一章
一章
極寒を呼ぶ冬将軍が去り、北に連なる山脈でも雪が溶け始めた。
平地では一足早く春の草花が芽吹き、おもちゃのような概観をした木組みの色鮮やかな家屋はより華やかに色付いている。
穏やかな春の訪れに子供達が浮かれる一方、ここ数ヶ月の間、町行く大人達の表情は、変わらず険しいものがあった。
「また魔族の集落が見つかったんですって」
「今回のはちゃんと軍が討伐してくれたようだな。よかった」
木組みの家屋が軒並み並び、その中心を石畳が走る。街中の大半は似たような光景が広がっている。
そんな町の商店街や庭先での井戸端会議で上がる話題は、もっぱら魔族の集落の存在についてだった。
百年前に時の勇者がこの人間の国、ゼーゲンを築く前の話。この国土には人間と似て、しかし非なる魔族という種族が住み着いていた。
人間に仇なす魔族を統べる魔王が打ち倒されて以降、魔族はその国土を奪われ、人に狩られながら着実に数を減らし、他国へと追いやられていった。しかしゼーゲンの軍に追われ、他国に逃げ遂せることさえ叶わなかった魔族も少なくない。そういう者達はせめて人目につくまいと、森や谷、人目につかない僻地を選びながら細々と生き延びている。
昨今のゼーゲン軍は、闘争心も力も持ち合わせない無力な魔族でさえ探し出し、討伐という名の虐殺を繰り返しているという専らの噂なのだが、これを悪とする人間などいやしない。
「新聞はいかがですかー」
薄汚れた身なりの少年が、ゴミ箱の横で皺を伸ばした拾い物の新聞を売っていた。
コインを一枚差し出すと、少年はお礼を言って次なる新聞と客を求め駆け足で立ち去る。 その新聞を買ったのは二人組みの女性だった。
二人共が栗色の髪をしていて、一人は少女、一人は女性と呼べる年頃だ。
少女の年の頃は十代半ば。身長は百六十センチあるかないかといったところで、同じ年頃の少女と比較すると少々小柄だ。
気性を象徴した鋭い目。紅を塗らずとも発色する赤い唇。一点のくすみもない白い肌。くせのない、腰までとどく真っ直ぐな髪。すらりとした四肢。
誰の目にも美少女として認識されるであろう彼女は、どこぞの令嬢として紹介されても違和感のないほどの凜とした気品を兼ね備えていた。
対して女性は二十代前半。身長は少女よりも十センチほど高い。
垂れ目気味で穏やかそうな双眸。豊満な胸元と引き締まった腰つきが、道行く男の視線を一瞬奪う。
ゆるくくせのついた髪を複雑に編みこみながら結い上げ、控えめ且つ上品なその装いは、絵に描いた淑女そのものであった。
「また魔族狩り。この国のお偉方は何年経っても野蛮な連中ばかりだわ」
「クレール、口を謹んでください。人に聞かれたらどうするんですか」
少女は顔にありありと不満の色を映しながら新聞と睨めっこする。そんな彼女を、女性は辺りを見回しながらたしなめた。
一見すると姉妹にも見えるその二人の関係性は、傍目とはまるで違っていた。
どちらも装いこそ平民のそれだが、その実女性は少女の付き人だ。
広場のベンチで新聞を広げる女性など、この町ではそう多くない。けれども二人――厳密にいえばクレールと呼ばれた少女はお構いなしで、広場のベンチを一つ陣取り新聞を広げる。
「もう、はしたないですよ。クレール」
「イゾルデはお堅いのよ。女が広場で新聞を読んじゃいけないなんて法律はないわ」
イゾルデと呼ばれた女性が「またか」と肩を落とす。そんなことだから、ご近所さんから嫁の貰い手がなくなるぞとからかわれるのだ。
もっとも、クレールにもイゾルデにも、端からその気などないのだけれど。
「今度はどこの集落が襲われたので?」
「東の国境辺り。ツヴィンガーっていう町の北側の森にあった集落よ」
新聞を大きく広げ、覆い隠されたクレールの表情は、怒りに打ち震えていた。
無意識に力が入り、新聞がぐしゃりと音を立てる。イゾルデは目を細めてクレールの手をとった。
「この一年、軍の猛攻には目をみはりますね」
「このままで良いはずがない」
「どうする力もないということをご理解下さい。ここであなたが命を投げ出すことなど、誰も望んではおりませんわ」
他者の耳には届かないよう、二人は互いにだけ聞こえるように囁き合う。
魔族は悪者なんかじゃない。根絶やしにされるような悪事を働く蛮族ではない。本当は叫びだしたいだけの激情も、今は押し殺すより他にない。
クレールは無言で新聞を読み進め、ぐしゃりと握りつぶして少年がいた広場脇のくずかごに放り込む。
「油を売ってごめんね、イゾルデ。そろそろ買い物を済まさないと、帰りが遅くなってしまうわ」
立ち上がったクレールに、イゾルデは黙って随行した。
魔族という種族は、優秀であればあるほど魔術に長けている。中でも、自身の姿を変える術は生まれついて使い方を心得ているくらいだ。
魔族と人の外見的な違いは、背中の羽と人間とは違った色鮮やかな髪と目の色。それさえ隠してしまえば、少なくとも人間側から見分ける術はない。
クレールとイゾルデもまた、外見を魔術で変えて人の世に紛れる魔族の生き残りだった。
人間の十倍近い寿命を生きる彼女達は、魔王崩御からの一世紀を人間のふりをして生きてきた。
各地を転々とし、ときには名前さえ変えて。
おかげで、自分の本当の姿を忘れそうになることもしばしばある。
今の二人はこの町でも比較的大きな仕立て屋で、針子として働いている。仕立て屋の店主や女将には、気の強い妹と面倒見の良い姉として認識されており、現状魔族とばれている様子はない。
久々に二人一緒に休暇をもらえたので買い物に出てみたが、朝から新聞の記事は気が重くなるものばかりだ。
クレールの気分転換にと外へ誘い出してみたイゾルデだったが、これは失敗だったかもしれない。彼女は妹に扮する主の背後で小さくため息をついた。
「最近は見回りの兵士も増えたよね。前は巡回はしても、路地の物陰で往来を監視するような人員の浪費はしなかったのに」
歩みの重いイゾルデを振り返り、クレールが言った。イソルデは彼女に言われて初めてそこかしこに息を潜める訓練を受けた兵士の存在に気がついた。
商店の裏口に積み上げられた荷物の陰、家屋の屋上、一見すると市民と世間話に興じている気さくな兵士でさえも、会話の合間合間に何かを探すように視線を彷徨わせている。
「驚いた、全然気がつきませんでした。でも、あまり気にしてはいけませんよ。私達には、疚しいことなど何もないのですから」
何もないということにしておかなければ、もれなく軍に連行されるかその場で処刑されてしまう。
だからこそ、魔族ではないのかと嫌疑をかけられないように、堂々と隠れることなく生活しようと二人で決めたのだから。
「わかってるわ。ただ、最近魔族狩りが激しくなってるな、って思っただけ。あの張り込みが、ただの罪人の捕り物だと嬉しいのだけれど」
二人の歩く道の先々では、壁や塀に等間隔で張り紙がしてあった。
張り紙の内容は手配書で、対象は個人ではなく魔族という種族そのものだ。
魔族を直接捕らえるか、軍にその居所について有力な情報を提供すれば懸賞金が出るというもので、貧しい田舎町ほど隣人を魔族に仕立て上げて軍に売り渡すという蛮行が横行しているらしい。もっとも、それらの大半は勘違いで、隣人を売った住人達は厳重注意を受けているのだそうだが。
「そうですね。この町に、魔族などいないといいですね。――さあ、休みの日こそ時間はあっという間に過ぎていくものです。のんびりしている時間はありませんよ」
これ以上思い悩むのは止めて欲しい。そんな願いを込めて微笑んだイゾルデは、クレールの手を引き大通りへ向かい歩き出した。
たった一日の休暇などあっという間に過ぎてしまう。共に過ごす者がいるなら尚更だ。
買い物を終え、喫茶店で一休みすれば、もう日が傾き帰るにはいい頃合になっていた。
喫茶店に入った時間が中途半端に遅かった為、二人は夕飯をどうするべきかと飲食店街の脇で顔を見合わせる。
「この時間にケーキ二つは冒険だったわね」
「だから夕飯が入らなくなると忠告しましたのに」
「イゾルデだって食べてたわ」
「――だって、久しぶりだったんですもの」
イゾルデが顔を赤らめながらそっぽを向いた。
ふとその視線の先で、兵士達が何者かに怒声を浴びせながら取り囲みにかかっているのが見えた。場所は広場だった。赤と白のレンガが波紋のように円を描いただけの簡素な広場。中央にはこじんまりとした花壇があって、それを囲むように四つのベンチが並んでいる。三つほど屋台が出ていて、そのうちの一つが騒動の発端らしい。ホットワインの屋台だった。
喧騒はあっという間に野次馬を呼び、近所の飲食店からも外を覗きに顔を出す客や従業員が多発した。
「朝の捕り物、捕まったんでしょうか?」
「あれは……捕り物は捕り物でも、対象は罪人なんかじゃないわね」
人だかりの中央で何が起こっているのか、二人の目にはまるで映らない。しかし、クレールは取り囲まれているのが罪人ではないことを感じ取っていた。
彼女の様子から、イゾルデが事態を察する。
イゾルデは殺意さえ滲ませた眼光を湛えるクレールの腕を瞬時に掴んだ。そうでもしなければ、今すぐにでも飛び出していきそうに見えたのだ。
「関わらないでください」
返ってくるのは沈黙ばかり。いつもの歯切れの良い彼女はいない。
「クレール!」
声を荒げると、クレールは初めて声をかけられたように肩を揺らした。
「――あそこにいるの、魔族だよ」
魔族の多くには、魔族と人間を見分ける能力が備わっている。
魔術を操る魔族には、その肉体に魔力が宿っているかどうかが見えているのだ。
クレールに関しては目視できる距離にいなくても、魔力特有の波長、特徴のようなものを感知する能力が備わっていた。
彼女に言われ、イゾルデが自身の勘を最大限に働かせる。
クレールのように容易に感じ取ることはできなかったが、確かにあの人だかりの中心には魔力を宿した存在が二つ感知できた。
「わかっています。あなたに言われてからですが、確かに魔力を感じました」
横行する魔族狩り。その魔の手は、着実にこの町にまで及んでいた。
そう大きな町ではないけれど、東西に物資を搬送する商人が行き交う人の多い町だ。
人の出入りが激しい分、魔族が一時的に身を隠し、そして去って行くには都合のよい町だった。
二人は一年ほどこの町で暮らした。その生活の中で、何度か同胞の気配を感じたことがあったが、この二ヶ月ほどはさっぱり音沙汰なしだった。だから、てっきり今この町にいる魔族は自分達くらいのものかと思っていたのに、どうやら勘は外れていたらしい。
「同胞も救えない私に、存在する価値があるの?」
クレールは魔族を救うことに人一倍拘っていた。魔族の目からも病的に見えるほどに。
誰かを救うことでしか自身の存在価値が見出せない。そうとも取れる彼女の言葉に一抹の不安を覚えつつ、イゾルデは何とか主の説得にかかる。
「クレールはまだ若く経験も浅い。今先走って命を落とすようなことがあれば、それこそ魔族はお終いです」
先の為に、今は見捨てろ。それでいつか大勢の魔族が救われるのだから、少数の犠牲など安いものだと。イゾルデはそう言っているのかと、クレールは奥歯を噛み締めた。
自分の為に言ってくれているのは知っている。
この光景だって、数十年前までよく見たものだった。
何度となく命を落としていく同胞を見殺しにしてやり過ごしてきた。
もう慣れたはずだった。慣れていると言い聞かせて生きてきた。しかし、何度見ても心は殺しきれず、心臓が掴まれたように胸が苦しくなる。
理屈に納得を伴わせるのは、やはり難解なことだった。
自分が弱いから守れない。弱い自分が感情任せに飛び出せば、従者であるイゾルデまで巻き添えにしてしまう。そう理解していたから今までは耐えられた。
けれど、今の自分はどうだろう。魔族として既に成人は迎えた。
魔術の腕も既にイゾルデを越えている。
たった二人だ。たった二人救い出すくらい、今の自分になら出来るはず。
「先走ってなんてない。援軍が来る前に助け出さなければ、もう機会は訪れないと判断できる程度には落ち着いているつもりよ」
飛び出しかけたクレールは、しかし止められるまでもなくたたらを踏んだ。
背後に佇む三階建ての酒場。クレールは、その屋根の上を一つの魔力が駆け抜けて行ったのを感じ取った。
その魔力は迷いなく屋根から飛び降り、人だかりに突っ込んだ。まだそんな気概のある魔族がいたことに喜んだ半面、あの魔族も相当な馬鹿だと自分のことを棚に上げる。
「今のは……」
「魔族、だね。隠れるよ、こっち!」
途端に血の上った頭が冴える。
魔族は魔族を見分けられる。ここで同胞として共闘を求められれば、どんどん増える魔族に軍が更なる援軍を寄越してくるのは必至。クレールは今の魔族が鈍い目の持ち主であることを祈りつつ路地の物陰へと身を躍らせた。
いくら魔術が使えるといえど、複数の兵士と数十人にもなる野次馬すべての目を掻い潜って逃亡するのは容易ではない。多種多様な魔術に秀でるクレールでこそやりようはあったが、今の人影がどう出るつもりでいるのかは皆目見当がつかなかった。
ただ、余計な目があちらを向いている今ならば、その死角を縫って助け舟を出してやるくらいはできるはず。
渦中に飛び込んで欲しくなくないのなら、せめてこれくらいは許して頂戴。と、暗黙の内に目を合わせると、イゾルデは渋々ながらも頷いて、路地の物陰に飛び込んだ。
「視界が悪い」
当然だ。人の壁ができあがり、小柄なクレールには向こう側の様子などまるで窺えない。
敵が何人いるかもわからないままに野次馬ごと吹き飛ばしたのでは野蛮とそしる人間と同列だ。
クレールは小さく舌打ちしてから路地の左右に立つ三角屋根の建物の屋上を見上げた。
「屋根に上るのですか?」
「見られてなきゃ平気よ。ぼんやりしている間にあのお馬鹿さんまで要救助者になっちゃったんじゃ、さすがに手の打ちようがないわ」
足元に冷やりとした風が吹きぬける。かと思うと、その風は空へ向かって突き上がった。
二人はその風に乗って、瞬く間に屋根へと飛び上がる。
目撃者がいないかと屋根の上から下を覗き込んでみたが、誰一人としてこちらを見やる者はいない。無事人目につかず済んだようだ。
傾いた日の翳りが、うまく二人の姿を隠してくれていた。
「兵士は全部で十人、野次馬は――数えるのも面倒ね」
「魔族は二人。たった二人を追い込むだけに、随分と大掛かりですね。まあ、兵士の半数は野次馬を追い払うので手一杯のようですが」
この時間帯になると、酒の入った野次馬も増える。そうなると、感情に任せて人だかりに突入し、自分の手で魔族を裁いてやろうという傍迷惑な正義感を振りかざす人間も現れるのだ。それに釣られて我先にと断罪を叫ぶ集団心理が働くと、兵士はそちらの鎮圧に人手を取られて対処が遅れる。二人としては好都合だ。
兵士に囲まれていたのは、人間に扮した魔族の老人と。その孫くらいの年の少年。
二人を守るように現れた闖入者は、人間がよく使う閃光弾を自分の目の前で起動させた。
腐っても閃光弾。いくら距離があるといっても、肉眼にはやはり辛いものがある。
一瞬顔ごと目を逸らしてやり過ごすが、クレールは闖入者の魔族らしからぬ手際の悪さにもどかしい思いをしていた。
「あんな物使って、ご老人と少年まで身動き取れなくなっちゃったらどうするのよ」
あまりにも無謀な強行だ。
魔族とて幼い内は上手く魔術が使えないし、老いれば魔力も弱まる。だから老人と少年が兵士に反抗できないのは仕方がないことだとわかるが、闖入者は背の高い黒髪の青年だった。人間の年齢だと二十歳くらいだろう。この年頃ならば、いくら才がなくとも多少なりとも魔術を使えるはずだし、ましてやクレールの目に映った彼は結構な魔力をその身に宿していた。
「どうして魔術を使わないのでしょうか」
「魔力だけはイゾルデ並みにありそうなんだけどね。何か事情でもあるんじゃない?」
事情を聞いてみたい気もするが、イゾルデがいい顔をしないだろう。
クレールはこれ以上彼等について考えることを止めた。今考えるべきは、同胞を逃がすことだけだ。
大きく深呼吸すると、ざわりと大気が流動を止めた。まるでクレールからの命令を待つように、吹き抜ける風が息を殺す。
クレールの伸ばした右手の指先に、煌々と輝く火の球が宿った。
彼女が指先をくるくると回すと、火は急速に巨大化し、蛇のように細長く伸びて二人を囲い込んだ。
「逃げるチャンスは一度だけ。上手く利用して二人を連れ出してよね、お馬鹿さん」
ぱちん、と指を鳴らすと、炎の蛇は二匹に分かれ、得物を見定めた獣の如く特攻した。
蛇は兵士と閃光弾に驚いて腰を抜かした野次馬数名を巻き込みながら、直線上に存在するすべての人間を薙ぎ払う。
老人と少年、そして青年を挟み、炎の轍が駆け抜けた。
炎の壁に阻まれて、彼等には東西に分断された兵士達の顔は見えていないだろう。
クレールとイゾルデ以外は一人残らず呆気に取られていた。
巻き添えを喰らった野次馬が、服に引火したことに気付き数秒遅れの悲鳴を上げた。その声を合図に、世界が時の針を刻むことを思い出す。
真っ先に動いたのは、幸運にも二人の魔族を救出に飛び込んだ青年だった。決して大柄ではない身体で老人を肩に担ぎ、片手で少年の手を引いて走り出す。
炎の轍を飛び越えて逃亡する彼等を、難を逃れた兵士が追う。咄嗟に発砲した兵士の銃弾が、青年の脇腹を捉えた。
彼は僅かによろめきながら、しかし足を止めることはない。
周囲では商店で見物を決め込んでいた面々が現実に引き戻されていた。炎に包まれた兵士や野次馬を救おうと、水桶を持って駆け回る。
「ちゃんと風圧で吹っ飛ばしてから一瞬遅れで炎を走らせるように調節したのよ。ちょっと服に燃え移ったくらいで、人間は大袈裟ねえ」
「いえ、人間でなくとも人体に燃え移れば慌てますよ。一歩間違えば火達磨ですから」
イゾルデの指差す先では、一人の兵士が下半身を燃やしながらのた打ち回っていた。野次馬が上着で火の粉を払い、酒場の従業員が数人がかりで樽ごと水を抱えて駆けつける。
この調子だと、騒ぎこそ大きくなってしまったが、死人は出さずに済みそうだ。
「軍の警戒が強まる前に離れるわよ」
「気は済みましたか?」
「んー、最後にもう一つだけ、我が侭を言わせてくれないかしら?」
青年が走りぬけた方角で、何度となく銃声が轟く。これで蜂の巣にでもされた日には折角の援護が水の泡だ。
クレールは肩を落としながら苦い顔のイゾルデに向き直った。
「――お供いたします」
たっぷり十秒迷ってから、イゾルデは渋々と頷いた。
いくら魔力を感知する能力があると言っても、遠くにいる者の気配を追うのは骨が折れるものだ。
今感じている魔力の波長が途切れてしまう前にと、二人は家屋の屋根を飛び越えながら青年達を追った。
途中に負傷した兵士を見かけることもあったが、彼等の様子から察するに、まだ青年達を捕らえられていないらしい。
クレールの後ろを走るイゾルデには、とうに青年達の気配など途切れて見失ってしまっている。
今は主の才能に頼るばかりなのだが、本音を言うなれば、このまま見失って欲しいと願っていた。
「彼等はまだ移動を続けているのですか?」
「いえ、大分距離が近付いてる。多分建物の中。上手く逃げ遂せて潜伏したんだと思う」
時間にすると十分ほどのことだが、青年は負傷している。これ以上の長期戦になっていれば捕まるのも時間の問題だっただろう。
逃げ込んだ場所は旧市街地。鮮やかさが目立つ木組みの家屋が建ち並ぶ新市街地と違って、こちらは古い石造りの建物が多く見受けられる。
この辺りには貧しい人間が無数に住み着いており、治安も悪い。軍にも協力的ではなく、人間だろうが魔族だろうが、彼等は金を落としてくれる相手に味方する。
隠れ場所としてはうってつけというわけだ。
勾配の多い旧市街地では、屋根の上を歩けばかえって目立つ。適当な路地で屋根から下り、何百年か前の人間同士の戦争の為に作った迷路のような道を進む。
道の両脇に座り込む痩せ細った少年少女や老人達の視線を無視して、ひたすら青年達の魔力を辿る。
大昔に敵兵の侵入を想定して作られた結果、通りの構造は入り組んでいる。
直線上に進んだ二人は行き止まりに辟易しながらも、何とか三人の魔力を感じる建物の前にまで辿り着いた。
この間、イゾルデは二度ほど帰宅を促したが、クレールは頑として頷かなかった。
「クレールは私の後ろに」
「私が言い出したことだよ。私が前を歩く」
「譲れません。後ろについてくださらないなら引き摺ってでも連れて帰ります」
ここで譲っては自分が従者を務める意味がない。
立場が逆転して頑なに譲らないイゾルデに、今度はクレールが折れる番だった。
「わかった。前をお願い」
玄関は施錠されていたので、家の持ち主には申し訳ないが鍵を破壊させてもらった。
中に入ってみると、木製の廊下の上には埃が積もり、数名分の足跡が残されていたので、この建物は元々無人だったことが見てとれた。
変なところで几帳面な節のあるクレールは、ここが彼等の家でなかったことにほっと胸を撫で下ろす。
「あの青年には、他にも仲間がいるのでしょうか」
「どうして? 魔力は三人分しか感じないわよ」
足跡は階段を上って二階へ続いていた。前を歩くイゾルデが呟くと、クレールは小首を傾げた。
「魔力は三人分かもしれませんが、足跡が四つあります」
老人を下ろして自力で歩いてもらったとしても三人だ。こんなに重なった足跡から人数を見極められるものだろうかとも考えたが、思い返してみるとイゾルデは昔から人間の痕跡に敏感だった。
「――まさか、偵察兵が先に追いついてるなんてことないわよね?」
「身の安全優先で行きましょう。ああ、あの部屋に入っていったようですよ」
足跡は二階の突き当たり右側の部屋に続いていた。
扉はやはり閉ざされていて、中からは話し声が聞こえている。
「開けますよ。くれぐれもお気をつけを」
「イゾルデもね」
二人はスカートの下、太腿にベルトで巻きつけたナイフホルダーから短刀を引き抜く。
イゾルデがドアノブを回した。
ゆっくり開けた方が相手に迎撃の準備時間を与えてしまうと判断し、彼女は扉を強く蹴り空ける。
正面に寝かされた血塗れの青年と、それに付き添う老人と孫の姿を見つけるよりも早く、側面から拳銃の銃口が突き出した。
イゾルデがその銃口に反応する前に、クレールが彼女と扉の枠の間をすり抜けて部屋へ飛び込む。短剣をぶつけ、その照準をイゾルデから逸らすのに一秒とかからなかった。
銃口を突き出していたのは、最初はいなかったはずの、魔力を持たない人間だった。
歳はまだ若い。二十歳くらいだろう。中性的な顔つきをしているけれど、銃を握る大きく骨ばった手が彼が男性なのだと教えてくれる。
イゾルデの言うとおり、ここには四人目がいたのだ。
人間の青年が更に反撃しようと銃を握り直して大きく一歩後ろに跳び退った瞬間、老人が慌てた様子で口を開いた。
「待ってくれ! そのお嬢さん方は魔族だ!」
よろめきながらも立ち上がり、彼と二人の間を隔てるように立ちはだかる。
人間の青年はきょとんとした顔をした後、老人と二人を交互に見据えた。
「ご老人、それは本当?」
「本当だとも! ワシら魔族は同胞を見間違えたりせん!」
自分達が救出した老人の言葉に、ようやく銃口が下を向いた。
「そうなんだ。敵じゃないなら結構。でも、魔族のお嬢さん方がここに何か用事でも? 扉を蹴り開けてくるから敵襲と勘違いしちゃったじゃないか」
「一人紛れ込んだ人間が、敵か味方か掴みあぐねていたものでね。ここに来たのは、そうね。まあ、用事と言えば用事になるのかしら」
警戒は解けず、お互い得物は握ったままだ。そんな両者を老人がはらはらとした様子で見守っている。
話しながら、クレールは血塗れの青年を短剣の先端で指し示した。
「彼を助けてあげる。私に治療をさせてちょうだい」
「治療?」
「そう、治療。このまま放っておくと死ぬわよ」
クレールの目的はそれだった。ただ無事を見届けただけでは意味がない。いずれその傷が足を引っ張り、捕らえられるのが関の山。そうなる前に、彼の傷だけは治してやりたかったのだ。
「君、医術の心得でもあるの?」
「彼の容態に関して言えば、医術よりも余程役に立つ力を持っているわ」
彼の許可を貰うまでもなく、クレールは床に寝かされた魔族の青年に歩み寄った。
人間の青年が制止しようとするも、イゾルデが彼の腕を掴んで睨みつける。
「彼があなたの仲間だと言うのなら、彼女に従った方が賢明です。魔族の中にだって、治癒魔術を使える者は多くないんですから」
腹部から大量出血を起こして息を荒げる青年の側では、助け出された少年が恩人の窮地に狼狽していた。
突然現れたクレール達に怯えながら、どうすればいいのかと老人に目で助言を求めている。対する老人は、一瞬目を見開き、しかし慌てて口を開いた。
「治癒魔術? お嬢さん、まさか。――いや、なんでもない。お前は下がっていなさい。今はお嬢さん方に任せるんだ」
老人が少年の肩を抱いて部屋の隅に移動させる。
「弾はまだ中に残っているの?」
「いや、貫通しております。不幸中の幸いでしょうな」
「手っ取り早くて助かるわ」
クレールが手の平を傷口にかざすと、淡い光が傷口を包み込んだ。
治癒魔術といっても、一瞬で傷が綺麗に消えることはない。治癒の精度は術者の素質と熟練度、そして対象に注ぎ込んだ魔力の量で決まる。
傷が深ければ深いほど、必要な魔力量が増え、傷が癒え始めるまでも時間がかかる。
部屋の中がしん、と静まり返ったまま数分が過ぎた。
溢れ出す血が止まり、ようやく腹の中で弾丸に断裂されていた内臓や脂肪、筋肉が元の位置に収まり始める。
辛うじて意識が残っていたのか、瞼で隠れていた銀色の瞳が薄暗い部屋の中にあって尚光を取り戻す。彼は自らの腹を押さえながらクレールを見上げた。
「――さっき、逃げ道、作ってくれたのって、君達?」
紡がれた言葉は、声が掠れて弱弱しい。
「そう。余計なお世話だった?」
「いーや、あれがなければ、俺、くたばってた」
ならばどうして飛び込んだ。イゾルデは呆れてものも言えなかったが、結果的に、そのおかげでクレールが表舞台に立つという事態を回避できたのだ。馬鹿にはするまい。
「現在進行形で息の根止まりそうよね。医者に診てもらえる立場でもないでしょうに。私が来なければどうするつもりだったのかしら」
「うーん。気合と、根性?」
「そんなもので生き残れるなら、魔族はとっくの昔に反撃の狼煙を上げていたわ」
「はは、違いな――痛っつ!」
床に散らばる青年の黒い髪が、乾いた笑いを上げるたびに小さく揺れた。
外見年齢は人間の青年やイゾルデとそんなに変わらない。健康的であった肌は血の気が抜け、今は青白い。童顔なのだろう。それなりに背丈はあるのに子供っぽい笑顔を浮かべる顔が、今は苦悶に歪んでいる。
腹に穴が開いているのに無駄口を叩いたり、笑ったり、この男は想像以上に間が抜けているのではないだろうか。
笑った拍子に力んでしまい、彼は息もできない様子で身を捩った。
「ノイン! 怪我人がべらべら喋るんじゃない!」
「あー、悪い、ティーロ。楽になってきたと思ったら、油断した。痛たたたた」
魔族の青年はノイン。朽葉色の髪をした人間の青年はティーロというらしい。
治癒魔術でも失った血は戻らないので顔色は青白いものの、ノインの呼吸は順調に安定していった。
傷は内側の内臓から治っていき、残るは表面の皮膚が再生するだけという段階になって、クレールが治療を止めた。
額に玉のような汗を浮かべ、ふう、と小さく息を吐く。
「疲れた。悪いけど、あとは自然に治るのを待ってちょうだい」
治癒魔術はあまり使ったことがなかった上、こんな重症患者を相手にするのも初めてだった。どこまで魔力を注いだものか判断できない。魔力を消耗しすぎないように、その魔力の内包量を不自然に受け取られないようにと中途半端ながらも治療を切り上げる。
皮膚は不恰好に弾丸の跡が陥没し、乾いた血がかさぶた状に張り付いている。
魔術で強制的に治癒したのでかさぶたにはなっていないが、下の肉自体はくっついているので、直に安定するだろう。
「出血量が多かったから、すぐに動くと倒れるわよ。数日は栄養つけて寝てることね」
「――魔術って便利なんだな」
ノインはティーロの手を借りて上体を起こした。指先で傷口付近を恐る恐る探り、傷の具合を確かめている。
「それが魔族の言葉ですか」
「そもそも、最初から魔術を使っていればこんな怪我せずに済んだでしょうに」
イゾルデとクレールが呆れ返った目でノインを見下した。
とりあえず同胞を死なせないという目的は達成した。これ以上の長居は無用だと、イゾルデはクレールの袖を引く。
「クレール、そろそろ」
「そうね。明日は仕事だし。――それじゃあ、私達は帰るわ。もしも魔族狩りに対抗する手段がないのなら、早目に近くの集落と合流することをお勧めするわ」
「え、お姉さん達帰っちゃうの?」
何か目的でもあったのではないか。あまりに呆気ない帰宅宣言に、今まで言葉も出てこなかった少年でさえ驚いた。
「そりゃあ、まあ。用事も済んだし」
「本当にノインを助けに来ただけだったの? 君達、そんなお人好しには見えないんだけど」
大変失礼な言い分だが、その生き様を振り返ると否定できないのが悔しいところだ。
「同じく人間に弾圧されながら生きる同胞に手を差し伸べたいと思うのはいけないこと? 言っておくけど、あの場で撃たれたのがあなただったら、私は後を追ってまで助けたりしなかったわよ」
――だって、あなたは人間だもの。
この一言に尽きる。
クレールには自分とイゾルデの身の安全を確保する義務がある。
確かに感情的になって行動を起こしてしまうこともあるが、それはすべて同胞の為だ。
自分達魔族を狩り尽くそうとする人間にまで無条件で慈悲の手を差し伸べてやるほど、クレールは人格者ではない。
「そう言わないでやってくれ。そいつ、どちらかと言うと魔族寄りなんだ。隠れる場所を見つけてくれたのも、軍の追っ手を撒けたのも、そいつのおかげだ。なあ、ガキンチョ」
「え? あ、はい! ティーロさんが軍の追っ手を撹乱してくれたから、僕達もノインさんも助かったんです。人間は嫌いですが、ティーロさんはノインさんの仲間ですし、僕等のことも助けてくれました。信用に足るお方だと思います!」
たった一度助けられたくらいで全面的な信頼を置くべきではない。少しは疑うことを学ぶべきだ。
飛び出しかけた皮肉は、喉に引っ掛かってぎりぎりのところで飲み込まれた。
相手は子供で、保護者らしき老人が側にいる。ならば大事なことは彼が教えてくれるだろうから、部外者の自分達が口出しする意味はない。
「そう。奇特な人間に助けてもらえてよかったわね。でも、魔族に味方しようなんて人間は多くない。早いところ町を出た方が身の為だよ」
「わかりました。あの、お姉さん達も、助けてくれてありがとうございました」
少年がクレールとイゾルデを交互に見やり頭を下げて。それに対して、イゾルデはばつが悪そうに肩を竦める。
「私は何もしていませんよ。すべて彼女のやったことですから、お礼なら彼女一人に」
「あら、ストッパーのイゾルデがいなくちゃ、私はあの場の人間を殺していたかもしれないわ。そうなればそれこそ大惨事。何もしてないなんてことはないわ」
持つべきものはできた従者だとクレールは一人納得してうんうんと頷いた。百年間一人の主に仕えてきたイゾルデは、彼女の今考えていることを的確に読み取り苦い顔だ。
「あなたがそう言うのなら、素直に受け取っておきましょう」
主従揃って、どういたしましてと少年に微笑む。少年は嬉しそうにもう一度頭を下げ、老人もそれに続いた。
今度こそ帰ろうと踵を返すと、後ろでノインが声を張り上げた。
「俺はノイン・ダウム。そっちはティーロ・ブラームスっていうんだ。君達は?」
直後にまた引き攣った呻き声が聞こえてきた。完治していないのだから痛いに決まっているのに、彼は何をしているのか。
溜息一つ吐き出してから、クレールはドアノブに手をかけたまま、振り返らずに答えた。
「私はクレール。彼女はイゾルデよ」
それだけ答えると、二人はそのまま廃屋から出て行った。
二人の後姿を見送ったノインが、その名前を記憶に刻み込むように何度となく呟いた。
腹部に残された痛みに目元を顰めながら、しかし口元は嬉しそうに弧を描いく。
「面白い子達、だったよな」
「とても優秀な魔族でもあったね」
「治癒魔術の使い手って希少なんだよな? お前、他にあんな術を使う魔族を見たことあるか?」
「ないよ。子供の頃から一緒だったんだから知っているだろう?」
「ああ、そうだったな」
ノインはぱたりと仰向けで寝転んだ。思いの外勢いよく倒れてしまい、また傷口を押さえて悶絶する。
数秒堪えてから、性懲りもなくまた口を開いた。
いつか傷口が開くんじゃないかと、少年は冷や冷やした面持ちで彼を凝視する。
「あの子達の手を借りれば、爺さん達を早く脱出させてやれるかと思ったんだけど、あれじゃ取り付く島もなし、だな。悪いけど、俺が動けるようになるまで、もう少し待ってくれ。動けるようになったら、近くの集落まで送って行ってやるから」
心配そうな顔で覗き込んでくる少年の頭をくしゃりと撫でる。
「ノインさんは、どうして僕達を助けてくれたんですか?」
ノインだけではない、途中で合流してきたティーロもだ。
今日初めて。軍に囲まれたあのときに突然彼が飛び込んできたあの瞬間が初対面だった。
彼は何故知り合いでもない自分達の為に命を懸けたのだろう。
何故、赤の他人の為にそんなことができるのだろう。
少年には不思議でならなかった。そんな彼に、ノインとティーロは不敵な笑みを浮かべて教えてやった。
『魔族の方が善良だからだよ』