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二章

  二章


 日がな一日足踏み式のミシンを動かしていると、日常はあまりにも変わり映えしない。

 二人が働いている仕立て屋では仕事が次から次へと舞い込んで来る。女将がそろそろ増員を検討し始めるほどに盛況なようでなによりだ。

 明日が非番ということもあって、クレールは納期が少し先の仕事まで片付けていた。

 休憩も惜しんでミシンを踏み続けた足はすっかりむくんでしまっている。

 同僚の女性達は、増員よりも魔力動力式のミシンを導入してくれればいいのにと愚痴を零しながら、各々帰路に着く。

 二人が仕立て屋を出た頃の空には夕焼けで空が赤く染まり、パステル調の家屋も風合いが変わって見えた。

「魔力動力式のミシンね。あれば楽なんだろうけど」

「聖輝石の採掘にも限界が見え始めていると聞きます。値段も高騰していますし、新しいミシンの導入はまず無理でしょうね」

「新しいミシンの購入と、定期的な聖輝石の交換費用。女将さんや旦那さんが渋るのも無理はないわよね」

 思えば、聖輝石の採掘量が減少し始めた時期と、魔族狩りが頻繁に行われるようになった時期は同じだった。何か関係でもあるのだろうかと物思いにふけっていると、ふいに二週間前の休暇に出会った奇妙な青年達の顔が浮かんだ。

 魔族と人間が手を取り合って軍に反抗するなど世も末だ。とか、少年と老人はちゃんと集落に合流できただろうか。とか、暇さえあれば考えてしまうのは、いつもあの日に出会った面々のことばかりだった。

「もしも魔力動力が尽きれば、人はどうやって生きるのかしら」

「どうでしょうね。新しい動力源を探すか、採掘場を求めて戦でも起こすのではありませんか?」

 人の生活は便利な物に溢れ返っている。それもこれも、すべては聖輝石と呼ばれる鉱石から抽出できるエネルギーによるものだ。 

 聖輝石には魔力が宿っていて、人間の文明はこのエネルギーを利用し、数々の便利な道具を発明してきた。

 照明に聖輝石、工場にも聖輝石、機関車も聖輝石から動力を得ている。

 最近では、軍の使用する銃火器にも弾の装填回数を減すべく、圧縮された魔力を射出する魔力動力式の新式銃が導入されたとの噂もある。しかし、最近ではゼーゲン国内の聖輝石は採り尽くされ、どこの坑道も採掘量が見る見る減っているそうだ。

 あらたに燃料確保の手段を得なければ、たちまちゼーゲンは成り立たなくなるだろう。

(この国が傾けば、まだ魔族にも希望が見えるのに)

 人の生活が傾いたとしても、それが魔族の希望に繋がるなら同情などありはしない。

 クレールがまた危ないことを考えていると目敏く察知し、イゾルデが余計なことはしないでくれと釘を刺す。

 本当によく見ている。口で誤魔化しても墓穴を掘るだけだと悟ったクレールは、もう終い支度を始めた屋台に気を取られているふりをしてとぼけていた。


「この町まで魔族狩りの魔の手が伸びているのはその目で見ましたね。いいですか。絶対に余計なことに首を突っ込んではいけませんよ!」

「わかってます。わかってるから、早く行かないと女将さんに叱られちゃうよ」

 翌日、クレールは非番でイゾルデは出勤だった。

 イゾルデは起床すると同時にあれやこれやと禁則事項をクレールの頭に叩き込みにかかってきた。耳にたこができそうだ。

「では、行って参ります」

「うん、いってらっしゃい」

 もう家を出なければ遅刻するという限界の時間になるまで言い含め続け、ようやくイゾルデは出勤した。

 彼女がいない間に間借りしているアパートの掃除でもしようかと考えたけれど、いつも早朝から起き出して家事をこなす従者に隙はなく、もはやクレールの仕事など残されていなかった。

「キッチン使ったら怒るかな。怒るよね。でもたまには私だって料理したいのよね」

 一人ぶつぶつ呟きながら、食材を入れた籠を見下ろす。「常に新鮮な食材を」をモットーにするこの家には、巷で重宝されている冷蔵庫など置いていないし、大して必要だと思ったこともない。

「――夕飯、何作ろうかな」

 今ある食材を記憶して、買い物に出る支度をする。

 昼食は出先で軽く摂るとして、夕飯のメニューを考えながら商店街を一人でうろついた。

 先々週の魔族狩り騒ぎなど忘れたように、人々は平穏な日常を取り戻していた。

 八百屋や肉屋の奥さんに声をかけられては立ち止まり、適当に話して切り上げてはまたうろつき始める。世間話の話題はもっぱら今晩の献立である。

 ひととおり回ってみて、今日はラム肉が安そうだったのでそれをメインにしようと肉屋へ向けて逆戻りする。その途中で、一つ向こうの通りが突然騒がしくなったことに気がついた。

 嫌な予感がして、細い路地を直線的に抜けて野次馬に加わりに行く。

 通りでは、また軍が捕り物をしているようだった。

 前回クレールの魔術に巻き込まれた人間がいた教訓か、今回は遠巻きに静観している者が多い。

 クレールも少女趣味の雑貨屋の脇に立って、軍の動向を見守った。今回のターゲットは、三十歳くらいの女性のようだ。

 通りの向こうから軍用車が走ってきて、逃げようとする女性を兵士が捕まえ押し込もうと攻防を繰り返す。

 女一人と複数で行動している屈強な兵士。勝敗など火を見るより明らかだ。

(また魔族狩りかと思ったけど、今日は人間か。罪人か何かかしら。まあ、勝手にやっていればいいわ)

 イゾルデの逆鱗に触れても困る。早々に退散しようかと女性から視線を外したその時、背後から憶えのある魔力を感じた。

 通常、常に他人の魔力を感知しているわけではない。魔力を感知するというのは、常に四方八方へとアンテナを張り、気を張っている状態のことだ。四六時中そんなことをしていては疲れてしまう。多くの魔族は魔力の制御を心得ているので、いつでもどこでも同胞の居場所を探知したりはしないし、簡単に探知されるほど魔力を垂れ流したりもしない。しかしこの魔力の持ち主は違っていた。持ち合わせた魔力の大きさのわりに、妙に不安定なのだ。だからこそ、その不安定な波が気になって感知し易い。

「今日の捕り物は何なのかしらね。あの人、何をした人なのか知ってる?」

 首だけで振り返って問いかけると、帽子を被ったノインと、上着のフードですっぽり頭を覆っていたティーロが驚いた顔でクレールを注視した。どうやら彼等は目の前の少女がクレールであることに気が付いていなかったらしい。

「びっくりした。君だったのか」

「魔力の気配でわからない?」

「俺にそんな便利機能は搭載されてない」

「いや、魔族の標準機能でしょう」

「え、マジで?」

 以前魔術を使う素振りすら見せなかったことも含め、彼は魔族としていろいろと間違っている気がする。

「まあいいわ。で、あなた達はこの騒ぎが何か知ってる?」

「何って、僕等は旧市街地の皆が魔族狩りの噂を嗅ぎつけたから様子を見に来たんだよ」 

「この間とは勝手が違いそうだよな。混乱が少ない分隙がねえなぁ」

「魔族狩り? あれが?」

 乗り込むタイミングを見計らうノイン達の隣で、クレールは訝しげに眉根を寄せた。

「君はどうするの? 協力してくれれば僕等としても助かるんだけど」

「手伝うと思う? あれは人間よ。人間同士の諍いにまで首を突っ込む趣味はないわ」

 あわよくば共犯者に引き込もうという魂胆が見え見えだ。

 魔族ならば話は別だが、少なくとも見ず知らずの人間を助けてやる義理はない。

「この間といい、さっきといい、クレールには人間と魔族の見分けがつくのか?」

「ついてないあなたの方が異常だと何度言わせる気かしら。それでも魔族なの?」

「俺は――」

「待って、誰か乱入したよ」

 ティーロが二人の口を塞いで壁際に追いやった。

 女性を収容して出発しようとしていた軍用車は、タイヤが大きく裂けて走行を停止していた。停止した車の正面では、黒い翼を広げた緑色の髪の男性が唇を噛み締め立ちはだかっている。

「あれは魔族だよな!」

「目は正常なようで安心したわ」

 自信満々に言い放つノイン。クレールは口を開くのも馬鹿らしくなったきた。

 しかし腑に落ちない。魔族なら人と魔族の見分けはつくはずだ。それが魔族にとっての普通。ならばあの男性が女性を助ける理由は何なのか。

 男性は兵士から女性を取り戻そうと、包丁片手に暴れだした。

 これが人間ならばたかが包丁でと笑うところだが、相手は魔族だ。魔術によって強靭な風の刃を生み出しては、車を守る兵士達へ向かって飛ばし切りつける。

「善戦してるとは言い難いね」

 一見すると善戦しているように見える。しかし、数の差と、徐々に詰められる距離が彼の劣勢を示していた。

 兵士によって車の中から女性が引き摺り出された。兵士は彼女を人質にして牽制する。

「まずい。あれだけ暴れたんじゃ、ただ捕まるだけでは済まないぞ。行くぞティーロ!」

「了解!」

 ノインは大ぶりのナイフを。ティーロは二丁の拳銃を上着の下から引き抜き走り出した。

 素早い動きで渦中に飛び込み、先制攻撃で兵士を切りつけ女性を奪還する。

 以前の一件から警戒が強まっていたのだろう。兵士達は新手の出現に手を止めることもなく、冷静に敵とみなして応戦を始めた。

「あーあ。軍にはこれも想定内だったみたいね」

 呆気にとられたのは連行されかかっていた女性一人だ。魔族の男性はノインの魔力に気付き自らの援軍と判断したのか背中を任せつつ女性を守っている。

 ただここからがまずかった。銃を装備した兵士に囲まれた中で、戦えない女性を守りながらの攻防。

 一分一秒の間にも、敵の増援がやってくる。

 このまま逃げ切ることができなければ、いずれは数に押されて全員が捕縛されてしまうだろう。

「ミイラ取りがミイラになってどうするのよ」

 まず真っ先に思い浮かんだのは、イゾルデに叱られることへの子供染みた恐怖。次に浮かんだのは、今まで自分の幼さと未熟さゆえに見捨てざるを得なかった同胞達の顔。

 その心意はわからないけれど、腹を撃ち抜かれてまで魔族を助けようと剣を取る彼等を見て、クレールはこの百年間ずっと押し殺してきた感情を再確認してしまった。

 自分は、もう一人として死なせたくないのだ。

「世話の焼ける!」

 肩にかけたストールを頭に被り、左手に短剣を、右手に炎を宿す。

 炎を男女に襲いかかる兵士に叩きつけ、炎を払おうともがいている間に切り伏せる。

「協力しないんじゃなかったのかよ!」

「襲われてるのが人間だけだったら見捨ててたわよ!」

 高速で射出される弾丸まで魔術で防ぐのは至難の業だ。クレールが乱入したところで、数の暴力に訴えている軍を一掃することなどできやしない。

 道の向こうから新手の軍用車と十名ほどの分隊が走ってくる。

 あれが合流すれば兵の数は約二十人、軍用車が二台。前回のように意表をつけなかった以上、分の悪さは言うまでもない。

「目と耳塞いで!」

 距離を詰めてくる兵士をクレールが炎で牽制した。その隙にティーロが閃光弾を投げて相手の目を晦ます。

 逃げ出す前の時間稼ぎに、ノインが手榴弾を軍用車の車体の下へと転がした。

「走れ!」

 全員が彼の言葉を合図に走り出す。

 薄暗い裏路地を抜け、時には屋根によじ登って人目を掻い潜りながら旧市街地を目指す。しかし、あの場所こそ後ろ暗い者の隠れ家に適していることなど軍も承知の上で、旧市街地の入り口や建物の屋上には、既に見張りの兵士が配置されていた。

「まずいね、これじゃ戻れない」

「戻れないって。ねえ、気になってたんだけど、まさかこの間のおじいさんと少年、旧市街地に置き去りになってたりしないよね?」

「今は自分の心配するところだろ。あの二人なら町から逃げたよ。とりあえず、じいさんが魔族の集落があるって話してた森があってな。途中まで送り届けた。軍が張ってる様子もなかったし、集落までの道は知ってるって言ってたから、今頃お仲間に保護されてるだろうよ」

「それを聞いて安心したわ。彼等を助けてくれてありがとう」

 路地の奥に引っ込んで、息を殺す。

 心配事は一つ減ったけれど、代わりに一つ、自分自身の心配事を増やす羽目になってしまった。

「あなた……」

「大丈夫。オレが君を守るよ」

 ノインが腕を掴んで連れてきた女性は、不安そうに魔族の男性の胸に顔を埋めた。

(今、あなたって言った? え、夫婦? 魔族と人間が?)

 クレールは一瞬だけありえないものを見るような目を向けたが、今はそれどころではないと頭を振って雑念を払い除ける。

「さてさて、どこに行ったものかな」

「旧市街地は一帯壁で覆われているものね。ここでこれなら、入り口はすべて封鎖されていると考えた方が無難だわ」

 軍は上からものを言う傾向にあり、貧困層にはとんと嫌われている。

 逃げ込むなら利益で取引相手を選んでくれる住人ばかりの旧市街地の方が安全なのだが、リスクを犯して逃げ込もうものなら今度は退路が絶たれてしまう。

「新市街地に戻りましょう」

「戻って、どこか当てでもあるのか?」

「当ても何も、私の家よ。私は新市街地で人間に紛れて生活してるんだから」

 今日は仕立て屋の主人の都合で、仕事は午後二時までで終わりだったはずだ。

 今の時間が午後二時、もしかしなくてもイゾルデの帰宅時間と被ってしまう。

 彼等との鉢合わせは免れないが、そもそもイゾルデを置いて自分だけ町を出ることなどできやしない。

 やむを得ず、クレールは四人を家に招き入れる覚悟を決めた。

「それ、大丈夫なのかい?」

「何に対しての質問なのかは面倒だから聞かないわよ。当然大丈夫じゃないし」

(この町にはいられなくなっちゃうなあ。顔は見られてないはずだけど、手配書なんて張り出されたらまずいわね)

 正体がばれる前に引っ越すのと、正体がばれたから引っ越すのとでは今後のリスクが桁外れに違う。

 面が割れてないことを祈りつつ、五人はクレールの家を目指した。


 屋根を上り、路地裏をこそこそと抜け、ときにはこちらの事情を察した孤児を小銭で口止めしたりしつつと、随分遠回りになってしまった。それでも何とか軍の捜索を掻い潜り、一行はクレールの家へ辿り着いた。

 途中五人ほどの兵士と遭遇したけれど、援軍を呼ばれる前に気絶させられたのは不幸中の幸いだった。

 一行はクレールの住まうアパートの、裏通りに面した二階の窓から侵入した。

 三人が壁をよじ登り、魔族が人間の女性を抱えて飛び窓から上がりこむ姿は、傍目に見れば相当異様な光景だったろう。

 人通りの少ない裏通り側にも窓があって本当によかった。 

 黄色く塗られた木組みのアパートは部屋が縦に区切られていて、各部屋三階建てだ。一階の表通り側に玄関があり、窓は南北それぞれにある。

 一階が二人の共有スペースとキッチンで、二階がイゾルデの部屋、三階がクレールの部屋だ。あえて三階から入らなかったのは、ノインとティーロから人間式に壁をよじ登るのは骨が折れると苦情が入ったからだ。

「とりあえず上がって。あと、気は抜いちゃ駄目よ。死ぬから」

 部屋の中でどんな死の危険が待ち受けているのか。その説明は省略した。

 言ったそばから扉が開く。

 物音を聞きつけ自身の部屋を確認しに来たイゾルデは、何故か窓から侵入している主と背後に佇む四人を見つけ、一度は無言で身を翻す。数秒で戻ってきた彼女は、何を言うでもなくノインとティーロに向けて二本の包丁を投擲した。

「うお、危ねーな!」

「汚らわしい虫を駆除するのも私の仕事ですので」

「あー。彼女、相当お怒りだね」

「だから言ったじゃない。気を抜くなって」

 次に当事者二人をじろりとひと睨みする。

 女性はあまりに鋭い眼光に、びくりと肩を振るわせた。男性は、女性を抱き寄せながら彼等についてきたのは間違いだったかもしれないと早くも後悔し始めている。

「クレール、いったい何があったのですか?」

「そうね、いつまでもここがばれない保障もないし、話は手早く済ませましょう」

 イゾルデを加えて、六人は一階へ移動した。

 客人を招くことなど皆無だった家のキッチン兼リビングには、椅子は二つしかない。現在その二つの椅子に腰掛けているのはクレールと、名も知らぬ女性である。

「あのさ、話し始める前に自己紹介しておかないか。呼び名がないとお互い不便だろ?」

 クレールの後ろに控えたイゾルデの睨みが利くこの空間内で、壁際に立つノインがおずおずと挙手しながら提案した。

「そうしていただけると助かります。オレも、恩人方のお名前を伺いたかったので」

 真っ先に賛同したのは、流れのままに連れてきてしまった魔族の男性だ。

「よし決まり。じゃあ、まずは俺から。俺はノイン・ダウム。反政府組織に属してる。特技は力技。得物はナイフが得意だなー。荒事なら任せてくれ。これからよろしくな」

「僕はティーロ・ブラームス。同じく反政府組織の人間だ。あなた方を助けたのもその一環。僕等の掲げる理想は、魔族の自由とその繁栄なんだ。だから、とりあえず安全な魔族の集落までは送り届けるつもりだよ。短い付き合いだろうけど、まあ、よろしくね」

 この二人、何故こうも温度差があるのに噛み合っているのか不思議でならない。

 おまけに所属が不穏すぎる。人間のくせに魔族の繁栄を望んでいるなど、考えがまるで読めない。

「人間が魔族の繁栄を掲げるとは、胡散臭いですね」

「人間が善良な生き物なら、僕も素直に仲良しこよしで生きていけたんだけどね」

 自分も人間のくせに何を言う。

 クレールとイゾルデは揃って冷ややかな視線を向けた。

 最初から、彼等が善意から魔族を救おうとするお人好しだとは思っていなかった。

 あんな無謀な行動を取っておきながらも今まで生きてこられた二人だ。どこかの組織に所属している可能性も考慮しておくべきだったと、今更ながらに己の短慮を省みる。

「まあまあ、話の腰を折らないでくれよ。ほら、次は君達だろ」

「分かったわよ。私はクレール。魔族よ。よろしく」

「イゾルデと申します。クレールにお仕えしております。以後お見知りおきを」

 ノインとティーロが素性を開示したのはクレールを信じてのことだったが、彼女達は自身が魔族であること以外一切の素性を明かさなかった。明かす必要もないし、明かしたところでノイン達に利用されるのが目に見えていたからだ。

「じゃあ、次はオレ達ですね。オレはユルゲンと申します。彼女はミリー。魔族と人間という種族の違いはありますが、れっきとした夫婦です」

 クレールの眉が怪訝に歪む。

「夫婦なの? あの、こういうことを聞くのは失礼かもしれないけど、人間と魔族の間には子供は生まれない。それを知ってて結婚したの?」

 長い歴史の中でも、人と魔族の間に子供が生まれたという話はない。厳密には、例え生まれたとしても早死にだったり、そもそも死産だったりしたことから、人と魔族は生き物として相容れないとされてきたのだ。

「彼の子を産めなくても、彼を愛していることに変わりはありませんから。種族なんて二の次です」

 子供ができないことは寂しいけれど、彼がいればそれでいいんです。と、ミリーは肩口で切り揃えた赤毛をふわりと揺らしながら断言した。

 今自分を取り巻いている者が皆味方だと知って安心したのだろう。つい今しがたまで怯えていたとは思えないほど、綺麗に笑んでいた。

「種族なんて二の次、か。皆がそう考えてくれたなら、この国はまだデンメルクでいられたはずなのにね」

 そんな言葉を口にする人間に会ったのはいつ以来だろうか。少なくとも、魔王が崩御したばかりの頃にはまだそういう人間も存在していたと記憶している。

 こうやって魔族や、魔族に共感してくれる人間に囲まれていると幼き日を思い出す。

「デンメルク。かつてこの土地にあった魔族の国、だよね」

 現在デンメルクについての記述はほとんど残されていない。魔族は姿を隠して久しく、政府は彼の国についての情報をことごとく抹消した。

「ええ。魔族が平和に暮らしていた国よ。でも、住んでいたのは魔族だけじゃない。デンメルクは人間を拒んだりしなかったわ。むしろ、デンメルクを拒んだのは人間の――」

「クレール!」

 ティーロは資料にない亡国に興味を抱いたようだが、イゾルデがそれを善しとしない。

 余計なことを口にしたと目を逸らすクレールと、頭に血が上ってしまったと反省するイゾルデ。彼女達はその場を誤魔化すかのように、話を本題へと戻した。

「ごめんなさい、無駄話をしている時間はなかったわね」

「いえ、私こそ声を荒げてすみませんでした。それで、いったい何があったのですか?」

 その不自然な遣り取りの中にクレール達の素性のヒントが隠されている。ティーロの探るように細められた眼光を、二人は見て見ぬふりをした。

 クレールは居住まいを正し、面々を目で一巡した。ノインやユルゲンは、今自分が口を開けばまたイゾルデの不興を買うと察し、黙り込んでいる。

「端的に言えば、また魔族狩りがあったのよ」

「と、言いますと、標的となったのはそちらのユルゲンさんでしょうか?」

「いいえ、狙われていたのは奥さんの方よ」

「奥方? 彼女、人間ですよね?」

 訝しげに目を細めると、ミリーが居心地悪そうに椅子を引いた。

 ノインは「やっぱりわかるんだな」と関心していたところを睨みつけられて、慌てて口を閉ざす。

「あの、軍の方達はユルゲンが魔族であることを知って捕らえようとしていたそうなのです。それで、魔族の妻ならば私も魔族のはずだと……」

「勘違いされて、巻き添えを食ったというのね。まあ、人間側からは外見以外で魔族を見分ける術がないし、仕方がないわね」

 長い歴史の中では二つの異種族同士で結婚した夫婦もいる。ただ、子供は生まれない。

 特にこの百年では、人が魔族と契ることさえ禁忌とする風潮が強まっていたのだ。誤解されるのも無理はない。

「で、更にその巻き添えを食ったのがクレールということですか?」

「――そのとおりよ。ユルゲンさんがミリーさんを助けに兵士達の中に飛び込んで、ノインとティーロはまた魔族狩りがあるって噂を元に現れて前回どおり。で、彼等が苦戦していたから、その、私も……」

「いても立ってもいられなくなったのですね」

「……おっしゃるとおりで」

「そのタイミングでこの面子。軍に追われているのですか?」

「顔は見られてないけど、あの場に私を知る人間がいなかったという保障はないわ。もしかしたら、背格好であれが私だと見抜いた人がいる可能性はある」 

 一年間をこの町で過ごして、職場の人間や多くの客と関わってきた。もしも知人に見られていれば、知らぬ存ぜぬを押し通すには、些か無理があるだろう。

「なんて無茶を」

「私はまだ未熟だわ。何だかんだで、いつもあなたに止められてばかりだもの。それは認めざるを得ない。でもねイゾルデ、私はもう子供じゃないんだよ。守られたまま、義務を放り出すのは嫌だったの」

「自分の身を危険に晒してもですか」

「おじい様だって、そうしたじゃない」

 おじい様。それは、クレール達にとってとても重要な存在だった。

 その存在を引き合いに出されては、イゾルデにはもう反論の余地がない。

 百年という時を彼女に仕えて生きてきた。彼女を守りとおすことのみを自身の存在意義として、その為に多くの同胞を見捨ててきた。彼女もその生き方を涙を呑みながらも受け入れてきたというのに、この突然の心変わりはどうしたものかと溜息を吐く。

(彼等に触発されて、随分焦っている。あまり良い影響とは思えませんね)

 クレールの感情の大部分を占めているのが、覚悟ではなく焦りであることをイゾルデは見抜いていた。今まで自分にできなかったことを実践している同胞に出会い、押し殺してきた感情が爆発してしまっているのだろう。

 それだけに、その焦りが自らの首を絞めるのではないかと心配になる。

(とはいえ、こうなっては最後、聞き分けてなどくださらないのでしょうね)

「――事情はわかりました。本来なら危険因子であるあなた方を排除するところですが、今は殺して後始末をする暇さえ惜しい。まずはこの町を出ることを最優先にして行動しましょう」

「わかってくれてありがとう、イゾルデ」

「納得はしておりません。どこか落ち着ける場所を見つけたら、まずはお説教させて頂きますのでそのおつもりで」

 厳しく断言すると、クレールの口元がひくりと引き攣った。しかし自分はそれだけのことをしてしまったのだと言い聞かせ、頬を叩いて気を引き締める。

「覚悟しておくわ」

「それじゃあ、全員が現状を把握できたところで、これからのことを話し合うとしますかね」

 仕切り直しとばかりに手を叩き、ノインとティーロがテーブルの側面に寄ってきた。

「俺達としては、これも何かと縁じゃないかと考えてる。そっちの夫婦はどこかへ逃げてくれた方が安心なんだけど、君達については別な」

「治癒魔術を使う魔族は多くないらしいね。この間逃がしたご老人が言っていたよ。治癒魔術はとくに高度な魔術で、高貴な血筋の魔族以外に使える者はおらず、彼も実際に目にするのは初めてだったと教えてくれた。イゾルデも強そうだったし、僕等と一緒に来てくれると嬉しいんだけど、どうかな?」

 軽々しく誘ってくれたものだが、ノインとティーロは反政府組織の構成員だ。彼等と手を組むということは、即ち本格的に人間と争う意志を露にするということ。今まで人に紛れて争わずに生きてきた人生が、百八十度変わってしまうという恐ろしい選択肢だ。

「断る。あなた達は私とイゾルデを利用したいだけじゃない。とりあえず軍から逃げる。そのあとはユルゲンさんとミリーさんをどこかの集落に送り届けて、それからまた別の場所で今までの生活に戻らせてもらうわ」

 魔族の権利を取り戻す為に立ち上がる。それをイゾルデが許してくれるまではの話だが。

「集落が人間のミリーさんを受け入れてくれると思っているのかい?」

「思ってるわよ。言っておくけど、魔族は人間ほど薄情じゃないわ」

 ティーロの緑色の目と、クレールの魔術によって偽られた淡褐色の眼光がぶつかり合う。

 百年間人間に虐げられて生きてきた魔族には、人を憎む者も少なくない。だが、人間だからという理由で一方的に排除しようとするほど頭に血の上りやすい種族でもないのだ。助けられれば感謝するし、人となりを知れば友達にだってなれるだろう。

「魔族であるユルゲンさんが、人間であるミリーさんを認め受け入れたのだと知れば、集落の者達は彼女を追い出したりしませんよ。彼女は魔族を受け入れた友なのですから」

 魔族の隠れ住む集落には、少なからず人間が混ざっていることもある。魔族を守ろうとして人間社会から弾かれてしまった者が流れ着いてくるのだ。

 そういう者でも、魔族は受け入れる。相手に魔族を貶める気持ちがないと知れば、魔族は拒んだりしないのだ。

「では、私も魔族の集落で生活することができるんですか? ユルゲンと離れずに済むんですか?」

「二人にその気があるのなら、集落へは私が責任を持って案内するわ」

「まだ人間社会に未練があるというなら無理にはお勧めしませんが、私達からしてもほとぼりが冷めるまでの時間が欲しいですしね。それくらいならお付き合いしましょう」

「オレからもお願いします。これ以上、ミリーを危険に晒したくはありません」

 とんとん拍子に話がまとまっていく四人の様子に、ノインは眉間を押さえながら小さく呻る。同時に、ティーロも面白くなさそうな表情でクレールを見つめていた。

「さて、私達の動向は決まりましたが、あなた方はどうなさるので?」

 対するイゾルデは挑発的だ。クレールに対する激情は収まっても、彼等に対する怒りは消えない。彼女は生涯、主を巻き込まれた今日この日の恨みを忘れないだろう。

「んー。この町に居座るのが危険なのは百も承知なんだが……」

「かと言って、この町から遠く離れられない理由があるんだよね、僕達には。まあ、町を出るまでは手を組ませてもらうよ」

 組織から命令でも受けているのだろう。彼等はこの町で何かをするつもりのようだ。

 ことさら長居は無用だと顔を見合わせる主従に、ノインが能天気な口調で微笑みかけた。

「ああ、でも、気が変わったらいつでも言ってくれ」

「万に一つ、そういう気分になったらね」

 今のところそうなる予定は欠片もない。取り付く島もない様子に、ノインは肩を落とした。

「当座の問題はどうやって町を出るかだね。城壁は高いし、市門には昼夜問わず兵が駐屯してる。気付かれずに抜けるのは難しいよ」

 この町はまだ人間同士が争っていた時代の軍事的な要所だった。都市の周囲は高い壁に囲われ、出入り口は東西南北に各一つずつ。戦時下でない今は夜中でも通行できるけれど、いずれも兵が目を光らせている場所だ。

「前回ご老人と少年を連れ出した時はどうやったの?」

「白昼堂々強行突破」

「うわ、ずさん。じゃあ、戻ってきた時は?」

「兵の中にうちのスパイがいてな。そいつに頼んで、見張りの連中酔い潰してもらった」

「兵士に仲間がいるのなら、お願いして見逃してもらえないのでしょうか……」

 争いごとには慣れていないのだろう。ミリーにはそれが一番安全な手段に思えたが、他の面々は苦い顔をするばかりだ。

「そう何度も通用する手段とは思えませんね。斥候にあまり余計な仕事をさせるものではありません」

 同じ人間が何度も門番を酔い潰そうものならば、嫌疑がかけられるのは必然だ。短期間の内にそう何度も使える手法ではない。

 最悪の場合、スパイから芋ずる式に彼等の組織が暴かれることになるだろう。

(このご時勢だもの、彼等みたいな思想の持ち主が淘汰されるのは惜しいわ)

「もうすぐ新月だわ。今日の夜空は月も細い。月が雲に隠れるときを狙えば、市壁を飛び越えることも可能なんじゃないかしら」

 幸いこちらは四人も魔族がいるのだから、とクレールが続けると、ノインが首を横に振った。

「悪い。俺は飛べない」

「飛べない? まさか、羽をもがれただなんて言わないわよね?」

 魔族は皆黒い翼を生やしている。

 人に紛れて生活する者は一様に変化の魔術で隠してしまうが、中には魔族狩りに遭って翼をもがれてしまった魔族もいる。

 翼には魔族の生命の源である魔力が蓄えられている為、これを失えば飛ぶことはおろか、魔術を使うことさえ困難になる。だから彼は魔術を使おうとしなかったのかと納得したのも束の間、彼は「まあ、そんなとこ」と不自然と視線を横に逸らした。

 隠し事があるとは感じたけれど、少なくとも飛べないという話は信じられるだろう。

 最初からすべてにおいて信頼できる間柄などではない。こちらに不利益な嘘さえつかなければそれで構わないと、それ以上の追求は止めた。

「クレールさんとイゾルデさんの羽は無事ですよね? お二人とも、ずっと人の姿をしていらっしゃいますが、よく魔力が続くものだ。オレなんて、陽の高い間姿を変えているだけでも精一杯なのに」

 ユルゲンの場合、魔術を使おうと思えば変化の魔術を一度解除する必要があった。複数の魔術を同時に成立させるだけの魔力を持ち合わせていないのだ。

 魔力の量は人それぞれ。クレールやイゾルデには息をするように容易く姿を変えられても、そうでない者もいる。

 こればかりは才能の差だが、より優秀な魔族との婚礼を繰り返した貴族階級の魔族ほど、有する魔力は大きい傾向にあった。

「使いどころなんてほとんどないから有り余ってるの。とりあえず、私もイゾルデもちゃんと飛べるわ。風の魔術で補助すれば、ひと一人抱えて市壁を越えるくらい軽いものよ。ね、イゾルデ」

「それでお別れできるのなら、いくらでも飛んで差し上げますよ。そこの彼が役に立たない所為で、クレールにまで荷物を持たせる羽目になるのが大変心苦しいですが」

「イゾルデって、俺達のこと嫌いだよな」

 最初はイゾルデの一言一言にダメージを受けたり返す言葉もない様子のノインだったが、純然たる悪意による発言の為、真に受けるだけ無駄だとようやく悟ったようだ。

 彼女は今更気付いたのかと言わんばかりに鼻を鳴らす。

「睨まないでくれると嬉しいな。とにかく、これで壁越えの問題も解決だ。あとは夜までこの場所がばれなければ幸いなんだけど」

「ばれてないのに外に飛び出して見つかるのも馬鹿げてるしな」

 その見極めが難しい。クレールにも人間の気配は探れない。町中に魔力動力が溢れ返っているおかげで、軍事兵器に使われた聖輝石の気配を選り分けることも不可能な状態だ。

「ならば私が偵察して参りましょう。面が割れていないのは私だけですから」

「危なくなったら私のことは放っておいて即逃げなさい。もしもの場合にはここから一番近い集落で落ち合いましょう」

「かしこまりました」

 正直彼女一人に任せたくはなかったが、こればかりは抜かりがあると危険なのだ。

 誰かが行かねばならないし、その場にいた者がうろついて跡をつけられても笑い事では済まない。彼女一人に任せておくのが無難なところだ。

 イゾルデを見送ったクレールは、しばらく黙り込んでからおもむろにキッチンを漁り始めた。

「どうしたんだ? 落ち着きをなくすには早いだろ?」

 ノインがからかうと、クレールはトマト片手に振り返る。

「じゃあ、ノインは夕食抜きで」

(あー。この状況で晩御飯作ろうとしてたんだ。タフな子だな)

 一緒になってからかおうとしたティーロも慌てて口を噤む。幸いなことに、彼も乗ろうとしていたことに気付いたのはノインだけだった。

「この残り具合でこの人数分。メインはスープになっちゃうけど、パンはあるし、まあ、飢えはしのげるでしょう」

 そもそも食材が足りないから買出しに出た先でこんな事態になったのだ。食材の調達もままならずに帰ってきてしまった所為で、この家に残された食料は到底人数分には足りていない。

「え、ちょっと待って。俺も腹減ってる! つーか、今絶対ティーロもからかおうとしてたし!」

「僕を巻き添えにしないでよ。あ、手伝うよ。何をしようか?」

 トマトとジャガイモ、少しのソーセージとその他の野菜の残りでも放り込めば立派なスープができるだろう。

 どうせこの部屋も放棄するのだ。異臭の発生源は使ってしまおうと、食材の籠ごとキッチンに運ぶクレールの後ろを、わざとらしくティーロが追った。

「若い子の順応力って強いわね」

「ああ、そうだね」

 魔族にしろ人間にしろ、まだ歳若い彼等の余裕に、ミリーとユルゲンは半ば尊敬めいた感情を抱いて、そのやり取りを眺めていた。


 小一時間もすれば、何事もなくイゾルデが大量の保存食料を買って帰ってきた。

 その頃にはすっかりスープも出来上がっていて、扉を開けた途端に食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。イゾルデは困り顔で眉根を寄せた。

「ただいま戻りました。食事の用意、任せてしまってすみません」

「おかえりイゾルデ。こういうときこそ役割分担でしょう? 大したものは作れなかったけど、出る前に腹ごしらえしておきましょう」

 食器の数の都合上、デザインの違う物をかき集めてスープをよそう。

 椅子も足りていないので各々好きな場所を陣取って食事を摂り終えた頃には、もう日が沈む時間になった。

 赤い夕焼け空を眺めながら、一年住んだこの町での出来事に思いを馳せる。

 職場では姉妹だと思われていた。都合がいいのであえて訂正などしなかったが、周囲から誰かの妹として扱われるのも中々新鮮で楽しい経験だった。

(人間は好きじゃないけど、誰もかれもが嫌いって訳でもないのよね。話してみれば善い人だってたくさんいたし)

 ただ、魔族だとばれてしまえばまた対応は変わってくるだろう。

 嫌悪する者、裏切り者と罵る者、軍に突き出そうとする者。

 予想できる未来の結末は、悪いものだけでも片手の指で足りそうにない。

 魔族の国デンメルクの崩壊から百年。魔族の痛みは治まるどころか増すばかり。

 最早、人間の中に、かつて栄えた平和なデンメルクの風景を知る者など生きてはないない。

(魔王陛下が生きていれば、もう少し争わずに生きられたのかしらね)

「時間だ。行こうぜ」

「ええ、そうね」

 腐っても百数十年は生きてきた身だ。歳をとると、どうにも感慨深くなる。

 もう二度と戻らない可能性の世界を頭の中から叩き出し、隣に立つノインを見上げた。

 六人はそれぞれ肩から鞄を下げて、その中に数日分の食料と水を入れてある。

 ミリーにはイゾルデのケープを貸し顔を隠させた。ユルゲンも市壁に辿り着くまでは翼と髪の色を隠して人間に扮している。

 クレールは、布に包まれた長剣を抱えていた。今時剣を持ち歩く人間などそうはおらず、目立つ物を持ち出すべきではないと理屈では理解していたが、とても大切な品なのでこればかりは譲れなかった。

 家の鍵は施錠してポストに放り込んでおいた。そのうち大家が回収してくれるだろう。  

 男性陣には変装してもらおうにも貸せる服がなかったので、なるべく人通りの少ない道を選んで歩いた。

 空は夕焼けからやがて濃紺へと変わり、月明かりが乏しい分、星の光が一際その存在を主張していた。

 六人で固まったままも目立つかと、女性と男性三人ずつに分かれ、後続の男性陣が視認できる程度の距離を開けて歩いていたが、ミリーは落ち着きなくそわそわ周囲を見回していた。完全に挙動不審だ。

「ねえミリーさん。壁を越える時、誰と飛びたい?」

「え、はい! あの、誰とって?」

 突然話をふられたミリーは、はっとして髪を振り乱さんばかりの勢いで取り乱した。緊張しすぎて声は上ずり気味だ。

「やっぱりユルゲンさんと一緒の方が落ち着くわよね? 夫婦だし」

「それは、はい。ユルゲンと一緒がいいです。駄目なんですか?」

「いいえ。ただ、殿方を抱えて飛ぶのって、女性的には嫌な絵面だなと思っただけ」

 ユルゲンが彼女を抱えて飛ぶとなれば、自分達に残される選択肢はノインかティーロ。

 どちらも決して小柄ではない。背は標準的で痩せ型のティーロと、彼より背も高く、大柄ではないものの筋肉質なノイン。

 魔術で補助すれば一緒に飛ぶくらい朝飯前なのだが、問題は彼等をどう抱えるかだ。

「俵担ぎ、抱っこ、横抱き。おんぶは却下ですね。羽が動かせませんので」

「ここはいっそ、男性にとっても屈辱的な横抱きでどうかしら。姫抱っこよ姫抱っこ」

「お二人とも、そんなこと考えてたんですか」

 くすりと笑みがこぼれる。上手く緊張を解せたようだ。

「本当に、何から何までありがとうございます。私は人間なのに、こんなに良くしてくださって」

「気を抜くのは早いですよ。まだ脱出にも成功していないのですから」

「上手く逃げ切れたら、皆さんには何かお礼しなければいけませんね」

「そんなことを考えてる余裕があるなら、これからの生活について考えなさいな。集落に着いたって、きっと楽には生きられないわよ」

 魔族の集落は基本的に自給自足だ。森や谷間に集まって、人間の交易手段に依存せず生きるにはそれしか方法がないのである。

「大丈夫です。魔族の皆さんにも認めてもらえるように頑張りますから!」

(それだけじゃないんだけどな)

 人と魔族の寿命の差というのは酷なものだ。

 今でこそ外見年齢のつり合った彼女達だが、いずれミリーの方が先に年老いて、夫婦には見えなくなってしまうだろう。そうなっても愛だけで乗り切れるものなのか。

 恋愛感情というものを切り離して生きてきたクレールとイゾルデには、想像さえもつかなかった。

 肩の力が抜けてきたミリーを伴い広い町を歩き続けると、ようやく内外を隔てる市壁に辿り着いた。

 四箇所ある市門のうち、北と西の門の中間地点を目指してきた。

 西には身を隠すのにうってつけの広大な森がある。その森を抜けて街道を二日進み、川に差し掛かったら街道から外れて舗装もされていない道を更に半日進む。辺境の小さな村が見えたら魔族の集落は目前だ。村と隣接した森には、野犬や熊が住んでいて、村人は滅多に寄りつかない。その森の湖のほとりに、二十人ほどの魔族が住む集落がある。ノインとティーロを除いた四人の最終目的地はここだ。

「何とか怪しまれずにここまで来られたね」

「時々兵士の姿が見えて焦ったけどな。酒を飲みに来ただけの、仕事上がりの連中で助かったぜ」

 数分遅れて男性三人が到着した。

 一行は民家の陰に隠れ、細い月が雲に隠れるのを待った。

「雨の匂いがする。せめて森に入るまではもってくれれば嬉しいんだけど」

 日が暮れると同時に、雨雲が近付いてきていることには気付いていた。遠くの空からはごろごろと雷鳴が響いてきている。風向きから察するに、夜中から明け方にかけて雨が降るだろう。魔族の天気予報はよく当たるのだ。

「足跡を消してくれるのはありがたいですが、濡れ鼠にはなりたくありませんね」

「うん。急ごう」

 雲が広がり、月が隠れた。

 辺りを見回して兵士がいないことを確認する。人影はなく、町を出るなら今が好機だと頷き合う。

「行こう、ノイン。しっかり捕まってて」

 ユルゲンがミリーを抱えて飛び上がり、次にクレールが手近にいたノインの手を引いた。

 小柄なクレールと長身のノイン。正面から抱き合う形になると、その身長差から彼の胸板で視界は完全に塞がってしまう。

「大丈夫か? 身長的に、俺はイゾルデに頼んだ方がいいんじゃ?」

「飛べば同じ。落ちたら死ぬから、放さないでね」

 片腕でノインの背中に腕を回し、もう片手で虚空に軽く手招きする。すると、実体のない動物が擦り寄ってくるように大気が揺れた。

 ざわりと風が足元を撫でたかと思うと、間欠泉が吹き上がるような勢いで風が吹き上がる。

 翼など出す必要もなく、二人は一瞬にして市壁の天辺に到達した。

 反射的に叫びそうになるノインは、必死で唇を噛んで耐えている。

 クレールが塀の縁を蹴ってバランスを取り、向こう側に飛び降りた。

 着地の瞬間は下から緩やかに吹き上げる風に出迎えられ、快適なものだった。もっとも、ノインはたった一瞬の飛行に顔を引き攣らせているけれど。

「何これ高いすげえ怖い」

「ノイン。ちょっと面白いものが見られるよ」

 俯くノインの袖を引いて上を向かせる。何事かと顔を上げた彼の目には、大きな翼を広げ、髪の色を生来の水色に戻したイゾルデと、彼女によって横抱きにされたティーロの姿があった。

 イゾルデはわざとゆっくりと降下し、滞空時間を引き延ばす。

 ティーロはこの世の終わりにも等しい気分に突き落とされ、恥ずかしそうに顔を両手で覆っていた。

「本当にやるとは思わなかったわ。男女逆転するだけでこうも笑いを誘うとは」

「ぶはっ。え、何。計画的犯行?」

 面白いものと表現したクレールが眉一つも動いていないのに対し、ノインは笑いを堪えるのに必死だ。

 ノインでさえ、ティーロがあんな醜態を晒すところも、それを許してしまうところも初めて見た。

 地に足が着く前にイゾルデの腕から飛び降りたティーロは、腹を抱えて震える同志の眉間に一切の躊躇なく銃口を突きつける。

「忘れてくれるよね、相棒?」

「忘れてやるから引き金に指をかけないでくれ相棒」

 即座に両手を上げて降参の意志を示す。

 笑い続ければ彼は引き金を引くだろう。表情筋を総動員して顔を引き締めると、ティーロは満足げに頷いた。

 実行犯であるイゾルデに関しては、一応脱出に協力してもらった借りができた所為かお咎めはない。あっても彼女から誠実な謝罪の言葉が出てくるとは到底思えないのだが。

 無意味な緊迫感を醸し出したティーロの隣で、クレールは久々に見たイゾルデの水色の髪を一房手に取り、懐かしそうに撫でている。

 イゾルデもまんざらではなさそうだが、事態が事態なだけに名残惜しそうにその手を両手で取り、撫でるのを止めさせた。

「遊んでいる時間はありませんよ。早く森へ向かいましょう」

 一番遊んでいたのはお前だと全員が目で訴える。しかし、イゾルデはそれらを完全に無視して一人森へ向けて歩き出す。皆が慌ててその後に続き、星も見えぬほど木々の生い茂る森へと足を踏み入れた。


「空がまるで見えねえ。方角こっちで合ってるのか?」

「合ってる。広いから抜けるのに時間がかかってるだけだよ」

「あの、さっきから野犬みたいな唸り声が聞こえてますけど……」

「ああ、平気。あの子達なら襲ってこないわよ。魔族は動物に襲われにくいの」

「懐かれやすいとも言いますね」

「人間より野生的なんでしょうね。オレ達魔族は」

 時間は真夜中の二時。森へ入ってから、休憩を挟みつつも、野営はせずに歩き続けた。

 新月に近い上、頭上も枝葉で覆い尽くされた森の中では月明かりも届かない。

 気温は昼間よりも劇的に下がり、真っ白な吐息が視界をちらつく。

 雨の匂いが徐々に近づいてきていたので、急がなければ降られてしまうだろう。

 一行はクレールの家から持ち出した小さなカンテラ一つで森を進む。

 魔術でなら灯りを用意することも容易いけれど、光源は目に付きやすい。身を隠して逃亡する身ならば、多少の不便は止むを得ない。

「おかしいわね」

 森ももうすぐ抜けるという頃になって、クレールが足を止めた。

「どうかしたの?」

「野犬の声が消えた。森に入ってから、ずっとこっちの様子を覗いていたのに。何かを警戒してるのかも」

「追手かもしれないな。急ごうぜ」

 追われている可能性を考えると、自然と歩調が早まった。

 後方から短い悲鳴が聞こえてクレールが振り返ると、どうやらミリーが木の枝に躓いたようだった。

 油断ならない状況とはいえ、気を急きすぎただろうかと呼吸を整え、頭を冷やす。

 ユルゲンが手を貸して彼女を立ち上がらせていたそのとき、風さえも吹かない無音の森に銃声が鳴り響いた。同時に聞こえてくる野犬の断末魔。

 誰もがはっと息を飲んで、音の出所を探していた。

 こんな町から近い森の中で、こんな夜中に自分達以外の誰かがいるとくれば、その正体など考えるまでもない。

 追手が近付いてきている。

「音が近いですね」

「ったく、こんな夜中にまでお仕事とはご苦労なこった」

ユルゲンがミリーを抱き上げ、一行はカンテラの火を消して走り出した。

 もう、のんびり構えている余裕などない。

 獣道を駆け抜け、木々が途切れた。森が開けて、背の低い草花が敷き詰められた草原に出る。はずだった。

 カッと音がなって、視界が眩い黄色のライトに覆いつくされる。

 片腕で顔を覆い、目が慣れるのを待つ。どういう事態かなど説明されるまでもなく、状況は把握できていた。

 光に慣れるよりも早く、涙の滲む目を無理して開けた。

 ライトは軍用車の上に取り付けられていて、こちらを照らし続けている。ライトを積んだ軍用車は五台。森と草原の境に立つ皆を取り囲むように、半円状に配置して行く手を塞いでいる。

 背後からは足音が近付いてきていた。前方と後方を囲まれた。どうやら、こちらの同行など見抜かれていたらしい。

「おいおいおい、勘弁してくれよ」

「進路も退路も絶たれましたね。一戦交えるしかなさそうです」

「僕等だけならまだしも、だったんだけどね」

 なるべく身を寄せて軍の出方を見る。

 車の前には、武装した兵士がずらりと並んでいた。

 代表するように一人が前へ歩み出ると同時に、ライトの光が弱まった。

『君達は完全に包囲した。抵抗は無駄だ。大人しく投降しろ』

 拡声器から感情を伴わない声が響く。

 歩み出てきた男は三十代半ばで、他の兵士とは少し違うデザインの軍服を纏っていた。厳格そうに吊りあがった眉と低い声音。あれが指揮官なのだろう。

 ノインとティーロが前に、クレールとイゾルデが後ろに回り、戦力としては頼りない夫妻を庇う。

『抵抗しないならば命まで取りはしない。大人しくしろ』

「魔族狩りで、ただ魔族を捕らえるだけだなんておかしな話だわ」

「仮に殺されなかったとしても、その先にあるのは何なのでしょうね」

「軍の考えることなんざ、何十年も前から変わらない。碌でもないことを画策して、弱者を食い物にするばかりだ」

 ずらりと並ぶ兵士の銃火器装備に対し、こちらは大半が刃物。唯一ティーロだけが銃を携帯しているけれど、彼が敵を打ちぬく前にこちらが蜂の巣になるだろう。

「お、オレ達を置いて逃げてください。あなた方だけなら、きっと逃げられる」

「そうです。私、ユルゲンと一緒なら、捕まったって……」

 前後を守られたユルゲン達が諦めの色を見せた。

 確かに彼等は争いごとに慣れていない。足手纏いなのは事実だ。しかし、彼等が大人しく投降したところで、軍は残りの魔族を見逃したりはしないだろう。

「捕まって、本当に命の保障があるとでも? 止めておきなよ。連中の狙いが魔族なら、そうでないミリーさんは用なしで処分されるのがオチだからさ」

「大人しく捕まってやったところで、どーせ一緒にはいられないぜ」

 今にも飛び出していきそうな夫婦の襟首を掴んで制止する。対して、軍はこちらに動きが見えないことに苛立ちを見せていた。

『繰り返す。大人しく投降しろ。投降の意思を見せない場合、実力行使に移行する。これが最後のチャンスだ』

 がちゃりと銃が音を立て、一斉に照準がこちらに向く。しかし、ノインとティーロは警戒しながらも「連中は俺達を殺さない」と呟いた。

 反政府組織に属し、一度は町を出たのに舞い戻ってきた彼等。きっと、彼等だけが掴んでいる情報でもあるのだろう。

 クレールは剣を覆う布を取り払う。白金で装飾された深紅の鞘に収まる、一振りの剣が姿を現した。

「その情報、信じていいのね」

「少なくとも、君に関しては確実に。連中が欲しいのは強い魔力を宿した魔族だ。君はその才を申し分なく奴等に見せつけてるからな」

「喜ぶべきか悲しむべきか、複雑なところだわ」

「クレールは私が守ります。たとえこの命に代えても、です」

「命は要らない。自分の命はちゃんと自分の為に使いなさい」

 自分の為に命を懸けてくれる従者がいる。その事実にクレールは欠片も喜びなど感じなかった。

 ただ生きていて欲しい。その願いを果たす為には、自分は彼女のことも守らなければならないのだと前を見据える。

『投降の意志はなし。これより、強制連行する。かかれ!』

 ノインの言うとおり、兵士達は構えた銃を乱射してくることはなかった。しかし、半数の兵士は既に銃の先に着剣した状態で、こちらに突撃をしかけてくる。

「道を開くわ!」

「そうはさせん!」

 魔術によって炎を呼び起こそうとした刹那、一人の兵士が低い姿勢で飛び込んできた。

 ノインとティーロの間をすり抜け、真っ直ぐにミリーへと切りかかる。素早く身を返し、真っ先に二人の間に滑り込んだのはクレールだ。

 鞘から抜き放たれた異色の刃が、鉄よりも重く暗い黒に輝く。

 かつてデンメルクで特殊な魔術を練り込み鍛えられたその剣は、魔力を注ぎ込むことでいくらでも硬く、いくらでも重くなる特別な代物だ。

 反射的に受け止めたのは、兵士達の装備する銃剣ではなく、一振りの白刃だった。

「お前さえ抑えれば、あとは取るに足りん」

「私が庇うこと前提で突っ込んできたわね。指揮官のすることじゃないわ」

 振り下ろした剣と剣がぶつかり合う。

 突撃してきたのは指揮官の男だ。

 司令塔が前線に出るなど、武器の多様化した昨今の人間が使う戦術ではない。

 司令塔が落ちれば隊は総崩れだというのに、この男はまるでその可能性を懸念していない。絶対的な自信を持って先陣を切ったのだ。

(このご時勢に正々堂々剣で挑んでくるなんて、馬鹿正直にも程があるわ!)

 マニュアルを無視した単騎特攻。しかし、この戦い方は相手が魔術に長けた魔族にこそ有効な戦法だった。

 下手に距離を取って狙撃されるより、魔術を使う暇もなく切りかかられる方が余程厄介だ。唯一の救いは、それだけの実力を持つ人間が指揮官一人しか居合わせなかったことである。

 一撃一撃に腕が痺れていくほどの重圧を感じた。魔術を放つ余裕もなく、突撃してくる兵士と、足元を狙った援護射撃。

 誰もが自分の身を守るのに精一杯で、誰かを守る余裕などない。

 クレールの額には汗が滲み、苛立たしげに舌打ちした。

「抵抗するな。命は保証してやると言っている」

 力いっぱい上段から剣を振り下ろしている人間の台詞ではない。

「人間の言うことなんて信じないわ。魔族を騙し、我等が王と国を奪った英雄気取りの詐欺師を妄信するあんた達なんて!」

 振り下ろされた剣をさばく。指揮官の男に一瞬の隙ができて、しかしこちらの刃を切り返すのも間に合わない。

クレールは剣を薙いだ遠心力を利用し、腹に蹴りをお見舞いした。

 指揮官がよろけたのを見逃さず、クレールは数歩後方に跳んで距離を取った。側面からノインに向けて銃剣を振り下ろそうとしていた兵士を切り伏せ、彼と背中合わせになる。

「助かった。でもって、チェンジな」

「――任せたわ」

 更に襲い掛かってくる敵兵に、上空から氷の刃が降り注いだ。

 木々を障害物にして身を隠しながら、イゾルデが反撃を始めていた。

 クレールばかりを狙う指揮官に、ノインがナイフで切りかかる。

 何を言うまでもなく、イゾルデはクレールを守るように槍を降らせ続けた。

「人間の思い通りになんてさせないわ」

 二人の援護を受けて、クレールの剣が炎を纏う。

 軍用車に向けて一振りすれば、導火線のように火花が迫り、到達すれば爆音を立てて車が爆ぜた。

 爆発に巻き込まれて隣の車が一台誘爆し、その爆発に紛れてまた誘爆を繰り返す。

 吹き飛んだ鉄の扉が兵士の一人に直撃し、骨の砕ける音が響く。弾丸のように飛び散った破片が、容赦なく草原側の兵士達に突き刺さった。

 痛みに悶絶する仲間の姿に、後方を囲んでいた兵士達が怯えたじろぐ。

「走って!」

 クレールの声を合図に、混乱に乗じて森を飛び出す。

「こっちだ!」

 後方から追ってくる者達との間に炎の壁を出現させて足を止める。

 ティーロが爆発から逃れた軽貨物自動車を一台強奪し、兵士を二人ほど跳ね飛ばしなら一行の目の前に停車した。

 夫妻を先に行かせ、ノインの手を借りて荷台に押し込む。二人を押し込み、次いでノインが荷台に飛び込んだ。

 再びエンジンをふかし、規則的な振動が車体を揺らす。クレールとイゾルデの乗車を待たず、車が徐行を始めた。

 左右の壁際からノインとユルゲンが手を伸ばし、二人の腕を掴み引っ張り上げた。

「しっかり掴まってください!」

「ふんばれよ!」

 荷台の縁に足を掛け、何とかクレールが乗り込んだその瞬間、イゾルデの目に銃口を向ける兵士の姿が映った。

 憎しみに満ちた瞳は真っ直ぐにクレールを捉え、その銃口もまた、寸分違わず彼女へと向いている。

「クレール!」

 未だ片足を縁に掛けただけのイゾルデが、クレールを突き飛ばす。

 クレールの身体は車体の床に叩きつけられ、本人には何が起きたのかまるで理解が追いついていなかった。

 彼女を突き飛ばす為に腕を伸ばしたイゾルデは、胴体で弾丸を受け止めてしまいその衝撃に目を見開く。

 すぐに力が入らなくなり、無理な姿勢で上体を維持していた彼女の腕は、ユルゲンの手から滑り落ちた。

 遠ざかっていくイゾルデの姿。剥き出しの地面に横たわる彼女の腹から流れ出る赤い液体が、炎に照らされてはっきりと目に焼きつく。

「イゾルデ?」

 スローモーションのように映るその光景を、クレールは呆然と眺めていた。

 まるで他人事のようなその光景の中心にいるのが自身の従者であると気付いたそのとき、彼女は我に帰って荷台から飛び出そうと縁に手をかける。

「イゾルデ!」

「戻るなクレール!」

 車は速度を上げ、どんどんイゾルデから遠ざかっていく。尚も飛び出そうとするクレールをノインが必死で取り押さえた。

「放してよ、イゾルデがっ――」

 どうして止められるのか、混乱したクレールにはさっぱりわからなかった。

 今助けに行かなければ軍に捕らえられてしまう。どこに連れて行かれるかも定かでない。何をされるかもわからない。けれど、彼女の姿はまだこの目に映っている。

 まだ間に合うかもしれないのに。それなのに、何故助けに行ってはいけないのか、と。

「イゾルデはお前を無事逃がす為に撃たれたんだろうが! 彼女の覚悟を無駄にするつもりか!」 

「でも、でもっ」

「でもじゃない! 大丈夫、まだ可能性はある。奴等はイゾルデを殺さない。だから今は逃げるんだ」

 耳元で囁かれているはずのノインの声が遠く聞こえた。手を伸ばしても伸ばしても、イゾルデとの距離は遠のくばかりで、ついにその姿は見えなくなった。

 後方から追ってくるエンジン音。その音を振り切ろうと、ティーロはアクセルを踏み込んだ。

 頭に上った血を押し流すかのように涙が溢れ出た。

今、自分の目から流れているものは血なのではないかと錯覚を起こすほどに頬が熱い。けれど、拭ってみると、やはり涙は透明だった。

 クレールが抵抗を止めても、後ろから回されたノインの腕が放れることはない。

 彼の脚の間でただ膝を抱えて泣くことしかできなかった。

 ノインは何も言わず、泣き止むまでただじっと待ってくれた。

 凍えるほどの寒空の下、ただ、彼の胸が温かかった。

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