天使と淫魔は紙一重
草木も眠る丑三つ時。それは突然の出来事だった。
「こんばんは、お兄さん♪ 今夜はおひとりですか?」
耳障りな声に重たい瞼を開くと、そこには身に覚えのない女が立っていた。俺の寝ている隣に。
どう考えたってそれはおかしかった。俺は昨日しっかりと一人で家に帰ったし、ここのマンションのセキュリティ設備はしっかりしている。バーで酔い潰れたOLが勝手に入って来れるはずなんかもない。
おまけに。この女は何をとち狂っているのか上は白のブラウス、下は下着しか履いていない。そして背中には小さな白い翼なんかをつけてしまっている。
痴女に加えて電波系とはいかがなものか。少なくともアラサーと呼ばれる身としてはドン引きだ。
「ふふ、びっくりしちゃいました? 窓が開いていたので勝手にお邪魔しちゃいました。私は悩める殿方を慰める可愛い可愛いサキュバスちゃんです。もちろん私の存在はご存知ですよね?」
彼女はそう理解に苦しむ自己紹介をしてきた。
サキュバスといったら巷で噂されている都市伝説に出てくる女のことだ。何でも夜な夜な男の前に現れてはその精を吸う悪魔なのだとか。
しかしこれは現実の出来事なのだろうか? にわかには信じられない。突如自らをサキュバスだと名乗る不法侵入変態女が現れたのである。
これはやはり夢なのだろうか? もし夢なのだとしたら――。
「あらあら、緊張しているみたいですね。でも大丈夫です。すぐに体をほぐしてあげ――って痛ッ!?」
おそらく夢なのだろう。そう思って試しに身を寄せてきた自称淫魔の額に平手打ちをした。思ったより張りがあり、その感覚がしっかりと手に残る。
「な、何するんですか!? いきなり女の子を叩くなんて!」
「すまない。君のそのしたり顔が不愉快だったからつい……。しかし叩いた感触があるってことはこれは夢じゃないのか?」
「当たり前じゃないですか。これは現実なのです。哀れそうなあなたのもとにとびっきり可愛いサキュバスさんが遊びに来てさしあげたんです! 理解できます?」
そう言うと、彼女は頬を膨らまして手を腰にあてた。
とびっきり可愛いサキュバスか……。俺はまじまじと彼女を見る。暗いからはっきりとはよく分からないが、顔はまぁ可愛い方なのだろう。しかしそのスタイルは――。
「フッ」
「……何ですか? その冷めた視線は。喧嘩売ってるんですか?」
どうやら思わず失笑が漏れてしまったらしい。これは失敬した。
「いや、サキュバスは男を惑わすとまで言われているのにずいぶんと貧相な体をしているなと思って」
「う、うるさい! こういうのが好みの殿方もいるんです。……きっと」
……きっと、ね。どうせサキュバスとして出てくるのならもっとムッチリしたのがよかったのだが。
「しかし君は本当にサキュバス(笑)なのか? 貧しい……失礼、子どもみたいな体をしている上に、君には悪魔らしい角とか尻尾はないじゃないか」
「初対面の人にずいぶんなこと言いますね……」
彼女はジトッと俺の方を見る。確かにいつもならこんな失礼なこと女友達にもまず言わない。急なことに頭がちょっと混乱しているのだろうか。
「まぁいいです。私に角とか尻尾がついていないのはつける必要がないからです。普通に生活してたら邪魔じゃないですか。可愛い帽子とかも被れないし」
「だったらその背中の羽もいらないんじゃないか? しかも白って何だかサキュバスらしくない」
「これはいいんです! この方が可愛いじゃないですか!」
どうやらその羽はファッション感覚のようだ。いまいち彼女らのセンスが分からない。
「とにかく! こうしている間にも朝になっちゃいますから早く楽しんじゃいましょ♪」
前置きが長かったのか、サキュバスはうきうきと俺に抱きついてきた。彼女の柔らかい頬が俺の鎖骨に当たり、接触部からは暖かな感触が伝わる。
楽しむとはつまりそういうことなのだろう。世の青少年からすれば死んでも止まない展開なのかもしれない。
しかしいきなりやって来た女とサキュバスだからという理由で一緒に寝る程俺の頭はまだ耄碌してはいない。
「いや、遠慮しておく」
「え、何でですか!? こんなにおいしいシチュエーション、そうそうあるもんじゃないいですよ!?」
こんなにも怪しい展開だからこそついてこれないのだ。
「はっ!? もしかして殿方しか愛せない体だから……」
なぜそこで顔を赤らめる?
「……別に同性愛者だからだとかそういう訳じゃない。いきなりやってきた女と意味も分からず寝れる訳ないだろう? それに明日は大事な会議がある。今日は会議に備えてしっかりと眠りたいんだ。分かるか?」
「ええー!? そんなのってないですよ! だったら私が来た意味ないじゃないですか!?」
「わざわざ来てもらって申し訳ないんだが、他を当たってくれないか? 下の階にも独り身のやつくらいいると思うし」
そう丁寧に断りを入れる。ここで邪険に扱わないのは偉いと思う。
「駄目です! 私はもうお兄さんと添い遂げることに決めましたから!」
だがしかし、彼女はきっぱりと突っ返した。
「あなたに決めた、て……何で俺なんだ?」
「だって……」
すると急にサキュバスは伏し目がちになりもじもじとし始めた。あまりいい予感はしない。
「……だってお兄さん、私のタイプですから」
「……は?」
「だから、私お兄さんに一目惚れしちゃったんです!」
「ええ!?」
世の中何が起こるか分からないものだ。
◇
結論から言おう。
昨夜俺とあのサキュバスは一緒に寝た。しかし寝たというのは別にそういう意味ではない。あいつを無視して寝ていたら勝手にベッドに潜りこんできたのである。つまりただの添い寝だ。
今朝起きると、あいつは毛布にくるまって熟睡していた。何でも朝と寒さは苦手だとか。
だが俺の毛布を全部剥ぎ、それをあたかも自分のもののように使っていたのには殺意が沸いた。あやうく大事な会議の日に風邪をひくところであった。
結局俺はあいつを放置して出社した。いつまで経っても起きないし、起こしたら起こしたで厄介な気がしたからだ。
それにしてもあのサキュバスは本当に何者なんだろうか。もし精を吸いたいだけなら俺よりも若く精力的な男なんていっぱいいるはずだ。それに俺くらいの年になると欲望よりも理性の方が先行して上手くいきにくいことくらい分かるだろうに……。
なぜあいつはわざわざ俺のところに来たんだろうか?
「考え事ですか? 大江先輩」
ふと、俺のデスクにお茶が置かれた。視線を上げると凛とした女性。
「ああ、橋本くんか」
お茶を置いた女性は社内のマドンナこと橋本りさだ。
彼女は俺の3年後輩で俺の部下で、俺は彼女の入社直後に教育係として関わったことからか未だに彼女からは「課長」ではなく「先輩」と呼ばれている。
「もしかして会議うまくいかなかったんですか?」
「いや、会議は無事成功したよ。ちょっと別のことを考えていてね。」
「もしかして……恋人のこととか?」
ちょっとビクリとなった。色恋沙汰ではないが、女関係というのでは合っていた。……一応。
「そうだったらいいんだけどね。残念だけど今はそんな女性いないんだ」
「あっ……す、すいません。先輩にはてっきりいるものだと……。こんなこと聞くのって失礼でしたね」
「別にかまわないさ。そんなことより村内技工との取引はうまくいきそうかい?」
「ええ、順調に進んでいますよ。先輩に手伝っていただいたおかげです。本当にありがとうございました」
「何、そんな大したものじゃないさ。ただ上司として当たり前のことをしただけのことだよ」
橋本くんは人当りがよく、取引先からもとても好印象を持たれている。営業の鏡とも言える女性だ。
しかしデスクワークには若干の難があり、彼女が用意する資料は常にチェックするようにしている。はたから見ればひいきしているように見えるかもしれない。
だがもちろんそういったことは彼女だけに特別やっているわけではない。形は違えど、他の部下たちにもそれぞれの短所を補い長所を伸ばすような当たり方をしている。部下によって管理のしかたを考えるのは大変なことだけれど、それはそれで仕事としてやりがいがあり楽しいことだ。
「あの、先輩……。一つよろしいでしょうか?」
「どうした?」
「ちょっと相談したいことがあって、その……。もし今夜予定が空いているようでしたらちょっとつきあってもらえないでしょうか?」
橋本くんは少し視線を外して言った。前で組んでいる手は握りしめられており、ちょっと震えている。
今夜か。予定は特にない。懸念事項としては部屋にまだアレがいるかもしれないということだが、さすがにもう他の男のところに行っただろう。むしろいたらいたでなおさら帰りたくはない。
「ああ、大丈夫だ」
「本当ですか!? やった……。じゃあ後でメールで連絡しますね」
◇
その夜、結局終電ぎりぎりの時間で帰宅することになった。
数日前からずっと資料を作りっぱなしで、ようやく今日の会議で解放されたようなものである。今日ばかりはゆっくりと休みたい。
そう思ってドアを開けるといの一番にツンとした臭いが鼻腔を刺激した。
「お帰りなさい、ゆうじさん♪ 私待ちくたびれちゃいましたよ」
そうして出てきたのはやっぱりあのサキュバスだった。玄関前で茫然としているとすぐに駆け寄り抱きついてきた。
この臭い、もしかして納豆? 部屋を覗くと納豆のパックともずくの容器、そしてヨーグルトのボトルが見える。ダイエット中のOLか……。
「何でお前がまだいるんだ?」
「私こう見えて結構一途なんです。ゆうじさんがかまってくれるまで私ここから離れませんよ?」
どうだ、と言わんばかりにこちらを見つめてくる。
ずっとここに居座る気なのか。そしてさりげなく名前呼びしているし。
「さっさと帰れ、納豆女。俺はお前のお遊戯に付き合うほど親切じゃないんだよ」
「そんなつれないこと言わないでください。本当は嬉しい癖に。今だって……ん?」
サキュバスは急に俺の胸を嗅ぎ始めた。鼻があたってくすぐったい。
「この匂い……もしかして女ですか!? 何て事を! 私という女がいながら……」
犬か、こいつは!? いや、サキュバスといっているだけあってそういう匂いには敏感なのかもしれない。
「何でお前が俺の女ってことになっているんだよ。これは会社の後輩と飲みに行ってたからだ。別にやましいことをしていたとかそういうわけじゃない」
何で俺はこんな言い訳がましいことを言わなきゃいけないのか。
「嘘です! ただ飲みに行ったくらいでシャツに香水の匂いが付くわけないじゃないですか! それにこの女の匂い、明らかに勝負をかけにいっています!」
サキュバスは怒った面持ちで俺を睨む。何で赤の他人、もとい赤の他妖怪にここまで怒鳴られているんだ、俺は……。
「本当にただ食事をしただけだ」
「嘘です!」
「仕事のことで相談があったから一緒に食事をしていたんだ」
「嘘です!」
ふと、小さい時親と一緒に見ていたお昼のドラマが頭をよぎる。何だこの展開……。
「本当はその後輩ちゃんに言い寄られたんじゃないんですか? ゆうじさんのことだから仕事の相談だと言われて。いい雰囲気になって告白されちゃったんでしょ!?」
こいつはいったい俺の何を知っているんだ、まったく……。だがこいつの言ったことはいやはや核心をついていた。
「……やっぱりそうだったんですね」
サキュバスはジトッとこちらを見ながらも口元はちょっと笑っている。何かイラッてくる。
「けど彼女に手を出していないのは本当だ。告白だってちゃんと断った」
「……キスまでしたのに?」
「……えっ!?」
「唇に口紅がついてますよ?」
俺は慌てて口元を拭う。しかしそこには何もついてはいなかった。
「やっぱり……」
サキュバスは勝ち誇ったかのように(薄い)胸を張った。
こいつ、俺をはめたな……!? こんな古典的な方法に騙された自分が情けなくてしょうがない。
「これは酔った勢いで向こうからしてきたんだ。断じて俺から手を出した訳じゃない」
「ふーん。男の人ってみんなそう言います。自分は悪くないって」
「……」
「けどどうして断っちゃったんですか? もしかして可愛くなかったとか?」
「……そういう訳じゃない。彼女を同僚以上として見れなかった。ただそれだけだよ……」
その言葉に、彼女は怪訝そうに俺の顔を覗き込んでくる。それに俺は思わず顔をそらしてしまう。
「というより人のことに首を突っ込まないでくれ。妖怪には関係のない話だ」
「むむ、妖怪とは失礼な。私だってこう見えても元人間なんですよ」
彼女はそうむきになって言った。そして「まぁ前世の記憶はほとんどないんですけど」と付け足す。
ん? 人間がサキュバスになるのか? 幽霊だとか天使だとかはともかく、サキュバスはもとからサキュバスと思っていたが。
しかし道理でOLみたいな食事をしたり、人の恋愛をほじくり回したりするはずだ。不愉快極まりない。前世はろくな奴じゃなかったのだろう。
するとふと、サキュバスは何かを思い出したかのように急に俺の方へ視線を上げた。
「ところでゆうじさん、さっきビデオショップでDVD借りてきたんですけど一緒に見ませんか? え、タイトル? そんなの大きな声では言えませんよ~」
そう言って彼女はにこにことその顔を俺に向けた。その表情に俺は固まった。
『ゆうじー、友達からビデオ借りたんだけど一緒に見ない? 『リング』ってやつなんだけどさ。名前の通り『ロッキー』みたいなボクシング映画なんだって!』
それは別に彼女が美しかったからだとか、妖艶だったからとかそういう訳ではない。ただその楽しそうな表情は俺に儚くも遠い記憶を想起させた。
「どうしました?」
「……いや、今日は疲れたからもう寝るわ」
「え! もう寝るんですか!? いやん、ゆうじさんのエッチ♪ けどその前にシャワーを浴びないと駄目ですよ。……いや、浴びない方がむしろ興奮するのかな?」
そうぶつぶつと言う彼女を尻目に、俺はただ黙ってベッドに横たわった。
それにしても……と思う。何で一瞬こいつと彼女を重ねてしまったのだろう、と。
◇
翌日の土曜日、背中に鈍い痛みを感じて目が覚めた。今度はどうやら毛布を取られたばかりか、ベッドから落とされてしまったらしい。あいつがくるまっているだろう毛布からは忌々しげに片足が飛び出ているのが見える。
叩き起こそうかと考えたが、今日は休日だ。起こしたところで俺の休日がつぶれてしまうのは心もとない。それに今日は夜に用事がある。それはこいつにはあまり知られたくはなかった。
午前はショッピング、午後はジムでトレーニングをした後、俺は墨田区スカイツリー前にやってきた。今夜ある用事とは婚活パーティである。というのも本来は会社の先輩が行く予定だったのが急に行けなくなり、その穴を代わりに俺が行くことになったのだ。正直あまり気は進んでいない。
会場に着くとそこにはすでに20人程の男女が談話をしながら待っていた。見回してみると女性陣は結構美人が多い気がする。それ程までに化粧に気合を入れてきていると言われればそれまでであるが。
そして俺が入ってからまもなく、パーティが開始された。
形式はあらかじめプロフィールシートを記入し、一対一の自己紹介タイム。そしてフリートークタイムに移り、カップルシートにお気に入りの人を記入、その後カップル発表の流れとなっている。
参加人数は8対8とのことだ。これは先輩から聞いていた人数よりかは少ない。きっと途中先輩みたいにキャンセルした人がいたのだろう。本来ならキャンセル料が出るとのことなのだが、先輩は即座に俺を見繕ったため問題がなかったらしい。
それから自己紹介タイムが終わり一息つく。こういうのは女性でも30代が多いと思ってはいたが、話を聞いてみると実際には俺と同じく20代後半の方が多かった。結婚はまだまだ先だと考えてはいたが、この様子を見るとちょっと危機感が出てしまう。
『それではフリートークタイムに移りたいと思います。フリートークタイムは1回5分、1対1でお話していただきます。節目の合図はこちらで行うので時間に注意しながらお話してください。それではスタートです』
自己紹介に続きこのフリートーク。パーティというからてっきり立食形式なのかと思ったが、やたらと1対1での対話が多い。これならコミュニケーションが上手くないやつでも女性と話すことができるな、と皮肉交じりにそう思わないでもない。
「大江さん、隣の席いいですか?」
最初にやってきたのは保険会社で務めているという宮田さんだった。本当なら男である俺からアプローチをするべきなのだろうが、少しぼんやりしていたようだ。女性の方から声を掛けてもらうのは少々不甲斐ない。
しかしこの宮田さん、モデルと見紛うほどに綺麗だった。大きくカットされたドレスのネック部からはボリュームのある胸が覗ける。これに反応しない男は生理不能を起こしている輩か、もしくはどうしようもない性癖を持った輩くらいなものだろう。まさに俺の好みだった。
「大江さんはどうしてこの婚活パーティに?」
宮田さんはどこまでも惹きこまれるような黒い瞳を俺に向けて聞いてきた。
「宮田さんはどうしてだと思う?」
「もう、私が聞いているんですよ?」
両の手を使って宮田さんはコップを掴み水を飲む。水に濡れた唇は妙に艶めかしい。
「……そうですね、ただの暇つぶし、とか?」
「どうしてそうだと?」
「だって大江さんみたいな男性が普通こういうパーティに来るとは思えないんですもの。周りを見てください。ここにいる男性は肩書きばかりご立派で、だけど魅力のかけらもない人達ばかり」
「そんな中、私は違うと? それは見当違いなのでは?」
「そんなことないですよ。大江さんには自分に対して揺るぎない自信を持っているのが分かります。とても魅力的な。話しているだけでも分かりますよ。伊達に保険の営業をしている訳じゃないので」
「そう言ってもらえると嬉しいね。これから手掛けるプロジェクトにも自信がつきそうだ」
「ふふ。私の予想、合っていますか?」
彼女は首をかしげて微笑んだ。彼女の真っ直ぐなショートヘアーが揺れる。
「うーん、残念だけど違うね。私は急に行けなくなった会社の先輩の代わりに来たんだ。あまりハメを外すなとのお達し付きでね」
「あら、だったら私の言ったことは正解じゃなくて? 来れなくなった先輩の代わりに遊びに来たんでしょう?」
そう言って彼女はくすっと笑った。それに俺はわざとらしく息を零し対応する。
「いいや、違うさ。確かに最初は物珍しさで来たところはあったけど、こうやって君のように楽しい人と話しているといつの間にか目的が変わってしまったよ。私もそろそろいい歳なんじゃないかってね」
「冗談がお上手なんですね。ここにいる女性みんなにもそんなことを言うんですか?」
「どうだろう。君だけかもしれない」
彼女はまぁ、と頬を緩ませ、続く言葉を言おうとした。しかしそれを発する前にアラームの音が鳴った。
『はい、ここまでで一回目のフリートークタイムは終わりです。それでは二回目を始めたいと思いますので皆さん席を移動してください』
「もう時間が来てしまったね。まだ話足りないのに残念だ」
「ではまた後で続きをしましょう、大江さん」
別れ際、彼女はねっとりとした視線を俺に送って席を離れた。席を移動している男の何人かは彼女を見て息を漏らしている。
本当に彼女は魅力的な人だと思った。本当に。それはもう俺とは釣り合わないくらいに――。
◇
長いようで短かった婚活パーティも終わり、そのまま俺は帰路についた。家に着いたのは11時過ぎくらいで、ひと息ついて玄関の前に立つ。
目の前のドアは昨日からやけに重々しく感じられる。もちろん原因は言わずもがな。
どうか何もありませんように、と念じつつ俺はドアノブを回した。
『もう、しょうがないな。こんなになっちゃって。これ以上は……止められないよ?』
しかし案の定ドアを開けた途端、見知らぬ男の甘い声と女性の嬌声が俺の耳に入ってきた。
とうとう男を連れ込んだのか、あいつは!? 別にサキュバスということを考えれば分からなくはないが、人の家で何をやっているんだ!
こうしてはいられない、と中でやっているであろうことには全く遠慮せずドカドカと入る。
「おい、お前いったい人ん家で何やって――」
だが目の前に広がっていた光景は俺が思っていたものとは違った。
そこにはただ黙々とパソコンをしているサキュバスの姿だけがあった。そのスクリーンには男女が抱き合っており、スピーカーからはやましい声が大音量で漏れている。
「何やってんだ……お前は?」
「何って『私の初恋―イケメンたちとの物語―』ですが何か?」
どうやらただPCゲーム(おそらくR18)をやっていただけのようだ。しかしその使っているパソコンは俺のである。せめて使うなら使うで許可くらい欲しいものだ。増してやそんなものを入れるのならば。
というよりこいつ、見つかっても悪びれるどころかしれっとしている。いや、どこか不機嫌のようにも見えるが……。
「……どうした? 何か怒っているのか?」
そう言うと彼女はピクッと反応して、こちらに振り向いた。
「ええ、怒ってます。とっても怒ってます」
パソコンを消してむくりと立ち上がり、彼女は俺の前で腕を組んだ。
俺が何かしたのか?
確かにベッドから蹴落とされた仕返しに目覚まし時計を最大音量でやつの側にセットしたが、そこまで怒るものでもないはずだ。……多分。
「とぼける気ですか? 私が知らないと思って……。婚活パーティのことです! 婚・活・パー・ティ!」
婚活パーティ? それがいったい何だと言うんだ。というより何でこいつがそれを知っている?
「私、さっちゃんから全部聞きましたよ! 婚活パーティで起こったこと!」
「さっちゃん?」
「婚活パーティに参加した私のお友達サキュバスです。おっぱいが大きいショートの子!」
宮田さんのことか? 彼女下の名前「彩月」だったような。というよりあの子もサキュバスだったのか……。道理で……。
「さっちゃん言っていました。ゆうじさん女の子全員から指名されたのにも関わらず誰も選ばなかったって。さっちゃん悲しんでました。あんなに胸ちらちら見てたからいけると思ったのにって」
「……え、みんなが俺を指名したって? そんな馬鹿な……。というより何でそれを知っている? 誰が誰を指名して、カップルが成立したかどうかは本人達しか知らないはずだ」
「あの後余った人同士で女子会をやったみたいです。誰を選んだのか話してたらみんなゆうじさんのこと指名していたのが判明したらしいです。ゆうじさんは何で誰も指名してあげなかったんですか?」
「……」
「ゆうじさんはあそこに出会いを求めてやってきた純情な乙女たちの心を踏みにじったんですよ? それを怒らずしてどうしろと言うんですか!?」
彼女はそう言って机をバンッと叩いた。
「……確かに誰にも指名しないでみんなを傷付けてしまったのは申し訳ないと思う。けれど俺にだって選ぶ権利はあるはずだ。あそこにはただ、俺の好みに叶う子がいなかった」
傲慢な理由。誰が聞いてもそう聞こえるだろう。あの場ではたとえ気に入った子がいなくても、誰かしら指名するというのが礼儀というものなのだから。
彼女は大きく息を吐いて組んでいた腕を解いた。それは半ばあきれていた。
「あんなにも女の子にアプローチされながらそう言い張るとは……。モテる男もつらいですね。今までゆうじさんがどんな子と付き合ってきたのか見てみたいものです。まったく」
「……え?」
「だからゆうじさんは今までどんな子と付き合っていたのか見てみたいと言ったんです」
そう言って彼女は目を細めながら俺の瞳を覗きこんだ。
――今まで付き合った女……か。
「あれあれ、もしかしてその反応……。まさかその年で色恋の一つや二つしたことがないとか言いませんよね?」
「……いや、あるさ。5年ほど前だが……」
「5年前ってだいぶご無沙汰してますね。もしかして別れ話がもつれすぎて今でも引きずっているとか?」
彼女はいたずらな笑みを浮かべて尋ねてくる。
別れを引きずっている、ね……。
「そうかもしれないな……。何せその彼女とは死別してしまったから」
「えっ――」
そう聞いて、彼女は固まった。話し手である俺の声は自分でも分かるくらいに淡白なものだった。
「交通事故でね。風に吹かれた帽子を追っていたらトラックに轢かれたんだと。馬鹿な女だったよ」
「ゆうじさん……」
「それ以来かな。恋愛をしなくなったのは。馬鹿な女だったとはいえ愛してしまったんだ。それをあんな別れ方すればいくらなんでも未練が残るってものさ」
未練……。
良い響きだ。だけれどもそれはそんな綺麗なものではない。ただ過去に閉じこもって現実から逃げているだけなのだから。
「お前はどうなんだ? お前も一応は元人間なんだろう? 前に恋人くらいいたはずだ」
「……確かにその苦しみは分からないでもないです。顔ははっきりと記憶に残っていなくても、死ぬ前に恋人がいたということは覚えていましたから。……けれど私には未練はありません。本当かって言われたら嘘になるかもしれませんけど、でも引きずられてはいないです」
彼女は俺から顔を背けることなくそう返した。その眼差しはとても真っ直ぐしていた。
「強いんだな、お前は。……薄情だとかは思わないか?」
「確かにそう言われればそうかもしれませんね。けれどどんなに想い願っても、もう絶対に会うことはできないんです。もう昔のように戻るには……。だから私は思い出にすがるのはやめました。ゆうじさんも過去にではなく、今に生きるべきです」
強く想いの籠った彼女の瞳。けれど俺にはそんな彼女の瞳を直視することはできなかった。
「……いや、もう手遅れだよ。俺の心は枯れてしまったんだ。5年前のあの日に。だから今更前を向けと言われても無理な話だ」
「そんなこと――」
彼女は何かを言おうとした。しかしその前に俺はそれを遮った。
「――もう寝るよ。悪いけど今日ばかりは一人にしてくれ。あと宮田さんにはすまなかったと伝えてくれると嬉しい」
「ゆうじさん……」
彼女の側を無言で通り過ぎ、そのまま俺はベッドの中に潜った。
◇
羽川絵美。
それが彼女の名前だった。背は小さめで体は細く、目は大きくて顔は美人というより可愛いという感じ。性格は繊細でおしとやか、という訳ではなくむしろガサツでやんちゃな女の子。
そんな彼女との出会いは高校生三年生の時、不良に絡まれていた俺を絵美が助けようとしたことから始まる。もちろん、助けようとしたとは彼女が不良とタイマンを張ろうとしたという意味ではない。
『君達やめなさい! もう警察に通報しちゃったんだから!』と言って追い払おうとしたのである。
しかしそこで誤算が生じた。絵美のシナリオでは『覚えてやがれ!』と言って逃げ去るはずだった不良たちはあろうことか逆に彼女に悪態を付きはじめたのであった。
さすがにまずいと思った俺は、近くにいた不良一人をとりあえず殴り倒した。不良たちの注意を自分に向けるためである。その後三人の不良と殴り合うことになったのだが、辛くも勝利する。それまで中高ハンドボールで培った体力があまり望ましくない意味で発揮したのであった。
そんな珍奇な出来事ではあったが、何はともあれこれが絵美との顔合わせだった。その後は至って普通の流れである。連絡先を交換しあった俺達はそのまま親密になっていき、高校卒業とともに告白。大学は別々のところを通っていたがそれでも休日はしっかりとデートに空けた。
もちろんうまく行かない日もあった。例えば絵美がサークルの飲み会で潰れた時は一日中説教して酒を飲めなくなったというトラウマを植え付けてしまったし、旅行先ではしゃいで走り回って俺のお気に入りカメラを破壊した時には三日は口を聞いてあげなかった。
しかしなんだかんだたくさんのことがありはしたものの、俺達は決して別れることはなかった。友人にもいつ籍を入れるのかとよく茶化されたものだった。
俺もきっと、何となくではあったがそのうちそうなるのだろうなと思っていた。
――けれど彼女は死んでしまった。大学卒業を間近にして。まだ22歳だった。
目撃者の話だと風に飛ばされた帽子をと追いかけていたら車道に出てしまい、運悪くトラックに轢かれてしまったらしい。絵美の両親は実に彼女らしいとむせび泣いていた。
対して俺は遺留品である付き合ってから最初の誕生日にプレゼントしたその帽子を、涙も流せず凝視するしかできなかった。
そしてすでに大学卒業して企業で働いていた俺はすぐさま海外転勤を申請した。とにかく俺は仕事に忙殺されることで彼女のことを忘れたかった。
やがて海外で忙しい日々を過ごしているうちにその思い出は遠い過去のものになっていった。1年前に日本に戻って来た時も思い出がぶり返すといったこともなかった。
だけどそれ以来だろうか。全く恋愛をしようとしなくなったのは。いや、厳密には違う。また人を愛したいのに、怖くてそれ以上先に踏み込むことができないのだ。
俺だって一応人間である。絵美を失った後も誰かを愛したいという気持ちがなくなった訳ではない。しかしそう思うと同時に、亡くなった彼女に対する罪悪感とまた愛した者を失うのではないかという不安がどうしようもなく俺の頭を包み込み、胸は苦しく圧迫された。
俺にはそんな愛したいのに愛することをためらってしまうという相反する感情が行ったり来たりしている。そんな半端な想いのせいで橋本さんや宮田さん、他の人達も傷付けてしまっている。
これは周りにとっても、自分にとっても、良くはないというのははっきりと分かる。だけれどもどんなに正当化しても、どんなに逃げ回っても、その苦しみからは抜け出すことができなかった。
なぁ、絵美。俺はいったいどうしたらいいんだろうな――。
まだ暗い部屋の中、俺はふと目が覚めた。久しぶりに彼女の夢を見てしまったようだ。前回見たのは確か日本を発つ前日だったから約4年ぶりになる。
「起きちゃいましたか、ゆうじさん」
――そして彼女が俺を抱きしめていた。
「一人にしてくれと言ったはずだが?」
「寂しそうに縮こまっていましたので」
「それはただ風邪気味だったからだ。どこかの馬鹿が毎晩毛布をかっさらってしまうからな」
「……ゆうじさん、ずっと女の人の名前をつぶやいていましたよ? 絵美、絵美って」
「……」
「もしかして亡くなった彼女さんのことですか?」
こちらを見つめている彼女から目を逸らした。薄暗くてあまり顔はよく見えなかったがきっと心配そうに見ているのだろう。
俺は上半身だけ起こして窓の外に視線を移した。今宵は満月だった。
「ああ、そうだ。俺が初めて愛した女で、……今も俺を苦しませ続けている女の名前だよ」
ふっと彼女の方に視線を落とす。彼女はただ黙って俺の方を見つめていた。そしてそのままこつん、とその小さな頭を俺の胸に預けた。
「……ゆうじさん、さっき『もう俺の心は枯れてしまった』って言っていましたよね。それは嘘です。だってこんなにも今、強く鼓動を打っているじゃないですか」
そう彼女は優しく囁いた。俺の胸に直接語りかけているように。
「ゆうじさんはただ恐れているだけです。彼女を忘れてしまうことを。けれどもそんなにもゆうじさんのことを苦しめるのなら忘れてしまえばいい。過去に引きずられる現実なんて、そんなの今を生きているとは言いません。彼女もきっとそれを望んでいるはずです」
「それはサキュバスとしての意見か? それとも元人間としての……」
「――ふふ、どちらなんでしょう?」
彼女はいたずらな笑みを浮かべるとそっと俺に口付けしてきた。
「ゆうじさん、知っていますか?」
「何をだ?」
「私達ってどんな男性の前にも現れるわけじゃないんですよ? 心が傷付いて、擦り減って、どうにもならない苦しみを抱えた人の前に現れるんです。そしてそんな人を慰めるんです」
「……献身的なんだな、サキュバスは。まるで天使みたいだ」
「それが私の仕事ですから」
そう言って彼女は微笑んだ。ネオンが消え、月明かりしか差さない室内。満月が照らす彼女の笑顔は紛れもなく5年前に亡くなった絵美のものだった。
◇
ぼんやりとした意識の中、眩しい光を浴びて目が覚めた。今日は日曜日、会社も予定も特にない。綺麗に掛けられた毛布を振り払い、とりあえず顔を洗おうとベッドから出る。
するとテーブルの上に『ゆうじへ』とでかでかと書かれた置き手紙が目に留まった。フローリングにはそこかしこに白い羽根が落ちている。
手紙を手に取り開いてみると、そこには懐かしくも汚い字で『お前のはぁとは手に入れた。ざまぁみろ』と書かれており、最後には『愛しのマイエンジェルより』とあった。
そこは『マイ』ではなく『ユア』だろうに。愛しの私の天使って何だよ……。
「――相変わらず馬鹿な女」
俺はそれをくしゃくしゃにしてごみ箱に投げ入れた。
もうあいつが来ることはないだろう。あいつの仕事はこれで終わったんだから――。
辺りに白い羽根が散らばった部屋はいつもより少し、広く感じられた。
これにておしまいです。
初投稿ということで至らぬ点が多々あるかとは思いますが、最後までお付き合いしていただきありがとうございます。
なおこの作品のごあいさつ、設定などを活動報告に記載しておりますのでもしよろしければ見に来てください。