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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第9話 幽霊の落とし物・前

 久坂が江戸を発って間もなく、高杉にも大きな転機が訪れた。近く、幕府がイギリスへ送る使節の随行員として、イギリス行の内示が下ったのだ。

 高杉の喜びようは大変なもので、さっそく英国史を読み始めたり、草月に英語の教示を頼んだりと、かなりの張り切りようである。

(普段は攘夷、攘夷って言ってるくせに、外国に行くことや言葉を習うことには抵抗がないなんて、変なの。……まあ、知ろうとしてくれるのは嬉しいけど)

 ただ、行くとなれば一年や二年は帰ってこない。しかも、イギリスまでは順調に行ってもひと月はかかる上、無事に着けるという保証もない。

「大丈夫かなあ」

「え、何が?」

 知らず、口に出してしまっていたらしい。

 伊藤がはたきを持った手を止めて、草月を振り返った。

「あ、ごめんなさい。ちょっと、高杉さんの洋行のこと考えてて」

 草月は慌てて仕事に意識を戻した。

 二人がいるのは、有備館にある書庫である。天気もいいので、書物の虫干しがてら、整理をしているところだ。桂の計らいで有備館の講義を受け始めて以来、お礼の意味も兼ねて、時々雑務を引き受けるようになっていた。

「ああ、アレ。……高杉さんは喜んでるけど、俺はあんまり賛成できないな。使節を送るなんて、夷狄におもねるようなこと、日本の恥だよ」

 そんなんだから、夷狄に舐められるんだ、と伊藤は強い調子で言った。

「それよりさ、今晩、一緒に飲みに行かない? 紹介したい奴がいるんだ。志道聞多って言って、最近、藩主様について江戸に来た奴なんだけど」

「志道、さん? その人も、村塾にいた人なんですか?」

「ううん、俺は聞多とはこの間初めて会ったんだ。身分も向こうがずっと上なんだけど、お互い女好きってことで、妙に馬が合ってさ。二人で江戸中の遊郭を制覇しようって野望を誓い合って……」

 調子良く言っていた伊藤は、白い目で見ている草月に気付いて、慌てて口をつぐんだ。

「……私、その人と、絶対、気が合わなさそう」

 草月は思いっきり力を込めて言った。

「……大体、伊藤さん、お花ちゃんはどうしたんですか。この間、皆でお花ちゃんの店に遊びに行って以来、毎日のように手紙送ってるんでしょう」

 お花とは、草月の友人で、たつみ屋騒動にも関わりのあった芸者の花菱である。伊藤の怒涛の口説きにも、今のところ花菱の態度はそっけない。

「まあ、それはそれ、これはこれってことで……」

「もう、調子いいんですから」

 草月はため息をつくと、書庫を出て、袴についた埃を手でばしばしと払った。以前の外出以来、すっかり男装姿が定着してしまった。

(そういえば、お花ちゃんにもびっくりされたな。……無理もないけど)

 虫干しの終わった本を丁寧に回収し、蔵書の一覧表と照らし合わせて漏れがないか確認する。念のため二度見直してから、書庫へ戻ろうとしたところで、後ろから有吉の間延びした声がした。

「おーい、愛しの花菱から手紙が来ちょるぞ~」

「あ、有吉さん。ありが……「え、まさか、俺に!?」

 草月が言うより早く、伊藤が脱兎のごとく飛び出してきて、有吉に突進した。

「さあて、誰にかなあ?」

 焦らすように手紙を左右に揺らして、さんざん勿体つけた後、

「残念でした。草月に」

 むなしく空を切った手をがくりと下ろして、伊藤は恨みがましい目を向けた。

「……熊次、そりゃないだろ~?」

「落ち込むな、俊輔! お前にもいつか春は来る! ……まあ、先は長いじゃろうけど」

「最後のは余計だよ! 用が済んだなら、さっさと出てけ」

 わははははと楽しそうに笑う有吉を邪険に追い出し、伊藤は文に目を落とす草月に向き直った。

「それで、花菱は何だって?」

「はい、それが……」

 草月は難しい顔で伊藤を見た。

「相談したいことがあるから、店に来て欲しい、と」



                    *



 その日の夕刻、草月、伊藤、高杉、志道の四人は、花菱が働く店のある本所へと向かっていた。

 志道聞多という武士は、くりっとした目の愛嬌のある顔立ちの男で、歳は草月より五つほど上。『聞多』という変わった名前は、なんと藩主からの賜名だそうだ。

 高杉とも親しいようだったが、草月とは初対面からどうもそりが合わなかった。草月は草月で、伊藤の話から志道に対して良い印象を持っていなかったし、志道は志道で、男装した草月を初見で女と見抜けなかったのが相当に悔しかったのか、すこぶる機嫌が悪い。

「聞多の女好きも大したことないのう」

 高杉がからかったものだから、益々へそを曲げてしまった。

「こんな恰好した奴が女とは、誰も思わんわ! ……そんなことより、俊輔、その花菱って芸者は、お前が狙っちょる女なんじゃろう? これは好機じゃぞ。その相談とやらに上手く乗って、そいつをモノにするんじゃ」

「人の友達の悩みを口説きの種にしないでください! 今日は遊びに行くんじゃないんです。芸者遊びがしたいなら、他を当たればどうですか?」

「わしは俊輔に誘われたから来たんじゃ。お前にどうこう言われる筋合いはない。男女(おとこおんな)は引っ込んじょけ」

「失礼な! 自分の目が節穴なのを棚に上げて」

 と、この調子である。高杉も伊藤もこの状況を面白がっているのか、真剣に止めようとしない。

 こうして、一部に剣呑な雰囲気を漂わせたまま、一行は裏通りの堀端に差し掛かった。

 ごう、と風が鳴り、冷気がむき出しの頬に痛いくらいに刺さる。

「もう冬ですねえ」

 そのせいだろうか。まだ日暮れ前だというのに、心なしか、人通りが少ない気がする。

 そう言うと、

「それもあるだろうけど、」

 伊藤が右前方にある大きな柳を指差し、

「十日くらい前からかな。そこの柳の下に、幽霊が出るって噂になってるんだよ」

「ゆ、幽霊!?」

「うん。同じ頃にそこで殺された男の幽霊じゃないかって言われてる。若いおなごを見ると、返せ~、返せ~、とか言いながら追いかけてくるんだって。何でも、着物は血まみれで頬は痩せこけて……」

「うわああああ! ストップストップ! それ以上は言わないでください! ただでさえ、本所七不思議なんて怖いものがあるのに、この上新しい怪談なんて出来たら、夜眠れなくなるじゃないですか!」

 夜の暗さは現代の比ではない。月明かりが無ければ、自分の手すら見えないような闇が支配する江戸の世において、怪談話など聞かされたら猛烈に怖い。怖すぎる。

「何じゃ、幽霊くらい。肝の小さい奴じゃ。心配せんでも、お前を見て女と思う奴はおらん」

「でも聞多、草月ってこう見えて度胸あるんだぜ。一人で藩邸に乗り込んできたり、奉行所に殴り込みに行こうとしたり」

「ああ。抜身の刀を前に、一歩も引かずに怒鳴り返してきたりもしたしのう」

 伊藤と高杉が口々に言うと、志道はほう、と言って草月を見た。

「いえ、あれは単に、火事場の馬鹿力というか、ただの世間知らずだったというか……。もう一度やれと言われても、怖くて無理です。それより、早く行きましょう。お花ちゃんが待ってます」



                    *



「ええっ、幽霊の落とし物?」

「うん」

 花菱は、不安げな顔で、こっくりと頷いた。

 川沿いにある店の座敷に腰を落ち着け、さっそく聞き出した相談事とは、奇しくも、ついさっき伊藤が言っていた幽霊話と関係することだった。

「十日ほど前、あの木の近くで拾ったの」

 そう言って差し出したのは、親指ほどの小さな獅子の形の根付である。

「お店が忙しくて、拾ったこともすっかり忘れちゃってたんだけど、最近、幽霊の噂を聞いて……。それに、最近、誰かに見られてるような気がするの。きっと幽霊が、この根付を探してるんだわ」

 だから、一緒に返しに行って欲しい、と花菱は言った。

「こんなこと、お店の人には頼めないし、一人で行くのは怖くて……」

「それはもちろんいいけど」

 見たところ、何の変哲もない根付である。

 ううん、と唸る草月の手から、高杉がひょいと取り上げ、

「これを幽霊がのう。死んでまで取り返したいようなものには見えんが。……それより花菱、誰か、おのしに懸想しちょる奴が周りをうろついちょるんじゃないのか?」

 意味あり気にちらりを伊藤を見ながら、にやりと笑う。

「高杉さん! 俺はそんな女々しいことはしませんよ」

「ほおう? 僕は俊輔じゃとは言っちょらんぞ?」

「何じゃ、俊輔、そんな弱気でどうする。こういうのは押しの一手じゃぞ、押しの」

「――ちょっと! 三人とも、本人目の前にして、何勝手なこと言ってるんですか!」

 花菱は真っ赤な顔をして俯いてしまっている。

「お花ちゃんは真剣に悩んでるっていうのに! もういいです。お花ちゃん、こんな人たち放っといて、あっちで話そう。皆は手酌でいいって!」

「あ、おい、草月……」

「戻ってくるまでに、頭冷やしといてください! それじゃ!」

 追いかけて来た伊藤の鼻先で、草月はぴしゃりと障子を閉めた。

「まったくもう、皆、繊細さのカケラもないんだから」

「……いいのかしら。仮にもお客様を置いて来ちゃって」

「大丈夫よ。あっちが失礼なこと言うからだもの」

「でも、伊藤様は変なこと言ったわけじゃないし」

「あれ」

 草月は意外に思って足を止めた。

「お花ちゃん、伊藤さんのこと、嫌ってたのかと思ってたけど」

「え? そ、そりゃあ、好きじゃあないわよ? でも、芸者として、いけないというか……」

 わたわたと弁解する花菱を見て、草月はすとんと胸に落ちるものがあった。

「なんだ、そっか」

 思わず、頬が緩む。

「わ、私は別に……」

「照れなくてもいいって。伊藤さんはいい人だよ。お花ちゃんのこと、きっと大事にしてくれると思う」

「そ、そんなんじゃないよ!」

 花菱は逃げるように自室の戸を開け、中に入った途端、何かにつまずいてすっ転んだ。

「わ、お花ちゃん、大丈夫?」

「ええ。おかしいな、こんなところに物を置いた覚えはなかったんだけど……」

 体を起こそうと顔を上げた花菱は、はっとして身動きを止めた。

 部屋の中が、まるで嵐でも通ったかのようにぐちゃぐちゃに荒らされていたからだ。後から続いた草月も、「なにこれ」と呟いたきり、絶句している。

 その時、不意に後ろに気配を感じて草月は振り返った。いや、正確には振り返ろうとした。

(――!)

 それより早く、大きな手が草月の口を塞ぎ、次いでみぞおちに鋭い痛みが走る。

(お花ちゃん……)

 薄れゆく意識の中で、花菱が頽れるように倒れるのが見えた。





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