堕天使少女
今回は割とシリアスです。
あるとき天上の世界で、一人の天使が叛乱を企てた罪によって討伐された。
純白の翼をもつ天使たちはその罪の証として、片方の翼を奪い、空を飛べないようにした。残ったもう片方の翼はどす黒い憎しみに染まり、堕ちていく朦朧とした意識のなかで天上を見つめる瞳は、復讐の焔で満ちていたという……。
幸いなことに銃弾は急所をとらえることなく、わき腹の端をかすめていただけだったので、数日も安静にしていれば退院することができた。その間、クラスメイト達がかわるがわるお見舞いに来てくれたので退屈することはなかったが、それでも学校のある昼間はすることがなく、おれはもっぱら気絶していたときに垣間見た光景を反芻していた。
なにも死にかけていたわけではなかったのだろう。
もしかすると夢だったかもしれない。けれども妙に神々しい空間を波間に浮くようにして漂っていた記憶があるのだ。
あれが天国というものか。地獄で閻魔大王に遭わなかっただけマシ、という考え方もできるが。
「……堕天使」
天国にも戦争はあるらしい。神様も大変なものだ。
ぼろぼろの姿になって地上へ堕ちていった彼は今頃どうしているだろうか。片翼をもがれた蝶は飛ぶこともかなわない。運命は残酷なものだ。
「本当にいたんだな」
超能力の類には出合ったことがあるが、まさか天国までが存在するとは思っていなかった。そのうち怪物や悪魔と対面することもあるだろう。もっと恐ろしい人間をたくさん知っているから、大して心配していないが。
ベットの脇の机に置かれたプリントの束を眺めてみる。
約束通りテストはなくなったらしい。その代わり授業態度で成績をつけると息巻いているらしく、以前のように居眠りができなくなったと嘆いていた。
クラスでの立ち位置が変わってしまったことに心配はしていない。彼らは彼ら、おれはおれなのだ。壊れた生態系が自分で立ち直るように、そのうち交友関係も元通りになることだろう。
だから、転校生がやってきたのだって別に驚くようなことではなかったのだ。
黒板に書かれた細い字は、まるで彼女を象徴しているようだった。
「森井佳奈です。これからよろしくお願いします」
言葉少なく自己紹介をした森井さんは、足音も立てずにおれの斜め後ろの席に座ると、律儀に教科書を取り出して授業の準備を始めた。
身長は平均的な女子くらい。おとなしそうな印象なのだが、染めたのだろう茶髪がちぐはぐな雰囲気を醸し出していた。第一ボタンまでしめられたワイシャツの胸元には赤いリボンが付けられていて、まるでショートケーキに添えられたイチゴみたいな存在感がある。
どことなく統一感のないファッションだ。
殺風景な部屋でカーテンを閉め切って暮らしているようにも思えるし、食パンをくわえて道路を疾走していそうな気もする。だから変なのだ。
それに時期もおかしい。一学期や二学期の節目ならともかく、もうすぐ夏休みに入ろうかというタイミングで転入してくるものだろうか。
父親の転勤で引っ越してきたというが、うちの学校の近くに有力な会社はない。不審な点ばかりだ。
探偵ものなら真っ先に容疑者として疑われるタイプ。
……とはいっても、わざわざうちの学校をスパイしに来たとかそういうわけではないだろうし、あまり考えすぎて悪い印象を持ってしまうのも良くない。
転校という慣れない環境でただでさえ緊張しているはずだから、ひょっとするとキャラを作っているのかもしれない。第一印象は大切だ。それで半分が決まるといっても過言ではない。
「ねえねえ、森井さんってどこの部活はいるの?」
授業が始まって間もないというのに、隣の席になって浮かれている女子がさっそくちょっかいを出している。興味津津、目がランランといった様子だ。
「私は――たぶん、どこにも入らないだろうと思う」
「なんで? 習い事でもしてるの?」
「別にそういうわけじゃないけど……私はあまりみんなとかかわるわけにはいかないの」
「そんなこと言わないでよ。あたしたちも森井さんと仲良くなりたいしさ、友達になろうよ。――あ、もしかしてまた引っ越しちゃうとかそういう感じ?」
「違う。そういうわけじゃないの」
森井さんは会話をしている間、ずっと何かを抱え込んだように暗い顔をしていた。そのうつむいた表情が少しだけ気になったが、昼休みになると風のようにどこかへ行ってしまって、それ以上クラスメイト達が近寄ることもなかった。
おれは空っぽになった森井さんの机を見る。
この机は転入生が来るというので新調されたばかりの表面に傷一つない新品のはずだ。それが、いつの間にか爪痕のような細い線が何本も深く刻み込まれている。
他にも、シャープペンシルの芯がやたらと目につく。授業中に何度か芯が折れる程度なら不思議でもなんでもないが、森井さんの机の周辺には異常な量の芯のかけらが散らばっていた。幾度となく力を込めたせいで折れ飛んでしまったものだろう。
よもや、もういじめが始まったということではあるまい。
「新堂、なにやってんの?」
先ほど森井さんに絡んでいた女子から声がかかる。
いきなり他人の机の周辺を調べ出したのだから不審がられても当然だ。
「森井さんってさ、何かを我慢している様子なかった?」
「うーん……そういえば授業中もずっとなにかぶつぶつ呟いていたかなあ。ノートもろくに取れてなかったみたいだし、なんだろうね。お腹でもいたかったのかな?」
「独り言?」
「そう。あんまり聞き取れなかったけど、たしか『やめて……』とか『こんなときに……』とか言ってたと思う。なんか不思議な人」
「そうか。どこかへ行くとか言っていたなら教えてほしいんだけど」
「わかんない。授業が終わるとすぐに飛び出して行っちゃったから」
おれはお礼を言って教室を出ると、屋上に向かう階段を上った。
まさかお腹が減りすぎて購買にパンを買いにダッシュしていったわけではあるまい。そう考えると全ての筋が通ってしまうのが不思議だが、常識というフィルターにかけてみると赤文字で書かれた単語が消えるように、見えなくなってしまう。
屋上には生徒が立ち入れないようにチェーンで鍵がかけてあるから、そのことを知っている普通の生徒は滅多に近づかない。
時々タバコの吸い殻が発見されたりして臨時集会が開かれるくらいだ。
「……やっぱりか」
乱暴に引きちぎられたチェーンが足元に転がっていた。ついさっき壊されたものに違いない。その証拠に、モザイクのかかったガラス戸の向こうからは苦しそうなうめき声が聞こえていたから。
森井さんは必死に右腕を抑えようとしながら、泣いていた。
おれがすぐそばに近寄るまで気づいていなったようで、赤くなった眼で怯えるようにおれをにらみつけた。その瞳は一瞬、殺意にまみれていた。
「誰?」
「新堂瑞貴。あんたのクラスメイト」
「――また、転校ね」
おれは森井さんの右腕を見やる。
長袖のワイシャツはまくられ、やけどでもしたかのようにただれた皮膚が露出している。彼女のそばには厚手のセーターが脱ぎすてられ、赤いリボンも風に飛ばされそうになりながら地面に転がっていた。
苦痛で歪んだ森井さんの顔は、あまり直視していたくなかった。
「近寄らないほうがいいよ。私にもどうしようもないくらい暴走しちゃうことがあるから」
「その腕が?」
こくり、とうなずく。
おれは風雨にさらされて黒ずんだコンクリートの上に寝そべり、はるか遠くに浮かんでいる白雲を眺めた。
「あのチェーンを見たでしょう。あれは、私がやったの。信じられないくらいの力で。さびていたわけでもなかったのに簡単に引き千切れた。この忌々しい右腕が」
森井さんは体育座りになると長いスカートに顔をうずめた。
たぶん、泣いている。
「それはいつから?」
「二週間くらい前から。それ以上は、信じてもらえないと思う」
拒絶の意思。
傷つくのが怖いから、初めに予防線を張っておく。森井さんはどこまで深く傷ついているのだろう。
その右腕でえぐり取られるのと同じくらい、心に傷を負っているに違いないのだ。
おれは天上を指差して、言った。
「あそこから、降ってきたのか?」
「え?」
森井さんが顔をあげる。
まつ毛がぬれていた。
「雨と同じように。雷と同じように。天からは時々想像もしていないようなものが降ってくることがある。あんたの右腕もそれなんじゃないのか」
「……わかるの?」
「死にかけていたときに天国を見た。そこで見かけた瞳が、あんたのと一緒だったんだ」
「誰かを殺したいっていう瞳でしょ」
「そう」
彼女は諦めたような声で、ぽつりとつぶやく。
「仕方ないの。私のではないから」
「堕天使か」
「あなたは何でも知っているみたい。ねえ、これもどうにかしてよ。なんなのよ。いきなり私の腕に黒いあざができたかと思ったら、わけもわからないまま広がっていって……全部壊したくなるの! 家も、道路も、動物も、人間も、なにもかも全部を! 私がしたくてしてるんじゃない! 私は誰かが傷つくところなんて見たくない! 友達を自分の手で、自分の意志でもないのに傷つけてしまうもどかしさがわかる? それがどれだけつらいか、わかる?」
「…………」
「だったら私を助けてよ。知っているなら助けてよ」
森井さんはもう流れる涙を隠そうとはしなかった。とめどなく感情とともにあふれだす涙は、頬を伝い、乾いたコンクリートを濡らしていく。
「ねえ、お願いだから助けてよ!」
それは心からの叫びだった。
おれに向かって叫んだものなのか、はたまた彼女に災厄を与えた天に対してのものなのか。どちらにせよ、その声はおれにも聞こえた。
空は晴れている。
それなのに……なぜだろう、おれの瞳には雨粒が浮かんでいた。
目元を袖でゴシゴシとこするとおれは立ち上がり、泣き腫らしている森井さんに、ポケットから取り出した御札を手渡した。
「これは……?」
「知り合いの巫女もどきからもらった御札だ。そこらのお守りとは違って効果があるから、腕にでも張っておけば多少はマシになるだろう。授業が終わるくらいまではもつ筈だ」
森井さんはしげしげと文字の書かれた御札を眺めていたが、やがて意を決したようにそれを右上にくっつけ、その上からワイシャツの袖を戻した。
白いワイシャツでは、服の上からでも黒い部位がすけて見えてしまう。
決して寒い季節ではないというのに着ている紺色のセーターはそのためだ。首筋にもうっすらと影のようなものが浸食している。柄にもなく赤いリボンをつけているのもこれを隠すためだろう。
「少し――良くなった気がする」
「それならよかった。放課後にまた会おう」
森井さんを残し、モザイクのかかったガラス戸から校舎のなかへ戻る。転がっていたチェーンは、廊下の隅に投げ捨てた。
階段を下りている途中で、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。学校とは、実に面倒な場所だ。
その後の国語の授業中、森井さんの隣の女子は気を取り直したようにまた話しかけていた。今度は森井さんもどこか安心した様子で受け答えをしている。
心の奥でほっとしながら、おれはすすけた窓で空を覗いた。
その日の終わりを告げるチャイムは、いつだって決まった音階で鳴っている。
慌ただしく部活やら下校やらに奔走する同級生たちを横目に、おれは森井さんに話しかけた。
「どう、調子は?」
「悪くはない……けど、そろそろ効果が弱くなってきている、気がする」
そう答える彼女はどこか不安げだ。
今が落ち着いているぶん、御札の効力が切れてしまった時が怖いのだ。平穏な時間ほど、未来を恐怖させるものはない。
「なら急いだほうがいい。アポイントメントは取っていないが例の巫女さんに頼んで御札を何枚かもらって帰ろう。それと、ご両親に今日の帰りが遅くなるかもしれないと伝えておいて」
「なにか、するの?」
「天使がいるなら、魔法だってあるってことさ」
にっこり微笑むおれを森井さんはいぶかしげに見つめた。
大量の寄生虫を招いた元凶である巫女――岡倉の住んでいる神社はうちのすぐ近所だ。帰路の途中にあるため、たまに相変わらずジャージ姿でいるのを目撃してしまう。
そのたびにお賽銭をせがまれるので鬱陶しいのだが、「また神様が怒るぞ~」などと脅されては少ない小銭を寄付させられるのだ。
「たのもー!」
と境内に向かって呼びかけてみる。
神社のなかは簡素としたもので、何本か桜の木が生えているくらいだ。古めかしいおさい銭箱と、その横にあるお守りの販売所が申し訳程度に添えられているが、そこの収入だけでは岡倉の小遣い程度にしかならないだろう。
木の床を踏む足音が聞こえて、珍しく巫女装束を着ている岡倉が姿を現した。
顔立ちはいいから、口さえ開かなければ良く似合っている。
「どうした。うちの神社では結婚式も行えないことはないが、さすがに親戚一同を呼べるほどではないぞ。まあ二人だけのささやかな式ならできるが……見積もりはどの程度にしようか?」
女子を連れてきたのを盛大に勘違いした岡倉は否定する間もなくまくしたてた。これだから苦手なのだ。本当は頼みごとなどしたくないのだが、一生かかっても払いきれないくらいの貸しがあるのでよしとしよう。
「黙っておれの話を聞け」
「ああそうか。学生の身分では予算も少ないだろうし、私に頼んで安くしてもらおうという魂胆だな。そうはいかないぞ。私はびた一文負ける気はない」
払いきれないくらいの貸しを完全に忘れているようだ。
おれは大きくため息をついて、寄生虫の群れに放り込んでおかなかったことを後悔した。
「この前の御札を10枚ほどわけてくれ。それから、できることなら家までついてきてほしい。ちょっと手伝ってほしいことがある」
「1枚105円のところを消費税をおまけして1枚100円でどうだ」
どうせもとから100円なのだろう。こざかしい。
「なぜ金を払う必要がある。おれはお前に金額に直せば国家予算並みの貸しがあるんだぞ」
「そんなもの、いつ作ったというのだ」
「この神社に放火すれば、今度は蟲程度では済まないものが出てくるかな」
「こ、この罰当たり者め!」
「黙れ下郎が」
「……仕方ない、特別に無料でわけてやろう」
負け惜しみを残して、岡倉は境内の奥へと消えた。やけに肩が凝ってしまった。
森井さんはおれたちのやりとりを始終身をすくませながら見物していたが、岡倉がいなくなったのでようやく落ち着いたようだった。
それでも、心なしか呼吸が荒い。
「一体どんな関係なんですか? ずいぶん親しげに見えましたけど……」
「大きな勘違いだ。あいつにとって、おれは神様みたいなもののはずなんだが、いかんせん巫女のくせに不信心で困る」
「はあ……」
いまいち理解していないようだ。説明したところで長くなるし、納得するとも限らないのでおれはそれ以上何もいわなかった。
「ほい。これでいいか」
白い和紙にくるまれた御札の束を持って岡倉が再び姿を現した。
透き通るような肌の、生意気な口を開く。
「それで、家までついてきてほしいと言ったがそれは無理だ。今日はちょっと用事が立て込んでいてな、この服もそのためのものなのだ。また後日なら別にかまわないが」
「それなら仕方ない。次の機会はない」
「……いやに不愛想だな」
「せいぜい神道に精進してくれ」
おれはそう言い残すと、森井さんと一緒に鳥居をくぐった。後ろからなにやら悪態をつく声がしている気もしないではないが、たぶん空耳だろう。
家に帰るとおれはすぐにリビングにある家具の類を片づけた。人目につかなくて丈夫な地下室でもあれば都合がいいのだが、あいにくただの一軒家である我が家にそんな便利なものは備え付けられていない。
重たいテーブルやなんやを退避させるのは一苦労だったが、おれは熟年の引越し屋のようにてきぱきと作業をこなし、すぐに準備は整った。
カーテンを閉め、むき出しになったフローリングにガムテープで模様を作りだす。
最初に大きな円を描き、その中に5角形を星を入れる。
そらにその中に円陣やら文字やらを書き込むことによって、神聖なる結界を錬成することができるのだ。
「魔方陣、ですか?」
「森井さんの右腕に憑いているのは展開を追放された身の堕天使だ。もう純潔なる存在とは認められないだろう。だからこいつをつかって天使を引きずり出し、浄化する。汚れは浄化すると消えてしまうから、それで万事解決さ」
結界を張り巡らせるためには専門の知識が必要になる。
はるか昔の時代に活躍したとされる陰陽師はそのプロフェッショナルであり、日本流の始祖なのである。原理は同じだが、西洋に伝わったものを魔法と呼び、東洋に伝わったものを神通力と呼ぶのだ。
理論は基本、何らかの媒介によって自分のなかのエネルギーを他のものへと変換することによって成り立っている。杖や魔方陣は変換を行うための装置なのである。
呪文詠唱はいわばスイッチであり、祈祷や踊りもそれにあたる。
魔法使い、と呼称される人は意外と身近にいるものだ。
素質はあるのだが自分の能力に気付かずそのまま一生を終える者。気づいたはいいが制御の仕方がわからず自滅する者。良い師匠にめぐりあい、おおごとにならない程度に生活に活かしている者――など種類は多様だが、何の訓練もなしに使いこなせる才能ある魔法使いは少ない。
だから認知されていないのだ。
おれのように魔法使いの友人がいて、少し習っただけで師匠を超えてしまうような不届き者はほとんどいないのだから。
「よし、準備完了」
複雑に組まれた魔方陣と、床にびっしりと書き込まれている油性インク。掃除するのが大変そうだと今から憂鬱になるが、これも人助けのためだ。
何の罪もない人がある日突然、不幸のどん底に落とされていい理由なんてない。
理不尽な世の中に立ち向かってこそ、才能の使いどころがあるというものだ。
様々な部品をつかって組まれた機械が高性能であるように、魔方陣もいろいろと工夫を凝らして精度の高いものに仕立て上げることができる。万全を期すため、念には念を入れた陣だった。
「森井さん、そこの中心に立っていてください」
彼女はすでにセーターを脱ぎ、黒くなった右腕をさらけ出している。
緊張した足取りでゆっくり魔方陣の真ん中に立つと、目をつむった。
「……発動」
素足からエネルギーが魔方陣に流れ込んでいくのを感じる。
魔物をよびだすわけでもないし、少しおはらいをする程度なら何の問題もない。
薄暗い室内でガムテープがうっすらと光り輝いている。周りを囲むように配置された御札も、豆電球のようなほのかな光を放っていた。
「あ……う……」
苦しそうに顔をゆがめる森井さん。
とりついた悪霊を無理やりにひきはがしているわけだから、相当な違和感や痛みがともなう。それでも、幸福をちぎられる苦しみに比べたらずっと楽だ。だからおれはあえて何も声をかけないし、森井さんもそれをわかっているから懸命にこらえようとしている。
「く……あぁ……」
指先から、脱皮をするように黒い影が遊離を始めるのが見えた。ゆっくりと、渋るように森井さんの体から脱していく。まるでピーターパンのようだ、とおれは思った。
影は指先からひじにうつり、二の腕へと渡る。影の離れた部分は綺麗な肌色になり、人間らしい色を取り戻していた。やはり原因は幽霊のように透き通った体を現し出したこいつにあるのだろう。
想像よりもやや大きな体格をしていたその影は、森井さんよりも一回りくらい身長が高かった。
片方しかない翼は、リビングを飛び出しそうなくらい広げられている。やはり飛ぶためにはそれなりの大きさが必要なのだろう。
森井さんの体が清められていくにつれて、影の細部の輪郭が明確になってきた。
古代の壁画に残されているように端正な顔立ちをしているが、その表情は苦悶そのものだ。もがれた方の翼は根元が痛々しく、布を巻きつけているだけの衣服はあちこちに傷がつけられていた。
憎々しげにおれをにらみつける瞳が、徐々に完成されていく。
やがて堕天使の姿が元通りになると同時に、森井さんは気力を失いって地面に倒れこんだ。
「……我に抗うのはうぬか」
「そうだ。あんたを殺しに来た」
「人の身の分際で天使に抗うとは、愚かの極みではないか。何故下界に住まううぬごときが、我を殺さんとする?」
「あんたが嫌いだからだ。理由はそれで充分だろ」
「……我と同じ目をしているな、人間よ。曇りのない、怨恨の瞳だ」
「一緒にするな。おれはただあんたを消せればいい」
「私もそうだ。卑劣なことをする神どもを消し去りたかった。だが敵わず、このように地上に堕落せしめられた。実に忌々しい」
「あんたも誰かを不幸にしている。それだけで戦う理由になる」
おれは残しておいたもう半分の御札を取り出し、堕天使に向かって投げつけた。やつは魔方陣の外に出ることができない。刺すような視線だけを送り続けてくるだけだ。
「神を祀るための文字か。そのようなものに消されるとは……皮肉なものだな」
「あんたには後悔させる気もねえ。跡形もなく、微塵も残さずに消失しな」
「そういうわけにもいかぬ。私がいたずらにこの少女を苦しめていたかと思ったか? そうではない。少しの間、身を借りて体を休め、再び天に舞い降りるためにこの少女が必要だったのだ」
「それはあんたの理由だ。森井さんが不幸になっていい理由じゃない」
「人間ごとき、何故私が気にかける必要がある? お前たちも犬や猫の都合をいちいち考えているわけではあるまい。それと同じだ」
「知るか。おれはあんたを殺したいから殺す。誰かを守るために殺す」
「……どこまでも私とそっくりだな。お前がこの少女を守りたいのなら、消される私のことは思慮に入れぬのか?」
「ぐだぐだと死に損ないがぬかすんじゃねえよ。とっとと消えな」
おれはそれっきり、口をつぐんだ。
堕天使はまるで存在を言葉に乗せているかのように次々と愚にもつかない理屈を並べ立てていたが、おれは聞く耳を持たず、堕天使の影が薄くなっていく姿を眺めた。
御札の効果はもらいたてなだけあって、抜群だ。
やつがどれだけ暴れて抵抗しようと、魔方陣の破れる気配すらない。
はむかうことで却って体力を消費して、消えるまでの時間を短くさせているくらいだった。
薄くなる。
消えかける。
死ぬということ。
恐怖する様子は見せなかったが、これ以上何もできなくなるということを惜しみながら、堕天使は死んだ。跡形もなく。
「終わったぞ」
声をかけても、森井さんは目を覚ましそうになかった。おれは彼女の体を優しく抱き抱えると、2階にある自室のベッドに運んで、そっと寝かせておいた。
閉め切ったカーテンを開けると、紅の夕焼けが長い影を作りだしながら夜を迎えようとしていた。
解説という名のもとに筆者があとからごたごた述べるのはあまり好きじゃないんですが、少しだけ補足を。
まあ、いわゆる中二病と呼ばれるものが、本当に堕天使やらが憑いている場合はほとんどないわけであって。
でも、何か原因があるのかもしれませんね、っていう話です。
段々、更新間隔が広がってきていますが、次はコミカルに、そして迅速に書きますので、これからも読んでやってください。




