第五十七話
師であるゼファー・フォン・アルクライドの下で、文字通り死と隣り合わせの日々を過ごしてきた。魔力を封じた状態でのロッククライミング、凶暴な魔獣の巣への単身突撃、そしてゼファーによる理不尽極まりない実戦形式の組手。
それらの試練は、彼らの肉体と精神を極限まで削ぎ落とし、そして鋼のように強靭に鍛え上げていた。
ある日の早朝。
いつものように、まだ夜明け前の薄暗い中、朝の鍛錬を始めようとしていた二人の前に、ゼファーが立ちはだかった。
老人は、岩の上に胡坐をかき、閉じていた目を開く。その双眸には、いつもの飄々とした様子はなく、底知れない深淵のような静けさが宿っていた。
「……小僧ども。剣を置け」
ゼファーの声は、低く、腹の底に響くような重みを持っていた。
ノエルとエリスは顔を見合わせ、言われた通りに武器を下ろす。師のただならぬ雰囲気に、二人の背筋に緊張が走る。
「この二年間、お主らはよく耐えた。基礎体力、魔力制御、そしてそれぞれの特性を活かした戦闘術。……合格点じゃ」
ゼファーは立ち上がり、二人を見下ろした。
その言葉に、ノエルの心臓が高鳴る。
「じゃあ、修行は終わりか?」
期待を込めて問うノエル。
アークスへの復讐。麗華の救出。そして、家族を守るための力。
焦燥感は常に胸の内にあった。一日でも早く、強くなりたかった。
だが、ゼファーはゆっくりと首を横に振った。
「まだじゃ。最後にもう一つだけ、超えねばならぬ壁がある」
ゼファーは杖を突き、背後にそびえる岩山を指差した。その頂は、黒い雷雲に覆われ、時折走る稲妻が不気味に光っている。
「明日、夜明けとともに『最終試練』を行う」
「最終……試練?」
エリスがごくりと唾を飲む。その表情には、期待と不安が入り混じっていた。
ついに、その時が来たのだ。
「内容は単純。『ワシに一撃を入れること』じゃ」
「……爺さんに一撃?」
ノエルが眉をひそめる。
単純、と師は言った。だが、それがどれほど絶望的に困難なことか、ノエルは誰よりも理解していた。
この二年間、修行の中で何度もゼファーと手合わせをしてきた。だが、ただの一度として、その身体に触れることさえできていない。
元『雷王級』の実力。それは、老いてなお衰えるどころか、経験という研磨を経て、底が見えない深淵のようになっていた。彼の纏う空気の壁一枚すら、未だ破れていないのだ。
「そうだ。魔法でも剣でも何でもいい。ワシの身体に、服の裾にでも一撃かすらせれば、免許皆伝。晴れてこの山を下りることを許そう」
ゼファーは、鋭い眼光で二人を見回した。
「だが、今のままでは無理じゃな。お主らには決定的に足りないものがある」
「足りないもの……?」
エリスが反論するように声を上げた。
彼女はこの二年間で、風魔法の詠唱短縮と精密操作を極限まで高めてきた自負があった。かつては数秒かかっていた上級魔法を、今では一呼吸で放つことができる。
「魔力も、速度も、これ以上どう上げろって言うのよ。私たちは、死ぬ気でやってきたわ」
「個々の力は伸びた。それは認めよう。だがな」
ゼファーは冷徹に断言した。
「『二人で戦う』という意味を、まだ本当には理解しておらん」
「……!」
「お主らは、隣に立ってはいるが、戦っているのはあくまで『個』じゃ。ノエルはノエルの戦いを、エリスはエリスの戦いをしている。互いの力を足し算しているに過ぎん」
ゼファーの言葉が、二人の胸に突き刺さる。
確かに、協力はしている。だが、それは「自分の隙を埋めてもらう」あるいは「相手の隙を突くための囮にする」という、利己的な連携の域を出ていないのかもしれない。
「それでは、ワシのような『格上』には一生届かん。足し算では、埋まらない差があるのじゃ」
「足し算じゃ、ダメだってのか……?」
ノエルが問う。
「掛け算にしろと言っておるのじゃ。……1足す1が2にしかならぬようでは、ワシの100には勝てん。だが、掛け合わせ、昇華させれば、無限の可能性が生まれる」
ゼファーはそれだけ言い残すと、くるりと背を向け、岩陰の寝床へと去っていった。
「明日の夜明けまでに、互いの連携を完璧にしておけ。それができなければ、一生かかってもワシには届かんぞ」
残されたノエルとエリスは、重苦しい沈黙の中で、ただ立ち尽くしていた。
雷鳴だけが、遠くで轟いていた。
***
その夜。
月明かりの下、修行場の広場で、二人は向かい合っていた。
昼間の熱気が冷え込み、冷たい夜風が吹き抜ける。
「……やるか」
ノエルが、静かに言った。
手には、愛用の木剣。二年間使い込み、手の脂が染み込んだ相棒だ。
「ええ。確認しておかないとね」
エリスも杖を構える。その表情は真剣そのものだった。
ゼファーの言葉の意味。「掛け算の連携」。それを確かめるための、最後の模擬戦。
「行くぞ、エリス!」
ノエルが、警告と共に踏み込む。
『雷速』を発動させた彼の動きは、もはや肉眼で追える速度ではない。
バチッ! という音と共に、青白い残像を残し、瞬時にエリスの間合いを詰める。
一年前とは比べ物にならない速度。だが、エリスは動じない。
「っ!」
エリスは、風の魔力を足元に纏わせ、バックステップで距離を取る。同時に、杖を振るい、不可視の風の刃『エア・スラッシュ』を放つ。
詠唱破棄に近い速度。
だが、ノエルはその軌道を完全に見切っていた。
風の刃が頬を掠めるのも構わず、最小限の動きで刃を躱し、さらに加速する。
ノエルの目が捉えているのは、エリスの喉元一点のみ。
(速い……! でも!)
エリスは焦燥感を覚えつつも、冷静に対処する。
この二年間で、彼女の動体視力と反応速度は飛躍的に向上した。風を探知魔法として展開し、空気の揺らぎで相手の動きを先読みする技術も身につけた。
それでも、ノエルの『雷速』は、その予測の上を行く。
「そこだ!」
ノエルの木剣が、エリスの喉元に迫る。
必殺のタイミング。
だが、エリスは杖を地面に突き立てた。
「『ウィンド・ウォール』!」
エリスの足元から、圧縮された空気が爆発的に噴き上がる。
風の障壁が、ノエルの剣撃を弾き返した。
ガギンッ!
重い衝撃音が響き、ノエルの身体が後方へ弾かれる。
エリスもまた、衝撃で数メートル吹き飛ばされ、地面を転がった。
「きゃあっ!」
エリスは受け身を取って立ち上がるが、その顔は苦痛に歪んでいた。
障壁越しでも伝わる衝撃。ノエルの剣は重い。
「……くっ」
ノエルもまた、弾かれた腕の痺れを堪えながら、剣を構え直す。
「どうした、エリス。動きが硬いぞ」
ノエルが指摘する。
「風の探知はできてる。俺の動きも見えてるはずだ。なのに、対処が遅れてる」
「分かってるわよ! でも……!」
エリスは杖を握りしめた。悔しさが滲む。
彼女の弱点。それは、接近戦における決定打の不足と、防御の脆弱さだ。
風魔法は中〜遠距離では無類の強さを発揮するが、懐に入られると脆い。風の障壁も、ノエルのような一点突破型の攻撃には相性が悪い。
「私の魔法じゃ、あんたの速度を止めきれない……。もっと、もっと速く詠唱しなきゃ……」
エリスは焦っていた。
明日の相手は、ノエル以上の速度と技量を持つゼファーだ。
今のままでは、また足手まといになる。あのオーク襲撃の時のように。
「……違うな」
ノエルが、静かに言った。
彼は剣を下ろし、エリスの方へと歩み寄る。
「え?」
「お前は、全部一人でやろうとしすぎだ。防御も、回避も、攻撃も」
ノエルは、エリスの前に立ち、その翠の瞳を見据えた。
「爺さんは言ったろ。『足し算じゃなく、掛け算にしろ』って」
「それは……でも、自分の身くらい守れなきゃ、パートナーなんて言えないじゃない」
「逆だ。パートナーだからこそ、守らなくていいんだ」
ノエルの言葉に、エリスが目を見開く。
「お前は剣士にならなくていい。接近戦で俺や爺さんと張り合う必要なんてないんだ。……俺が剣になる」
ノエルは、自分の胸をドンと叩いた。
「お前が狙われたら、俺が防ぐ。俺が突っ込む時は、お前が道を開け」
「ノエル……」
「俺とお前の力は、性質が違う。俺は『点』で、お前は『面』だ。俺が一点を突破し、お前がその隙を広げ、戦場全体を制圧する。……それが、俺たちの『形』だろ」
ノエルの言葉が、エリスの胸にすとんと落ちた。
そうだ。自分たちは、二人で一つだ。
個々の弱点を克服するのではなく、互いの強みで弱点をカバーし合い、相乗効果を生み出す。
それが、ゼファーが求めている「連携」の正体。
「……そうね。私、焦ってたみたい」
エリスの顔から、強張りが消えた。
彼女は杖を構え直し、不敵に笑った。それは、かつての傲慢さではなく、自信に満ちた冒険者の笑みだった。
「じゃあ、試してみましょうか。あんたが私の『剣』になれるか」
「上等だ。お前こそ、俺の『翼』になれよ」
二人は再び距離を取り、構えた。
だが、今度は空気が違っていた。張り詰めた緊張感ではなく、互いを信頼し合う、心地よい一体感。
「行くぞ!」
ノエルが駆ける。
エリスは、迎撃の風魔法を撃とうとはしなかった。
代わりに、ノエルの進行方向にある障害物――岩や木の根を、風の魔力で弾き飛ばし、彼の走路をクリアにする。
(走りやすい……!)
ノエルは驚愕した。
足元の障害物を気にする必要がない。最短距離を、最速で駆け抜けられる。
そして、仮想敵に見立てた巨岩との距離がゼロになる瞬間。
「『ウィンド・ブラスト』!」
エリスが、ノエルの背後から、爆風を放った。
それは攻撃ではなく、ノエルの背中を押す「加速」のための風。
「うおおおっ!」
『雷速』に風の加速が加わり、ノエルの速度が限界を超えた。
青白い雷光と緑の疾風が融合し、一つの巨大なエネルギー弾となって、虚空を穿つ。
ズドンッ!!
ノエルの木剣が、巨岩を粉砕した。
物理法則を無視したかのような破壊力。
「……はあっ、はあっ……」
土煙の中、ノエルが着地する。
その背中には、傷一つない。
そして、エリスもまた、ノエルが切り開いた安全圏で、悠然と杖を構えていた。
「……どう? 今の」
エリスが、悪戯っぽく微笑む。
「……最高だ」
ノエルは、痺れる手を握りしめ、ニヤリと笑った。
言葉はいらない。
視線を合わせるだけで、次の動作がわかる。呼吸が合う。
互いの魔力が、互いを補い、高め合っている感覚。
「これなら……いける」
阿吽の呼吸。
二人の「双星」は、ついにその輝きを一つにした。
***
翌朝。
東の空が白み始め、山々の稜線が青く浮かび上がる頃。
ノエルとエリスは、修行場の岩場に並んで立っていた。
その表情は、昨夜までの迷いや不安とは無縁の、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。
朝日が昇ると同時に、岩陰からゼファーが姿を現した。
老人は、二人の顔を見ると、満足げに口元を緩めた。
「……良い顔になったな」
ゼファーの身体から、パチパチと紫電が迸る。
ただ立っているだけで空気が歪むような、圧倒的な魔力の密度。
元『雷王級』の本気。
そのプレッシャーを前にしても、二人は一歩も退かなかった。
「準備はいいか、小僧ども」
「ああ。いつでもいいぜ、爺さん」
ノエルが木剣を構える。その切っ先は、迷いなくゼファーの喉元を指している。
「覚悟しておきなさいよ、クソ爺」
エリスが杖を握る手に力を込める。周囲の大気が、彼女の意思に呼応して渦を巻き始める。
「ほう。……いい面構えになったわい」
ゼファーは、杖をゆっくりと構えた。
それは、ただの老人ではない。世界最強の一角として君臨した、伝説の冒険者の姿だった。
「さあ、来い! ワシにその成長の証を刻んでみせろ!」
「行くぞ、エリス!」
「ええ、ノエル!」
二人の声が重なる。
最後の試練が、幕を開けた。
次話は[2025年12月5日 9時00分]予定です。




