第五十五話
漆黒の闇に包まれたシベリアの雪原。
轟音と共に研究施設が崩落し、巨大なクレーターと化した跡地から、一筋の煙が立ち昇っていた。
猛吹雪がその痕跡を覆い隠そうとする中、『Eidolos』のステルス輸送機が、静かに夜空へと舞い上がった。
機内は、行きよりもさらに深く、重い沈黙に包まれていた。
だが、その沈黙の質は、行きとは決定的に異なっていた。
リヒト・フォン・アルクライドは、シートに深く身を預け、天井を見上げていた。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。魔素のない世界で、自身の魂の根源にある「白き月」の力を無理やり覚醒させた反動だ。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
生きている。そして、隣にいる男も生きている。
その男、サイラス・ヴァイスは、手の中にある小さなデータドライブを、祈るように強く握りしめていた。
親友ギデオンの、無念の記録。そして、彼が生きた証。
それを奪還した今、彼の表情からは、以前のような焦燥感や、張り詰めた狂気は消え失せていた。
あるのは、深い疲労と、そして――憑き物が落ちたような、静かな悲しみだけ。
「……リヒト」
沈黙を破ったのは、サイラスだった。
彼は、窓の外を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「借りは、返す」
「……借り?」
リヒトは、わざとらしく首を傾げた。
「何のことだ。俺はただ、任務を遂行しただけだ」
「フン。白々しい」
サイラスは、初めてリヒトの方を向いた。
その碧眼は、以前のような氷の刃ではなく、どこか不器用な、人間味のある光を宿していた。
「貴様の『甘さ』には、反吐が出る。……だが、その甘さに、俺が救われたことも事実だ」
それは、サイラスにとって、最大限の譲歩であり、感謝の言葉だった。
ギデオンを守れなかった後悔。そのトラウマに囚われ、自らも怪物になりかけていた彼を、リヒトは命がけで引き止めた。
リヒトの「甘さ」――いや、「守る」という信念が、サイラスの心を、そして魂を、地獄の淵から救い出したのだ。
「……そうか」
リヒトは、短く答えた。
多くを語る必要はない。
言葉などなくとも、共に死線を潜り抜けた男たちの間には、確かな「何か」が通い合っていた。
「だが、勘違いするなよ」
サイラスは、フイと視線を逸らし、再び窓の外を見た。
「俺は、貴様を認めたわけではない。貴様は依然として、組織にとっての『異物』であり、俺とは相容れない存在だ。……次、また足手まといになるようなら、今度こそ見捨てる」
「……はいはい、了解したよ、エリート様」
リヒトは、苦笑しながら肩をすくめた。
その言葉が、もはや本心ではないことを、リヒトは知っていた。
この男は、もう二度と、仲間を見捨てたりはしない。
ギデオンの死を乗り越え、その痛みを背負って生きることを選んだ彼は、以前よりも遥かに強く、そして優しい男になったはずだ。
***
数時間後。
輸送機は、太平洋上の要塞、アヴァロンへと帰還した。
リヒトとサイラスは、休む間もなく『円卓の間』へと呼び出された。
そこには、いつものようにホログラムの玉座にふんぞり返るアークスと、その傍らに立つシエラの姿があった。
「よう、お帰り。随分と派手にやってきたじゃねえか」
アークスは、ニヤニヤと笑いながら二人を迎えた。
その手元には、すでに衛星映像で捉えられた、崩壊したシベリアの施設の映像が映し出されている。
「報告を聞こうか。成果は?」
「……これです」
サイラスが、データドライブを円卓の上に置いた。
アークスは、空中に展開されたウィンドウでその中身を素早くスキャンすると、満足げに頷いた。
「『キメラ計画』の全貌、ヴィクトルの横領の証拠、そして……被検体データか。十分すぎる成果だ」
「ヴィクトルは……第三席は、これを黙って見ているでしょうか」
サイラスが問う。その声には、ヴィクトルへの静かな、だが激しい殺意が込められていた。
「さあな。だが、これで奴の首輪は握った。これ以上、勝手な真似はできねえだろうよ」
アークスは、データドライブを懐にしまうと、視線をリヒトへと移した。
「で、リヒト。お前の方はどうだった? 久しぶりの『外』の空気は」
「……最悪だったよ」
リヒトは、正直に答えた。
極寒の地、異形の怪物、そして歪んだ組織の闇。
どれ一つとして、愉快な思い出などない。
「だが……収穫はあった」
リヒトは、自分の両手を見つめ、アークスに事の全貌を話した。
魔素のない世界で覚醒した、「白き月」の力。
まだ、その全貌は分からない。制御も完全ではない。
だが、確かに自分の中に、「守るための力」が宿っていることを、実感していた。
「ほう?」
アークスは、リヒトの心を読んだかのように、楽しそうに目を細めた。
「計画通りだ」
「……計画?」
「なんでもねえよ。ま、今回はご苦労だったな。二人とも、ゆっくり休め」
アークスは、手を振って謁見の終了を告げた。
リヒトとサイラスが退室しようとした時、アークスが声をかけた。
「ああ、そうだサイラス。ギデオンの件……悪かったな」
その言葉に、サイラスの足が止まる。
アークスの声には、珍しく、微かな真剣味が混じっていた。
「……ボス。あなたは、知っていたのですか」
「薄々な。だが、確証がなかった。……ま、言い訳だな。すまん」
アークスは、それ以上何も言わなかった。
サイラスもまた、何も言わずに一礼し、部屋を出て行った。
その背中は、以前よりも少しだけ、軽くなったように見えた。
***
その夜。
アヴァロンの広大な食堂。
深夜ということもあり、人の姿はまばらだった。
リヒトは、いつものプロテインバーではなく、温かいスープとパンをトレーに乗せ、窓際の席に座っていた。
窓の外には、漆黒の海と、満点の星空が広がっている。
(……クレアトリアの空とは、違うな)
月が一つしかない夜空を見上げながら、リヒトは故郷を想う。
だが、その胸中に、以前のような焦燥感はなかった。
今は、ここでやるべきことがある。
力をつけ、アークスの企みを暴き、そしていつか必ず、故郷へ帰る。そのための「道」が、少しだけ見えた気がしたからだ。
カチャリ。
向かいの席に、トレーが置かれた音。
リヒトが顔を戻すと、そこにはサイラスが座っていた。
彼もまた、温かいコーヒーと軽食を手にしていた。
「……空いてるか?」
以前、リヒトに突っかかってきた時と同じセリフ。
だが、その声色は、全く違っていた。
「……ああ。構わない」
リヒトは、微かに笑って答えた。
二人は、並んで食事を摂り始めた。
会話はない。
ただ、スプーンが器に当たる音と、コーヒーの香りだけが漂う。
周囲の兵士たちが、驚愕の表情で二人を見ているのが分かった。
一人は、組織の「異物」である異世界人。
もう一人は、冷徹非情なエリート、十傑第四席。
水と油のはずの二人が、同じテーブルで、穏やかに食事をしている。
それは、アヴァロンにおいては「異常事態」だった。
だが、二人にとっては、それが自然だった。
地獄を共有し、互いの命を預け合った者同士にしか分からない、奇妙な連帯感。
「……ヴィクトルは、必ず俺が殺る」
食事が終わる頃、サイラスがポツリと言った。
「ああ。その時は、手伝ってやるよ」
「不要だ。これは俺の獲物だ」
「そう言うな。俺も、あのジジイには一発殴らせてもらわないと気が済まないんでな」
「……フン。勝手にしろ」
サイラスは、口元をナプキンで拭うと、立ち上がった。
「行くぞ、リヒト。明日の訓練は、レベルを上げる。貴様のその鈍った身体を、さらに叩き直してやる」
「お手柔らかに頼むよ、教官殿」
リヒトもまた、トレーを持って立ち上がる。
二人は、並んで食堂を後にした。
歪で、傷だらけの、だが確かな「戦友」関係。
アヴァロンの冷たい廊下に、二人の足音が、力強く響き渡っていた。
***
そして、物語の舞台は、再び異世界へ――。
あれから二年。
五雄暦八二八年。
アシュタロテ大陸、獣人の国ガルーダ周辺の山岳地帯。
雷鳴が轟く岩山の上で、二つの影が、激しく激突していた。
次話は[2025年12月4日 9時00分]予定です。




