだ。

 言い合いをしているうちに、栄吉たちが逃がしてくれたらしい。

 高杉は言い足りぬようにこちらを睨みつけていたが、

「……チッ」

 くるりと背を向け、来た時と同じく、あっという間に姿を消した。

(……は……、助かった……)

 気が抜けて、くたりと崩れ落ちそうになった体を、横から支えてくれた手がある。

「よくやったね、草月」

「女将さん……」

「安心おし、ここにいたお客様なら、無事だから。でも、もうおひとりが見つからなくてね……。どこに隠れたのやら」

「……あ!」

(忘れてた、ジュードさんが厠へ行ったままだったんだ!)

 何も知らずに戻ってきて、万一暴漢と鉢合わせしたらまずい。

「私、探してきます!」

「見つけたら裏手へお連れしな! 猪牙船ちょきぶね用意して待ってるから!」

「分かりました!」

 女将の言葉に背中で答え、奥の厠へと急いだ。

 と、渡り廊下の庭先に、人影を認め、ほっとして駆け寄る。

「ジュードさん!」

「ミス・ソウ、ドウカシマシタ?」

 のほほんとしている。どうやら表の騒ぎのことは何も知らないらしい。

「申し訳ないんですけど、急いで逃げてください。ジュードさん達を殺しに、刀を持った人達が襲ってきて……」

「Sorry, I can’t understand. Please say slowly.」

「あああ、分からないですよね、えーと、何て言えば良いのかな」

焦っていて頭が回らない。

(『殺し屋』って、英語で何て言うんだっけ。刀、斬る、キラー……、そうだ!)

「キラー!」

「What?」

「Killer come here!」

 草月は半ばやけっぱちで言った。発音なんか構うものか。

「Please escape!」

 ベインは目にありありと驚きの色を浮かべて草月を見つめた。

 それが内容に対してのものか、それとも目の前の女が突然英語をしゃべったことに対してのものなのかは分からない。とにかく今は逃げてもらわなくては。

 強引に腕をつかんで、仲間の待つ裏手へと急ぐ。

 ――ベインのことに気を取られていた草月は気付かなかった。

 自分たちをじっと見つめる視線があったことに。

(何者じゃ、あの芸者……)

 物陰に身を潜めていた高杉は、詰めていた息をゆっくりと吐いた。

(あいつ、確かにえげれす語を話しちょった……。――面白い)

 異人は逃したが、代わりに興味深いものを見つけたらしい。

(面白いことになりそうじゃ)

 くいっ、と口角を上げた。と同時、

 ピリピリピリピリ――

 呼子の音が空を裂いた。

「……役人か」

 一瞬、異人たちが逃げた方を見る。が、すぐに踵を返した。

「高杉、こっちだ!」

 すでに久坂と伊藤が人気のない塀の前で手招きしている。三人は塀を乗り越え、漆黒の闇の中に消えていった。


                        *


 乱入騒ぎから三日。役人からの質問攻めも、滅茶苦茶になった座敷の片付けも終わり、『たつみ屋』にもようやく平穏な日常が戻ってきた。

 ……はずだった。

「女将さんを捕まえる?」

 突然現れた役人の言葉に、応対に出た草月は二の句が継げずに絶句した。

「そうだ。ここの女将が暴徒と図り、えげれす人暗殺を企てた疑いがある。詮議のため、番所までご同道願おう」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 固まる草月を押しのけ、栄吉が前に出た。

「お役人様、そりゃ何かのお間違いじゃございませんか? 女将さんは、暴漢からお客様を守ったんですよ。それに、お客様がこの店に来たのだって偶然で、事前にあれこれ企てなんか出来やしません」

「申し開きは番所にて聞く。取り次がぬというなら、力ずくで引っ立てるぞ!」

「それには及びません」

 凛とした声がして、女将が静かに進み出た。

 いつものように、背筋をぴんと伸ばして、毅然と役人に対峙する。

「お話は承りました。身に覚えのないことではございますが、お役目とあれば致し方ございません。存分にお調べください」

 深々と頭を下げた。

「女将さん!」

 口々に悲鳴のような声を上げる娘たちに向き直り、

「あたしがいない間、店のことは頼んだよ」

 そう言い置くと、裾さばきも鮮やかに、堂々とした態度で連れられて行った。

「女将さん、大丈夫でしょうか……」

よっぽどひどい顔をしていたのだろう。栄吉はぴしゃりと草月の額を叩いた。

「何言ってんのさ、当たり前だろう? 疚しいことなんざ、何一つないんだ。すぐにご放免になって夜には帰ってくるさ」

「そうですよね」

 だが、草月らの願いとは裏腹に、二日が過ぎ、三日が過ぎても女将は帰ってこなかった。

「駄目だ! 番所の連中、何を聞いても詮議中の一点張りで、どうなってるのかちっとも分かりゃしない」

 様子を見に行っていた栄吉が苛立たしげに足を踏み鳴らし、他の芸者達も不安げに顔を見合わせた。

 事態が急転したのはその日の夕刻のことである。女将を、事件の首謀者として処罰するとの報せが入ったのだ。

「どういうことですか!? 女将さんが首謀者って!」

「役人につてのあるお客が教えてくれたんだ。えげれす側が圧力をかけてきて、早急に犯人を挙げないといけなくなったらしい。それで、手っ取り早く女将さんを首謀者に仕立て上げて、無理やり終わらせるつもりだって」

「そんなのまるっきり濡れ衣じゃないか! お門違いもいいところだよ!」

「そうですよ! それに、そんな話、外国側が信じるでしょうか? 女将さんが何もしていないっていうのは、あの場にいたお客さんだって分かるはずです」

「何とでも言い繕うんだろうさ。そういうのだけは得意だからね。役人てのは」

 吐き捨てるような言葉を最後に、皆黙り込む。

 誰の顔にも怒りと悔しさが浮かび、重苦しい空気が満ちた。

「あ――」

 ふいに草月が顔を上げ、

「なら、本当の首謀者は? あの夜、襲ってきた人たち。あの人たちを見つけられたら、女将さんの無実が証明できます」

「馬鹿だね、役人が血眼になって見つけられないものを、あたし達が見つけられるわけないだろ」

 その通りだ。

(……でも、このまま何もしないでいたら、本当に女将さんは犯人にされてしまう。……『頼むよ』って言われたのに。私がもっとちゃんと周りに注意を払ってたら、あんな騒ぎにならずに済んだかもしれないのに)

 世話になったままで。ろくに恩返しもできていないままで。

「――なら、玉砕覚悟で乗り込むしかないよ!」

 栄吉の言葉が草月の意識を現実に引き戻した。

「皆で奉行所に行って抗議するんだ。あたしらも捕まっちまうかもしれないが、ナニ、望むところさ! 女将さんをこのまま見捨てるわけにはいかないからね」

 他の芸者達も口々に賛成し、あっという間に話はついてしまった。

(……どうしよう)

 他に良い手もなく、草月は布団の中でもんもんとしていた。

 このままでは、みんな捕まってしまう。

 眠れなくて、外へ出た。

 夜明けにはまだ少し間がある。

 月明りに照らされた薄暗い通りの向こうに、小さな提灯の明かりが揺れている。

「……お花ちゃん?」

 間違いない。女将に踊りを習いに来ている芸者の一人、花菱だ。歳は草月より下だが、一緒に稽古するうちに親しくなり、互いの休みを合わせて、芝居見物に出かけたこともある。

 花菱は草月に気付いて駆け寄ってくるなり、わっと泣き出した。

「ど、どうしたの、お花ちゃん!」

「ごめんなさい! 私のせいなの! 私がたつみ屋のこと教えたから、こんなことに……」

「とりあえず落ち着いて。ゆっくりでいいから話して。教えたってどういうこと?」

 草月に優しく促され、花菱はつっかえつっかえ、騒ぎの晩に三人組の武士に会ったことを話した。

「まさか、あんな騒ぎになるなんて思わなくて……。女将さんが犯人の仲間にされて罰を受けるって聞いて、どうしていいかわからなくて……」

 再び涙をにじませる。

「大丈夫。お花ちゃんのせいじゃないよ。……ねえ、その人たちのこと、何か覚えてない? 名前とか、どこに住んでるかとか」

「確か、長州藩だって言ってた。長州の伊藤俊輔だって」

「長州……。そっか、ありがとう。参考になった。大丈夫、心配しないで。お役人も人違いだって分かって、女将さんもきっとすぐ戻ってくるから」

 笑ってそう言うと、花菱も話して気が楽になったのか、幾分表情を和らげた。

 白んできた通りを小走りで帰るその後姿を見ながら、草月は一つの決心をしていた。


                       *


 主に町人たちの住む深川から、江戸城近くにある武家地まではおよそ一里(四キロメートル)ほどの距離がある。

その道を、草月は全力で駆けていた。

 あの時の暴漢三人を見つけて話をつける。それが草月の出した答えだった。

 血相を変えて走る草月を、早起きの棒手振りが何事かというように振り返る。日本橋を渡り、いくつもの町を抜けて、やがて大きな屋敷が並ぶ一画へ。初めて足を踏み入れたそこは、馴染みのある喧騒とは無縁の場所だった。

(……どれが長州の屋敷なんだろう)

 直接幕府に仕える直参と違い、各藩は江戸にそれぞれ藩邸を置き、江戸での政務に当たっている。だが、何々屋敷と表札が出ているわけではなし、どれがどこの屋敷なのかさっぱり分からない。

 しばらくうろうろした後、運よく通りかかった蕎麦売りの男に場所を聞き、ようやくたどり着くことができた。

「ここか……」

 派手さはないが、どっしりとした重厚な構えの門。そこから左右に延々と続く白壁。

(この一帯全部長州のお屋敷? 大学の敷地分、余裕で全部入りそう……)

 気持ちがめげそうになるのを、女将さんを助けるためだと必死で奮い立たせる。大きく深呼吸すると、意を決して声を張り上げた。

「すみません! どなたかいらっしゃいませんか! ――すみません! 誰か!」

「何事じゃ、こんな夜明けの時分に」

 かんぬきの外れる音がして、通用門から門番らしき男が顔を出した。

「あの、突然のご無礼、お許しください」

 先手必勝とばかりに、頭を下げる。

「私、深川にある『たつみ屋』という店から来た草月と申します。こちらの、伊藤俊輔様か、高杉様にお取次ぎ願えませんでしょうか」

「生憎じゃが、二人は誰とも面会できぬ。後日出直すんじゃな」

「それでは遅いんです! 何とか今、会えませんか? ほんの少しでいいんです! 女将さんが……」

「駄目なものは駄目じゃ。分かったら大人しく帰れ」

 食い下がる草月をうるさそうに手で払うとぴしゃりと門を閉じ、後は草月がいくら戸を叩いても叫んでも開けてくれることはなかった。

「……何よ! 話くらい聞いてくれてもいいじゃない!」

 腹立ちまぎれに扉に蹴りを食らわせ、憤然ときびすを返した。

 こっちが駄目なら、ベインに事の次第を話して、役人に女将を開放するよう働きかけてもらうまでだ。

(確か、品川にある東禅寺っていう寺を領事館として使ってるって言ってた)

 大丈夫、まだやれる。

 自分に言い聞かせるように呟いて、次第に明るくなる町を、西へ急いだ。


                     *


「やれやれ、ようやく諦めたか」

 遠ざかる足音に、門番の男は大きく息をついた。途端に戻って来た眠気にまかせ、大口を開けて盛大なあくびをする。

 そこに、笑い含みの声がかかった。

「眠そうだな」

「こ、これは周布様!」

 冷や汗を浮かべて振り返ると、面白そうにこちらを見る男と視線がぶつかった。

 長州藩の重役の一人、周布政之助である。

「い、いつから……」

「なに、ほんの数日前さ。江戸在府を命じられてな」

「いえ、そうではなく……」

「はは、君が客人を追い出した辺りからかな。それで、どういう用だったんだ?」

 高杉と伊藤に会いに来たようだ、と話すと、周布は扇子を扇ぐ手を止めた。

「あの二人は確か、久坂と一緒に謹慎中じゃなかったか? 町で騒ぎを起こしたとかで……」

「はい。ですから、今は会えないと申したのですが、何ともしつこい女で。深川から来たと言っちょりましたけえ、大方、ツケの催促にでも来たんでしょう。――あの、何かまずかったでしょうか」

 思案するように黙り込んだ周布に、男は少し不安になる。

「いや、何でもないよ。さて、俺もそろそろ仕事に行かないと」

 周布はじゃあ、と言ってその場を去ると、その足で藩士達の暮らす長屋へ向かった。

「高杉、俺だ、周布だ。起きてるか?」

 戸口で呼ばわると、眠そうな顔が中から覗いた。

「周布さん? 何ですか、こんな朝っぱらから。説教なら、桂さんに散々食らいましたよ」

「用があるのは俺じゃない。さっき、お前を訪ねて草月と名乗る娘がやって来てな。――その娘、深川から来たそうだ。女将がどうとか言ってたが、何か心当たりはあるか?」

「……深川?」

 眠そうだった高杉の目が、ふいに真剣味を帯びた。周布はじっとその反応を窺っていたが、やがて、

「俺の話はこれだけだ。ちゃんと謹慎していろよ。間違っても、抜け出そうなんて考えるんじゃないぞ」

 意味ありげに言い残して、周布は帰っていった。

 残された高杉は素早く着替えると、久坂の長屋の戸を叩いた。

「久坂、起きちょるか、久坂」

「高杉?」

 すでに起きていたらしい久坂は、高杉を見て思い切り眉をひそめた。

「なにやってるんだ。僕らは謹慎中の身だろう。勝手に部屋を出るなんて――」

 言いかけた久坂を制し、火急の事態だと長屋から連れ出す。

「よく分からんが、あの深川の店で何かあったらしい」

 伊藤も同様に連れ出して(爆睡していた)、三人は裏門からこっそり屋敷を抜け出した。


                         *


 さて、勢いよく東禅寺へ乗り込んでいった草月だったが、ここでも門前払いを食い、空腹と疲労も相まって、最初の勢いはどこへやら、すっかり気落ちしてしまっていた。

 とぼとぼと海沿いの道を歩きながら、店の皆のことを思う。

 きっと今頃、草月が消えたことを知って、心配しているだろう。

(何やってるんだろう、私。皆を助けるんだって意気込んで飛び出したのに、何もできてない。逆に皆に迷惑かけて……)

 目の奥が熱くなるのを、ぐっと堪える。

(馬鹿、弱気になるな! まだやれることは残ってる)

 ――町奉行所。

 素性を探られたくない草月には、一番足を向けたくない場所だった。

 それでも。

(助けてくれた女将さんを、私が見捨てるわけにいかないもの)

 幸い、栄吉たちはまだ来ていないようだ。

 草月のことで、ごたついているのかもしれない。

(まあ、それだけでも、飛び出してきた甲斐があったかな)

 ゆっくりと、大きく深呼吸する。

「おっしゃ!」

 気合一発、足を踏み出したその時。

(――!?)

 突如、背後から伸びてきた腕が、草月の体を羽交い絞めにすると、強引に横手の路地に引きずり込んだ。

(……このっ!)

 逃れようと必死でもがく草月の耳元で、意外な声が囁いた。

「おい、こら、暴れるな。何もせんけえ、少し落ち着け」

(――! この声……)

 はっとして動きを止めると、同時に腕の拘束がゆるんだ。そっと振り返る。

「まったく、とんだじゃじゃ馬芸者もいたもんじゃ」

 果たして、いつぞやの吊り目の暴漢が呆れた顔でこちらを見ていた。

「あなた……! 確か、高杉、さん? 何でここに! 何やってるんですか」

「女将を助けるつもりなら、必ずここに来ると踏んでな。待っちょったんじゃ。しかし、本当に一人で乗り込もうとするとはのう。行ったところで、追い返されるのが落ちじゃぞ。悪くすれば捕まる」

「な、他人事みたいに言わないでください。女将さんが捕まったのは、あなた達が暴れたせいじゃないですか」

「分かっちょる」

 高杉は神妙に頷き、

「『たつみ屋』で話は聞いた。僕らも女将救出に協力する」

「……え?」

 思ってもみなかった言葉に、怒りも忘れてぽかんとした。

「何を呆けた顔しちょる。さっさと行くぞ。小伝馬町の牢屋敷で、久坂たちと落ち合う手筈になっちょる」

「小伝馬町……? それって、女将さんが捕まってる所じゃ――」

 先に立って歩き出した高杉の背を慌てて追いかける。

「いったいどうなってるんですか、ちゃんと説明してください! 大体、私がさっき、藩邸に訪ねて行った時は、会わせてもらえなかったのに」

 高杉はふん、と鼻を鳴らした。

「謹慎中じゃったけえの。まあ、おいそれと取り次げんじゃろう」

「謹慎?」

「久坂が馬鹿正直にあの騒ぎのことを上役に報告してな。……抜け出してきた」

「い、いいんですか、勝手に」

「ちょっとくらい構わん。大体、部屋にいようがいまいが、傍目には分からんしな」

「そんないい加減な」

 この人、大丈夫かな。

 言われるがままついて来てしまったことを今更ながら後悔し始めたころには、もう目的の場所の前に立っていた。

「ああ、来た来た、こっちです!」

 草月たちの姿を認めて、横手の路地から見覚えのある男が手を振った。

 花菱の言っていた、伊藤だろう。では、隣の坊主頭の男は、上役に報告したという久坂か。

「良かった。ちゃんと会えたんですね。奉行所に殴り込みなんて、まさかと思ったけど、本当だったんだ。君、度胸あるんだなあ」

「こら、いきなり失礼だろ」

 すっかり感心したように言う伊藤を久坂が肘で突いてたしなめ、

「大変失礼した。僕は長州藩の久坂玄瑞、こっちは伊藤俊輔だ。……高杉は、もう知っているね?」

「――ああ、そういえば、ちゃんと名乗っちょらんかったの」

 草月が答えるより先に、高杉は居住まいを正すと、真っ直ぐに草月を見据えた。

「長州藩士、高杉晋作じゃ」

「……『たつみ屋』の草月です」

 鋭い目に気圧されそうになるのを、負けじと睨み返した。

「草月さん」

 久坂が神妙な顔で向き直り、深々と頭を下げた。

「女将のこと、知らなかったとはいえ、本当にすまない。心よりお詫び申し上げる」

「あ、いえ……」

 まさかそんな素直に謝られるとは思っていなかったので、咄嗟に言葉が出てこない。

「それで、これからのことなんだが……」

「ちょ、ちょっと待ってください。そもそも、皆さんはどうしてここに? 何がどうなってるのか、全然分からないんですけど」

 今度は久坂がぽかんとする番だった。え? と呟き、次いで高杉を見る。

「説明してなかったのか」

 高杉はふれくされたようにそっぽを向いた。

「したじゃろう」

「どこがですか! いきなり現れて、拐かしよろしく連れてこられて! それで急に女将さんを助けるとか言われても、さっぱり分かりませんよ!」

「おのしが暴れるけえ、悪いんじゃろう! だいたい、僕があの場で止めんかったら、今頃役人に捕まっちょったんじゃぞ!」

「誰のせいでこうなったと思ってるんですか! そもそもの原因はあなた方が―――」

「待った待った、二人共、ここで言い争ってる場合じゃないだろう」

 たちまち険悪な雰囲気になったのを、久坂が慌てて間に入る。

「順を追って説明するから、草月さんもとりあえずここは抑えて」

 二人が落ち着いたところで、久坂はゆっくりと話し始めた。

 藩邸を出た三人は、まっすぐ『たつみ屋』に向かい、そこで初めて女将が捕まったこと、草月が一人で飛び出したことを知った。

 草月を探しに今にも飛び出しそうな芸者たちを押しとどめ、自分たちが必ず探して連れ戻すからと説き伏せた。そして、高杉は奉行所へ、久坂と伊藤は女将の情報の真偽を確かめに牢屋敷へと赴いたのだった。

「本当は俺も、君を探す方に回りたかったんだけど。ちゃんと顔を覚えてるの、高杉さんだけだったし」

 肩をすくめる伊藤の後を久坂が引き取る。

「この牢屋敷の獄卒とは、訳あって知り合いなんだ。女将のことを聞いたら、牢にあっても毅然としてて、立派なものだと感心していたよ。酷い扱いは受けていないようだから、その点は安心していい。ただ……」

 久坂は顔を曇らせ、

「女将は何らかの処罰を受けるというのは間違いないらしい。一両日中に沙汰があるそうだ」

「そんな――!」

「それではあまり時間がないな」

「……高杉、やはり僕は奉行所に出頭して切腹する」

「何?」

「え?」

 高杉と草月の声が重なった。

(切腹って……。あの、お腹斬る、あれ? 本気で言ってるの?)

「おのし、まだそねいなこと言っちょるのか!」

「このままでは、僕らのせいで、関係ない人が罰せられるんだぞ! それに、僕が腹を斬ることで、長州の攘夷の志を明らかにし、長井を失脚させることができるなら本望だ」

「馬鹿! おのしが死んだら、長井を止める奴がいなくなるだけじゃ! これ幸いと、お得意の弁舌で幕府を丸め込むに決まっちょる。何度言えば分かるんじゃ!」

「そ、そうです! 切腹なんてやめてください!」

 我に返った草月も高杉に加勢する。

「私はただ、女将さんが釈放されればそれでいいんです!」

「しかし……」

「俊輔、おのしも言ってやれ」

「そうですね、まあ、腹を斬れと言われれば斬りますけど、どうせなら……」

 伊藤はにやりとして、

「もう一度斬りこんで、異人の一人も斬ってからがいいですね」

「ちょっと!」

「おお、それもいいな」

「高杉さんまで! もう、皆して馬鹿なこと言わないでください! 絶対駄目です!」

「冗談じゃ」

 高杉は笑って、草月の額をぽんと叩いた。

「異人の周りには護衛の役人が大勢ついちょる。この前のように単独行動しちょる時ならともかく、無計画に襲っても返り討ちに遭うだけじゃ。一日二日で出来るようなことじゃないけえ」

(とても冗談で言っているようには聞こえなかったけど)

 叩かれた額を押さえてじろりと睨みつけたが、高杉は意に介したふうもなく、涼しい顔で後を続けた。

「要は、女将があの一件とは無関係と分かればいいんじゃろう?」

 ふふん、と不敵な笑みを浮かべて。

「僕に妙案がある」


                      *


 四半刻後。草月は、高杉と品川への道を歩いていた。

 高杉の言う『妙案』に、ベインの協力を仰ぐためである。

(ジュードさん、聞いてくれるかな)

 女将を助けるためとはいえ、自分たちを殺しに来た者に協力しろなどと、虫の良すぎる話だ。ベインからすれば、高杉を役人に突き出せばそれで済むことである。

(でも、腹の立つことはあるけど、高杉さん達は悪い人じゃなさそうだし、死んだり、捕まったりして欲しくない……)

 考えているうちに、東禅寺の参道に来ていた。

「そうだ、高杉さん。忘れてたんですけど、私、朝ここに来た時、ろくに話も聞いてもらえずに門前払いされたんです。今行って通してもらえるでしょうか」

「そりゃあ、頼み方がまずかったんじゃな。人を動かす手段なんてものは、どこも同じじゃ」

 高杉の言葉通り、門番はあっさり二人を通してくれた。

(そ、袖の下……)

 見てはならないものを見てしまった気がして、草月は顔をひきつらせた。

 とにもかくにも、中へ入れたのは大きい。

 小間使いの男に、知り合いだと言って、ベインを呼んでもらう。

 ここで待つようにと通された部屋には、イギリス人の為だろう、板張りの床に精巧な造りの椅子や机が配置されている。

 壁に飾られた写真には、巨大な石造りの建物が並ぶイギリスの街並みや、蒸気機関車などが写っている。

(すごい……。この時代、イギリスはもうこんなに科学技術が発展してるんだ)

 それらを珍しそうに見ていた高杉が、ふと振り返って草月を見た。

「ところで、そいつ……、何て名前じゃった?」

「ジュード・ベインさんです」

「言いづらい名前じゃな、十兵衛でええじゃろ。その十兵衛は、言葉は分かるのか?」

「ええ、片言程度なら。前のお座敷の時は、案内役の日本の人が通詞もしてくれたので、それで何とかなったんですけど」

「ふうん。けど今日は、そいつに同席してもらうわけにもいかんじゃろ。おのし、十兵衛が来たら、えげれす語できっちり話をつけろ」

「え?」

「話せないとは言わせんぞ。あの夜、異人に向かってえげれす語で話しちょったじゃろう」

「き、聞いてたんですか!?」

 思わず口を手で覆った。

 血の気が引くのが自分でも分かる。

(どうしよう。絶対怪しまれてるよね、なんて説明すれば……)

「そう青くならんでも、僕は別に斬ったりせんぞ。どうして話せるのか、興味はあるがの」

「……」

 何か言わなければと、口を開いたその時。

「Oh, Fantastic Girl!」

 明るい声とともに、ベインが姿を現した。草月を見るなり、にこにこして駆け寄ってくる。

「Miss Sou.ゲンキデスカ?」

「あ、はい、元気です。ジュードさんも……」

「Yes.ワタシ、ゲンキ」

 高杉を見て、

「彼ハ? ダレデスカ?」

「えーと……」

 どう説明したらいいのか。迷っていると、高杉がすっと進み出た。

「長州藩士、高杉晋作じゃ。この間は失礼した。今日は頼みがあって来た」


                        *


 一通り話し終えた後、ベインは難しい顔で腕を組んだ。

 英語が話せるのは、横浜にいたことがあるからだと、江戸に来たばかりの頃に女将が考えた嘘で誤魔化し(横浜には外国人居留地があり、日本人も多数出入りしている)、たどたどしい英語でどこまで通じたかは分からないが、とにかくやれるだけのことはやった。

「勝手なこと言ってるのは分かってます。でも、女将さんを助けるためなんです。どうか、力を貸してくれませんか」

「……私としては、今すぐそこの男を役人に突き出したいところなのですがね。友人が殺されかけたのですから。しかし……」

 ベインはふうと嘆息し、

「実質的な被害はありませんでしたし、勝手に町に出た我々にも非があります。何より、命の恩人であるミス・ソウの頼みとあっては仕方ありません。協力しましょう」

「ホントですか! ありがとうございます!」

「ただし、犯人を野放しにして引き下がったとあれば、我が英国の威信に関わります。“犯人”には、必ず消えてもらいますよ、いいですね?」

「はい、お約束します!」

「では、交渉成立です」

 三人はがっちりと握手を交わした。


                         *


 東禅寺を辞すと、日はもうすっかり中天に上っていた。

 明け方、この場に立った時は、こんな事態になるとは夢にも思っていなかった。焦りと不安で爆発しそうな気持ちを抱えて歩いた道を、今は高揚する気持ちで高杉と歩いている。それが、とても不思議だった。

 途中、辻駕籠を拾い、『たつみ屋』へと乗りつけると、店の前で待っていた栄吉らがたちまち取り囲んだ。

「草月! 無事だったんだね」

「心配かけんじゃないよ、この娘は。一人で乗り込もうなんて、水臭いじゃないか」

 ぎゅうぎゅう抱きしめられ、嬉しいのと安心したので、急に足が震えてきた。

 本当はすごく怖かったのだ。

「みんな、心配かけてごめんなさい。ありがとう……」

 心からの感謝を込めて、ぎゅっと抱きしめ返した。

 そんな喧騒をよそに、高杉はするりと店の中に入った。そこには、すでに久坂と伊藤が待っている。

「首尾は?」

「上々だ。今頃、僕らが牢屋敷を襲うという報せが奉行所の方に届いているはずだ」

「こっちも、言われた物、全て用意できましたよ。ついでに、この店の人たちにも協力を頼んでおきました」

「よし、異人のほうも、話はつけた。なら……」

 高杉は表の集団を振り仰いだ。

「――草月! 取り込み中悪いが、作戦開始じゃ。女将を助け出すぞ」

「……はい!」


                        *


 江戸南町奉行所与力は、小伝馬町の牢屋敷前でひたすら冷や汗を拭っていた。

 つい先頃、深川の異人襲撃の犯人と名乗る人物から、女将救出の予告状が届き、勤番の自分が駆り出されたのだ。

 手下の岡っ引きと共に、獄卒の金六という男も応援に駆け付けている。

(それだけならまだしも……、なぜ異人までここにいるんだ!)

 事の次第を見届けると言って、通詞と護衛を引き連れて、強引にこの場にやって来たのだ。しかも、予告状のことがどこからか漏れたのか、物見高い江戸っ子たちも大勢集まっている始末。これはどうあっても犯人を捕まえなければ、自分の首が飛ぶ。

 ぶるりと身を震わせた時、金六がアっと叫んで、上を指差した。

 屋敷の塀の上に、まるで手妻のように突然男が三人現れたのだ。

 咄嗟に反応が遅れたのは、彼らがひょっとこやお多福などのお面をつけていたからだ。

「な……! き、貴様らが予告状の主か! ふざけた面をしおって」

「我らは藩を脱し、国のために夷狄を排せんとする攘夷志士である。先日、そこの異人を襲ったるは我らにて、店の女将とは関わりなきこと。即刻、その者を解き放て。さもなくば、力ずくで牢を破るのみ!」

「やってみやがれ三一(さんぴん)が!」

 身軽に塀を飛び下りた三人の前に、金六がだっと飛び出す。

 たちまち大立ち回りを繰り広げるのに、

「わ、我らも続け!」

 ようやく我に返った与力も配下を引き連れ突っ込んでいく。

 多勢に無勢。次第に浪人たちはじりじりと堀端へと追い詰められていき、ついに観念したのか、持っていた刀を自分の腹に向かって突き立てた。

「もはやこれまで! だが、我ら死すとも、必ずや同志が攘夷の志を継いでくれるであろう。そのこと、忘れるな!」

 捨て台詞を遺し、三人は後ろの堀へとゆっくりと沈んでいった。

 息を呑んで見つめていた野次馬たちも、思わぬ結末に呆然としている。

 ただ一人、ベインだけが大げさに喜んだ。

「さすがですね、与力さん。見事、悪人を仕留めました」

「ああ、いや、役人として当然のことだ」

 褒められてまんざらでもない与力だったが、

「これに免じて、幕府が見当違いの人間を捕えていたことは不問にします。今後、このようなことがないように」

 きっちり釘を刺されて、言葉に詰まった。

「さあ、早く女将を解放してあげなさい」


                      *


「……ねェ、本当に女将さんは帰ってくるんだろうね」

「大丈夫ですよ、栄吉さん。『本当の下手人』は切腹したし、役人だってこれ以上女将さんを捕まえておく理由がないですから」

 そう言いながらも、草月はそわそわと外の様子を気にしている。

 強い西日が照り付け、長い影が伸びる通りには、まだ待ち望んだ人の姿はない。

 揺らめく陽炎にふっと目を閉じる。

 そして、目を開いた、その時。

 通りの向こうに、牢番に付き添われて、懐かしい女将の姿があった。

「女将さん!」

 少しやつれてはいるものの、背筋の伸びた凛とした立ち姿は以前のままだ。

「良かった、ご放免になったんですね!」

「お体に障りはありゃしませんか?」

「みんな、そりゃあ心配したんですよ」

 他の芸者達も一斉に駆け付け、わっと女将を取り囲む。

「心配かけたね、皆。この通り、あたしはぴんぴんしてるよ。……けど、あんた達! そろって油売ってるんじゃないよ。お客様を迎える準備はどうしたんだい。さあ、さっさと仕事に戻りな!」

「はいっ」

 女将の一喝を受け、全員首をすくめて持ち場に戻っていく。

 だが、その誰の顔にも抑えきれない笑みが浮かんでいる。

(……ああ、この感じだ)

 やっぱり、女将さんがいなくちゃ『たつみ屋』は始まらない。胸に暖かさを感じながら、草月はそっと二階へ上がった。

 奥の小部屋へ顔を出し、

「皆さん! 女将さん、帰ってきました!」

「ああ、聞こえた。良かったな、僕らも一安心じゃ」

 答えたのは、ひょっとこの面をくるくると器用に回していた高杉だ。

「僕の作戦に間違いはなかったじゃろう?」

「そうは言うが、僕はお前のくさい芝居がばれやしないかと冷や冷やしたぞ」

「でも久坂さんも、結構のってやってましたよね。最後の切腹の場面なんか名調子でしたよ」

 伊藤が言うと、久坂は顔を赤らめた。

「そりゃあ、武士の切腹はたとえ芝居でも力が入るだろう」

 高杉の作戦というのは、浪人に化けて異人を襲撃した下手人であると偽り、役人の前で死んだと見せかける、というものだった。

 堀に落ちた三人を、船で待機していた草月と栄吉がこっそり引き上げ、店まで戻って来たのである。

「さて、では、僕たちはこれで引き上げるか。女将にも会っていきたいところじゃが、色々と長くなりそうじゃけえの。日を改めて詫びに参る」

 大刀を手に立ち上がる三人を、裏口まで見送る。

「金六さんも、お世話になりました」

 作戦に協力してくれて、わざわざ女将を送り届けてくれた獄卒にも頭を下げる。

「礼には及びませんや。松陰先生のお弟子さんの頼みとあっちゃ、断るわけにはいきやせんから」

「しょういん先生?」

「……ああ、お嬢さんはご存じないか。長州に、吉田松陰ってえ、そりゃあ偉い先生がいなすったんですがね」

「よしだしょういん……」

 どこかで聞いたような。

「――って、吉田松陰!? あの? 松下村塾で教えた人ですか?」

「おやよくご存じで。二年ほど前になりますか。先生がお上に睨まれて、牢に入れられた時、お世話させていただいたのが私なんです」

「金六には、獄中の先生に金や文を届けてもらったりと、色々世話になってな」

 金六の後を高杉が引き取る。

「結局、幕府の奴らにむざむざと殺されてしまったが……」

「高杉、だからこそ僕らが頑張らねばならないんだろう。先生の御意志を継ぎ、日本のために力を尽くすんだ」

 久坂の横で、伊藤も大きく頷く。

「じゃあ、高杉さん達は……」

 吉田松陰の弟子なんですね、と続けようとして、ふいに何かが引っかかり、言葉が途切れる。

 急に黙り込んだ草月を訝しげに見やる高杉をよそに、草月の頭はかつてないほど高速で回転していた。

(待って……。吉田松陰、タカスギシンサク……。高杉、しんさく。まさか……)

「えええ!? 高杉さんが、あの高杉晋作!?」

「僕がどうかしたのか」

「……気にしないでください。今、ちょっと、人生第二の衝撃に耐えてる所ですから」

 ちなみに第一はこの江戸にやって来たことである。

「……まあ、おなごには色々あるってことじゃないですか?」

 伊藤が分かるような分からないようなことを言って、皆、訳が分からないなりに納得したようであった。

 またな、と言って帰って行く四人の後ろ姿を見送りながら、草月は深々とため息をついた。

(なんか、とんでもない人と知り合いになっちゃったみたい)

 こうして、たつみ屋騒動は幕を閉じた。

 ただ一つ、草月の心に嵐を残して――。


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