第六十一話
ドワーフの大工房都市、フォージストの朝は早い。
東の空が白み始める頃には、すでに街のあちこちにある工房の煙突から黒煙が立ち昇り、槌音がリズムを刻み始めている。
その活気ある喧騒を背に、ノエル・ゼーヴァルトは、グリムガルの工房の前で旅支度を整えていた。
腰には、昨日打たれたばかりの新たな愛刀『黒月』。
漆黒の鞘に収まったその刀は、ノエルの腰に吸い付くように馴染んでおり、まるで体の一部であるかのような一体感があった。
黒いコートを羽織り、背嚢を背負ったその姿は、もはやリーフェン村を出た時の少年ではない。数多の死線を潜り抜けてきた、一人前の「戦士」の佇まいだった。
「……お待たせ、ノエル」
工房の奥から、エリスが出てきた。
ノエルは振り返り、少しだけ目を見張った。
「……ほう」
エリスの装備もまた、一新されていた。
以前の、村の自警団が使うような簡素な革鎧ではない。
身体のラインにフィットするように調整された、上質な魔獣の革とミスリル銀のプレートを組み合わせた軽装のアーマー。動きやすさを重視しつつ、急所はしっかりと守られている。
そして何より目を引くのは、その手に握られた新しい杖だった。
深緑色をした世界樹の枝をベースに、先端には風の魔力を増幅する翠玉が埋め込まれている。
グリムガルが「あの棒切れよりはマシだろ」と、余った素材で(と言いつつ、徹夜で)調整してくれた特注品だ。
「どう? 似合う?」
エリスが、くるりと回って見せる。
赤髪のポニーテールが揺れ、新しい装備が朝日に輝く。その姿は、凛々しくも華やかで、まさに「戦乙女」といった風情だ。
「ああ。悪くない」
ノエルは短く答えた。
素っ気ない返事だが、その口元がわずかに緩んでいるのを、エリスは見逃さなかった。
「ふふん。あんたのその黒い刀も、なかなか様になってるじゃない」
「道具に負けないようにな」
二人が軽口を叩き合っていると、工房の扉が豪快に開かれた。
「おうおう、朝から熱いこって!」
グリムガルが、眠そうな目をこすりながら出てきた。その後ろから、ゼファーも姿を現す。
「……行くのか」
グリムガルが、ぶっきらぼうに尋ねる。
「ああ。世話になったな、グリムガルさん」
ノエルは、偏屈な鍛冶師に向かって頭を下げた。
「この『黒月』、一生大事にするよ」
「けっ。一生なんて重い言葉は使うな。折れたらまた来い。修理代はふんだくってやるからな」
グリムガルは照れ隠しのように鼻を鳴らしたが、その目は満足げだった。自らの最高傑作を託した若者が、これからどんな伝説を作っていくのか。職人としての期待が滲んでいる。
「エリスの嬢ちゃんもな。その杖、へし折るんじゃねえぞ」
「もちろんです! グリムガルさん、本当にありがとうございました!」
エリスが深々と一礼する。
そして、ノエルの視線は、静かに佇むもう一人の老人――師匠であるゼファーへと向けられた。
「……ゼファー師匠」
ノエルは、居住まいを正した。
二年間の過酷な修行。
理不尽な岩登りも、死にかけた魔獣との連戦も、そして何より、あの「最終試練」での死闘も。
今となっては、その全てが血肉となり、今の自分を形作っている。
「世話になりました」
ノエルは、言葉少なに、だが万感の思いを込めて頭を下げた。
言葉にすれば軽くなる。この感謝と敬意は、これからの生き様で示すしかない。
「うむ」
ゼファーは、短く頷いた。
その瞳は、いつもの飄々としたものではなく、巣立っていく雛鳥を見送る親鳥のように、厳しくも温かい光を宿していた。
「ノエル、エリス。お主らは強くなった。だが、驕るなよ。世界は広い。上には上がいる」
「分かってる。……アンタみたいな化け物が、ゴロゴロいるとは思いたくないけどな」
ノエルが苦笑すると、ゼファーもニヤリと笑った。
「カカッ! ワシなんぞ、まだ可愛いほうよ」
ゼファーは杖を突き、南の方角――港町ポルト・フィオーレがある方向を指し示した。
「次は、アーテナ大陸へ渡れ」
「アーテナ大陸……」
ノエルが反芻する。
そこは、帝国の本拠地がある大陸。そして、リヒトの故郷でもある場所。
「そこで己の力を試せ。世界を知り、人を知り、そして……お主らが背負う『運命』の意味を知るのじゃ」
ゼファーの言葉には、単なる旅の指針以上の、重い響きがあった。
ノエルは、ゼファーが何かを知っていることを察していた。自分の転生のこと、そして体内の「黒の悪魔因子」のこと。
だが、ゼファーは全てを語ろうとはしない。
「自分自身の足で、答えを見つけろってことか」
「そういうことじゃ」
ゼファーは、ふと、遠くを見るような目をした。
「それとな……。もし、向こうで『アベル』という名の、頭の固い馬鹿な騎士に会うことがあれば……」
ゼファーの言葉が途切れる。
一瞬の沈黙の後、彼は自嘲気味に首を振った。
「……いや、忘れてくれ。息子のことは、気にしなくていい。お主はお主の道を行け」
「……息子?」
ノエルは眉をひそめたが、ゼファーは「なんでもない」と手を振った。
「行け! 振り返るな! これより先は、お主ら自身の冒険じゃ!」
ゼファーの背中を押すような一喝。
それが、別れの合図だった。
「……ああ! 行ってきます!」
「お元気で、師匠!」
ノエルとエリスは、二人の老人にもう一度深く一礼すると、踵を返した。
朝日に照らされた街道を、二つの影が並んで歩き出す。
その足取りに、迷いはなかった。
***
フォージストの巨大な城門をくぐり、鉄と炎の匂いが薄れていく。
代わりに、風に乗って微かに潮の香りが漂ってきた。
港町ポルト・フィオーレまでは、ここから数日の道のりだ。
「ねえ、ノエル」
街道を歩きながら、エリスが隣のノエルを見上げた。
「アーテナ大陸って、どんなところかしら」
「さあな。戦争と、武骨な騎士ばかりの国だって話だが」
「ふふ、楽しみね。私たちがどれだけ通用するか」
エリスの横顔には、不安よりも期待の色が濃い。
二年前、復讐心に囚われていた少女はもういない。
今は、隣に立つパートナーと共に、未知の世界へ挑む冒険者としての輝きが、その瞳に宿っていた。
「……ああ。やってやるさ」
ノエルは、腰の黒月の柄を指でなぞった。
アークスへの復讐。麗華の救出。そして、この世界の家族を守るという誓い。
目的は変わらない。だが、そのために振るう「力」は、確実に変わった。
(待ってろよ、アークス。……いや、まずは帝国か)
帝国の圧政。エリスの故郷を焼いた敵。
アーテナ大陸で待ち受けるであろう戦いの予感に、ノエルの傭兵としての血が、静かに、だが熱く騒ぎ始めていた。
二人の背中が、朝靄の向こうへと小さくなっていく。
新たな章の幕開けを告げる風が、彼らの髪を揺らしていた。
***
城門の上。
ゼファーは、小さくなっていく二人の弟子たちの背中を、いつまでも見送っていた。
隣には、グリムガルが腕組みをして立っている。
「……行っちまったな」
「ああ」
「いい目をしてやがった。あいつらなら、大丈夫だろ」
グリムガルが、不器用な言葉で太鼓判を押す。
ゼファーは、ゆっくりと頷いた。
「そうじゃな。……だが、これからが本当の試練じゃ」
ゼファーの脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
かつて共に戦った仲間たち。そして、道を違えた息子アベル。
帝国の歪んだ正義と、世界を覆い尽くそうとする不穏な影。
そして何より、ノエルの内にある「破壊」と、まだ見ぬ「創造」の光。
「双星の片割れ……」
ゼファーは、誰にも聞こえない声で、独りごちた。
「運命の歯車が、回り始めたか」
ノトスが残した伝説。
『双星、相見える時、世界は裁きを受ける』。
その伝説の真の意味を、あの少年はまだ知らない。
だが、彼が歩む道の先に、必ずその時は訪れるだろう。
「頼んだぞ、ノエル。……世界を、守ってくれ」
ゼファーの祈るような呟きは、風にさらわれ、空へと溶けていった。
見上げた空には、青い空と、白く残る月が、静かに輝いていた。
次話は未定です。




