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あくびの予言

作者: たんすい
掲載日:2026/04/26

朝の光が水槽のガラスに、静かに斜めを落とす。

その一筋の光を浴びて、フグはゆっくりと体を旋回させた。まるで、今日という一日を、そっと検分するように。


凪沙はいつもの位置に立ち、息を潜めた。

「今日は、どんな顔を見せてくれるのかな」


声は、ほとんど唇の内側で溶けた。

三十一歳、契約社員。誰にも知られぬ、彼女だけの儀式だった。


フグは即座に、大きく口を開けた。

あくびのように、ゆっくりと、深く。


「今日は、ちょっといいことがある」


その瞬間だけ、凪沙の声は、会社では決して出さない柔らかさになった。


尾びれを体に折り畳み、丸くなれば「大吉」。

目を閉じれば「注意運」。


彼女が勝手に定めた、ささやかな予言。


「行ってくるね」


水槽に顔を寄せ、指先でガラスを軽く叩く。微笑むことしかできなかった。


恋人も、友人関係も、すでに遠い記憶の残骸に過ぎなかった。

残るのは、この三十センチ四方のガラス世界と、沈黙だけ。

ただし、このフグとの朝だけは、別だった。


※ ※ ※


夜。


ソファに深く沈み、スマホの画面を伏せたまま、凪沙は息を吐いた。


水槽の右上で、フグがゆっくりと目を閉じる。

同時に、会社のチャットが震えた。


(仕事のことなんて、占わないでよ)


その思いが胸に落ちた直後、玄関の鍵が、かすかな金属音を立てた。


振り返るより早く、無骨な腕が首に巻きつき、口を塞いだ。

冷たい刃が頰に触れる。


抵抗する間もなく、彼女はリビングの椅子にガムテープで拘束された。


侵入者は二十代後半の男だった。

浅黒い肌、乾いた眼光。言葉は通じなかった。

ただ、そこにあったのは、底の見えない絶望の闇だけだった。


男は部屋を荒らし始めた。

引き出しをひっくり返し、クローゼットを漁り、苛立ちを露わにする。

金はない。価値のあるものなど、何もない。


凪沙は震えながら、ただ水槽だけを見つめていた。


フグはいつも通り、悠然と泳いでいた。


そして、凪沙と目が合った瞬間——

口を開けた。一度。


ゆっくりと閉じる。

不自然なほどの静止。


そして、もう一度。

大きく。


凪沙は息を呑んだ。

喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが込み上げ、涙が零れた。


(お願い。目を閉じないで。このまま、何もない人生で終わってしまうのは、嫌だ)


そのとき、男が机の引き出しを乱暴に開けた拍子に、肘が水槽のスタンドに当たった。


ライトが最大光量で閃き、部屋を白く染めた。


その光の中で、フグの丸い体が、鮮烈な橙と青に発色した。

陽光を透かしたトパーズのように、宝石めいて輝く。


男の動きが、止まった。


ナイフを握ったまま、彼はゆっくりと水槽に歩み寄った。

唇が震えていた。


「……ポトカ・マチャ……?」


それは、出稼ぎに出る前、雨季の川で娘のために捕まえた、あのフグだった。

陽に透けると宝石のように輝き、娘が「きれい」と笑った、あの魚。


Abbaパパ、ポトカ、きれい」


六年ぶりに、その声と笑顔が、男の脳裏に鮮やかに蘇った。


男はゆっくりと振り返った。

椅子に縛られた凪沙の姿が、初めて真正面から目に入った。


凪沙の怯えた瞳に、男の視線が止まる。


握っていたナイフが、わずかに下がった。

呼吸が乱れ、視線が揺れた。

まるで、自分の手が何をしていたのかを、今この瞬間、初めて理解したかのように。


送金は減り、妻の声は途絶え、娘の笑顔は夢からも消えた。


ナイフが、床に落ちた。


男は水槽の前に膝をついた。


フグは、まるで男だけに語りかけるように、口を大きく開けた。

そして、もう一度。


ゆっくりと、何かを告げるように。


男の喉の奥から、異国の短い言葉がこぼれた。

凪沙には意味は分からなかった。

ただ、その声に恐怖はなかった。


男の肩が小刻みに震え、喉の奥で何かが潰れるような音が漏れた。


凪沙は、その音を聞きながら、自分がまだ生きていることを、初めて実感した。


男は床に両手をついたまま、長い間、動かなかった。


やがて立ち上がり、彼女の背後に回った。

刃の冷たさが、テープを一本一本、慎重に切り裂いていく。


最後のテープが落ちたとき、男は一度だけ、深々と頭を下げた。


何も言わず、何も奪わず、夜の廊下へと消えていった。


部屋に残されたのは、静けさと、水槽の微かな水音だけだった。


凪沙は椅子に座ったまま、しばらく胸を上下させていた。

呼吸の仕方を、思い出そうとするように。


やがてスマホに手を伸ばす。

画面を点け、指が「110」の上に止まる。

触れればすぐに反応しそうな、ほんの数ミリの距離。


けれど、押さなかった。


指先が、ゆっくりと離れていく。


凪沙は立ち上がり、水槽の前に歩み寄った。


フグは右上に浮かび、ヒレをふわりと揺らしていた。


「……本当だったんだね」


その声は、誰かに向けたものではなかった。


開いた玄関を、夜風だけが通り抜けていった。

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