第五十八話
夜明け前の、薄暗い修行場の岩場。
東の空が白み始め、山々の稜線が青く浮かび上がる頃、ノエル・ゼーヴァルトとエリス・ファーンは、その場に立ち尽くしていた。
彼らの前には、ただ一人の老人。
ゼファー・フォン・アルクライド。
杖を構えただけの、その自然体な姿から放たれるのは、山脈そのものを背負っているかのような、圧倒的な威圧感だった。
「さあ、来い! ワシにその成長の証を刻んでみせろ!」
ゼファーの咆哮と共に、最終試練の幕が上がった。
「行くぞ、エリス!」
ノエルが、合図と共に地面を蹴った。
『雷速』による無詠唱強化。青白い雷光を纏い、音速に迫る速度でゼファーの懐へと飛び込む。
狙うは、無防備に見える左脇腹。
「遅い」
ゼファーは、動かなかった。
ただ、杖を軽く地面に突き立てただけだった。
ドォォォォン!
突如、地面から不可視の衝撃波が噴き上がり、ノエルの進路を塞いだ。
地神流魔法、『アース・ブラスト』。
しかも、無詠唱。
「なっ!?」
ノエルは空中で強引に身体を捻り、衝撃波を回避するが、その隙をゼファーは見逃さなかった。
杖が、風を切る音さえ置き去りにして振るわれる。
ガギンッ!
ノエルは咄嗟に木剣で防御したが、その衝撃は桁外れだった。
身体がボールのように弾き飛ばされ、数メートル後方の岩壁に叩きつけられる。
「ぐ……っ!」
「どうした、その程度か! ワシの背中など、一生見えんぞ!」
ゼファーは追撃の手を緩めない。
杖を振るうたびに、雷撃が、風刃が、炎弾が、嵐のように二人を襲う。
彼は、五大属性の全てを、呼吸をするように自在に操っていた。
「くそっ、化け物かよ……!」
エリスもまた、必死だった。
彼女は後方から援護射撃を行うが、ゼファーはそれらを、まるで羽虫でも払うかのように、最小限の動きで弾き返していた。
「エリス! 詠唱だ! 最大火力を!」
ノエルが叫ぶ。
彼は、再び雷速でゼファーに突っ込み、その注意を引きつける。
無数の魔法を紙一重で回避し、時には身を挺して受けながら、エリスが詠唱を完了するまでの時間を稼ぐ。
「風よ、集え! 嵐となりて全てを吹き飛ばせ!」
エリスの杖に、膨大な風の魔力が収束する。
彼女がこの二年間で編み出した、最大級の広範囲殲滅魔法。
「『ストーム・カタストロフ』!!」
轟音と共に、巨大な竜巻がゼファーを飲み込んだ。
岩盤すら抉り取る暴風。
だが、その中心で、老人は笑っていた。
「ほう。悪くない」
ゼファーは、杖を天に掲げた。
「だが、甘い!」
バチチチチッ!
ゼファーの杖から、紫電が迸った。
雷神流・奥義『雷光の結界』。
竜巻の内側から放たれた雷撃が、風の檻を内側から食い破り、霧散させた。
「嘘……!」
エリスが絶句する。
自分の全力の一撃が、いとも容易く無効化された。
「終わりか? ならば、次はワシの番じゃ」
ゼファーが、杖を二人に向ける。
その先端に、圧縮された雷球が生成される。
これを受ければ、死ぬ。
ノエルとエリスの肌が、死の予感に粟立った。
「……まだだ!」
ノエルが叫んだ。
諦めていない。その瞳は、まだ死んでいない。
「エリス! プランBだ! 合わせろ!」
「えっ!? あれをやるの!?」
「やるしかない! 信じろ、俺を! 俺はお前を信じる!」
ノエルは、木剣を投げ捨てた。
そして、丸腰のまま、ゼファーに向かって走り出した。
「死に急ぐか、小僧!」
ゼファーが雷球を放つ。
だが、ノエルは減速しない。
直撃の寸前。
「『ウィンド・ミラージュ』!」
エリスの魔法が発動した。
それは攻撃魔法ではない。風で土煙を巻き上げ、同時に空気の密度を操作して光を屈折させる、幻惑魔法。
ゼファーの視界が、一瞬だけ奪われる。
「小細工を!」
ゼファーは、気配察知でノエルの位置を捉えようとする。
だが、聞こえてきたのは、ノエルの足音ではなかった。
ヒュオオオオオ……
エリスが、風の音を増幅させ、戦場全体に響かせていたのだ。
視覚と聴覚、その両方を塞がれた一瞬の空白。
「ここだあああああッ!」
ノエルは、その空白の中にいた。
彼は、雷速の出力を限界まで上げ、自らの肉体が壊れるのも厭わず、加速した。
武器はない。
あるのは、自身の拳のみ。
前世のCQC。
渾身の右ストレート。
ゼファーは、咄嗟に杖で防御しようとした。
だが、ノエルの拳は、その杖を狙っていなかった。
彼は、殴りかかる直前で、拳を開いた。
そして、ゼファーの懐に飛び込み、そのローブの裾を、強く掴んだ。
「捕まえたぞ、クソ爺!」
「なっ!?」
ゼファーが、初めて驚愕の表情を見せた。
ノエルの狙いは、打撃ではなかった。
ゼファーの動きを、一瞬でも止めること。
「エリス! 今だッ!」
ノエルの叫びに応え、土煙の向こうから、エリスの声が響く。
「『エア・バレット・スナイプ』!!」
彼女が放ったのは、広範囲魔法ではない。
風を極限まで圧縮し、指先ほどの大きさに凝縮した、見えない弾丸。
それは、ノエルの身体のすぐ横をすり抜け、ゼファーの胸元へと吸い込まれた。
防御が間に合わない。
回避もできない。
パシュッ!
乾いた音がした。
ゼファーの着ていたローブの胸元に、小さな穴が開いた。
風の弾丸が、布を貫通し、その下の皮膚を、ほんのわずかに掠めた音だった。
静寂が戻る。
ノエルは、ゼファーの服を掴んだまま、荒い息をついて崩れ落ちた。
エリスもまた、魔力枯渇でその場にへたり込んだ。
ゼファーは、自分の胸元の穴を、呆然と見つめていた。
そして、ゆっくりと、その顔に笑みが広がった。
「……見事じゃ」
老人は、杖を下ろした。
「個々の力では届かぬと知り、互いの全てを賭けた連携。……1足す1が、100を上回った瞬間じゃったな」
ゼファーは、ノエルの頭に手を置き、そしてエリスの方を向いて、高らかに宣言した。
「合格じゃ! 免許皆伝を授ける!」
「……やった……」
「……勝った……」
ノエルとエリスは、顔を見合わせ、泥だらけの顔で、最高の笑顔を浮かべた。
朝日が、三人を照らし出していた。
長い長い修行の終わり。そして、本当の旅立ちの時が、訪れた。
次話は[2025年12月5日 18時00分]予定です。




