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花綴り  作者: つま先カラス
第一章 江戸
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第0話 幕末へ

「うっそ、臨時休講?」

 キャンパス内の掲示板を見て、思わず声を漏らしたのは、今年二十歳になったばかりの女子大生だった。ストレートの黒髪を肩の下で切りそろえ、甘すぎないシンプルなオフホワイトのシフォンブラウスに動きやすさを重視したネイビーのパンツ姿。

 午前は履修講義がないことをいいことに十一時近くまで惰眠をむさぼり、午後になってのんびり出かけてくればこれである。急いでやらなければならないレポートもなし、雑誌で見て気になっていた、あのお洒落レトロなカフェにでも行ってみようか。でも一人では行きづらいし……。

 ローヒールパンプスのつま先で、無意味に地面をとんとんと蹴る。ふと、隣に貼られた一枚のポスターが目に留まった。

(……へえ、京都国立博物館で特別展をやってるのか)

 マイナーな地方都市から、大学進学に合わせて単身京都へやって来てから一年余り。せっかく歴史ある町にいるというのに、思えば京都らしいところへはあまり出かけたことがない。

 二十歳になって大人の仲間入りをしたことだし、この機会に一度、日本の歴史や文化に触れてみるのもいいかもしれない。開催期間がちょうど今日までだということも背中を押した。

 肩にかけた鞄の中からスマホを取り出すと、さっそく博物館への行き方を調べ始めた。


                   *


 平日ということもあってか、館内はほどほどの人入りであった。

 ふんふんと順路にそって展示物を見て回り、やがて目玉である特別展のコーナーに差しかかった。今回のテーマは、幕末の志士・坂本龍馬。

 言わずと知れた有名人だが、彼女自身はせいぜい学校の授業やテレビで名前を知っている程度だ。

 上手いのか下手なのか良く分からない字でうねうねと書かれた手紙をさらりと流し、一番に目を惹いた二つ折りの大きな屏風の前に立つ。

『……坂本龍馬は、中岡慎太郎と話していたところを刺客に襲われて命を落とした……これは実際に暗殺現場にあった屏風であり……血痕が確認できる……』

 添えられていた説明書きに従い、近づいて目を凝らしてみれば、なるほど左隅の猫が描かれた部分に、点々と赤黒いものが飛んでいる。

(うわ、ホントだ……。なんだか、生々しくって怖いな)

 ぞっとして思わず身を引いた時、ふいに立ち眩みがして、その拍子に肩から鞄が滑り落ちた。中からスマホが飛び出し、床に当たってかたんと音を立てる。慌ててかがんで拾い上げれば、今度は視界がスプーンでかき回されたかのように激しく歪んだ。

(何!? 何なの!?)

 ふらつく体を支えようと展示ケースに伸ばした手が、ガラスを突き抜けて空を切った。

 まるで、粘度のある水の中に放り込まれたような感覚。

 訳が分からないまま、抜け出そうとがむしゃらにもがいて、もがいて――そして、唐突に外へと突き抜けた。

「…………え?」

 最初に目に入ったのは、着物にちょんまげ、日本髪……まるで時代劇のような恰好をした人々の群れ。

「どいたどいたァー!」

 威勢の良い声がして、彼女が咄嗟に避けたすぐ脇を、ふんどし姿の若い男が重そうな大八車をひいてあっという間に走り去っていく。

 何だ? ここは? 

 もうもうと舞う土ぼこりが収まった先に広がっていたのは、先ほどまでいた博物館とは似ても似つかない景色。

 舗装されていないむき出しの地面。広々とした通りの両側には、純和風の日本家屋がずらりと建ち並び、商家らしいその軒先にかけられた暖簾が風にはたはたと翻っている。

 いつのまにか足を止めた通行人たちが、遠巻きに彼女を囲んでいる。互いにひそひそと小声でささやき合いながら、珍奇な物でも見るような目でこちらを見ている。

「おい、おめえ」

 一人の若者が、肩で風を切るように近づいて来て、彼女の前に立ちはだかった。

「おめえだよ、おめえ。とんちきな格好しやがって。いってぇどっから来たんでえ? まさか、ここんとこ噂の異人ってやつか?」

「……あ……、あの……、わたし、は……」

 恐怖で舌がひりついたように動かない。悪寒でもするように全身が震えて、今にも足元から崩れ落ちてしまいそうだった。

「ちっ、埒が明かねえや。ちょいとそこの番屋まで来ておくんな」

 強く腕を引っ張られて、声のない悲鳴が漏れる。

 その時だった。

「――お待ち!」

 良く通る声が辺りに響き渡った。

 人垣が左右に分かれ、黒い羽織を纏った凛とした雰囲気の中年女性が進み出る。

「その子はあたしの連れだよ!」

「姐さんの?」

「昔、世話になった知り合いの娘でね。横浜で異人相手に働いていたのを、訳あってこっちへ呼び寄せたんだ。騒がせちまってすまないね、皆」

 目の前の若者をはじめ、集まっていた者たちは、何だそうだったのか、と納得したように頷いて、固まったままの彼女に詫びの言葉をかけつつ、三々五々去って行く。

「ほら、行くよ」

 女性は着ていた羽織を脱いで彼女に差し出し――「その恰好じゃ目立って仕方ないからね」――有無を言わせぬ調子ですたすたと先に立って歩いて行く。彼女は戸惑いつつもその後を追った。

 通りを抜け、橋を渡り、また通りを抜け――。

 どこまで行っても、アスファルトの道路も見上げるような高いビルも電車も車もない。

 一体ここは何処なんだ?

 自分は夢でも見ているのか?

 疑問ばかりが胸の中に膨らんでいく。

 もうかれこれ一時間以上歩いたのではないだろうか。息は切れ、足はずきずきと痛みを訴えている。だが、そんな彼女の様子を知ってか知らずか、女性は一度も振り返ることなく、変わらぬ早い歩調できびきびと進んで行く。

 音を上げそうになった頃、ようやく女性は、縦横に掘割のある一画の、一軒の家へと入って行った。

「戻ったよ」

「お帰りなさい、女将さん」

 明るい声で出迎えた女――二十代半ばくらいだろうか――は、入り口のところで立ちすくんでいる彼女に気付いて、「誰です、あの子」と言った。

「ちょいと訳ありでね。二人きりで話したいことがあるから、しばらく二階には誰も近づかないよう言っといとくれ」

「はあい」

 女将と呼ばれた女性は目だけで来いと促すと、とんとんと脇にある階段を上がって行く。

「……お邪魔します……」

 おずおずとその後に続いて二階奥の部屋に入る。

 床の間を背に背筋をピンと伸ばして座った女将は、向かいに彼女が座るのを待ってさっそく口を開いた。

「さてと……。まずは名前を教えてくれるかい。あたしは『辰巳』ってんだ。ここ『たつみ屋』の女将をしてる。あんたは?」

「……、わたし、は……」

 一拍置いて彼女が名乗ると、女将は「言葉は通じるんだね」、一つ頷いてから、

「それで、あんたはどこから来たんだい? あたしの目が耄碌しちまったんじゃなきゃ、あたしにはあんたが何もないところからいきなり現れたように見えたんだけどね」

「そ、れは……」

 膝に乗せた手をぎゅっと握りしめた。

「私……、京都の博物館にいたはずなんです。でも、屏風を見てたら急に気分が悪くなって、倒れそうになったと思ったら、いつの間にかあそこにいて……」

「京都、京都ね……。あいにくと、ここは天子様のおわす都じゃなくて、公方様の治める江戸だよ」

「江戸……」

 女将は立ち上がると、閉めていた障子窓を開け放った。

 びゅ、とさわやかな風が吹き抜ける。

 高く、広く、どこまでも続く青い空。

 見渡す限り、瓦屋根の家々が雑多にひしめく町並み。

 それは確かに、彼女の知るどんな景色とも違っていた。

(江戸……、江戸時代……?)

 震える声で問いかけた。

「……あの、今って、何年ですか……?」

「暦のことかい? なら、少し前に万延から文久に改元されたばかりだよ。だから今は文久元年」

「あっと……、元号じゃなくて……、西暦で言うと何年になりますか?」

「セイレキ? 何だいそりゃ。あんたの国の暦かい?」

 駄目だ、これでは埒が明かない。

 混乱する頭を必死で働かせた。

「ええと、じゃあ、今の将軍は誰ですか?」

 女将はあきれた顔をした。

「そんな雲の上のお方の名前なんて、あたしら庶民が知るもんかね。……そうさね、徳川様が治めるようになって、二百五十年だか六十年だかになるはずだよ。……あんた、大丈夫かい? 顔が真っ青だよ」

 二百六十年……。では自分は今、江戸時代の終わり……、幕末にいるんだ……。

 否定しようのない現実を突きつけられて、張り詰めていた気持ちの糸が切れた。ふらふらとその場に崩れ落ちた彼女に、女将が厳しい口調で語りかける。

「しっかりおし! 子細は分からないけど、あんたはここに来ちまったんだ。だったら、ここで生きていくしかないよ。あんたのいた場所がどんなとこだったかは知らないけどね、ここでは女だろうが子供だろうが働かなきゃ生きていけないんだ。いつまで呆けてるつもりだい。ぼうっと座っているだけでおまんま食べられるのはよっぽどの大店のお嬢様くらいだよ。……あんたさえやる気があるなら、ここで働かせてやる」

「……え?」

「二度と帰れないと決まった訳じゃないだろう。いきなり来たんなら、いきなり帰れることもあるだろうさ。けどその前に死んじまったんじゃ何にもならないからね。あそこであんたを見つけたのも何かの縁さね」

 どうする? と女将の目が返答を迫っている。

「……」

 ずっと右手に握りしめたままだったスマホに目を落とす。

 表示された画面には、非情な圏外の文字が浮かんでいる。

 家族や友人の顔が頭に浮かんだ。長年過ごした実家、毎日通った大学のキャンパス、初めて独り暮らしを始めた小さなマンション、友人と過ごしたお気に入りのカフェ……。

 あの時代に、もう一度戻れるのなら――。

 スマホをそっと脇に置き、畳に両手をつく。

「……よろしく、お願いします……!」

 ぎこちない仕草に真摯な思いを精一杯込めて、深々と頭を下げた。


 ――これが彼女の、長い長い幕末暮らしの幕開けであった。


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