第8話 萌芽
文久元年九月。
江戸、長州藩上屋敷は、にわかに慌ただしくなっていた。藩主・毛利慶親の参勤交代による江戸参府が間近に迫って来たためである。高杉たち藩邸員も準備に追われているのか、最近はゆっくりと話をすることも少なくなり、久坂の個人授業も休みの日が続いていた。
そうしたある日のこと。
まだ夜も明けきらぬ早朝、草月はとんとんと遠慮がちに戸を叩く音で目が覚めた。
「草月、起きてるか? 僕だ、久坂だ」
「……久坂さん?」
こんな時間にどうしたんですか、と瞬時に覚醒した草月が戸を開けると、
「――、馬鹿、何て格好してるんだ!」
こちらを一目見るなり、久坂はくるりと後ろを向いた。
きょとんとする草月に、
「夜着のまま出てくる奴があるか! 何か羽織ってこい、何か!」
「あ」
言われて草月は慌てて奥に引っ込んだ。
たつみ屋が女ばかりだったせいか、どうにもこういう感覚がずれている。一枚引っかけて戻ると、久坂はようやくこちらを向いた。さっきは気付かなかったが、よく見ると旅にでも行くような出で立ちである。
「どこか行くんですか?」
「すまない、詳しく説明している暇はないんだ。急に京へ行くことになって、君の勉強を見られなくなった。途中で放り出すようなことになってすまないが、僕のいない間、有備館の講義を受けられるように桂さんに頼んでおいたから、心配しなくていい。それから、これは前に言っていた本だ。それ程難しい内容ではないから、君にも読めると思う。しばらく会えなくなるが、元気でな」
早口でまくしたてると、草月が何か言う間もなく、さっと身を翻して行ってしまう。
「あ、ちょっと、久坂さん!」
反射的に追いかけようとして、自分が夜着のままであることを思い出した。急いで着替え、思い付いて高杉の長屋を訪ねて久坂のことを話すと、自分も追いかけるという。
「あの野郎、僕に何の相談もなく」
「高杉さんは、久坂さんがどこに行くのか知ってるんですか?」
「……おのし、今、幕府が公武合体策の一環として、和宮様の御降嫁を決めたことは知っちょるか」
「はい、久坂さんに教わりました。長州もそれに賛成して協力してるんですよね」
「ああ。じゃが、攘夷派にとっては耐え難いことじゃ。久坂は降嫁を阻止するために、参勤途上の藩主様を待ち受け、直訴するつもりじゃ」
「……ええっ!?」
*
徐々に空が白み始めた江戸の町を、草月と高杉を乗せた馬が駆け抜ける。通りにはまだ人の姿はほとんどなく、馬の蹄の音だけがやけに響く。馬など見るのも乗るのも初めての草月は、ただ落ちないように鬣にしがみついているのがやっとである。
武家屋敷を抜け、入り組んだ市街地を過ぎ、品川宿の手前、海沿いの街道でようやく久坂の後ろ姿を見つけた。
「実甫!」
高杉は久坂を字で呼んだ。
ほとんど速度を緩めぬままに近づき、驚く久坂の目の前で手綱を引くと、ひらりと馬から飛び下りる。草月も半ば落馬するようにして降り、ふらつきながらそれに続いた。
「高杉! それに、草月まで……。二人ともどうして」
「どうもこうもあるか! それはこっちの台詞じゃ馬鹿野郎。いつもいつも、一人で勝手に決めおって!」
「暢夫、すまない、後でちゃんと知らせるつもりだったんだ」
「……殿に直訴するつもりか」
「今の僕にはこれしかない。幸い、周布さんも賛成してくれた」
「周布さんもじゃと?」
「ああ。後で合流する手筈になっている。二人で攘夷の必要性を訴えれば、殿もきっとお分かり下さる。たとえ事が破れて罰を受けようと、悔いはない」
久坂はきっぱりと言い切った。
その迷いのない目を見て、高杉は止めても無駄だと悟ったのか、諦めたように深くため息を付いた。
「分かった。やるからにはしっかりやれ。僕は僕でやる」
久坂は力強く頷き返した。
そして、草月に向き直り、
「君も、わざわざ追いかけてきてくれてありがとう。体に気を付けてな」
「はい……」
――久坂さんも。
そう言うのは何かおかしい気がして、ただ頷くことしか出来なかった。
ろくに事情を知らない自分などが入り込んではいけない雰囲気が、そこにはあった。
ただ自分のことだけで精一杯だった草月は気付かなかった。
しかし、時代は、ゆっくりと、だが確実に動き始めていたのである。これはそのほんの始まりに過ぎなかった。
去って行く久坂の後ろ姿を、高杉は固い表情で見送っていた。




