第六十三話
西暦二〇七三年、冬。
極寒のシベリアでの任務から帰還し、数日が経過した海上プラント『アヴァロン』。
深夜の食堂は、空調の低い駆動音だけが響く静寂に包まれていた。
広大なスペースに人影はまばらだ。その片隅で、リヒトは一人、湯気の立つマグカップを見つめていた。
中身はただのブラックコーヒーだが、凍てつくロシアの凍土を這いずり回った身体には、この温かさが何よりの贅沢に感じられた。
(……キメラ、か)
脳裏に蘇るのは、友の面影を無理やり継ぎ接ぎされた、あの異形の怪物の姿。
そして、それを前にした時の、隣にいた男の絶叫。
リヒトは小さく息を吐き、コーヒーを一口啜った。
「……隣、いいか」
不意に、頭上から声をかけられた。
顔を上げると、そこに銀髪の男――十傑『第四席』サイラス・ヴァイスが立っていた。
トレーを持っている。
「……ああ。構わない」
リヒトが短く答えると、サイラスは無言で向かいの席に腰を下ろした。
以前のような、触れれば切れるような刺々しい殺気はない。
目の下に隈を作り、どこか疲弊した様子ではあるが、その瞳からは狂気じみた憑き物が落ち、理知的な光を取り戻していた。
周囲にいた数少ない一般兵士たちが、ギョッとしたようにざわめき始める。
「おい、あれ第四席だろ?」「なんで異世界人と一緒に飯食ってんだ?」
ヒソヒソとした視線が突き刺さるが、二人は気にした様子もなく、黙々と手を動かした。
カチャリ、とスプーンが食器に当たる音がする。
二人のトレーに乗っているのは、任務中の携行食という名の「飼料」ではない。
野菜と肉が煮込まれた、温かいクリームスープだ。
サイラスが一口運び、ふぅ、と小さく息を吐く。
リヒトもまた、スプーンを口に運ぶ。
温かい食事が胃に落ちる感覚。それが、彼らが地獄のような任務から生きて戻り、人間としての感覚を取り戻しつつあることを実感させた。
共有する沈黙は、不思議と居心地の悪いものではなかった。
かつては反発し、殺し合い寸前までいった関係だ。
だが、あの極寒の地で背中を預け合い、同じ「喪失」の痛みを知った今、言葉以上の何かが二人の間には通っていた。
「……ギデオンのデータは、どうなった」
スープを半分ほど平らげたところで、リヒトが静かに問うた。
サイラスの手がわずかに止まる。だが、以前のように激昂することはなかった。
「第九席に解析を回した。……奴の記憶領域から、ヴィクトルの尻尾は掴んだ。あとは、ボスの判断待ちだ」
淡々とした口調。だが、その奥には静かで、しかし決して消えることのない青白い炎のような決意が宿っていた。
友を冒涜した者への復讐心ではない。友の魂を安らかに眠らせるための、使命感に近いものだ。
「そうか」
「……貴様のおかげで、奴を『終わらせて』やることができた。礼は言わんぞ」
「期待していないさ」
リヒトは微かに口元を緩め、残りのコーヒーを飲み干した。
食事を終え、二人はほぼ同時に立ち上がる。
返却口へトレーを運び、出口へと向かう廊下で、サイラスが足を止めた。
振り返ったその顔つきは、既に感傷に浸る男のものではなく、冷徹な『第四席』のものに戻っていた。
「リハビリは終わりだ、リヒト」
サイラスが、鋭い視線をリヒトに突き刺す。
「明日から、貴様の力のデータを取る。あの時見せた『光』……魔素のないこの世界で、なぜあれほどの出力が出せたのか。徹底的に丸裸にしてやる」
「……手荒な真似はしないでくれよ」
「フン。貴様次第だ」
サイラスは鼻を鳴らし、銀髪を揺らして去っていった。
リヒトはその背中を苦笑しながら見送った。
友と呼ぶにはまだ歪で、あまりに距離がある。
だが、あの背中はもう、リヒトにとって警戒すべき敵のものではなかった。
確かに背中を預けられる「戦友」としての関係が、アヴァロンの冷たい廊下で、確かに成立していた。




