三章
三章
随分しっかりした造りの貨物車だと、あとになってから気がついた。
頑丈な金属の壁。窓はない。荷台部分に積荷はなく、代わりに左右が備え付けの椅子になっていた。人員運搬用の車両だったのだろう。
窓もなく、人を運ぶわりに内側からは開けられないところと、異様に鉄板が分厚いところを見ると、対魔族用の護送車だったのかもしれない。
車に乗り込みしばらくすると、短時間だがバケツを引っくり返したような雨が降った。
新市街地側の市壁を越えて森を抜けたところから、大きく南へ回り込む。旧市街地の壁の向こうに広がっているのは、閉鎖された鉱山だ。
人の手が入らなくなって久しく、暗鬱とした深緑の草木が生い茂る山の麓。背の高い草むらに隠すように車を乗り捨て、ノインとティーロの先導によって集落とはまったく違う方向へ進んでいた。
ぬかるみに足跡が残ることも懸念されたが、ここまでくれば進むしかない。
ノインはいつまたクレールが暴れだすかと肝を冷やしながらその手を引いていたが、今の彼女は心が壊れてしまったのではないかと疑うくらいに従順で、導かれるがままに歩いている。
かつて聖輝石の採掘場だった鉱山は何本もの坑道が掘られ、その坑道内もまた何本にも枝分かれしていた。徹底的に聖輝石を取りつくそうと、掘り進めた結果である。
五人が入った坑道には、八番の看板が掲げられていた。
坑道の中には剥き出しの岩肌にランプこそ吊り下げられていたものの、火を灯す為の油は残されていなかった。
「これでは、中に入っても迷うだけでは?」
ユルゲンが入るのを躊躇うと、ティーロが入り口付近で打ち捨てられているだけに見えた木箱から、古ぼけたカンテラを取り出した。
「持ってきたのは落としちゃったからね。ここにもいくつか残しておいて正解だったよ」
「ここ、半年前まで俺達がアジトに使ってた所。一度は放棄してるものの、運び込んだ物資は残ってるはずだ」
カンテラに火をつけて、暗い坑内を歩く。取り残されたトロッコのレールに躓かないよう細心の注意を払いながら、三本目の横穴を右へ。そこから更に掘り進められた二番目の横穴をまっすぐ進むと、一番奥に扉の付いた部屋が現れた。
中はやはり岩が剥き出しだったが、壁掛け式のランプとテーブル。いくらかの食料と、照明やスコップが押し込められた箱。動力の切れた古めかしい機械と、木箱を並べてシーツを広げただけの簡易ベッドが二つ設置されていた。
余計な機材の存在を除けば仮眠室だったのだろうと思われる。
「こんなところにお部屋が。この機械は何ですか?」
「印刷機だって。すっげー旧式だけど、魔力さえあればちゃんと動くぜ。あ、疲れてるだろ。とりあえず座りなよ」
「あ、はい」
ティーロが壁のランプに火を灯すと、カンテラの火も相まって部屋の中が随分明るくなった。
ミリーとユルゲンはベッドの一つに腰掛け、初めて目にする秘密基地というものを物珍しそうに見回している。
「クレール、大丈夫? 少しは落ち着いた?」
「平気。頭は冷えた」
落ち着いたようだが、落ち着きすぎてむしろ不穏な空気を醸し出している。
目元を腫らしたまま、しかしすべての表情が抜け落ちた少女の姿は誰の目にも痛々しい。
「君も座れよ。コーヒーでも淹れようぜ」
取り残された荷物の中からアルコールコンロとケトルを取り出して、そのまま水を張ろうとするノインをミリーが素早く制止した。
いつ放棄された隠れ家かは知らないが、箱の中に乱雑に放置されていたものを洗いもせずに使うのは抵抗があったのだ。
「なるべく目立たないように荷物を減らしたものの、こういう時不便だよな」
「普通、何日も歩くならそれなりの準備をしないと命取りになるからね」
ミリーに没収されたケトル、及び箱の中から発掘された金属製のカップはすべてミリーの手によって洗浄され、返却された。
水を節約しようと至極真っ当な主張をしたノインに対し、ユルゲンが「大気中の水分を集めるくらいはできますよ」と反論した結果、食器類は瞬く間にぴかぴかとかつての輝きを取り戻した。
コンロにカンテラから火を移し、とろとろと湯を沸かす。
湯が沸くまでの長い時間、全員がどこかしらに腰掛けて無言を貫いた。
たった一人の欠落がこれほどまでに大きく影響を及ぼしている。
反政府組織という、いつ誰が消えてもおかしくない集まりの中に身を置いてきたノインとティーロには頭の痛くなる話だった。
誰かが消えるたびにこれでは、この先がもたない、と。
湯が沸いて、ミリーがコーヒーを淹れている間に、二人は黙ってベッドの一つに座り続けるクレールの両側を陣取った。
嫌な顔一つしないが、そもそも感情の機微がない。
「はい、クレールさん。温まりますよ」
「ありがとう」
「お二人も」
「サンキュ」
「どうも」
そして、再度訪れる無言の時間。
「――ねえ、イゾルデは殺されないって言ったの、あれは事実? それとも気休め?」
続く無言に耐え兼ねて、誰からともなくクレールを励まそうと口を開きかけた。しかし、そんな中で真っ先に言葉を発したのは、その中心たるクレール本人だった。
「ずっと考えてたの。あなたの言葉の真偽、軍の目的、これから魔族の成すべきこと」
落ち込んでいることには違いない。ただ、何の打開策を案じないまま悲嘆に暮れていた訳でもない。
今までイゾルデや亡き家族の願いに従って、自分の保身を第一に生きてきた。けれど、魔族狩りの横行する現代、今の自分と同じ悲しみを抱いている同胞は山ほどいる。
この悲しみを、この怒りを、誰かが晴らしてくれるまで待つことなどできはしない。
この悲劇の幕を下ろす役目を、誰かに任せることなど許されない。
「自分の大切な人がいなくなってから行動に移そうなんて、自分勝手なのは理解してる。でも、経験したから気がついた。同じ悲しみを背負った同胞には希望が必要だわ。ねえ、ノイン。ティーロ。あなた達は、魔族の希望を持っているの?」
散々泣きはらして赤くなった目で真っ直ぐ見据える。
イゾルデが撃たれたあの瞬間に発した負の感情は涙と共に押し流した。心を大きく占めたその感情を捨てて、空いた穴を埋められるのは希望だけだ。
「俺、気休めってあんまり好きじゃないんだよな。結局あとで傷つくだろ? だから、俺は取り乱した相手には嘘をつかないと決めてるんだ」
顔が近付くのもおかまいなしに、クレールは身を乗り出した。食いつきのよさにノインが思わず噴出す。
「ただ、これは機密事項でな。部外者に話して作戦に支障をきたしても困る。だから、君は俺達がイゾルデを救出するまでここに隠れて待っていろ」
楽しげながらも試すように語る彼の意図は理解した。自分をそちら側へ引き込みたいのだ。
従者を連れ、上位の魔族にしか使えない治癒魔術を操る魔族。
怪我人をその場で治療できるだけでも利用価値は十分にあるだろうが、彼女はそれに加えて戦力としても申し分ない。有用な手駒を確保したい。彼はその思惑を隠すことなく顔に出した。
(いいわ。乗ってやろうじゃない)
「ユルゲンさんとミリーさんは聞いちゃ駄目。場所を移しましょう」
「クレールさん?」
ユルゲンがまさかと呟くと、クレールは躊躇なく首を縦に振った。
「たった一度政府に反抗しただけでブラックリスト入りは必死だよ。戻れなくなって平気なのかい?」
「どうせ元の生活には戻れない。なら、私の大切な家族の行く末を他人に任せて隠れている理由なんてないわ」
「なら最終確認だ。今後の心変わりは認めないぜ。――クレール、俺達と組んでくれ」
「ええ、喜んで」
坑道を更に奥へ進めば、木箱を並べたテーブルと、背凭れのない丸椅子が三つ置かれた休憩所がもう一つ用意されていた。
元々は採掘の過程で小さな空間が開けていただけの場所に、反政府組織の面々が荷物を運び込んで作った場所らしい。
三人は話をする為に夫婦を置いて場所を変えた。
扉はないが、最初に通された部屋よりずっと奥に位置する為、ここまでの道のりを知らないユルゲンとミリーに話を聞かれる心配もない。
知れば戻れなくなると言うのなら、ただ平和に暮らしたい彼等は知るべきではないのだろう。
「まだこんな部屋があったのね」
「これでもアジトだったんだよ。軍に踏み込まれる可能性を考慮して、資材とか人員をある程度分散させていたんだ。他の坑道に繋がった抜け道もあるしね」
「あなた達の組織って、そんなに大きいの?」
「昔はそれなりに。ただ、ここを放棄したあとに一斉検挙とか、暗殺とかが立て続けに起きてね。今無事なのは、僕等を含めても十人に満たないかな」
ティーロはクレールの肩に両手を置いて椅子へ促した。
大人しく腰を下ろして、改めて二人を見やる。
「さて、本当に君が興味を抱いてるのは僕達の話じゃないだろう?」
「手を組んだからには隠し事はしない。正直に全部話してやる」
どかりと椅子に座り、何から話そうかと思案する。話しておくべきことは多々あるのだが、やはり彼女の気掛かりから順に説明するのが妥当だろう。
「そうだな、じゃあまず、イゾルデが生きていると言った理由から。これが一番気になってるだろうし」
「ええ、お願い」
居住まいを正し、気を引き締める。彼等の持つ情報如何で、今後のすべてが左右される。
「端的に言うと、ここ一年の魔族狩りの目的は、殲滅ではなく収集。魔族を集めてるんだ。ただ、軍が集めたいのは魔族ではなく魔力だ。聖輝石の採掘が進み、今後の安定供給が絶望的になりつつある昨今、軍は新たなる採掘場を求めて戦の準備を始めている」
「軍事兵器も進化が進み、高濃度圧縮した魔力を射出する銃なんかが現れた。それらを維持するにも膨大な魔力が必要だね。他にも国民の生活水準の維持もちゃんと気を配ってあげないと暴動が起きかねない。その為の一時凌ぎの策として、魔族から魔力を抽出するという方法に出た。この一年間に行われた魔族狩りは、すべてこれが目的なんだよ」
「魔族から魔力を抽出するって、そんなことできるの?」
「できるよ。原理としては聖輝石から魔力を引き出すのと同じだからね」
「そうなんだ。神の加護を受けて繁栄した人間様が、魔族の魔力に縋ろうなんて聞いて呆れるわね」
かつて、神の力が宿ると信じられ崇められた聖輝石。神が人に力を与え、魔族を倒せと命じていると鼓舞し立ち上がった数多くの勇者達。そんな彼等が崇め、人を繁栄に導いた聖輝石に宿る力が、実は魔族に宿る魔力と同質のものであると判明したのは、魔王が倒されてから数十年が経過したあとだった。
科学の進歩した近代では聖輝石を神の奇跡と考える人間は少ない。けれど、それは同時に嫌悪する魔族に宿る力に助けられたのだという汚点を、人間の意識から弾き出すことに繋がった。そして、聖輝石が採れなくなった今、人は代替燃料として魔族の生命力である魔力に目をつけたということだ。
「こんな醜悪な生き物が世に蔓延ったことを、神が嘆かなければよいのだけれど」
「君達魔族も神を信じるのかい?」
「んー。私達にとっては自然そのものが神なのよ。太陽も神、海も神、木も神。すべてに育まれ、すべてに守られなければ命は生きていけない。だから、自然のすべてを崇め、大切にしなさいっていうのが魔族の教えよ。人間の考える神とは印象が違うわね」
人が人の神を崇めるように、魔族には魔族の神がいる。
たった一人の全能の神を崇める人間と、特性を持った複数の神を崇める魔族。
思えば、両者は根底から違う考え方をしていたのだ。
ティーロもやはり人と同じものを信じているのだろうかと目を向けると、彼は困ったように微笑んで見せた。
「やっぱり、魔族の考え方の方がしっくりくるなあ。自分達の進む道こそが正しくて、自分達さえ繁栄できれば他には目を向けない人間なんかより、ずっと真っ当で、ずっと平等だ」
「ティーロ?」
「――今、僕等の仲間が軍に潜り込んでるっていうのは、前にも軽く話したよね。彼のおかげで、魔族が収容されている施設の位置を掴めたんだ。僕等は近いうちにそこへ乗り込んで、魔族を救出するつもりだよ」
「正直、今の戦力では厳しかったんだ。だから、君には本当に感謝してるんだぜ。まあ、そこに至る過程は素直に喜べるものじゃなかったけどな」
利用できるものは利用するけれど、平和に暮らしていた一人の少女を巻き込まずに済んだなら、その方がよかったに決まっている。もしも協力してもらえることになったなら、そのときは二人一緒に仲間入りして欲しかったのだが、結果はクレール一人での参戦となった。
危惧したのは彼女が自暴自棄になってしまうことだったが、心配は無用だったらしい。
「誰を信じ、誰の手を取るかなんて私にもわからなかった。でも、いつかはこうしたいと思っていたの。傷つき怯えて暮らす魔族の力になりたかった。そのきっかけが今日この日で、私に手を差し伸べてくれたのがあなた達だったというだけの話。あなた達が気に病むことなんてない」
イゾルデは重荷になることなど望まない。だから、彼女を想うのは自分一人で十分だ。
「イゾルデはそうは思ってなかったように見えたんだが?」
「彼女は私を守るよう命じられ、そのままに生きてきたの。姉として、母として、友として。彼女は私に家族と友達を教えてくれた大切な人。でも、彼女にとっての私はどう足掻いてもご主人様なの。だから、彼女は私を守ることだけを考える。私の身の安全の為に同胞を見捨てさせ、私には自分がそう言ったからだと慰めの言葉をかける。とても、とても優しい人なの。彼女は私を危険なことに巻き込みたくないだけなのよ」
魔族の行く末がどうでもよかった訳ではない。彼女が懸念したのは、その過程でクレールが傷つくこと。
唯一残された仕えるべき主が危険に晒されるくらいなら、他のすべてを見捨て、排除してでも守り抜く。それが、魔族としてもまだ幼かった彼女の立てた誓いだった。
「なんて言うのかな。君達の関係って、俺とティーロに似てる気がする」
「僕等も、幼い頃からの友達で、それでいて家族みたいにずっと一緒だったしね」
ただの組織の仲間にしては息が合っているとは思っていたけれど、二人は幼馴染だったらしい。
しかし、魔族と人間が幼い頃とはどういうことだろうかとクレールは小首を傾げる。
(ティーロが子供の頃からってことかしら?)
不思議そうな顔で二人の顔を見るクレールに、二人は『種明かしだ』と言葉を重ねた。
「クレールは俺を魔族だと思ってたみたいだけど、それ、半分はずれだぜ」
「半分はずれ?」
クレールはますます不思議そうな顔をした。顎に手を当てて考え込む彼女に、ノインは「まあ聞いてくれ」と思考を遮る。
「俺は魔族と人間の混血だ。魔族の父と、人間の母を持つように仕向けられて生み出された。魔力は持ってるけど魔術は使えないし、成長速度も人間と同じだ。だから、一見すると君より年上に見えるかもしれないけど、その実君よりも遥かに子供なんだよ、俺は」
「人と魔族の間に子供なんて生まれないわ。生まれても正常ではなく、長くも生きられない。生き物として根本的に違うもの」
「いいや、人と魔族は根本的には限りなく近い生き物だよ。容姿が酷似しているのがその証拠。厳密には、違う進化の過程を辿った、元々は同じ種族の生き物ってところかな。ちなみにこれ、政府が箝口令を出した重要機密ね。軍事施設での研究の末解明されたことなんだ」
難しい話になると、ノインはティーロに説明のすべてを放り投げた。ティーロはティーロでどう説明しようかと悩んでいるらしい。
「まず、三十年ほど前の話になるんだけど、政府はある実験施設を設立した。建前上は軍事演習場としてね。その施設で行われていた実験っていうのが人間と魔族の交配実験だったんだ。当時、聖輝石から取り出されるエネルギーが魔族の身に宿る魔力と同質のものであると解明した政府は、いずれ採掘に限界の訪れる魔力エネルギーの確保手段として魔族の量産を計った。ノインはその研究施設で生まれた子供で、僕はそこの研究員の子供だった。魔族と人間が種族として限りなく近いものだと僕に教えたのもその両親だ」
ティーロの両親は政府の命令で魔族量産計画に携わっていた。
使われたのは魔族狩りで捕らわれたまだ歳若い魔族達。それから、魔族を匿った罪で捕らわれた人間や、安い値で売り飛ばされた女達。中には、かつてデンメルクの国民だったことで代々差別を受けて生きてきた者もいた。
寿命が長い分、人間ほどの繁殖力を持ち得ない魔族に代わり、人の女に魔力を持った子供を産ませることが目的だった。
計画が進む最中にティーロの両親は彼を身ごもり、やがて生んだ。
ティーロが生まれ、しかし彼の両親は施設を離れられない。やがて子供を持った彼の両親は、人と魔族を交配し、魔力燃料を得ようとする政府の政策に反抗心を抱くようになった。
家族に、あるいは人攫いに売られた娘達の泣き声が耳から離れなくなった。
実験はそれなりに進んでいた。最初は身篭ることさえなかった娘の中にも、ティーロが生まれる頃には子を産む者が少なからず現れ始めていた。
生まれた子供は順番に番号を与えられ、九番目に生まれた子供はノインと呼称された。
デンメルクからの流れ者が多いとされるダウム村から連れて来た女の産んだ、施設九番目の子供。それがノイン・ダウムの名前の由来。
しかし彼以外の子供達は誰一人として生き残れなかった。アインは半日。ツヴァイは三日で生涯を終え、ノインの次に長生きの子供でも一歳の誕生日を迎えることはなかった。
次第に壊れていく魔族と女達の精神。それを見せつけられる研究者の中にも、耐え切れなくなり逃げ出す者が増えた。
軍の極秘研究施設からの逃亡。それが意味するところは死しかない。
新に増員されようと、ノインのあとに生まれた子供達も次々と死んでいく。
軍は一人生き残っているノインを徹底的に研究するよう命じたが、結局その答えは見出せないまま、政府はこの研究に見切りをつけ、研究の中止を決定した。
「今から十年前。研究の開始から二十年後のことだった。政府の下した決定は施設の廃棄。同時に、その実験に関わった者の処分。結果を出せなかった研究者さえも不要と断じ、軍は俺達を皆殺しにしようとした」
「その時に僕等を助け出してくれたのは、人間じゃなくて、捕らわれていた魔族達だったんだ」
今でも瞼の裏に焼きついている。
緋色に染まる生まれ育った場所。
血溜まりの中に倒れ伏す屍の数々。
その中にはティーロの両親も含まれていた。
兵士は人間と魔族を見境なく撃ち殺した。
施設で暮らすたった二人の子供を守ろうと、魔族達は自ら楯になった。二人は兵士の目を掻い潜った魔族の青年によって逃がされ、しかしその彼も逃亡の最中二人を庇って力尽きた。
「制圧には一晩とかからなかったよ。魔族達も抵抗することができなかった。君になら、その理由くらい予想できるでしょう?」
「羽を切り落とされていたのね。だから、身を守りたくても魔術が使えなかった。魔術を使えば命を燃やす。戦っても戦わなくても、結果は同じだったということだわ」
魔族にとっての羽は魔力の貯蔵庫だ。血液と共に体内を巡る魔力は命を繋ぐ為のもの。羽に蓄積された魔力は魔術を行使する為のもの。
羽を失った魔族は魔術を使えなくなる。魔術を使えば使うほど、自分の命を削ることになるからだ。
施設の魔族達は抵抗する手段を封じる策として羽をもがれた。だから、軍がすべてを抹消しに来た時も、生きたければ逃げるしかなく、生き残ろうと戦った者は力尽きた。どちらを選んでも、彼等の未来に希望は与えられていなかったのだ。
「僕等が今生きているのは、あのとき助けてくれた魔族のおかげだ。今思えば、あの人がノインの父親だったのかもしれないね。彼の目は、ノインと同じ銀色だったから」
「つっても、それさえもう確かめようがない。あの人のおかげで施設から逃げられたけど、最後には軍の追っ手に見つかって、あの人は自分の命を使って俺達を逃がしてくれた」
「たった一ヶ月の逃亡生活だったけど、その中であの人は世界を教えてくれた。外の世界を知らない僕達に、広い大地と、人の住む町を見せてくれた。世界での生き方を教えてくれたのは、あの人が初めてだった」
魔族の血を引くノインだけでなく、ティーロにも分け隔てなく接した青年。
短い時間だったが、彼は二人を実の子供のように可愛がり、多くのことを教えて逝った。
彼は言っていたという。このまま軍に捕まらなければ、魔族の集落を探して、三人一緒に暮らそうと。
しかし現実は虚しく、三人は軍に追い込まれ、生き残ったのは子供達だけだった。
その後、彼等は魔族擁護を掲げ、軍の動向を探っていた反政府組織に拾われて今に至る。
「あれからたくさんの魔族に出会ってきたが、皆善い人だった。御伽噺に出てくるような災厄を振り撒く化け物なんてどこにもいなかった。あの人達はただ平和に暮らしていたかっただけなのに、それを人間がぶち壊した」
「だから、僕等は決めたんだ。再び魔族が平穏に暮らせる世界を取り戻そうってね」
ノインの目に映るのは、生きる自由さえも奪われる魔族へ向けた悲しみ。
ティーロの目に映るのは、他者の身勝手で大切なものを奪われた怒り。
誰かに大切なものを壊されて、お互いしかいなくなって。そうやって二人で生きてきた。
クレールとイゾルデ。ノインとティーロ。彼等がお互いの関係を似ていると語った理由がわかった気がした。
彼等も誰かの命を背負いながら、しかし何も変えられない時間を過ごしてきたのだろう。
「とはいえ、大きな反乱を起こすだけの人手も資金もない。小細工ばかりで政府と軍の思惑を邪魔してきたが、仲間のほとんどが捕まっちまった」
「今回の作戦の目的は勿論魔族の解放なんだけど、正直な話、その中から僕等に賛同し、協力してくれる魔族が現れることに期待してる」
「いつか、捕まった仲間を解放してやる為にもな」
「――あなた達は強いわね。私の五分の一も生きてないくせに」
長い時間があるからこそ臆病になってしまうのだろうか。否、敬愛する祖父は最期まで凜として芯を曲げなかった。臆病なのは他の誰でもない自分の責任だ。
「ちょ、五分の一とか言わないでくれ。何というか、こう、夢が壊れる」
「失礼ね。魔族の中ではようやっと成人したところの若人よ」
ノインの一言で、すっかり緊張の糸が切れてしまった。
呆れたように微笑むと、ティーロが僅かに目を見開いた。
「ああ、やっと笑ったね」
ティーロがほっと胸を撫で下ろす。クレールは何の話かわからずに「ん?」と呻った。
「いやだって、君、ほとんど表情変わんねーんだもん。落ち込んでるのか立ち直ってるのかわかり辛い。普段笑ってない分、笑ってればもう大丈夫だってわかるじゃん? だから、笑ってくれて安心した」
「私だって笑うわよ。おかしくもないのに笑うなんて器用なことができないだけ」
逐一人の表情をチェックされていたのかと思うと、途端に恥ずかしくなってきた。
ぷくりと頬を膨らませ、そっぽを向く。
「君、結構不器用だね」
「うるさい。――話しておくことはそれだけ?」
口を尖らせながら問いかけると、二人は噴出しながら、声を揃えて「とりあえず」と返答した。
上手く気を紛らわせてもらったようで、ちょっとした敗北感が込み上げる。とはいえ、彼等のおかげでイゾルデを助け出す足がかりができたのも事実だ。二人のことを邪険にも扱えない。
「ありがとう」
小さく小さく、自分にしか聞こえないほどに小さく呟いたその言葉を、二人はしっかりと受け取って頷いた。
「さあ、ユルゲンさとミリーさんのところに戻りましょう。心配してるといけないわ」
「そうだな。あの夫婦も何だかんだで君のこと気にしてたし」
「ちゃんと復活したって教えてあげないとね」
「あー、もう。ご心配おかけしました」
すっかり吹っ切れた顔で夫婦の下へ戻ると、ミリーは笑いながら頭を撫でに来た。
これでも一応大人なのだからと一度は振り払おうとした。けれど、イゾルデとはまた違ったぬくもりを感じて、つい甘んじてしまう。おかげでまたノインに笑われた。
クレールと反政府組織の共闘を改めて報告すると、夫婦もまた協力を申し出た。といってもミリーは戦力外だし、妻のいるユルゲンを最前線に連れ出すのもはばかられる。
「ちゃんと二人で話し合って決めたことです。戦っても足手纏いなのは理解しています。でも、オレ達も力になりたいんです」
「武器を取って戦うことはできないけど、それ以外で何かお役に立てることはないでしょうか?」
「危ないことだぜ? 黙って事が終わるまで隠れていた方が安全なのに」
積極的に自分を引き抜こうとしていたノインが、他の誰かの身を案じている様を見るとどうにも釈然としない気分に陥る。自分で覚悟を決めたはずなのに、彼の術中に嵌ったような感覚だ。
「でも、クレールさんも戦うことに決めたのよね? こんな女の子が覚悟を決めたのに、大人の私が怯えて隠れているなんてできません。自分の幸せは、自分で掴まなければならないのです!」
「ミリーさん、私あなたより年上だから。でも、その気概を無駄にするのはもったいないわよね?」
「うーん。二人にもできそうな仕事があると言えばあるんだけど、二人は、ここにある印刷機とか使えたりする?」
夫婦の気概は足手纏いになっている罪悪感ではなく、自分達の力で未来を作ろうという覚悟から来たものだ。
ティーロもやる気になっている人員を捨て置くのはもったいないと考えたようで、部屋の隅で埃を被っている印刷機を指差した。
「ああ、それならオレが。町では印刷所で働いていましたので。これは随分旧式みたいですけど、使えると思います」
「おお、おあつらえ向きじゃん。片棒担ぐ覚悟もしっかりできてるみたいだし」
その言い方はどうだろうかと、クレールはじとりとノインを見やる。
「危ない仕事じゃないのよね?」
「反政府組織の仕事だ。絶対にリスクがないとは言い切れない。それでもやるか?」
『やらせてください』
二人は互いの了解を取ることもなく、躊躇なく頷いた。
「よし決定。んじゃ、作戦会議といこうか」
薄暗い坑道。部屋を出れば一切の光も通さない暗闇が支配する。
闇にすべての視線を遮られ、魔族解放を掲げる者達の同盟はひっそりと結ばれた。
反政府組織の面々は、通常それぞれが別々の町で魔族狩りを妨害したり、集落と集落の橋渡し役を務めているそうだ。それが今回、魔族狩りの激化に対抗して捕縛された魔族の解放活動を始めて今に至っている。
この鉱山は十ヶ月前、魔族狩りによって捕らえられた魔族達が、この地域に連行されているという情報を得たときに使い始めたものらしい。しかし、魔族解放の為にこの坑道、ひいてはこの町に集結した一派は、好機とばかりに次々と拘束、もしくは抹殺された。
軍にとっても、魔族を擁護し、魔族が人にとっての悪には成りえないと主張する彼等の存在が目障りだったのだろう。
生き残ったのはノインとティーロを含めて九人。五人は別の地方での魔族狩りについて情報を集める為に暗躍し、あとの二人は軍に潜入して情報を集めているという。
「作戦の決行は明後日。これはスパイの二人にも伝えてあるし、軍の張った網から逃れる為に連絡手段も一時絶ってる。日にちをずらすことはできないから、準備は急いでもらうぜ」
「ユルゲンさんが印刷機器を使えて助かったよ。そっちがおざなりになった場合、軍の足止めが荒業になってしまっていたからね」
作戦会議という名の情報伝達は着々と進み、お互いに自分の役割が見えてきた。
「――しかし、市民に暴動を起こさせるなんて、そんなことができるでしょうか。相手は人間ですよ」
ひととおりの説明を聞かされた後、ユルゲンは不安げに眉根を寄せた。
「暴動にまで達してなくても構わない。重要なのは、真偽の定かでない情報をばら撒いて、市民を混乱させることだからな」
「まあ、その真偽が定かでない情報も、僕等反政府組織の威信にかけて、すべて真実を伝えることになっているんだけどね」
「オレ達魔族の為に心動かす人間がいるでしょうか?」
「あなた、それを奥さんの前で言ってはいけないのでは?」
意地悪げにクレールの目がミリーを捉える。
魔族の為に心を揺らす人間などいないとしてしまえば、妻の愛も否定することになる。
「僕も人間なんだけどな。でも魔族のことが大好きなんだけどなー」
まるでクレールの意地悪に乗ったようにティーロがユルゲンの顔を覗きこむ。ユルゲンは慌てて両手を振り回しながら弁解した。
「ミリーとティーロさんは別! 特別ですから信じてますから! けど、他の人達は、オレ達の言葉なんて信じてくれないんじゃないかって、そう考えてしまうんです」
言葉はやがて尻すぼみになり、不安で表情を暗くする。
人間が魔族を恐れ、不信に陥り、迫害したから今がある。
人間が魔族を信じられないように、魔族が人間を信じられないのもまた必然だ。だが、すべての人間がそうとは限らない。ティーロとミリーを見ていると、未来に残る可能性というものを信じてみたくなるときがある。
「やってみなければわからないけれど、そうね。究極的な話、判らなければ判らせるしかないのでしょうね。魔族は争いなど望んでいないのだと」
「争わない為に争ってる俺達って本末転倒なのかね?」
「話し合いで解決できる機会は百年前に失われたわ。今の魔族に争わず意志を示す力はない」
「まあ、まずは話し合うメリットを見せつけるのが第一歩かな」
「そこに辿り着くには、まず争うことのデメリットを思い知らせないといけないのよね。今、魔族はなめられちゃってるというか、どうしても格下に見られてしまっているから」
正しくは滅ぼせる絶対悪。
百年前まで世界を恐怖に陥れていた悪しき生き物。数は激減し、人間はあと一歩で絶対的な安寧を得られると確信してしまっている。
多くの人間は、魔族を滅ぼすことに異論などないだろう。複雑な話だ。
「争うことのデメリットって、どうすれば示せるのかしら?」
「一つの方法としては、争えば争うだけ人間側に犠牲が出ると思い知らせてやることね」
「つまり、改めて魔族の戦力を思い知らせるってことだな」
「例えば、人間に連れ去られた魔族を颯爽と救出して見せるとか、かしらね」
この作戦は、同胞を救出すると同時に魔族の抵抗力を示すにも有効だとクレールは考えた。
人間は、自分達にとって不利な情報。つまり軍が極小の魔族擁護派の反政府組織に敗北した情報など公開しないだろう。そして、その中に魔族が紛れていたとすれば尚更に。しかし、人の口に戸は建てられぬ。そこを突くのがユルゲンとミリーの仕事なのだ。
「文字通り、これが魔族解放への一歩になるのですね」
「そういうことね」
施設に乗り込む三人は当日まで仕事がないが、夫婦については既に刻一刻を争う事態だ。
二人はひとしきり話し終えると、仮眠室の隅の印刷機にかじりつき、黙々と作業を始めた。
印刷機に必要な聖輝石に魔力は残されていなかったけれど、幸いなことに空の聖輝石は残されたままだった。
クレールが石を握って魔力を篭めてやると、それは青白い光を帯びて輝き始めた。
神々しく周囲を照らすその光こそが魔力。
昔、まだ聖輝石に宿る力が魔力であると解明されていなかった時代、人間達がこの神秘的に煌く石を神の奇跡と崇めたのも至極当然のように思えた。
忙しなく作業する夫婦の邪魔をしないように、そっと部屋をあとにした。
どう時間を潰したものかと考えたが、よくよく思えば今は夜中だ。色々なことが重なり、おまけにこの坑道には太陽の光が届かない。おかげで時間の感覚がすっかり狂ってしまっている。
「体力は温存するべきよね。椅子を借りるわ、少し眠らせて」
「あー、椅子で平気か?」
「今あっちへ戻っても邪魔になるでしょう?」
休憩所には既に移動していたノインとティーロがいた。
ベッドは仮眠室にしかないが、あそこは今作業中。となると、居場所は二つ目の休憩室しかない。
壁際に椅子を寄せれば背中だって預けられる。眠れないことはないだろう。
事を起こすからには英気を養わねば。
眠れなくても眠る。それくらいのことができなければ、成功するものも失敗してしまうぞと、自分に言い聞かせて微笑んだ。
「それもそうだね。僕は少し外を見てくるよ。追手が来てないかも心配だし。二人は休んでて」
「頼んだ。それじゃ、俺もちょっと寝とくわ」
「うん。二人ともお休み」
目が覚めて辺りを見回してみると、ノインと見回りから戻ってきたティーロは地面に転がって眠ったままだった。
風の音を頼りに外へ出てみると、太陽はもうすっかり高く昇っている。
時刻は昼前くらいだろうが、外に出てもやはり木々が生い茂り、辺りは薄暗いままだ。
山の中に響く音は風と動物の足音ばかり。平和なものである。
(仮眠のつもりがすっかり寝入ってしまってたのね。ちょっと風にでも当たってこよう)
クレールは剣を携えたまま当て所なく歩き続ける。
道標などなくとも坑道に帰り着く自信はあった。
行きは夜が更けていて気付かなかったけれど、この鉱山はそう高い山ではない。
五人が身を寄せている坑道の他には、地下へ続いているものも多い。採掘場の主力は地下だったのだろう。
さすがに山頂まで行くつもりはなかったけれど、興味本位で登ってみる。
上れば上るほどにまだ溶けきっていない雪が目につく。更に歩くと、白や黒の小石で縁取られた小川に行き当たった。
浅いとはいえ、泳ぎまわる魚がはっきりと見える透明度の高い川。目を凝らせば、遠くで野犬が水を飲んでいるのも見えた。数秒睨み合いになったけれど、しばらくすれば敵意はないと察してくれたらしく、無言で木々の合間に消えてしまった。
「動物達もここに通うのね。っていうことは飲めるのかな」
手で水を掬い舐めてみる。異臭もしないしひたすらに無味無臭。数日凌ぐくらいならできそうだ。
「うん。これなら飲めそう。あとで水袋を取ってこなくちゃ」
ついでに顔を洗っておいた。軍と戦い、汗まみれの砂埃まみれ。水浴びもしてしまおうかと服のボタンに指をかけたが、すぐ近くに魔力の気配を感じてその手を止めた。
油断していると、すぐ背後まで接近されていることにも気付けない。未熟者の証拠だと、己の両頬を叩いて渇を入れた。
「一人でいなくなるなよ」
「あなた達、どこに行くにも一緒なの? というか自由行動中でしょう?」
どうやらノインだけではなくティーロも一緒だったらしい。
二人は顔にかかる草をナイフで切り払いながら獣道を突き進んできたようで、服の所々に葉っぱをつけていた。
「いつも一緒ってわけじゃねーよ。というか、そのまま一人で突入するんじゃないかと心配するだろうが」
「自分から作戦の成功率を下げるような真似はしないわ」
そんなに危なっかしく見えるのだろうか。
彼等の得た情報を聞き、作戦を聞き、一人で突入するよりも彼等と手を組んだ方が確実だと判断した。
彼等が勝ち目のない戦いをするつもりなら協力関係を反故にしてでも単独行動をしていたが、少なくともイゾルデの救出に関してその必要性はないというのに。
「ノインは変なところで心配性だからね。ちなみに僕は水汲みに」
「ああ、あなた達はここにいたことがあるのよね。水場くらい把握してたか」
いい発見をしたと思ったのだが、残念なことに既出だった。
クレールはティーロが水袋に水を詰めていくのを横目に見ながら靴を脱ぎ、足首から下を川に浸けつつ大きな岩に腰掛けた。当然ティーロのいる位置より川下を選んでいる。
「んー、さすがに冷たいわね」
「雪解け水なんだから冷たくて当然。むしろよく浸けていられるね。風邪ひくよ?」
「平気。もうちょっとだけ」
こうやって静かに自然を感じるのは久しぶりだ。もう何十年も人の住む町を転々として、こうやって自然に囲まれる機会などなかったから。
幼い頃はイゾルデに手を引かれるまま集落から集落へと隠れ住んでいたが、あるとき集落へ向かう道中で人の町を見た。
駆け回る子供。活気付いた商店主の呼び声。親子の会話。楽しそうに生活する人々。
魔族を傷つけた憎むべき人間の日常が、かつて失ったデンメルクの姿と重なった。そのときに気づいたのだ。人間も魔族と同じように平和な毎日を送りたいのだと。
それからは人間を観察するように人の町を巡り、その中に溶け込んで生きてきた。
成長が極端に遅いおかげで数年ごとに移住する必要があったが、人と生活するのも悪くないと思えるようになった。
魔族の為に人を滅ぼすのは何か違うと思えるようになった。
けれど、やはり自然と生きる魔族にとって、人の町は少々賑やか過ぎる。
デンメルクの王都も負けず劣らず栄えていたが、もっと町の中にも水路が引かれ、木々が多く植えられていた。公園がいくつも作られ、一面が芝生に覆われて、脇の花壇には常に季節の花が顔を覗かせていた。
百年経った今でも、故郷の記憶は色褪せない。
今では人間によって破壊され、その面影すらないと聞くが、いつか故郷の再建をと望む魔族も少なくはないはずだ。
(いつか、いつかおじい様の守ろうとしたデンメルクを取り戻す。イゾルデや魔族の救出はその第一歩。絶対に成功させてみせる)
足元を流れる冷たい水の感覚に流されたのか、頭の芯まで冷えていくような感覚がした。
人のすべてが敵ではない。しかし味方になりえない人間がいるのもまた事実。
かつての楽園を取り戻すそのときだけを夢見て、もう生ぬるい子供騙しはお終いだ。
「クレール。君、怖い顔してるって自覚あるか?」
頭部にずしりと荷重がかかる。背後から腕を回され、頭の上に顎が乗せられているらしい。頭は動かないが、声の距離から犯人がノインであることは明白だった。
クレールは目を細め、つまらなそうに吐き捨てた。
「してるでしょうね。笑いながら改めて人間殺しの覚悟を決めるほど狂ってないわ」
「この流れでどうしてそんな物騒な思考に至ったんだか。大自然を眺めながら固める決意じゃないだろう」
「自然と魔族は切っても切れないの。こんなふうに静かな場所で緑に囲まれていると、故郷を思い出すのよ。人間に滅ぼされた故郷をね」
魔族にとって自然は共存するべきもので、人間のように切り開くものではない。
汚染された川、枯れた土地もいくつも見た。かつて緑豊かだったデンメルクの地は、ゼーゲンと名を変えてから緩やかに、しかし確実に死に向かっている。
手遅れになる前に同胞と祖国を取り戻す決意が固まった。クレールにとって、この懐かしささえ感じる緑生い茂る山は、決意の地として打ってつけの場所なのだ。
「君は冷静なようで熱い子だね。少し頭を冷やしなよ、っと!」
優しい声音で言いながら、しかし語尾だけが力んでいた。次の瞬間、圧し掛かっていたノインごと、冷たい川に突き飛ばされた。
「冷たっ! ティーロ!」
「ちょっ、俺まで落とす奴があるか!」
水柱を立てて、二人一緒にどぼんと落ちる。
水深が膝までしかない川を、ざばざば音を立てながら這い上がった。
一瞬にして水を含んだ冬物の服は予想外に重い挙句、恐ろしく寒い。
「落ち着いた?」
「普通、こういうことをされるともっとヒートアップするんじゃないかしら。ノインみたいに」
例えの代表格はノインで、濡れ鼠のまま顔を引き攣らせ、ティーロの胸倉を掴んでいる。
「ノイン、濡れるじゃないか」
「俺は全身ずぶ濡れだ! 何でこう極端なことするかな、お前は!」
「言葉じゃ冷えないなら直接冷ますしかないかなーと。ちなみにノインを巻き込んだのはセクハラに対する罰則ね。相手が抵抗しないからって、調子に乗っていつまでも抱きついてちゃ駄目でしょ。クレールは年頃の女の子なんだから」
欠片も悪びれることなく淡々と、これが最善の策であったかのように彼は笑む。
この二人、突拍子もない事を仕出かしそうなのはノインに見えていたが、性質の悪い事を仕出かすのはティーロの方だったようだ。
「あー、寒い」
栗色の髪からとめどなく水が滴る。人房掴んで絞ってみれば、雨のように滴が落ちた。
春が来たばかりの、およそ冬に近いこの気候で雪解け水の水浴びは自殺行為である。
先ほどここで水浴びを、などと考えていた自分は心底馬鹿だったと思い知らされた。
コートを脱いで袖から順に絞ってみるけれど、当然そんなことで着られるはずもない。
「ノイン、上着脱いで。時間かかるけど乾かそう」
「君、こいつに対して何か言うことないのかよ?」
「怒らないからお詫びに上着を干せそうな木の枝を見繕ってきてくれない? あと薪も」
「仕方ないな。ちょっと待っててね」
「お前は一言くらい謝って行け!」
既に突き落とされた過去などなかったように和やかな遣り取りだった。
木々の合間に消えたティーロの背中に怒鳴りながら、ノインは何で一番怒っているのが自分なのか、何かが間違っているような気がしてならなかった。
クレールはクレールで、薪のないうちから手の平に火を灯し暖を取っている。
こんなつまらないことで風邪をひいて作戦に支障をきたすなど愚の骨頂。クレールは、上着を脱いで腕を擦るノインに火を近づけた。
「もうちょっと寄って。腕が疲れるわ」
「君は魔族関連しか怒らないのか?」
「お隣さんの夫婦喧嘩は鬱陶しいし、酔っ払いに絡まれれば苛立つわよ。ただ、そうね。川に落とされたとき、水面に映った自分の顔を見て、あなた達の言いたいこともわかった気がしたから。うん、自分の顔に引いたのは初めてよ」
まだまだ青いな。自分の顔を見た瞬間、確かにそう思った。
百年前、デンメルクの崩壊したあの日。勇者に殺されるあの瞬間でさえ、祖父は怒りに支配された顔など見せなかった。
彼が最期に見せたのは、ただただ家族や家臣の身を案じ、自分を置いて逃げろと命じた優しい笑顔。
いつか祖父のようになりたいと願いながら生きてきたが、これでは道を違えてしまう。そうなる前に気付かせてくれたのだから、これくらいのことは水に流そう。
「――人には偉そうなこと言うけどさ、俺はティーロが捕まったりしたら冷静ではいられないかもしれない。君は感情に流されそうになっても、大局を見据えて踏み止まれるんだな。まったく強い女の子だよ」
「いつも誰かが止めてくれなくちゃ突っ走る女のどこが大局を見据えていて、どこが強いのかしら。イゾルデが撃たれたとき、あなたの腕が少しでも緩めば、私はここにはいなかったわよ」
「まあ、そうなったらなったで俺が助けに行ってたけどな。明日になったらだけど」
作戦決行は明後日、そう聞いたのは日付が変わる直前だった。
今はもうすっかり昼時なので、作戦決行は明日。実質自由に動けるのは今日一日だけだ。
今更町には戻れないし、ただの戦闘員である自分には剣と魔術があればそれ以上の準備は要らない。
早く明日になって欲しい。そう願っているということは、冷静なふりをしていても、やはり気が急いているのだろう。
「たった三人で軍の施設に乗り込もうというのもかなり無謀だけれど、二人だけでも乗り込んでいたなんて最早自殺行為よね。勝算はあったの?」
「そんなものなかったよ。僕等も仲間の大半がいなくなって、半分自暴自棄だった節があるからね。大義名分掲げて死に場所を欲しがっていたのかも」
小石を踏みしめながら、枝を腕一杯に抱えたティーロが戻ってきた。
彼は長い枝を四本横並びに地面に刺して石で固定し、その天辺に長い枝を引っ掛けて簡易の物干しを組み立てた。
「おかえりなさい。早かったのね」
「放置されて久しい分、そこいらに小枝が散乱していたからね。焚き火にはこれくらいで足りるかな」
「十分よ。ありがとう」
大き目の石を円状に並べて、その内側に残りの枝を積み上げ火をつける。
ぽっと赤い火が灯ると、魔術よりも安定した熱が周囲を温め始めた。
物干しにそれぞれの上着を引っ掛けて二人で焚き火を囲う。ここにイゾルデがいてくれれば、ただのキャンプのようで楽しめたのに、それだけが残念でならない。
「それで、つい口を挟んじゃったけど、何の話をしていたんだい?」
「ノインが、ティーロが捕まったら生きていけないって」
「クレール、誤解を招く発言は止めてくれ。冷静でいられないとは言ったが生きていけないとは言ってない。こいつにネタを与えないでくれ、頼むから」
「あー、まーたそんな重い話を。もう一回突き飛ばしてあげようか?」
「結構よ」
「止めろ」
先ほどは分厚い上着を着ていたおかげで下着までは染みずに済んだが、今度は確実に中まで濡れる。次こそ風邪をひきかねない。
ティーロは冗談だよと本気か嘘かもわからない笑顔を浮かべながら、焚き火を囲う輪に加わった。
「ねえ、クレール。聞きたいことがあるんだけど」
ティーロは肩から提げた鞄を漁り、イゾルデが用意していた保存食の缶詰を取り出して開けながら問いかけた。
「答えられることなら」
「魔族を騙し、王と国を奪った英雄気取りの詐欺師って誰のこと?」
視線を合わせることはなく、食べ物の好みを尋ねるように軽々しい口調だった。
何の話かと首を捻ったが、すぐさま軍と戦闘に陥った際、指揮官相手に自分が口走ってしまった言葉だと思い至る。
話そうかどうかは正直迷った。
今世界に浸透している歴史と、クレールの認識している事実は食い違っている。
勝者によって都合よく捻じ曲げられた歴史が、正史としてのさばっているのだ。
人間が正義であるとした何よりの証拠が、実は改ざんされたものであるなど、彼等は信じてくれるだろうか。
たっぷり一分は黙り込んだだろう。
クレールは腕を組み、脚を組み、また解いては組んでみたりと散々落ち着きのない挙動を見せたあと、おずおずと質問者であるティーロを見つめた。
「ティーロは、現状を作り上げたのが人間の欲望の賜物だって言ったら怒る?」
「怒らない。事実だもの。聖輝石の採掘過多で今後の供給の目処が立たないのも、その能力を恐れるあまり魔族を排斥しようとするのも、一辺残らず人間の所業だよ。今更人が何をしたと言われても、怒れる立場にはないんだよ」
「じゃあ、話すわ。歴史は歴史として、誰にでも紐解く権利はあると思うから」
彼等ならば信頼に足る。話せば信じてくれるかもしれないと、クレールの中に淡い期待が生まれた。
「この話はイゾルデにしか話してないわ。他にこの事実を知っている魔族が生き残っているかも怪しい話。――百年前、デンメルクの王都が陥落した日、勇者と魔王が会談を行っていたっていう話は有名よね」
「ああ、それ、御伽噺だよな。俺達も施設で聞かされたわ」
今に語り継がれる勇者の物語。これ以上の犠牲は要らないと訴えた勇者は、平和の為に魔王との話し合いに挑んだ。
「そう、その御伽噺。その話を成立させる前提は、魔族が災厄を振り撒く存在であること。でも、私達魔族が人間を苦しめることに精を出すような種族じゃないことは、あなたならよく知っているわよね?」
「それはもう。魔族がそんな邪悪な種族なら、僕達が掲げる理念の意味合いが変わってしまうからね」
「そういうこと。百年前の会談の日。誰よりも先に剣を抜いたのは時の勇者。初代ゼーゲン王国国王の方よ。人間との関係の友好化。ついにその悲願を達成できるとお喜びになった魔王陛下は、友好の証としてその会談の席での帯剣を禁じた。でもそれが仇となったのね。短剣を隠し持っていた勇者は、その刃で魔王陛下を切り捨てたの」
「――あの御伽噺は、人間を正義と主張する為のでっち上げだったってこと?」
「そういうことよ」
そもそも、御伽噺の中で魔族は人間を敵とみなし、人間には魔族の国に立ち入る資格などないと一蹴したと記述されているが、デンメルクの国民には人間もいた。
寿命の違いはあれど、それでも互いの時間の流れの差を理解しながら共存していたのだ。その魔族が、今更人間を国に入れないなどと断じるはずがない。
「勇者は、今ではゼーゲンに吸収された隣国の生まれだったそうよ。デンメルクと隣国に国交はなく、彼等は勝手に魔族の持つ力を恐れ、勝手にすべての災厄を魔族の責任として悪者の立場を押し付けた。彼はそんな国の中で、民の不安を煽り、血の気の多い若者を扇動しながら影響力を積み上げ、王の信頼を勝ち得えてデンメルクへと旅立った。お題目は、両国間の平和条約の締結と銘打ってね」
ここまで話してしまえば、ティーロとノインにも歴史の真実は見えてしまった。
勇者が魔王を騙し討ちにし、国を奪い、自らが王となって、自分の生まれた国さえも己が奪った国に取り込んだのだ。
「魔王陛下も人間との不和には頭を痛めていらっしゃったの。そこに、平和条約の話が持ち上がり、今度こそ人間が魔族に抱く不のイメージを払拭する機会を得たと、そう信じていた。それなのに、勇者は陛下を裏切った。それも、陛下を直接狙ってもあしらわれるのが関の山と知って、あの男は王妃様を狙ったのよ。そして、王妃様を庇った魔王陛下は死の間際に家臣と民の安全を最優先に命じ、王妃様や戦えない家臣に早くその場を離れるよう言い残してこの世を去った。あとの歴史は、あなた達の認識と大差ないわ」
会談は失敗に終わり、勇者とその手勢は城の魔族を手にかけ、隣国から呼び寄せた軍隊を使い魔王崩御に混乱したデンメルクを制圧した。
「だから詐欺師か。確かに、この事実が知れれば彼は勇者どころかただの侵略者だね」
「英雄扱いどころか、一歩間違えば魔族との全面戦争を引き起こした大罪人だな」
「そう。彼が糾弾されなかったのは、彼が会談での出来事を捏造したのと、事実が知れるよりも先に魔族の軍事力を奪い、国を崩壊させたおかげ。私達魔族は魔王を頂点とした一枚岩だったから、王が欠いては何も判断できなかったの」
魔王は誰よりも大きな魔力を持っていた。それは、魔族にとって誰よりも世界に愛され、世界の理に近い者として認識される。
魔王の座を奪うには、魔王よりも世界に愛されている必要があり、そうでなければ家臣は誰一人として次なる王を認めない。だからこそ長い間謀反も内乱も起こらず、デンメルクは平和を維持してこられたのだ。それこそ、隣国からの進軍に対応が遅れてしまうほどに長く。
「その逃がされた王妃とか、いたのか知らないけど王子とかが代わりに指揮を取らなかったのか?」
「王妃様は孫娘を庇って亡くなった。王子殿下は残存兵を集めて部隊の再編している最中、狙撃されて亡くなったと聞いているわ。魔王と次期魔王、二人共が特別だったから、そう簡単に代わりは現れない。その結果生まれたのがこのゼーゲンなのよ」
人間よりも長く生きる魔族は、その寿命の分人間よりも繁殖力が弱い。ゆえに人間よりも数は遥かに少なく、聖輝石を用いた武器の物量で押されれば、いくら魔術があったとしても対抗できないと勇者は理解していたのだろう。そこに不思議な力を持つ魔族は忌み嫌われるものという人間の常識を利用して、勇者はまんまと一国の王に成り上がったのだ。
「戦で戦果を上げた奴が国の頂点に立った話はいくらでもあるが、いざその裏側を聞いちまうと印象変わるよな」
「勝者の都合に合わせて歴史が改ざんされるのは世の常だからね。でも、クレールのおかげで僕等のしていることは間違いじゃないと再確認できたよ」
「へえ、本当に私の話を信じるんだ」
いくら魔族擁護の意識が強い二人でも、自分達の知る歴史が捏造だと言われれば多少の疑いを持つかと思っていたのだが、意外にもすんなりと受け入れられてしまった。
柔軟なのか、余程人間を信じていないのか。
クレールには時折、自分よりも彼等の方が人間を嫌っているように見えた。
「信じるよ。今まで結構な数の魔族に会ってきたけど、彼等の語る魔族の在りよう、魔王の人物像から考えると、人間に伝わる歴史より、君の語る歴史の方がしっくりくる。魔族達も、あの御伽噺は何かの間違いだって信じているようだったしね」
「魔王陛下ってのは、魔族は勿論、人間にも分け隔てなく誠実な人だったんだってな。皆口を揃えてそう言ってたよ。人間だろうが魔族だろうが裏表ってものはあると思うけど、俺としては君の言う歴史が真実であって欲しい」
「あなた達みたいにものわかりのいい人ばかりだったら、魔族はもっと生き易かったでしょうね」
今までイゾルデにしか話せなかった。
たとえそれが真実だとしても、たとえそれが魔族の汚名をすすぐ一歩に繋がったとしても、やはりそれは魔族にとって都合のいい歴史。百年以上続く魔族狩りと隣り合わせの時代の中、下手に反抗心を持たせて暴動など起きようものなら、それこそ魔族殲滅の口実を与えることになってしまう。そう考えると、怖くて誰にも話せなかった。
何故、今になってこの二人に話す気になったのか、自分でも不思議なくらいだ。
「だったら、俺達で魔族の生き易い世の中を作ろうぜ」
「君の知るデンメルクを取り戻そうよ。時間はかかっても、君みたいにまだ諦めていない子がいるなら、きっとできる」
ノインとティーロが拳を突き出し、こつんとぶつけた。二人の視線は自然とクレールに向いていて、初めての経験が何だかむず痒い感覚だった。
「君ならそのうちやりそうだもんな。手を貸すぜ、クレール」
「まあその前に、イゾルデを助けてお許しを貰わなくちゃいけないんだろうけどね」
施設の攻略よりイゾルデの攻略の方が難しいんじゃないかと笑う二人につられて、クレールもくすりと噴出した。
腕を伸ばし、二人の拳を己の拳で小突いてみせる。
「順番に片付けていかなくちゃね。イゾルデの解放も、魔族の解放も、自由も、何もかも。きっととても時間がかかるわ。あなた達の寿命が持てばいいのだけれど」
「暢気なこと言ってんなよ」
「僕等の命が尽きる前に片を付けてあげるよ。だから、君も手を抜かないでよね」
この二人なら信じられる。魔族と人と混血と、おかしな組み合わせだが、だからこそ平等だ。
「私からもお願い。魔族と、魔族を信じてくれる人間達の為に、力を貸してちょうだい」