四章
四章
作戦前の一日は穏やかながらもあっさりと過ぎ去った。
夜が明ける前には軍に潜入していた反政府組織の仲間二人が合流し、夫妻と共に作戦の最終段階に入って忙しそうに坑道内を走り回っていた。
クレール達は夜中の内に施設へ向けて出立した。
施設は町の西側の森。イゾルデが捕まったあの森の一角に入り口が設けられ、その地下に施設が広がっているという。
施設の入り口付近は、数年前から地下から噴出す天然ガスの調査という名目で立ち入り禁止にされ、半径数百メートルが鉄柵で囲われている。
「こんな町から目と鼻の先に施設の入り口があったなんて。森そのものを立ち入り禁止にしなかったのは何故かしら」
「町のすぐ側に用途不明の馬鹿でかい軍事施設があったんじゃ住民も不安がるだろ」
「軍事演習場と銘打つとか」
「町から離れてればできたんだろうけど、ここは近すぎる。入り口付近は住民の出入りもそれなりにあるから、全域を演習場と言い張るのは住民の反感を買いかねないな」
秘密の研究をしている施設なのだから、もっと人気のない場所にあるとクレールは思い込んでいた。
確かにこの森は広大で、森の奥に進めば進むほど近寄る人間は少なくなるが、もっと確実な場所を選ぶべきだろうに。
尚も納得のいかない様子で頭を捻るクレールに、ノインが言い辛そうに語る。
「この町に供給されてる聖輝石の一部は、施設で魔族から抽出した魔力を注入した再利用品だ。つまり、研究成果をこの町で検証する為に、あえて人の住む町の側に施設を作ったってこと」
「表沙汰にはできないけれど、この町は政府にとって、魔族を燃料とした生活のモデルタウンの役割を担っているわけだね。有効であると判断されれば、同じような施設がいろいろな町の側に設営されることになる」
「――下らないことを考えたら、負け越し続きの魔族も黙ってないって教えるのも私達の務めなのね」
ここを破壊したところで、先に得ていたデータを元に、また同じ実験が繰り返されるだけだ。ならば、魔族とていつまでも黙ってはいないということを人間に教えてやらねばなるまい。
「そういうこと。次をなくす為にも、徹底的に叩きのめしてやろうぜ」
「元よりそのつもりよ。倍返し程度じゃ許してあげないんだから」
鉄柵に辿り着いたのは日の出と同時刻だった。
鉄柵の上部には有刺鉄線。車が出入りできる扉部分には見張りが二人ついている。
「警備がいるのは当然よね。一人ずつなら抱えて跳んであげられるけど?」
「いや、中の異変を察知して町の駐屯部隊を呼ばれても面倒だ。ここで縛り上げようぜ」
「とはいえ、ここって見通しがいいよね。撃たれる前に黙らせないと」
扉の前には車で踏み固められた未舗装の道が続き、鉄柵の周囲は樹木が伐採されていて接近する者がいればすぐに発見できるようになっている。
施設の中枢に近づくまで侵入を察知されたくない三人は、見張りの兵に発砲させたくなかった。銃声を聞きつけて騒がれれば、もれなく警戒態勢がとられてしまうからだ。
「だったら、私が気を引きましょうか? ほら、私、見た感じただの町娘だから」
「君だって顔見られてるだろうが。危ないだろ」
「髪の色を変えてしまえば、一瞬油断させるくらいはできんじゃないかしら。あとはあなた達が片付けてくれるんでしょう? あ、剣も預かってて」
髪の毛をひと束手に取り指でつつけば、栗色の髪はその部分から綺麗な金髪に変化した。念の為に茶褐色だった瞳の色も緑色に変えておく。しばし考えて、肌寒いが軍に見られている上着は剣と一緒に置いて行くことにした。
「町娘よりは家出中の良いとこのお嬢さんって感じだよね。魔族は造形の整った人が多いから」
「そうかしら。人間だって綺麗な人はたくさんいるじゃない。造形の違いとか言われてもよくわからないわ」
ただでさえ魔族は怯えながら生活するしかない時代だ。大事なのは顔よりも中身。
外見云々よりも、人の粗を探さず、プライベートに首を突っ込まない人間と親しくしてきたクレールにとっては、顔の造りなど二の次。そんなものを気にせず生きてきた結果、どうにも人の顔が綺麗だとか、そうでないだとかの基準が鈍くなってしまったようだ。
「ああ、あなた達は格好良いと思うわよ。それじゃあ、よろしくね」
クレールは草むらから出て行ってしまったというのに、二人はぽかんとして一瞬動きが止まってしまった。
『イゾルデが過保護になるはずだ』
どちらともなく呟いてから顔を見合わせ、慌てて二手に別れ兵士との最短距離まで草むらを移動する。
クレールが道に出ると、兵士は揃って厳しい顔で短機関銃の銃口を向けた。
「そこで何をしている!」
「きゃっ! あの、ごめんなさい。私、道に迷ってしまって……」
演技のつもりだったが、イゾルデが撃たれたあの瞬間が脳裏を過ぎった。
率直に銃は怖い。刃物も怖い。使えば傷つくし、当たり所が悪ければ死ぬ。それらのものに同胞が殺される様を百年も見てきたのだ。それが自分に向いたとなると、絶対に大丈夫だと理解していたのに、思いの外動揺した様子になってしまった。
(やりすぎたかしら?)
恐る恐る兵士達を見上げると、彼等ははっとした様子で銃を下ろす。
「あの、兵隊さんがいるってことは、ここ、ガスが出てて立ち入り禁止になってるところなんですよね? すみません、すぐに離れますから。えっと、町に戻るにはどっちに進めば……」
兵士は二人とも三十代くらいだった。日頃の訓練の賜物か、筋骨隆々としていていかにもな強面である。そんな大の大人がうろたえるくらいだから、演技はうまくいっていたようで安心した。
「あー、驚かせて悪かったね。怖かっただろう。この道をこのまま真っ直ぐ進めば森の外だよ」
「森を抜けたら市壁が見えているから、壁に沿って右手側に進みなさい。そっちの方が門が近いから」
「こんな早朝から道に迷ったって、いったいいつから迷子だったんだい? そんな薄着で寒かったろう。そうだ、車で送ってあげようか? 市民を安全に送り届けるのも軍人の務めだからね」
根はいい人なのだろう。兵士の一人は厚い胸板に拳をぶつけ、爽やかに送迎を申し出てくれた。
秘密の研究施設の警備なのだ。持ち場を離れるなど許されるはずもないだろうに。
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「――鼻の下のばしてんじゃねーよ。上司に叱られるぜ、おっさん」
左右両方向から、頭部を殴りつける鈍い音が短く聞こえた。
笑顔のままで固まった二人の兵士がほぼ同時に崩れ落ちる。彼等の背後には、それぞれ上手く忍び寄ったノインとティーロが立っていた。よく見つからなかったものだ。
「迂闊ねえ。魔族が仲間を取り返しに来るとか考えないのかしら?」
「もうそんな気力は残ってないと思われてるんじゃね?」
「女の子にかまけて持ち場を離れようとするなんて、余程何事も起こらないんだろうね、ここ」
ノインが兵士を一人抱え上げて、草むらの奥に捨てに行った。ティーロもそれに続こうとしたが、筋肉質な成人男性は想像以上に重かったらしく、持ち上がる気配はない。
「手伝うわ」
「悪いね。力仕事はどうも苦手で」
ティーロが脇を、クレールが足を抱えて、ノインが兵士を隠しに行った草むらに同じく転がしておく。
念の為に口には布を噛ませ、両腕は縛っておいた。これで目覚めてもすぐには対処できないだろう。
「鉄柵の鍵はどこかしら?」
「ズボンのベルトじゃない? ほら、あった」
鉄柵には鍵が二つついている。開閉部の中央付近と、地面近くの二つだ。
鍵は二人がそれぞれ片方ずつ所持していて、それぞれのベルトから一つずつ見つかった。
「随分簡単に侵入できたな」
「簡単すぎて寒気がするわ。誘われている気分」
「あはは。君は連中にとっても貴重な検体になるだろうからね。飛んで火にいる夏の虫って感じ?」
「火の粉撒き散らして大火事にしてやるわ」
誘われているのならそれでも構わない。今更引き返す時間などない。
これが完成された技術でない以上、いつどんな形で犠牲者が増えるかわからない。そうしている間に大切な家族を失うなど御免被るのは皆同じだ。
「頼もしい限りだね。それじゃあ、行こうか。最初の鍵は預かってるんだ」
「鍵?」
鉄柵の中は小屋がいくつか建っているだけで建物はまばらだ。
思えば、研究施設と称するわりにそれらしい建造物が見当たらない。
はたから見れば、本当に自然が広がっているだけ。だからこそ、何年もの間有毒ガスが発生して封鎖されているなんて嘘を誰も疑うことなく信じてきたのだ。
「言っただろう? 施設は地下にあるって。今でも拡張工事が進んでいるんだって。まったく景気のいいことだね」
「地下とは聞いていたけど、本当に地表は閑散としているのね。真正の秘密基地だわ」
「そう。ただの毒ガス発生区域に地下施設があるなんて、中々想像できないからね。一応仲間が鍵と施設内の見取り図を用意してくれた。と言っても、本人も中枢までは探りきれなくて、所々の抜けがあるらしいけど」
つまり、この辺りにある小屋のどれかが地下に続く入り口になっているのだろう。
ティーロは物陰から建物の配置を確認しつつ、一つの小屋を指差した。
「見つけた。あそこから地下に下りられるよ」
仲間の用意してくれた情報の中には兵士の巡回ルートも記されていた。
上手く警備兵の背後について、姿を見られないように小屋へ近づく。
警備兵が別の建物の陰に隠れて死角に入ったところで、三人は素早く小屋の中に滑り込んだ。
「今のカードは何?」
クレールがティーロの手にあるカードを見て小首を傾げる。
小屋に入ったとき、ティーロは鍵を預かっていると言っていたが扉に鍵穴はなかった。代わりにあったのは薄っぺらく、横に長い窪みだけだった。
「これが鍵なんだよ。カードキー。昨今の政府や軍の施設では、機械で扉の鍵を管理する場所が増えているんだ。これも技術の進歩の一環だね」
「カードが鍵だなんて、初めて見たわ」
鍵といえば錠前。それが世の常だと思っていた。
扉に人工的な赤い光が灯り、カードを認証すると灯りが緑に変わって開錠された音が鳴っていた。あれで鍵が開いたというサインだったのだろう。
人間の考える技術とは不思議なものだ。
「世間一般より、政府やその下につく軍の技術は大幅に進歩してる。クレールは今まで上手く逃げ遂せていたから、そういうものに関わる機会がなかったんだな」
「聖輝石を利用すればするほど自分達の首を絞めるのに、そうまでして人は進歩を求めるのね」
この技術を開発する為に使われた聖輝石で、どれだけの市民が魔力動力を得られたのだろう。最早想像するだけ無駄な規模のエネルギーが使われたことは言うまでもない。
素直に賞賛したい反面、こうまで聖輝石に頼らなければ生きられないものなのか、魔族であるクレールには到底理解ができそうにない。
「まあ確かに、こんな物を出されたら、機械文明に遅れを取る私達魔族は手の出しようがないけれど」
最終的には、鍵を開けるより壁を壊した方が手っ取り早いだろうとさえ思う。
「あはは、進歩して最先端に見えても、抜け道はあるものだよ。僕にとっては錠前よりこっちの方が開けやすい。物理的な鍵を用意する必要がないからね」
「カードがなくても開けられるの?」
「こいつ、機械を扱わせたら天才的だぜ」
「両親が研究者だったって話したろう? 子供の頃から機械がおもちゃ代わりだったおかげで、この手の物の扱いは得意なんだ」
地下へ続く薄暗い螺旋階段は、人の存在を感知して足元だけを淡い緑色で照らしだす。
何から何まで庶民の知る文明よりも先を行っているらしく、自然との共生を重んじた魔族にとっては、何故ここまでしなければならないのかさっぱりだ。
自然と共に在り続けようと、最初から文明としての進化に目を向けなかった魔族と、自然を利用して文明を進化させた人間。
種としての根本的な考え方の違いは、クレールが考えるよりも相当に根深いようだ。
「何となく勝手がわかる、か。まあ、言うなれば魔族が生まれついて何となく魔術を使えるのと同じようなものなんでしょうね」
「魔族って、魔術を勉強して使ってるわけじゃないのか? 俺はまるで使い方なんて知らないんだけど」
「魔族は、親から子へと魔術を使う為の術式を受け継ぐ種族なの。魔術の使い方が血に刻み込まれているのね。まあ、魔術を使うにはそれ相応の負荷がかかるから、子供の内から親と同じように魔術を行使するのはまず無理なんだけど。ノインの場合は、お母様が人間だったのでしょう? 片親が魔族じゃないから、本来受け継がれるべき何かの因子が欠落してしまったのかもね」
たとえ魔術が使えたとしても、魔力の貯蔵庫である羽がないなら使うべきではない。知らずに魔術を行使しても寿命を削ることになる。彼に関しては、魔術の才がなかったのはむしろ命拾いと言えるだろう。
「おっと、無駄口はここまでだな。底に着いたぜ」
螺旋階段の底の底には、また一枚扉があった。ここにもカードキーを挿す穴があり、地上の小屋からここまで辿り着いても、まだ中には入れないようになっている。
「誰かと鉢合わせないか心配だったけど、下りてくる人も上ってくる人もいないのね」
「見取り図によると入り口は他にもあるらしいよ。物資や魔族の搬入にはもっと大きな入り口を使ってるんじゃないかな?」
「おかげで侵入しやすくなったんだぜ。楽できて嬉しい限りだね」
「そんなこと言って、油断しないでよ」
地下研究所は思ったよりも明るく、そして広かった。
延々と続く廊下はいくつもの交差点で東西南北それぞれに繋がり、ときに行き止まり、ときに上下階へ続く階段があったりと、迷路のような造りをしている。情報なしに目的地に辿り着くのは難しかっただろう。
「あとはこの道を真っ直ぐだね。正面に大きな扉が現れたら、そこが目的の場所だよ」
真っ直ぐと言われながらも先は長く、ティーロの言う正面の扉に辿り着くまでには十分近い時間を要した。
途中数名の兵士に遭遇したが、その都度気絶させて物置やトイレの個室に放り込んで事なきを得た。
「着いたな。目的地はあの部屋だ」
ようやく廊下に終わりが見えた。その最奥、部屋と廊下を隔てる扉は一際大きく、成人男性二人が両腕を伸ばしてもまだ足りないだけの幅がある。
壁から扉に至るまで、部屋の一帯すべてが鉄によって補強されていた。中に収容された魔族が抵抗しても逃げられないように細心の注意が払われているのだ。
扉の両脇には兵士が二人立っていた。三人は廊下の角に隠れながら、扉の様子を伺う。
「情報では、見張りを落としても扉の鍵は持ってないらしい。お前の腕の見せ所だぜ、ティーロ」
「任せて。二分で開ける」
クレールとノインで見張りの兵士が声を上げる前に昏倒させた。
ティーロはカードキー周りのパネルを外し、中の配線に直接自分で持ち込んだ機械端末のケーブルを接続する。
機械端末には液晶画面と文字が記されたキーがついていて、ティーロはそのキーを凄まじい勢いで叩いている。
国立の機関ではもう二十年近く前からこういった機械端末が使われていたけれど、今はまだ高額で、一般人がお目にかかれるものではなかった。
存在こそ知っていたけれど、クレールも実物を目にしたのはこれが初めてだ。
ある種芸術めいた動きで正確に文字列を叩くティーロの手を凝視するクレールの肩に、ノインの腕が回った。
「クレール。多分、この中には君にとって辛い光景が広がってると思う。取り乱すなよ」
「私はイゾルデや皆を解放する為にここにいるの。どんな光景がそこにあっても関係ないわ。生きていてくれれば何とかなるって、信じているもの」
羽は切り離したあとも魔力を蓄えたまま残るが、体内を巡る魔力は拡散してしまって使い物にならない。
魔族から安定的に魔力を取り出したいというのなら、その前提として彼等が生きている必要がある。だからまだ間に合う。クレールはそう確信していた。
「俺より男らしいのは結構だが、一人で背負い込むなよ。君一人に抱えさせたんじゃ、仲間のいる意味がない」
「一部失礼だった気がするわ。でも、ありがとう。頼りにしてるから」
密着しているとわかるが、ノインは子供のように体温が高い。決戦直前だというのに、その温度が妙に心地よく、緊張が和らいでいくような気がして、自ら振りほどく気にはならなかった。
「――ロック解除完了。扉、開くよ」
「先制するぞ」
「援護よろしくね、ティーロ」
きっちり二分で開錠し、扉が地響きのような音を立てて開いていく。
クレールとノイン、それぞれが剣とナイフを抜き、壁に背を当てて突入のタイミングを計る。
一、二、三の合図で突入しようと部屋の中へ目を向けた三人は、しかし攻撃を仕掛けるまでもなく閉口して立ち止まった。
眼前に広がる景色に、自然と冷や汗が浮かぶ。
「おいおいおい、読まれてんじゃねーか」
「誘い込まれていたのね。悪い予感なんて、当たっても有り難味がないわ」
「増援を断つどころか、退路を絶たれたね。前と同じ策に嵌るとは」
縦横一辺三十メートルはあろう眼前の部屋には、二十人近い兵士の姿。背後からも十人以上の足音が迫り、挟撃体勢が整ったところで背後の防火扉が下り、三人の退路を絶つ。
「これが全部魔族なの? 人間は悪趣味な生き物だと常々思っていたけれど、ここまで行くともう救いようがないわね」
この部屋の光景にも、そのやり口にも。
地下深くに設けられている分、部屋の天井は随分高く造られていた。優に二十メートルはあるだろう。
部屋の中央には天井まで届く液晶画面と端末の塔。その塔を中心に、机や機材が整然と並ぶ。正面と左右の三辺の壁には青白い光を放つ棺桶大の半透明カプセルが天井まで隙間なく敷き詰められ、その多くに人影が見えていた。その数、百はくだらない。
収容された魔族はこの部屋に集められ、カプセルの中に押し込められて長い眠りについているのだ。
魔術による抵抗の危険を避け、かつ魔力を収拾するには効率的な手段に見える。しかし、これほどの嫌悪感を誘うものだ。こんな光景が公になれば、魔族でなくとも軍への疑念を抱かずにはいられまい。
「やはり侵入者はお前達だったか」
小隊を引き連れて待ち構えていたのは件の指揮官だった。
相変わらずの硬質な声音。魔族に対する恐怖も嫌悪も感じさせない無の表情。
以前も油断している様子はなかったが、今回は更にも増して兵士が重装備をしている。
ぶつかりたくない相手だったが、イゾルデがここに運び込まれた可能性を聞いたときから覚悟はしていた。
ここでまであの男とぶつかるなど己の不運を呪うところだが、これもある意味運命だと受け入れ、クレールは目先の脅威をじっと見据えた。
「こんな場所まで乗り込む気概のある魔族が他にもいてくれれば、心強かったんだけどね。物足りなかったかしら?」
「まさか、お前達三人は最優先捕縛対象であると同時に警戒対象リストの上位三人だ。そうでなければ、こんな最奥まで誘い込まずに退路を絶っていた」
深く深く。逃げ出してもまた追い詰められるほど深く。そうでもしなければ捕らえられないと評価されたのであれば、幸運ではないが光栄だ。
しかし、できることならもう少し侮っていて欲しかった。
三人の狙うメイン端末は指揮官以下小隊の背後だ。ただやり過ごしたところで、目的は達成されない。
正面に整列していた小隊が左右に広がり、入り口から動けずにいる三人を取り囲む。
軍は全力で三人を捕らえにかかっている。兵士の誰一人にも余裕のある表情を見せている者などいない。
「招き入れるね。歓迎されたもんだ」
「当然だろう。国の為、民の為、お前達には人柱になってもらう」
「あなたの欲しがってる魔族は彼女一人だけなんだけど。人柱だなんて、あなた達は僕等にどんな利用価値を見出したんだい?」
三人は身を寄せ合う。この期に及んでの時間稼ぎは無意味だと知りながらも、指揮官の思惑に耳を傾けた。
「魔族の量産実験の再開だ。あの頃は結果が出せず施設を廃棄せざるを得なかったが、科学は進歩し、完成した被検体、ノイン・ダウムは見事成人するまで生き延びた。今ならばまた新たなデータが得られるはず。そして、その技術者としてお前を迎え入れたいのだ、ティーロ・ブラームス」
素性は既に暴かれていた。さすが軍の情報網だと舌を巻く。
「冗談。仲間を実験体にして生き残るなんて御免被るね」
ティーロにはかつての研究に関する知識が確かにあった。幼いながらに盗み見ていた両親の研究データが、今でも記憶に焼きついているのだ。しかし、その知識と技術を活用する気は更々ない。今までも、これからも。
「お前がこちらにつくのなら、そこの二人は生かしてやれるんだぞ」
「燃料と実験体として? そんな形で生かされるくらいなら生き残れなくて結構よ」
「右に同じ。そんな重いもの、相棒に背負わせるなんてお断りだぜ」
「また交渉決裂か。学ばないな」
学んだところで辿る未来は碌なものではない。
死ぬか、死んだように生きるか。ただそれだけの違いだ。
「学ばないのはあなたも同じ。私達が降参するはずないじゃない」
「こちらとしては、殺さずに捕らえたいのでな」
殺したくないというわりに、指揮官が片手を上げて合図すると、兵士達が弾を装填して銃口をこちらに向けた。
(少なくとも、私に関しては代わりがいるのよね)
内包する魔力量は魔族の中でも上位に位置している。だが、他にも魔族がいるのなら必ずしも唯一絶対の検体にはなりえないと認識されているはずだ。少なくとも、今はまだ。
最悪の場合、軍は自分だけでも殺しにかかるだろう。
数の暴力とは恐ろしいものだ。数で攻め入り、ただでさえ数の少ない魔族を狩り続けたこの百年がその脅威を証明している。
「――秘密を抱えたままで別れるのは嫌だなあ」
「クレール?」
自分だけは殺される可能性がある。死ななくても、捕まれば二度と彼等に会えなくなるだろう。
自分を信じて己の過去を明かしてくれた彼等に、自分の秘密だけは明かさないまま終わるだなんて不公平だ。不誠実だ。
自分に希望を与えてくれた彼等に、今度は希望をもたらしたい。
「ティーロ、あのカプセルから皆を出すにはどうすればいいの?」
「部屋の中央の端末。あれでカプセルにかかってるロックを解除できるはずだけど、何か名案でも?」
カプセルの中は静かなものだ。何らかの方法で眠らされているのだろう。
(治癒魔術が効いてくれればいいんだけど)
「名案というか、隠し事はもう止めにしようと思ったの。仲間だから」
銃口を向けられて尚、眉一つ動かない。今まで捕らえてきたどの魔族とも違う威圧感を纏う少女に、指揮官は寒気を覚えた。
「あなた達に頼ってばかりもいられない。本当に魔族の希望でいなければいけないのは私だから」
いつまでも誰かを当てにしていてはいけない。
魔族を救えるのは自分だけだと言ってしまうのはただの思い上がりだろうが、少なくとも、魔族に未来への可能性を見出させる先導者として最適なのは自分だと知っている。
自分なら、魔族の求める存在になれる。魔族再興へのきっかけになれる。
だからもう、ただのクレールでいられる時間はお終いだ。
クレールの金髪が赤みを帯びた紫へと染まり、緑色だった瞳が血の赤に変じる。
背中に現れた翼は漆黒の六枚羽。
さながら女神か堕天使か。魔性でありながら神聖ささえ感じさせるその神々しい姿に、兵士達は目を奪われた。
「私の本当の名前はクレールヒェン。クレールヒェン・イーヴァイン・バーゼンバイン。デンメルク最後の魔王、イーヴァインの孫娘にして、正当なる王位継承者!」
本当の姿を人前に晒すことこそ、クレールの覚悟の証明だった。
「――六枚羽。クレールが、魔王の孫娘?」
「一番あり得ないと思っていた仮説が当たりだったとは……」
ノインは信じられないという顔で。ティーロは彼女が歴史の真相を語ったときから、少なからず魔王と関係のある血筋の娘ではないかと仮定はしていた。しかし、彼女自身が王位正当後継者。つまり、新たなる魔王だと考えるのは、彼にとってもあまりに都合のいい解釈で、荒唐無稽だと切り捨てたはずの願望だった。
「黙っててごめんなさい。あの頃の私は幼くて、おじい様とお父様が亡くなられても魔王を名乗る勇気がなかった。そのままずるずると百年も逃げ続けてしまったわ。いつかは魔王として、魔族を救いたいと思っていた。でも、あなた達に出会わなければ、きっと無茶をやらかして、死ぬ気で戦って、そして死んでいたのでしょうね。魔族の旗印になるという役目を言い訳にして」
勇気をくれたのは他でもない彼等だ。誰かを守る責も負わぬ彼等が、命を懸けて魔族を守った。そんな彼等に恥じばかりを積み重ねる生き様は見られたくなかった。
自分に勇気をくれた彼等に、ただ一つでも希望を返してやりたかった。
おかしな話だ。ただそれだけのことで、自分はあっさりと殻を破れてしまったのだから。
「笑わせるな。今更魔王の血筋が現れたところで誰が信じるというのだ。お前達、怯むなよ。あの女は我々を動揺させようとしているのだ」
呆けていた兵士達の手に再び力がこもり、その銃口がクレールに集中する。
「怯んでいるのは誰かしら。さっさと仕掛けてくればいいのに」
クレールが一歩前へ出ると、前方に陣取る兵士の大半が後退った。
ただの魔族なら捕らえられるくせに、それが魔王となると恐れをなす。その恐れこそが三人にとっての勝機。
(私にはおじい様ほどの魔力はない。奴等が怯んでいる隙に決着をつける)
「ここにいる人間を皆殺しにしてしまえば、私達の目的は簡単に達成できるのよ。あなた達が遠慮しているなら、こちらはそれに甘えさせてもらうだけ」
抜き身のままの剣で中空を薙ぐと、そこに姿のない風の刃が生まれた。目視こそできないが、刃の軌道だけはほんの少し輪郭が歪んで見える。弾丸の如く打ち出された無色の刃は直進し、二人の兵士の右腕と左腕をはね飛ばした。
「ぼんやりしているからよ。次は誰にする?」
突然の欠落に絶叫を上げる二人。こういうときに大騒ぎしてくれる臆病者は嫌いじゃない。恐怖は伝染し、兵士の銃口が大きく揺れるから。
がちがちと震える者。逃げ出そうとする者。――そして、恐怖のあまり指揮官の指示を待たず、手当たり次第に銃を乱射する者。
いくらでも怯えればいい。現状不利なのはこちらだ。にもかかわらず、ただ魔王が目の前にいるだけで自らの勝機を捨て去ってくれるなら望むところだ。
「こっちへ。あまりもたないから」
ノインとティーロの腕を掴んで身を寄せ、一時的に強力な結界を張る。
高速で射出される弾丸を魔術で防ぐのはとても難しい。それを可能にしようと思えば、銃撃される可能性のある方向すべてに強固な魔力の塊を張り巡らせる必要がある。
クレールは指揮官と話しながらも羽一枚分の魔力をすべて費やし、全方位に向けた三人を覆う結界を組み上げた。ほんの数秒銃弾を防ぐだけでも恐ろしく消耗するものなのだ。けれどその苦労を顔に出すことはなく、クレールは実に魔王らしい意地悪な顔付きで、陣形の乱れきった人間達を嘲笑う。
「百年経った今でも、やっぱり魔王は怖いんだな」
爆音のような銃声が響く中、クレールに腕を絡められたノインが呟く。
そう、これが魔王の仕業でなければ、兵士達は淡々とクレールを処分しただけだったはずだ。
「あの詐欺師が魔王の伝承を惜しみなく伝えてくれた結果、彼等の中には魔王への本能的な恐れが根付いてしまったのね。子供がお化けを怖がるのと似たようなものよ」
「魔王をおばけと同列に例えるって。うん、クレールはやっぱりクレールだね」
彼女は遠い存在なのではないか。青年二人の間にも揺らぎはあったが、弾幕に遮られればいつものように抑揚なく語るクレールの姿にほんの少し安堵した。
数秒の乱射を乗り切り、流れ弾を喰らった兵士達が床に倒れ伏していた。
三人は同時に地を蹴った。
「隊列を乱すな、取り押さえろ! 殺しても構わん!」
こうなっては生かすリスクを念頭に入れざるを得ない。
最初から数にものを言わせ、戦わずして屈服させるつもりだったのだろう。
いざ交戦するとなると、銃器を装備した兵士達は撃つに撃てない。三人を取り囲む陣形を取っていたということは、外せば仲間を撃つことになるからだ。
陣形を変えるにも多少の時間は必要だし、後方は、混乱した仲間の乱射で既に半数が死傷している。
「最早滅びを待つだけの種族だろう。おとなしく人間の糧になればよいものを!」
「そういうことは家畜みたいに飼いならしてからほざけよ、お偉いさん!」
前方の隊列と衝突するには数秒とかからなかった。
切りかかってくる指揮官の刃をノインが受け止める。その隙にティーロは指揮官の脇をすり抜け端末に飛びつき、クレールはその楯となるべく兵士達の前に立ちはだかった。
「ちょっと時間かかるよ。頼んだ」
「任されたわ」
ティーロの周囲に分厚い氷の壁を築く。銃弾には敵わないので随時塗り固めていく必要はあるが、魔力を固めて結界を張るよりは消耗せずに済む。
(今すべてを費やすわけにはいかない。皆を目覚めさせなければいけないんだから)
ティーロに気を配りながらも、ノインと背中を合わせ兵士達を切り伏せていく。
「おのれ、魔族が!」
「あなた、魔族に恨みでもあるの?」
ノインが押し負け、よろめいた瞬間を狙い指揮官が長剣を振り下ろした。クレールはすかさず二人の間に滑り込み、その剣を受け止める。
「恨みなどない。だが、今この国を救うには、魔族を糧にするより他に術はない!」
指揮官にもこの計画に固執する理由があった。
彼はまだ若い頃に両親を事故で失っていた。
今や医療現場でも聖輝石は欠かせない存在となっているのだが、聖輝石不足は昔からその兆候が見えていた。地方の小さな病院では聖輝石が調達できず、手術や延命用の機器が使用できないという状態が続いている。
軍に入隊したばかりだった彼に医者が言った。
『聖輝石の供給さえ安定していれば、もっとちゃんとした治療を施せたのだが』と。
今の指揮官を突き動かす原動力はその言葉だった。
聖輝石を得る。その為にはまだ聖輝石が採掘できる他国の土地を獲得しなければならない。開戦し、他国を取り込むまで国民の安寧を守るには魔族の魔力が必要だ。
彼にとって、魔族は人類の一種ではなくただの糧。
そう考えるのが一番しっくりきて、揺るぎないその思想が、平民上がりだった彼を魔族狩りの指揮官にまで叩き上げた。――しかし、魔族には魔族の意志がある。
人が困窮しているからと容易に命を差し出せるほど自己犠牲精神旺盛ではない。
人の為に家族と自分の命を差し出すなど馬鹿げている。後悔しながら死ぬくらいなら、一人でも多くの狩人と心中した方がいくらかましだ。
彼の事情など知る由もなく、たとえ彼の過去を知ったところで、結局両者が相容れることはないのである。
「そうして魔族を食い尽くしたら、今度は他の国を侵略して糧にするの? デンメルクを滅ぼしたあなた達の勇者みたいに!」
指揮官の剣を乱暴に弾き、切り返す刃に風を乗せて不可視の刃を飛ばす。
紙一重で指揮官が回避した結果、背後にいた兵士が一人犠牲となった。
「人は魔力なしには生きられない。昨今の魔力不足からくる聖輝石の使用制限のせいで命を落とす国民達を見逃すわけにはいかん」
「随分私情が混ざってるようだが、あんたの見解難ざ聞いちゃいねえ。あんたが人間を守るように、俺達は魔族を守る!」
クレールとノインは入れ替わり立ち代り、指揮官と周囲の兵士達と切り結ぶ。
二人掛りでようやっと足止めしているようなもの。もしも百年前に生まれていたなら、彼が勇者と呼ばれていたのかもしれない。
『お前達は何の為に人間を襲うんだよ!』
『人間に恨みがあるのはお前達じゃないのか!』
順番に倒れていく仲間。次に切られるのは自分かもしれないという恐怖が、口を閉ざし、ただ命令のままに動いていた兵士の理性をことごとく揺さぶる。
残った兵士は最初の半分。数の上ではまだ彼等の方が優勢に見えるが、彼等にすればたった十数人で魔王と相対するなど愚の骨頂。
既にその多くが物陰に身を隠し、狙いも碌に定まらないままただ弾丸を浪費している有様だ。
兵士達は限界に達した精神で切実な人間側の理屈を叫ぶ。しかし彼等の抱く疑問はそもそもが勇者のでっち上げた根も葉もない戯言で、何故恨むのかと問われれば、そもそも人間が事実無根の悪行を理由に魔族を根絶やしにしようと挙兵したからだ。
「刷り込みって怖いのね」
いっそ憐れむような目で、自身を畏怖する兵士達を一巡する。
既に隊列は機能していない。指揮官は部下の有様を目の当たりにし、舌打してから数歩下がった。
「まず最初に、魔族の誇りの為に言っておくなれば、私達魔族は人間の地に天災を招いたことも、流行り病を振り撒いたこともない。本当にわからないわけではないでしょう? デンメルクを滅ぼして病は流行らなくなった? 日照りは起こらなくなった? そんなことありえない。端から魔族は災厄の元凶ではないのだから、魔族を狩ったところであなた達人間を苦しめる現実はなくなったりしない」
魔族が人間にとっての絶対悪。それは、人間が人生における苦痛を他人の責任として押しつける為にでっちあげた妄想。それを誇張し、絶対的な価値観へと昇華させたのが百年前の勇者だ。
「魔族は人間のように無駄な争いなど望んでいない。人間に恨みを抱いているのは私達の方ですって? 当然じゃない。何の咎もなく悪者に仕立て上げられ、挙句国を滅ぼされて尚笑って何もかも許せるほど、私達の感情は希薄じゃない」
「何を言っている! 平和条約を無碍にしたのはお前達魔族じゃないか!」
「勇者は最初から平和条約を結ぶ気なんてなかった。あなた達の知る歴史は、あの会談の場で先に剣を抜き、丸腰だったおじい様を切り殺したペテン師の捏造した人間優位の嘘っぱちだったのよ。まあ、あなた達がこんな話を信じるとは思っていないけれどね」
信じて欲しい。けれど最初から期待などしていない。
案の定、兵士達は魔族の口車に乗せられるなと囁きあった。
「情けないけど、人間なんてそんなものさ。僕だって、自分がこの立場でなければ彼等側だったろうからね」
ティーロが端末を操作しながら吐き捨てる。
「短い人生だ。自分に都合よく解釈して、自分に都合よく事を運ばなきゃ耐えられないんだよ」
「でも、現実を知れば理解してくれる人もいる。ティーロやミリーさんみたいに。私は、そんな人達まで廃除するつもりはないわ。人間だからとすべてを排除してしまえば、憎い偽物勇者と同列に成り下がってしまうもの」
魔族は悪。人を殺し、災厄を招く忌まわしき存在。しかし、その魔族と人間であるティーロが手を組んで魔族を解放しようとしている。よくよく考えればおかしな光景だと兵士達は気がついた。
ティーロは魔族贔屓の変わり者だが、そもそもそこへ至る経緯に人間が人間を、それも同じ国の国民を裏切ったという経緯があることを、彼等も情報として把握している。
「戯言を! 魔族は悪だ。滅ぼさねばならない。そして、どうせ滅ぼすならせめて我々の糧として役立ててやるべきだ。それが魔族の存在意義だ。――お前達の役目は何だ。感情に踊らされ、魔族に懐柔されることか!」
善くも悪くも芯を曲げない男だ。命令ならどんな所業も遂行してみせる。それが軍人というもので、彼はその鑑だ。けれど、鑑はそう多くないから鑑となり得る。
恐怖と動揺の伝播した集団心理を払拭するのは、そう容易い話ではなかった。
「教えておいてやる。俺達はこのあと、この施設ごと破壊するつもりでいる。今地上に逃げれば当然巻き込まれなくて済むし、俺達だって戦意を失った者にまで刃を向けるほど冷酷じゃない。あんた達が戦いたくないと。今すぐにこの戦場から出て行くというのであれば見逃してやれる。悪い話じゃないと思うぜ?」
もっとも、そんなことをすれば敵前逃亡の罪で処刑される可能性があるが、彼等にとってはどうでもよいことだった。
既に仲間の半数は死傷し、自分達もいつ殺されるか危うい状況だ。
主導権はとうの昔に失われた。彼等の意識は今死ぬか、後で死ぬか、その選択を迫られていた。
「システムの掌握、完了。援軍が来ないように各エリアの防火扉封鎖、完了。ノイン、クレール、カプセルを開けるよ!」
狼狽する兵士達などおかまいなしにティーロが叫んだ。
ものの数秒でカプセルが音を立て、すべての蓋が開かれた。カプセルからガスが立ち上り、大気に溶けつつ上っていく。
折角時間を稼いでみせたが、魔族は皆ベルトでカプセルに固定されており、目を覚ます様子はない。
「全員ガスで眠らされてる。今後目覚めさせることを考慮してないような濃度だよ」
ティーロが端末から読み取った情報を告げると、ノインは唇を噛み締めた。
「徒労に終わったな。目覚めない魔族全員を連れ出すなど、自称魔王にも出来はすまい」
指揮官は、クレールの素性があくまでも自分達を混乱させる為のはったりと受け取っていたようだ。否、そう振舞わねば最早部下達は立っていられないと判断したのである。
「こんな所でっ!」
ノインは声を荒げた。
「いいえ、まだ終わってないわよ。私だって、その為に魔力を温存していたんだから」
本当に際どい線だ。おそらく、残りの魔力はすべて持っていかれてしまうだろう。その上で魔族達を守り、この指揮官を屈服させなければならないのだから、クレールにとっては大きな賭けだ。
「策があるのか?」
「私には治癒魔術があるってことをお忘れかしら」
とはいえどこまで届くかはクレール本人にもわからない。それでも、今指揮官やその部下達の前で弱音を吐くことは許されない。
クレールの内包した不安を的確に察知しながらも、二人は彼女の気丈な振る舞いを尊重した。
「――オーケー、選手交代。皆が目を覚ますまで、僕等が君を守ってあげる」
「魔王復活の第一歩だ。維持でも死守してやる」
青年達がすっかり崩れ落ちた氷の壁を背に得物を構える。
クレールもまた氷の壁に背を向け、部屋の奥の壁に向かって両膝をついた。
カプセルの魔族が眠りから醒めなければ政府の勝ちだ。そして今、新たなる魔王は身動きが取れない。この機会を逃すものかと、兵士達の士気が再び高まる。
(この中のどこかにイゾルデがいる。皆の魔力が入り乱れすぎて、どこにあなたが眠っているのかわからないけれど、絶対に連れて帰るから)
両膝をつき、指を絡めてうつむく姿は神に祈りを捧げているようだった。
魔力が羽からとめどなく流れ出し、急激な倦怠感に見舞われ、その負荷は容赦なくクレールに襲い掛かる。
背後に銃声が聞こえる。ティーロの為に作った氷の壁は、数多の銃弾を受けてもうすっかり砕け散ってしまった。それでもクレールは振り返らない。
彼女を中心に魔力が淡い金色の光を帯びて竜巻のように渦を巻く。天井まで届いたそれは、今度は雪のようにしんしんと降り注いだ。
力に満ち満ちていた羽に喪失感を覚えた。羽の一枚一枚にも他の魔族より強い魔力の宿るクレールだが、今では六枚分、すべての羽の魔力が底をつこうとしている。
「もう少し、もう少しだけ……」
二発の銃声と、野太い悲鳴がすぐ背後から聞こえてきた。
よろめく身体で背後を見やると、既に立っているのは指揮官だけだった。
今の音は、錯乱して特攻してきた兵士をノインとティーロがねじ伏せた音。
「ノイン、クレールを」
「あいつは手強いぜ」
「僕じゃ役者が不足してることくらい承知の上さ」
ティーロが新しい銃弾を装填する間、ノインが指揮官と睨み合った。ティーロの準備が出来次第立ち位置を入れ替え、ノインは即クレールの背と胸に腕を回して体を支えた。
「無理させてごめんな」
「まだ、諦めない」
「そりゃよかった。俺も諦めてないんだ。だからクレール、俺の魔力を使ってくれ」
クレールは目を見開いた。
「自分の言ってること理解してる? 羽のないあなたに魔力を消費させるなんて!」
「俺の成長は人間と同じ速度だった。それって、最初から魔力が俺の身体に作用してなかったってことだよな。だったらきっと平気だ」
「屁理屈よ。そんなに簡単な話じゃないわ」
「でも、このままだと君は確実に命を使うだろう。その場にいる全員の命。誰か一人が背負うには重いんだ。だから、俺にも手伝わせてくれ。君にならできるんだろう?」
魔族は食物となった動植物の命を魔力に変換して生きている。
人間は食物から栄養を摂取して生きている。
同じものを食べていても、人と魔族は進化の過程で違う道を選んでいるのだ。
ならば両方の血を引くノインはどちらに当て嵌まるのか。
魔力を持っているということは食物を魔力変換しているのは間違いない。けれど、人間と同じ速度で成長したということは、彼の言うとおり魔力が彼の肉体に作用していない、 あるいは依存性が限りなく低い可能性があるということ。
もしそうだったとしたならば、代々王家に仕えるほどの血統を持ったイゾルデに匹敵する彼の魔力は、今この場において最高の手助けになる。
「――私、デンメルクを再興したい。だから、まだ死ねない」
「うん、そうだな」
迷っている時間はない。彼等を疑う時間が惜しい。
「だからお願い。あなたの命、私に預けて」
「おう、遠慮なく使ってくれ」
他人の魔力を使うというのは初めての経験だった。ただ、できなくはない。
人が聖輝石から魔力を抽出する術を見つけたように、魔族にも術式さえ知っていれば同じことができるのだ。
「まったく、雰囲気も何もあったものじゃないわね」
その中で最も効率的に他者の魔力を抽出する方法。それは、触れ合うこと。
ノインの胸倉を掴んで引き寄せ、強引に唇を重ねる。
説明もなく実行に移され、ノインは目を見開いた。
数秒送れて行動の意味を理解し、既に満身創痍の彼女を支えようと、再び身体に腕を回す。
さながら、神に祝福された恋人同士の姿のようだった。
空っぽだった羽に、ノインがもたらした魔力が宿る。途切れ始めていた金色の雨が色を濃くした。
背後で忙しなく鳴り響く金属音と銃声がぴたりと止んだ。負傷して地をのた打ち回っていた兵士さえもがその幻想的な光景に目を奪われる。
大気が揺れた。
力なく、ただベルトに支えられて姿勢を維持していただけの魔族達の指先が震える。ゆっくりと瞼が開く。次々と、一人残らず。
対象を絞らずに降り注いだ癒しの雨は、傷ついた兵士達さえ癒したが、彼等にはもう銃を取る気力など残っていなかった。
ベルトから抜け出した魔族達の声で、静寂が喧騒に変わった。
長く眠っていた彼等には、この状況が理解できていないのだ。
「目を、醒ました」
唇を離し、ひと一人を間に挟めるだけの距離を取る。
ノインは初めて感じる脱力感にいくらか顔色を悪くしていたが、命に別状は見受けられなかった。どうやら、賭けに勝ったらしい。
この為に魔力を費やしたというのに、まるで奇跡が起きたかのような気分だった。
クレールは気を抜けば右へ左へ傾きそうな体を意地で制し、立ち尽くす指揮官へと目を向けた。
「――私達の勝ちよ。指揮官さん。いくら消耗しているとはいえ、これだけの魔族を相手に残存兵だけで対応できるとは思わないでしょう?」
おそらくこの研究室以外にもまだ兵士は残っている。今はティーロがシステムを乗っ取ったおかげで援軍の到着を阻止できているが、それも時間の問題だ。
ここまで来て、これ以上の死者は出したくない。
最も警戒すべきは、町の駐屯部隊が事態に気付いて増援に来ること。そうなる前にと、クレールは降伏を促す。
「ふざけるなよ。私は最後の一人になっても戦い抜く。人の為に、ゼーゲンの為に!」
「つくづく合わないな。こいつとは」
「考えていることは私とそう変わらないんだと思うわ。違っているのは、守るべき対象。それだけよ」
同じ種族として生まれ、もっと違う出会い方をしていれば変わるものもあっただろうが、所詮これが現実だ。
どちらかが滅ばなければ止まらないというのなら、最早言葉で諭すのも野暮というもの。
散々説得を繰り返し、降伏を促した彼も、きっと無意味な殺し合いを望んでなどいなかったと知りながら。それでも両者には、戦う道しか残っていない。
「これ以上は不毛だな。一騎打ちで片をつけようか。魔王殿」
指揮官の口から魔王と呼ばれても皮肉にしか聞こえなかった。
一騎打ちと言うからには大将同士でなければ意味がない。
指揮官はクレールに切っ先を突きつけ不敵に微笑む。彼にとってのみならず、人間にとっての宿敵が、再び世に放たれる前に始末したいという彼の思惑が見え隠れしていた。
指揮官を見据え、剣を構え直そうとするクレールをノインが引き止めた。
「いいでしょう。相手に――」
「いいや、あんたの相手なんざ俺で十分だ」
「――ノイン、ご指名は私よ」
「駄目だ。あいつ、火薬臭いんだ。心中でもされたんじゃ洒落にならない」
ノインが前へ歩み出ようとしたクレールを体ごと遮り、後ろからはティーロが腹へと腕を回して引き止めていた。既に限界が近づいている肉体は、ほんの少し力を篭めただけでも抵抗ができないほどに弱っていた。
指揮官が纏わせていた火薬の臭いにはティーロも気付いていた。彼は、余った片手でノインの袖も握り締める。
本音を言えば、一騎打ちなど望んでいない。
「いつから気付いていた?」
「最初にあんたと切り合ったとき。いかにも優秀な軍人の鑑みたいなあんたが、馬鹿正直に剣しか用意してないとは思えなくてな。注意して探ってみりゃ案の定だ」
指揮官の軍服には三人との乱戦でついた小さな破れがあった。上着の下にはやけに硬質なベスト。目を凝らすと、そこから黒い粉末が漏れ出していた。
「あわよくばクレールを巻き込んで諸共消し飛ぶつもりだったんでしょう。彼女は相当手強い。あとに残したくなかったんでしょう?」
地の利もない場所で、たった数名の烏合の衆が、訓練された軍隊に大打撃を与えるなど容易なことではない。
皆が皆、それぞれに特技を持ち活躍したが、彼等がここまでやって来れたのはクレールのもたらした功績が大きい。
彼女が魔王と知らずとも、その排除の為なら手段を選ばないのが軍人だ。それがどれだけ汚い手であったとしても。
「やれやれ、こうも上手くいかないとは。まったく、伝承のとおり魔族とは忌まわしい生き物だな。そして、それに味方するお前も愚かなものだ。ティーロ・ブラームス」
指揮官が上着を脱ぎ捨てた。
着用したベストには手の指ほどの長さの筒が、腰のくびれを境に二段に渡ってびっしりと縫いつけられている。
「あの火薬の量だと威力自体は大したことない。ただ、一騎打ちみたいに接近戦に応じざるを得ない状況でなら、巻き込まれるのは必至だったろうね。さっきまでは自分も死にたくなかったのと、部下に気を遣っていたのとで使いそびれていたみたいだけど」
「任務の為なら死ねるなんて、まったく軍人の考えることは理解できねえな。大切だから生きて守りとおすんだろうが。やっぱりあんたとは相容れないな」
ノインの短剣は血と油にまみれて、刃が欠けて、すっかり切れ味が落ちていた。それでも刀身を袖で拭い。逆手に握って指揮官と睨み合う。
「ノイン!」
「クレール、あいつの狙いは最初から君だ。大人しく下がっててくれ」
有無を言わさぬ口調で言い放つ。
「そっちだって下らない手を使おうとしたんだ。こっちが彼女を出さないからって、苦情は受け付けないぜ」
どんな言葉も最早噛み合うことはない。
得物を手に睨み合う。探り合いの数秒が経過し、二人の呼吸がぴたりと合った。
どちらからともなく大きく踏み出し、急所を狙った一撃が繰り出される。
ダンスのように身体を翻し、初手はいずれも捉え損ねた。
首筋を狙ったノインの短剣が指揮官の髪を掠め、心臓を狙った指揮官の剣がノインの腕を掠めた。
二手三手と交わるも、どちらも決定的な一撃には至らない。
短剣による、決まった型を持たない変幻自在のノインの剣。
長剣による、大振りながらも重く的確な指揮官の剣。
一進一退の攻防は、両者に小さな傷を与えながらも決定打に欠けていた。
目覚めた魔族達は状況が飲み込めないまま、呆然と事の成り行きを眺めている。
『これはいったい何事だ』
『どうしてこんな所にいるんだったかしら』
『今は何日だ。私はいつから……』
動揺は波紋を呼んだ。
魔族狩りが激化した時期から推測すると、長い者で一年近く眠っていたことになる。混乱するなと言う方が無理な話だ。
「ティーロ、ノインを見ててあげて」
皆が目覚めた喜びよりも、今はノインの邪魔をして欲しくないという願いの方が大きい。
クレールはおよそ百年ぶりに羽を広げ、宙を舞った。
「皆さんが無事でよかった。今は目覚めたばかりで疑問、怒り、思うところはあるでしょう。けれど、今は彼を見守っていただけないでしょうか。彼は今、あなた達の為に戦っているのです」
烏のように艶やかな六枚の羽。
生を司る鮮血の赤い瞳。
捕らわれた魔族の中には、その特徴に目を見開く者が少なからず存在した。
「その姿は」
「まさか、魔王陛下の血を引くお方か?」
「姫君様だ。姫君様が戻られた」
一部の者が漏らした言葉は、この密集した空間内であっという間に広がった。
クレールが人差し指を唇に押し当ててジェスチャーすると、彼女の正体に気付いた者から慌てたように口を噤む。
皆が無事にカプセルから出て降り立つのを確認してから、視線をノインへと戻す。
まだ決着はついていない。
「クレール!」
カプセルの一つから女性が飛び上がり、クレールに抱きついた。イゾルデだった。
死なせない為に腹の治療はされていたようで、動くたびに顔を顰めながらもその挙動に危なげはない。
「イゾルデ、無事だったのね!」
「何故こんな場所に。それに、彼等まで……」
抱き締められた腕を回し返すけれど、まだ何も終わっていない。
イゾルデの視線は指揮官との攻防を続けるノインへと注がれていた。
「彼等のおかげよ。ここがわかったのも、ここまで無事に辿り着けたのも」
再会の感動もそこそこに、クレールはティーロの側へと降り立った。当然、イゾルデもそのあとに続いて地に下りる。その瞬間だ。
「おのれっ!」
息を荒くした指揮官が、とうとうノインの短剣を弾き飛ばした。
彼は瞬時に身を屈め、低い姿勢のまま一閃を躱し、低い姿勢のまま短剣へと跳びつく。
誰もが指揮官はノインを追撃するものと思っていた。けれど、指揮官は剣を薙いだ勢いに乗って身を翻し、そのままクレールに向けて突進した。
「下がって!」
指揮官の右手には長剣。左手には黒光りする小さな機械が握られていた。この状況で、それがどういう類の物なのかなど素人にも察しがつく。爆弾の起爆スイッチだ。
一騎打ちの相手が変わろうと、彼の目的は一貫してクレールの抹殺だった。
イゾルデを後方へと突き飛ばし、目前まで迫った彼へと剣を振り上げる。
確かな手ごたえを感じた。鈍い音と感触が剣をとおして伝わってくる。
指揮官の右腕が放物線を描いて地に落ちた。その手の平から、からりと音を立ててスイッチが転がり落ちる。
「貴様、だけは!」
「許せないのは、私も同じよ!」
切り返し様に剣を突き立てる。今度こそ、外すことなく指揮官の横腹を捉えた。
片腕を失くし、腹に刃が刺さっても、それでも彼は膝をつかなかった。
残った片腕に握った剣を、執念だけで振り回す。
数秒前までと同じ感覚で振り回してしまう右腕から、どろりとした血が溢れ出た。
こつこつと踵を鳴らし、数歩下がって刃を避ける。
如何なる状況でも目的の為には手段を選ばない。一騎打ちの合間にも、隙を見せればその刃はクレールへ向かう。わかってはいたけれど、三人は、敵ながら心のどこかで彼の誠実さを信じていたのかもしれない。だが、読みは外れていた。現実は感情論だけで片付けられるほど単純なものではなかった。
軍人としては正しかったのだろう。しかし、人間としてはどうだったのだろうか。
起爆スイッチを失い、最早爆弾は意味をなくした。
『一騎打ちはお終いだ』
ノインとティーロが口を揃える。
銃声が響き、指揮官の胸から短剣の切っ先が微かに顔を見せた。
残っていたはずの左腕は、手首が打ち抜かれて手としての機能を失った。
剣ががらりと手から抜け落ち、貫かれた心臓からごぽりと血が溢れ出す。
「本当に、軍人の鑑だったね」
「一騎打ちのルールを破らなければ、俺だけは殺せたのにな」
ノインがナイフを引き抜くと、言葉を遺す暇もなく指揮官が倒れた。
その瞳に光はなく、もう息をしていなかった。
後味が悪い。
イゾルデは戻ってきた。魔族も救出できた。魔族狩りの実働部隊も一つ潰せたし、実験施設も掌握できた。
嬉しいはずなのに、素直に喜べない。
仲間の為、同胞の為なら命を差し出せるその揺るぎない決意が、かつて祖父や父、自分の為に戦って命を落としていった魔族の姿に重なった。頭の中に死んでいった魔族の死に顔が浮かび上がる。
魔族も人間も、ただ己の仲間を、家族を守りたかっただけなのに、永らくその思いが交わらないままに生きてきた。
「あなたをそこまで生き急がせたのは何だったのかしらね」
敵の事情など知るものではない。知らなければ忘れられる。
初めて魔王として対峙した敵の死に顔は、魔族の死に顔とよく似ていた。
「死んでしまえば、人も魔族も同じなのね」
動かない。話さない。笑わない。泣くこともない。
魔王として生きる道を選んだ以上、今後人間の死に顔が記憶を占める割合は、どんどん増えていくことだろう。
「私は死なないわよ。あなた達に奪われたデンメルクを取り戻すまでは」
指揮官の顔を見たのは、その瞬間が最後だった。
イゾルデの腕を引き、ノインの元へ歩み寄る。
近くで見ると、彼は全身傷だらけだ。とくに太腿の傷が深いらしく、ティーロの肩を借りて何とか立っていられるような状態だ。
「勝ったぜ。クレール」
「ありがとう、ノイン。怪我を見せて。治すから」
「いいよ。君だって立ってるのがやっとだろ。最後の気力は彼等の為に使ってやりな」
痛みに眉を顰めながらも、ノインの視線の先にはイゾルデがいた。更にその向こう側には、目覚めたばかりの魔族達が涙ながらに感動の再会を果たしている姿が見える。
「それから、おかえりイゾルデ。君がいない間に、クレールも色々覚悟を決めたみたいだぜ」
「ただいま戻りました。あなた方に助けられたのはこの上なく不本意です。よくもまあ我が主様をたきつけてくれたものですね。私の百年が水の泡ですよ」
「魔族達にはいい結果になったと思うんだけどな。指導者を亡くして散り散りになったことが魔族の弱味の一つだった。指導者がいれば、少しは人間側も手出しし辛くなるはずだぜ」
拠り所ができるということは、そこに人が集まるということだ。
クレールならば自分を頼ってきた魔族は全力で守るだろう。その輪が広がれば、いずれ人間も魔族狩りだなどと言っていられなくなる。
「――クレール。いえ、クレールヒェン様。もう、進む道を決められたのですか?」
「ええ、決めたわ。魔族には拠り所が必要だし、人が人を傷つけるというのなら、私は魔族と、人に虐げられた人を守る魔王になるわ。おじい様のように」
かつてデンメルクを栄えさせた名君。彼のようになるにはいったい何年かかるだろうか。
そもそも、魔族が百年も空席だった魔王という君主を今でも求めているのかは定かでない。けれど、それでもいいのだ。
魔族を守る。その基盤を築けたならば、どこかの国のように民主制を採用した王のいない国を作り、魔王は姿を消すのもありだ。
今必要なのは、数を減らし、戦う意欲さえも奪われた魔族を守り、奮い立たせることができる指導者なのだ。
「私に勤まるかは正直不安だわ。でも、誰も何もしないよりは、きっと未来の選択肢を増やせると、そう信じてみることにしたの」
無茶だろうが無謀だろうが、人の為に平気で命を懸けてしまう彼等を見ていると、自分だけ逃げていてはいけないと感じた。
魔王の血を引く自分が何とかしなければと考え続けた焦燥感。
それなのに何もしなかった自分への羞恥心。
たった数日の付き合いだが、彼等の生き方と経験が背中を押してくれた。
できるかどうかじゃない。やるかやらないかなのだ。そんな在り来たりな結論を、彼等が体現するまですっかり忘れてしまっていた。
「今からでも間に合うわよね?」
「――私は、あなたの決めた道にお供するだけですわ」
「魔族に生き残りがいる限り、間に合わないなんてことはない」
「少なくとも、自らの行いが再び魔王を台頭させてしまったという事実を、人間は悔いることになるだろうね」
魔族という絶対的な敵を前にしなければ、人間は種族一丸となることができなかった。だが、今日この日をもって再び魔王は現れたのだ。
いずれ人間は思い知る。人間同士で殺し合っている余裕などないということを。
「ええ。その為にも、まずは魔族の皆に新しい魔王を認めてもらわなくては」
クレールの目が魔族達に向く。
一部の者達は既にクレールの素性に気がついていた。
六枚の羽。赤い瞳に紫がかった髪。すべてが先代魔王イーヴァインと同じなのだ。
先代は気さくな人柄で、民の前に姿を現すことも多かった。だから、臣下のみならず、王都に居を構えていた者ならばその容姿を知る者も少なくない。
(今の時代においてはこの外見が血筋の証明。死して尚、おじい様達は私を助けてくれているのね)
「再会のあいさつは済んだかしら。本当はゆっくり休ませてあげたいけれど、まずはここを出なければいけないの。もう少し頑張ってくださいね」
兵士の死体を避けながら、部屋の奥に集まっていた魔族達に歩み寄る。
全員の視線がこちらに集まると、クレールは内心でどきりとした。
目立たないよう過ごしてきた人生において、注目されるという経験が皆無だったからだ。
「あなたのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
老齢の魔族が代表して問うた。
その背後には、およそ確信を抱いているであろう数名が控えている。
「クレールヒェン・イーヴァイン・バーゼンバイン。亡き魔王、イーヴァイン陛下の孫娘です。――信じる信じないはあなた方の自由ですが」
捕らえられていた百名近くが一斉にどよめく。その反応は様々だ。確信していた者、半信半疑な者。純粋に驚いている者。
無理もない。百年も逃げ続けた王家の生き残りが、今更名乗り出てきたところで、そう簡単に受け入れられるはずもないのだ。
受け入れてもらえずとも構わない。
誰に否定されようと、既に道は決めたのだ。
魔族の国を取り戻し、再び魔族が穏やかに暮らせる未来を掴む。
見返りなどなくてもいい。自分はただ、かつて実在した理想郷を取り戻す為に戦うだけなのだから。
すべての役目を果たしたら、どこかで隠居するのも悪くない。そんなことを考えながら、クレールはすっかり血に塗れてしまった剣の柄を撫でた。
「その剣はまさしく王家の! お帰りなさいませ、姫君!」
「でも、百年も姿を現さなかったわ」
「でも、まだお若い。百年前の姫君といえば、まだ年端もいかぬ子供だった。何もできなくとも当然では……」
「本当に本物か? 名を騙る偽物ということは?」
温かい声。難しい声。こちらの事情を汲んで真偽を見極めようと悩む声。
その反応は三者三様だが、険しい顔の方が割合多い。自分を救ってくれた恩人であることは理解しているが、長年の弾圧により疑心暗鬼になっている者も少なくないのだ。
そんなとき、ノインがクレールの背中を強く叩いた。
突然のことに息が詰まった。何事かと勢いよく首を後ろに向けると、ノインがティーロの肩を借りながら、腹を抱えて笑っていた。
「クレール。そういうときは素直に信じてくださいって言うもんだろ。君は魔王なんだから、そんなところでまで反論の余地持たせなくていいんだよ――いててててて」
「傷、やっぱり治すわ」
ほんの数日前に同じ目に遭っておいて、まだ学習しないのだろうか。
そもそも以前治してやった傷も厳密には完治していない。
とりあえず腹に響いているであろう胴体の傷から治してやろうと、ない魔力を振り絞る。
彼女の手に治癒の光が宿ると、半信半疑だった魔族達がまたどよめいた。
「治癒魔術がどうかしたのかい?」
「あなた方は知りませんでしたか。治癒魔術が使えるのは魔王とその血族のみ。この力は王家の証明なのです」
姿だけでは疑う者もいるだろう。ならば力はどうだろうか。その結論は、今目の前に広がっている。
クレールを認めさせる好機だ。
ノインとティーロは顔を見合わせ、密かに笑った。
「クレール。俺のことはいいから休んでろよ」
「彼等を催眠ガスから救う為に治癒術を使っただろう? これ以上は負担が大きいんじゃないかな?」
「羽六枚分。ほとんどの魔力を使い切ったろう。これ以上は命に関わる」
ノインはクレールの手を取り、術を中断させた。
わざとらしくクレールの功績と苦労をほのめかす二人に、彼女は呆れてため息をついた。
事実とはいえ、クレールを魔族の英雄に仕立て上げたい思惑が見え見えだ。
(魔王になるつもりではいるけれど、人にお膳立てされるのは複雑ね)
人間に捕まり、眠り続けていた魔族達。そんな彼等が目覚めてすぐに立って歩けている奇跡。魔族の為に羽の魔力を使いきってしまったクレール。
ほんの少しヒントを与えてやるだけで、魔族達は彼女の治癒術がなければ、今世界を認識している自分がいなかったのだと気がついた。
「本当に、何とお礼を言ってよいものか」
「いいえ、私の方こそ、長年人間の身勝手を野放しにしてしまってごめんなさい。あなた達だけでも解放できて嬉しいわ」
「助けて下さってありがとうございます。姫君」
「そのお優しいお言葉。本当にイーヴァイン陛下にそっくりですな」
「そう言ってもらえると私も救われるわ。さあ、お喋りしている時間が惜しい。早くここを出ましょう。ここは政府の施設の中なの。援軍でも呼ばれたのでは堪らないわ」
すべての者を認めさせるのは容易ではない。あくまでも彼女を魔王ではなくデンメルクの姫をして見る者も少なくないだろう。だが、今はそれで構わない。
今は彼等が安心して救いを求める先を作ることが先決なのだから。
「ノイン、ティーロ。もう一仕事、頑張りましょう」
「ああ、皆を各地の集落まで送り届けないといけないしな」
「その前にここの破壊もね。データも機材も可能な限り残したくない。爆破の為の材料はここの物資をそのまま使わせてもらおうよ」
「イゾルデも、実験に巻き込まれて疲れていると思うけど、手伝ってくれる?」
イゾルデは目を丸くした。
今までのクレールは、イゾルデが行動の意思を見せるまで何もかもを一人で処理しようとしていた。だから、彼女の方から頼みごとをしてくるなど考えてもいなかった。
主の考えを読み、その意に沿った行動をとることが自分の務めだと考えていたのに、いつの間にか主は人に頼ることの大切さを学んでいたようだ。
「もちろん。それが私の存在意義ですから」
主の選択はイゾルデの意にそぐわぬものだった。にもかかわらず、心はいつになく弾んでいる。
目の前に立ち、微笑みながら手を差し出すクレールの姿がかつての魔王に重なった。
――同時刻。
町ではちょっとした騒動が起きていた。
それは町内で同時多発的に勃発した。
一つは町で一番高い時計塔。どんなに高い建物よりも頭一つ以上突出した場所。
一つは飲み屋街。
一つは礼拝に訪れた人々で賑わう教会の前。
その三箇所に突如として現れた面々はありったけのビラを撒き散らし、そして軍が駆けつける前に姿を消した。しかし、そのビラの内容によって、町内は混乱に陥った。
「十年前の魔族量産を目的とした人体実験。そして今回他国を侵略するまでのつなぎを目的とした魔族の乱獲。人々は信じてくれるかしら」
「さあ、どうだろうね。オレ達魔族など人として見ない人間が大半だから」
「今回の目的はあんた達魔族に同情させることじゃない。人間を使った非人道的な実験の実態とその隠蔽の事実。そして政府が戦争を望んでいることを吹聴し、市民の不安を煽ること。まあ、これで施設に回せる援軍も多少は減るだろうよ」
「どちらかというと、市民が食いつくのは収容施設から魔族が脱走したことじゃないかな。まあ、どこに気を取られようと存分に喚いてくれればいい。あとは、彼等がこの騒ぎの鎮圧までに上手く立ち回ってくれることを祈るだけさ」
ビラを撒かれた一帯、とりわけ飲み屋街はちょっとした暴動状態だ。
朝早いこともあって酔っ払いこそ少ないが、そこに出入りする市民は割合血の気が多い。
その真偽を公表しろと口々に煽り、鎮圧に駆けつけた兵士達を困らせている。
教会の前は飲み屋街に比べて静かなものだったが、元より教会に熱心に通う人間には平和主義者が多く、開戦の兆しを見せつけられてひそひそと政府への不安を囁きあっている。
これはデマだと声高に叫ぶ兵士を、路地の物陰から観察する四人組がいた。
ユルゲンとミリー。そして、反政府組織の生き残りたる二人である。
事実を事実として受け止めてくれるのが一番。しかし、それが今である必要はない。
魔族と反政府組織の面々が政府と軍から強いられた苦痛。それが今、軍の足を引っ張り、仲間が逃げる為の時間を稼いでくれているのなら、すべての苦痛が無意味だったわけではないと信じられる。
「そろそろ、迎えに行くかい?」
「そうだな、施設までは距離があるし、軍の車を拝借して行くか」
「あっちは相当の大人数のはずだね。あちらについたら改めて大型のトラックでも拝借するとしよう」
「――皆さんご無事でしょうか」
「きっと無事だよ。オレ達を信じさせてくれたあの人達だから」
施設内に残っていた兵士と研究者の制圧が完了したのと、町でビラをばら撒いていた四人が合流したのはほぼ同時で正午頃のことだった。
長い間眠りについていた魔族達に外の日差しは強すぎたらしく、皆一様に目を細めて、中には光に耐え切れず涙で目を潤ませている者さえいた。
迎えに来た四人は一人残らず救出された魔族の数の多さに唖然としていた。
施設の規模などを探ったのはスパイの二人なのだが、彼等も心のどこかで何割かは助からないと思っていたらしい。
「イゾルデさん、ご無事だったんですね。よかった!」
「あなたはミリーさん? ユルゲンさんも。まだ逃げていなかったんですか?」
「彼女達は町から援軍が来ないように、あちらでひと騒動起こしてくれていたのよ。そっちは上手くいった?」
「飲み屋街が特に大暴れです。軍も相手が市民だけに、手荒にはできないみたいですよ」
ミリーは感極まって涙を流しながらイゾルデの手を取った。
こうなってはイゾルデも振り払えないらしく、複雑そうな表情で、しかしほんの少し微笑みながら彼女が泣き止むまで待っていた。
「今の内に逃げてしまいましょう。あちらの鎮圧が済めば、こちらに目が向くかもしれない」
「ノインとティーロが車を取りに行ったわ。ここなら大型のトラックがあるだろうって」
「この人数ですからね。それで、あの。あの人達はどうするんですか?」
あの人達というのは生きて地上まで連れて来た研究者と兵士だ。
今は武器を取り上げられ、比較的消耗の少ない魔族達が作った炎の壁の中に押し込められている。見るからに暑そうだが、無理矢理逃げ出そうと壁に近づかない限り死ぬことはない。
「そっちについては反政府組織の人達に任せたいのよね。こっちは人間を恨んでいる者が多いから、処理するとなるとまず間違いなく皆殺しで決着してしまうもの」
「また魔族の善くない噂が広がりますね」
「でしょう? この一件で、政府も魔族への風当たりを一層厳しくしてくるはず。余計な大義名分を増やしたくはないわ」
とはいえ、地下には何人もの死体が転がっているのだから、いくらでも魔族を粛清する理由はこじつけられる。
これからが正念場だ。
意気込んでみたはいいが、やはり先は思い遣られる。
頭を抱えたくなる衝動を抑えていると、腹の底に響くような低い呻り声を上げ、二台の大型トラックが走って来た。運転席に見えるのはノインとティーロだ。
彼等はトラックから降りると、町から合流しに来た四人を見て顔を綻ばせた。
「よう。上手く気を引いてくれたみたいで助かったぜ」
「相手は所詮一般人だ。鎮圧も時間の問題、さっさとずらかるぞ」
「わかってるよ。とりあえず、これ二台あれば全員乗せてここを離れられるはずだよ。一応。何とか」
反政府組織の四人は、再会を祝して拳と拳をぶつけ合った。
スパイをしていた二人の方は、無愛想ながらノイン達の無事に胸を撫で下ろす。しかし安堵したのも束の間に、二台のトラックを見て苦笑いを浮かべた。
「狭いな」
「ああ、狭い」
大型トラックといえど百人の魔族を運ぶにはなかなか難しい大きさだ。
かなり無理をしても相当狭いだろう。
「施設内の食料の備蓄もあったし、全員が全員運ぶ必要はないんじゃないかしら」
ひと通り救出した魔族の様子を見て回ったが、やはり若い者ほど体力に余裕がある。
「徒歩数日の距離に集落があることだし、自力で移動できる者はまずそちらに向かわせましょう。護衛には私とイゾルデがつくわ」
「それなら、オレも微力ながら手伝います」
「うん。ありがとう、ユルゲンさん」
一見して、数日の旅をする程度の体力がありそうな者は全体の二割。それだけ減らせばトラックにも余裕が出るだろう。
「クレール。君だって今は立ってるのがやっとだろう。このまま十人も二十人も連れて徒歩で集落へ向かうなんて危険だ。俺も一緒に行く」
「ノインはトラックで皆を他の集落へ送ってあげて。そっちにも護衛は必要だわ」
ノインになら同胞達を任せられる。
この数日で築かれた信頼関係は絶対的で、だからこそクレールは、ここでノイン達と別れ、違う集落へ手分けするべきだと考えた。対するノインはその判断に反抗的だ。
「護衛が必要だという意見には賛成だ。でも俺は君の護衛がしたい」
「――え?」
クレールは目を見開いた。
自分の実力は十分に発揮できた。その上で認めてもらえたと思っていたのに、護衛がしたいとはどういうことなのか。
「私、そんなに頼りない?」
戸惑うクレールは、ノインの袖を掴んでその顔を見上げた。
「私は魔王なのよ。今は一人でも多くの魔族を同胞のいる集落へ送らなければならないの。私に割く人員があるなら、やっぱりそっちの戦力を増やすべき――」
「何この子。何でこういうとこだけ狙ったように鈍感なんだよ」
「ノインの愛情表現が単なるセクハラにしか見えなかったからじゃないかい?」
ティーロは十年来の付き合いゆえか、ノインの言葉の意味するところを正確に把握していた。
イゾルデに関しても、従者としての本能がクレールに近づく男の気配を察知したようで、ぎろりと睨みを利かせている。
彼女達の背後では、クレールの魔王発言に驚いた夫妻が、周囲の者を問いただしていた。真相を聞かされた二人は、唖然として彼女の翼を凝視している。
「君の実力は信頼してる。けど、君は危なっかしいんだ。猪突猛進で自己犠牲精神が旺盛すぎる。デンメルクを復興する前に死ぬつもりか?」
「簡単に殺されるつもりはないわ。おじい様に代わって、皆を守ると決めたのだもの」
「だったら、魔族を守る君を、俺に守らせてくれ。この際はっきり言うぞ。俺は君と離れたくない。君の側で、君を守りたいんだ」
ここまで言われてすっ恍けられるほど青臭い歳ではない。しかし、彼のその感情がいつから自分に向かっていたのか、皆目検討はつかなかった。
途端に顔を赤くして下を向く。
昔から彼女の素性を知らぬ人間の男に恋心を打ち明けられたことは何度もあったが、こんなに何と返事したものか悩んだのは初めてだ。
いつもどおり、冷静に袖にしてしまえば済む話なのに、ノインに限ってはそれがはばかられた。
「――だったら、誰が皆を送り届けるのよ」
「魔王陛下。我々の中にも車を運転できる者はいますし、少し休めば皆魔力も回復しましょう。今はご自分の身の安全を第一にお考え下さい」
「そうです。我々の無事を喜んでくれた姫君だからこそ、無事であって欲しいのです。彼は姫君と共に我々を助けに来てくださった恩人です。彼ならば御身もきっと守ってくださいます」
話を聞いていた魔族の若い衆が我先にと名乗りを上げる。対して年寄り達はどこの誰とも知れない青二才をクレールの側に置くのは不服らしく、眉根を寄せていた。
「でも、また軍の襲撃を受けるかもしれないのに」
「クレール。ノインを側に置くというのはいささか気乗りしませんが、私は皆を信じてもいいと思いますよ」
「イゾルデ?」
「あなたは魔王になると決めたのでしょう? ならば、皆を守る覚悟を持つと同時に、皆を信じ、皆を頼る勇気も必要です。頼れるのはそちらの二人だけではないのですよ」
「そういうこと。信じられる人とそうでない人を見分けること。誰かになすべき事を託すこと。それにはとても勇気がいる。けれど、人の上に立つ者には絶対に必要な勇気だ。守られることも仕事の内だよ。クレール」
魔王になることと、すべてを一人で抱え込むことは別物だ。彼等はそう言っているのだ。
一人で何もかもできるわけがない。多くの敵を相手に一人で太刀打ちできるはずもない。
時間をかけて少しずつでも、クレールは仲間を信じ、頼ることに慣れていかなければならない。
「そうね、少し手狭になるけれど、戦える者にも何人か同乗してもらいましょう。追っ手に遭遇しないのが一番だけれど、手を打っておくに越したことはないわ。皆をお願いね」
「はっ、必ずや集落まで送り届けてみせます!」
「我々も同行しよう。多少は顔が利く」
若い魔族がトラックへ向かうと、スパイだった反政府組織の二人も同行を申し出た。
ノインとティーロと順番に顔を見合わせ、軽く手を振った。
彼等は年老いて足腰の弱っている者、女子供を優先的にトラックに案内する。
「ノイン」
「ん?」
「私がもし、また取り乱すようなことがあったら、ちゃんと引き止めてくれる?」
絶対王政など古い。例え王でも間違えることはあるし、取り乱すこともある。ならば、そのときにはちゃんと道を正し、諭してくれる存在が必要だ。
「もちろん。止めてやるし、落ち着くまで傍にいてやる。その代わり、俺が取り乱したときは君が傍についててくれよ」
「ええ、約束するわ」