第五十六話
五雄暦八二八年。
アシュタロテ大陸とアーテナ大陸の境界に位置する、険しい山岳地帯。
獣人の国『ガルーダ』の領土に近いこの場所は、年中雷雲が立ち込め、強力な魔獣が跋扈する、人跡未踏の魔境である。
その、切り立った岩山の頂で。
轟音と共に、巨大な岩塊が天を衝いた。
「――遅いッ!」
鋭い裂帛の気合と共に、黒い影が疾走する。
ノエル・ゼーヴァルト。十六歳。
二年前、リーフェン村を旅立った時とは、その姿は劇的に変貌を遂げていた。
背は頭一つ分伸び、かつての少年の面影を残しつつも、その顔つきは精悍に引き締まっている。鍛え上げられた肉体は、無駄な脂肪が極限まで削ぎ落とされ、鋼のようなしなやかさを宿していた。
バチチチチッ!
彼の身体から、青白い魔力のスパークが迸る。
かつては暴走の象徴だったその雷光は、今や彼の手足のように完全に制御され、彼の神経と筋肉を極限まで加速させていた。
無詠唱身体強化――『雷速』。
「はあっ!」
ノエルが、手にした黒鉄木の木剣を一閃させる。
狙うは、目の前に立ちはだかる、体高五メートルはあろうかという巨大な岩塊の巨人――アースゴーレムの首元。
かつてならば、逃げることさえ困難だったAランク級の魔物。だが今のノエルにとって、それは「乗り越えるべき壁」ですらなかった。
ゴーレムが鈍重な見た目に反した反応速度で、大地から無数の岩の棘を突き出し、ノエルの進路を塞ぐ。
「甘いわ! 直線的な動きは読まれると言ったはずじゃ!」
後方から、師であるゼファーの怒声が飛ぶ。
しかし、ノエルは慌てない。口元に、不敵な笑みを浮かべる余裕さえあった。
「分かってるよ、爺さん!」
ノエルは、空中で強引に体勢を変えた。
足裏に魔力を集中させ、空気を蹴るようにして再加速する。
そして、突き出された岩の棘を足場にし、さらに高く跳躍した。
「エリス!」
ノエルが叫ぶ。
その声に応えるように、森の木々の間から、一条の緑色の風が吹き抜けた。
「任せて!」
凛とした、鈴を転がすような少女の声。
エリス・ファーン。十七歳。
燃えるような赤髪をポニーテールに束ね、動きやすい軽装のレザーアーマーに身を包んだ彼女もまた、二年前とは見違えるほど大人びた、美しい女性へと成長していた。
少女特有の幼さは消え、その肢体にはしなやかな筋肉と、女性らしい曲線美が宿っている。
彼女が振るう杖から、極限まで圧縮された風の塊が放たれる。
「風よ、穿て! 『エア・バレット』!」
短縮詠唱。
かつては数小節を要した魔法が、今や単語一つとイメージだけで発動する。
放たれた風の弾丸は、ゴーレムの関節部――岩と岩の継ぎ目の、わずか数センチの隙間に正確に着弾し、そのバランスを大きく崩させた。
「ナイスだ!」
ノエルは、その一瞬の隙を見逃さない。
上空から、落下エネルギーと『雷速』の加速を乗せた、必殺の一撃を叩き込む。
「雷神流・改――『雷牙』ッ!!」
ノエルの木剣が、雷を纏った巨大な牙となって、ゴーレムの硬質な頭部を粉砕した。
ズドォォォォォン!!
轟音と共に、巨人が崩れ落ち、土煙が舞い上がる。
物理法則をねじ伏せるような破壊力。
「……ふぅ」
ノエルは、残心を示しながら着地し、乱れた呼吸を整える。
すぐに、エリスが風を纏って――身体強化の補助として風を使う高等技術だ――駆け寄ってきた。
「やったわね、ノエル! 今のタイミング、完璧だったわ!」
「ああ。お前のおかげだ。あそこで体勢を崩してなきゃ、弾かれてた」
二人は、自然な動作で拳を軽く合わせる。
言葉を交わさずとも通じ合う、阿吽の呼吸。
この二年間、死線を共に潜り抜けてきた「パートナー」としての絆が、そこにはあった。
***
夕暮れ時。
修行場の岩陰で、三人は焚き火を囲んでいた。
鍋の中では、ノエルたちが仕留めた魔獣の肉と、エリスが採取した山菜が煮込まれ、食欲をそそる匂いを漂わせている。
二年前の「黒焦げ肉」の悲劇以来、食事当番は完全にノエルとエリスの交代制になっていたことは、言うまでもない。
「……ふむ。悪くない動きじゃったな」
ゼファーが、器用に箸を使いながら、ポツリと漏らした。
この偏屈な老人が弟子を褒めることは滅多にない。ノエルとエリスは、顔を見合わせて小さくガッツポーズをした。
「特にノエル。お主の『雷速』、持続時間がだいぶ伸びたな。以前は十秒も持たなんだが」
「ああ。魔力の循環効率を見直したんだ。全体に流すんじゃなく、必要な瞬間に、必要な部位だけに爆発させる。……昔の感覚に近いな」
ノエルは、自身の掌を見つめながら答える。
無詠唱での部分強化。
右腕だけ、左足だけ、あるいは感覚神経だけ。状況に応じて魔力を流動させることで、魔素の消費を抑えつつ、爆発力を維持する。
それは、かつてゼファーに指摘された「理屈」と「感覚」の融合だった。
「それに、新しい技もいくつか試せた。『雷の槍』の方も、実戦で使えそうだ」
遠距離攻撃手段の乏しさを補うため、魔力を槍状に収束させて投擲する技。これも、無詠唱で発動できるレベルまで練り上げている。
「エリスもじゃ。お主の風、以前のような『殺意』だけの刃ではなくなった。風の『流れ』を読み、戦場全体を把握する……まさに『目』としての役割を果たしておる」
「ふふん、当たり前よ。いつまでも足手まといだと思わないでよね」
エリスは、得意げに胸を張った。
彼女の成長も著しい。
詠唱短縮はもちろんのこと、風の魔素を周囲に薄く展開することで、敵の動きや気配を察知する「風探知」や、自身の移動速度を風で補助する機動術など、魔法使いの枠を超えた戦闘スタイルを確立しつつある。
何より、その表情が違っていた。
二年前、復讐心に囚われ、張り詰めていた険しさは消え、今は自信と、隣にいる少年への信頼に満ちた、年相応の少女の顔をしている。
「……さて、飯も食ったし、寝るか」
ノエルが伸びをすると、ゼファーがニヤリと笑った。
「何を言うておる。今日は満月じゃぞ?」
「……は?」
「月明かりの下での瞑想は、魔力の回復効率を高める。……朝までコースじゃ」
「げっ」
「嘘でしょ!?」
ノエルとエリスの悲鳴が、夜の山岳に木霊した。
***
深夜。
ゼファーの豪快ないびきが聞こえる中、ノエルとエリスは、少し離れた岩山の上で並んで座っていた。
瞑想の合間の、束の間の休息。
頭上には、満点の星空と、二つの月が輝いている。
「……綺麗ね」
エリスが、膝を抱えて呟いた。
夜風が、彼女の赤い髪を優しく揺らす。
焚き火の明かりに照らされた彼女の横顔は、昼間の凛とした表情とは違い、どこか儚げで、そして目を奪われるほど綺麗だった。ノエルは一瞬見惚れそうになり、慌てて視線を夜空へ戻した。
「ああ。……でも、ずっと昔に見た空とは、やっぱり違うな」
ノエルもまた、夜空を見上げる。
この二年間、修行に明け暮れる日々の中で、ふと故郷を――そして、妹の麗華を思い出す夜が、何度もあった。
ノエルの口から零れた「昔」という言葉が、エリスの心に小さな波紋を広げる。
「ノエルは……やっぱり、帰りたい?」
エリスが、探るように聞いてきた。
彼女は、ノエルがどこか遠く、この世界ではない場所から来たのではないかと、時々思うことがあった。
時折見せる、この世界の誰も知らないような遠い目。理解不能な知識。まるで前世の記憶があるかのような振る舞い。
おとぎ話のような想像だが、彼が必死に追い求めている「何か」が、この大陸にはないことを、パートナーとして本能的に悟っていたからだ。
「……帰るさ。必ずな」
ノエルは、迷いなく答えた。
「俺には、やらなきゃいけないことがある。……連れ戻さなきゃいけない家族がいる。殴ってやらないといけないやつも。そのために、俺は強くなりたいんだ」
「そっか……」
エリスの声が、少しだけ沈む。
ノエルが強くなればなるほど、彼がこの場所から、自分の手の届かない場所へ行ってしまう日が近づく。その予感が、胸をチクリと刺すのを、彼女は自覚していた。
ここにはいない誰かを想うノエルの横顔は、とても遠くに感じられた。
「でも、安心しろ」
ノエルは、エリスの方を見ずに、ぶっきらぼうに言った。
「俺は、誰も見捨てない。父さんも、母さんも……お前もだ」
「え……?」
「言ったろ。パートナーの背中は守るって。俺がどこへ行こうが、その約束は変わらねえよ」
ノエルの言葉は、いつものように素っ気なかったが、その声色は、焚き火の明かりのように温かかった。
エリスの心臓が、トクン、と大きく跳ねる。
二年前、ただの「生意気な子供」だった彼が、今は自分より少し背が高くなり、自分を守る「頼れる男」になっている。
汗と土にまみれたその横顔を、いつからか、直視できなくなっている自分に気づいていた。
「……ば、バカじゃないの」
エリスは、顔が赤くなるのを隠すように、プイと顔を背けた。
「誰があんたなんかに守ってもらうもんですか。……私の背中は、私が守るわよ」
「はいはい。頼もしいこって」
ノエルは苦笑して、立ち上がった。
「そろそろ戻るぞ。爺さんにドヤされる」
「……うん」
エリスも立ち上がる。
その時、長時間の瞑想で痺れていたエリスの足が、小石に躓いた。
「きゃっ!」
「おい、大丈夫か」
ノエルが、咄嗟にエリスの腕を掴み、支える。
至近距離。
互いの呼吸が触れ合うほどの距離で、二人の視線が絡み合う。
ノエルの黒い瞳と、エリスの翠の瞳。
二年間、背中を預け合ってきた戦友としての信頼。
そして、それだけではない、名付けようのない淡い熱が、二人の間に流れる。
「あ……」
エリスは、ノエルの腕の力強さと、伝わってくる体温を服越しに感じて、身動きが取れなくなった。
ノエルもまた、エリスの、以前より大人びた肢体と、ふわりと香る風のような匂いに、一瞬、心臓が早鐘を打つのを感じた。
気まずい沈黙。
だが、それは嫌なものではなく、どこかむず痒く、心地よい緊張感だった。
「……悪ぃ」
先に目を逸らしたのは、ノエルだった。
彼は、パッと手を離すと、誤魔化すように頭を掻いた。
「足元、暗いからな。気をつけろよ」
「……う、うん。ありがと」
エリスもまた、慌てて距離を取る。
二人は、妙によそよそしい足取りで、また並んで歩き出した。
手と手が、触れそうで触れない、微妙な距離感。
(……なんだよ、今の)
ノエルは、内心で舌打ちする。
戦場ではあれほど冷静でいられるのに、こんな些細なことで動揺する自分が、情けなく、そして少しだけ可笑しかった。
(俺らしくもない。何やってんだか……)
だが、横を歩くエリスの横顔を盗み見て、まんざらでもない自分もいることを、否定できなかった。
「……ねえ、ノエル」
「ん?」
「明日も、頑張ろうね」
エリスが、笑顔で言った。
「ああ。当然だ」
ノエルは、力強く頷いた。
「あの爺さんに、一泡吹かせてやる。……俺たち二人でな」
「ええ!」
二人は、拳を軽くぶつけ合う。
その感触は、先ほどの甘い雰囲気とは違う、確かな「戦友」としての熱を帯びていた。
次話は[2025年12月4日 18時00分]予定です。




