第二話
(魔素が……ない)
その絶望的な事実は、リヒト・フォン・アルクライドの聖騎士としての存在意義を、根底から、そして容赦なく揺るがした。
魔力だけではない。誇りも、守るべき民も、忠誠を誓った帝国も、今この瞬間、彼の手の中には何もなかった。
あるのは、五感を殴りつけるかのような、未知の情報の奔流だけだった。
「ここは……いったい、どこなのだ……?」
絞り出した声は、周囲の耳障りな喧騒にかき消される。
クレアトリアでは嗅いだことのない、鼻を突く異臭(排気ガス)。絶え間なく鼓膜を叩く、鉄の箱(車)が立てる轟音と、人々の意味不明な話し声。
そして何より、視界を埋め尽くすのは、天を突くかのようにそびえ立つ、ガラスと鉄でできた巨大すぎる建造物群。その壁面には、巨大な人間の姿や、意味不明な文字列が、幻術のように浮かび上がっては消えている壁。
(幻術……? いや、これほどの規模の幻術ならば、術者の強大な魔力を感じるはずだ。だが、魔素が一切ない。悪魔の所業か? これほどの規模で生命の気配に満ちているのに、邪気の一つも感じないとは……)
混乱。焦燥。そして、遅れてやってくる怒り。
自分は、帝国の国境で、部下たちと共にいたはずだ。
あの謎の魔法陣。
脳内に響いた声。
『白き月』……片割れを、探して――
(そうだ、俺は……転移させられたのか)
何者かによって。この、魔素のない、理の異なる世界へと。
その結論に至った瞬間、リヒトの背筋を冷たい汗が伝った。
「なんだアイツ!?」
「白昼堂々、あんなガチな鎧……ヤバすぎだろ」
「こんなとこで剣抜こうとしてるぞ! 誰か止めろよ!」
「通報! 早く誰か通報しろ!」
周囲を取り囲む人々。
その服装は、リヒトが知るどんな民族のものとも異なっていた。締まりのない、色とりどりの布(Tシャツやジーンズ)。彼らは皆、手のひらに収まる黒い板を、魔導具のように自分に向けている。その視線は、好奇と、侮蔑と、そして明確な「恐怖」と「拒絶」が入り混じっていた。
(こいつらは……敵か? それとも、ただの民か?)
だが、そのどちらでも構わない。
今のリヒトにとって、この状況を引き起こした「黒幕」の手がかりを掴むことが最優先だった。
「……ッ!」
リヒトは、自らを鼓舞するように、愛剣を鞘から抜き放った。
白銀の刀身が、ビル群の隙間から差し込む太陽光を反射し、鈍く輝く。
たとえ魔力がなくとも、帝国聖騎士団長としての誇りまで失ったわけではない。みすみす命を差し出すわけにはいかない。
「帝国に仇なす者よ! 姿を現せ!」
リヒトは叫んだ。この世界のどこかにいるはずの、自分を陥れた敵に向かって。
その行動は、周囲の群衆の恐怖を決定的なものにした。
「キャアアア!」
「マジかよ、抜いたぞ!」
群衆が、蜘蛛の子を散らすように距離を取る。
その混乱を切り裂くように、甲高い笛の音(警察の笛)が響き渡った。
「おい! 武器を捨てろ! Drop your weapon!」
「そこのコスプレイヤー! すぐに剣を置きなさい! 銃刀法違反で現行犯逮捕するぞ!」
群衆をかき分けて、現れたのは、紺色の詰襟服(警察官の制服)をまとった者たちだった。
その数、十名ほど。彼らはリヒトを包囲するように素早く散開し、腰につけた黒い魔導具(拳銃)のホルスターに手をかける。
リヒトは、彼らがこの世界の「兵士」あるいは「警吏」のような存在だと直感した。
「言葉が……通じない?」
彼らが発する言葉は、リヒトの知るどの言語とも似ていなかった。帝国標準語とも、獣人族の言葉とも、エルフの古語とも違う。まるで鳥のさえずりのように、意味をなさない音の羅列としてしか認識できなかった。
未知の兵士たちは、何かを必死に叫びながら、じりじりと包囲網を狭めてくる。
その顔には、リヒトへの警戒と、同時に「なぜこんな場所で」という困惑が浮かんでいた。
(問答無用、か。いや、違うな。彼らもまた、この状況に困惑している)
リヒトは聖騎士として、無用な争いは避けるべきだと判断した。対話が必要だ。
彼は剣の切っ先をわずかに下げ、敵意がないことを示そうと試みた。
「俺は、ガルニア帝国聖騎士団長、リヒト・フォン・アルクライド! 所属と名を明らかにせよ! ここは貴殿らの領地か? 俺は敵意を持ってここに来たのではない!」
もちろん、その堂々とした名乗りと対話の試みが、彼らに届くはずもなかった。
それどころか、剣を構えたまま大声を出すリヒトの姿は、彼らにとって「抵抗の意志、明確」としか映らなかった。
警官隊の一人、現場の指揮官らしき男が、ついに引き金に指をかけた。
「ダメだ、日本語が通じてない! 錯乱しているか、薬物か、あるいは危険な外国人か……!」
男は決断する。
「総員、構え! とにかく、警告する! 武器を捨てろ!」
「これ以上抵抗するなら、発砲もやむを得んぞ!」
警官たちの焦りが、殺気となってリヒトに伝わる。
(何を言っているかは分からんが……殺気だけは本物のようだな)
対話の試みは失敗した。
一触即発の緊張が、ホログラム広告が虚しく明滅するスクランブル交差点を支配する。
次の瞬間、指揮官の男が、リヒトの足元のアスファルトに向けて、ついにその黒い魔導具を「発射」した。
パンッ!
乾いた破裂音。
リヒトは、自分の耳を疑った。
詠唱も、魔力の高まりも、魔法陣の展開も一切ない。
ただ、指先一つの動きで、強烈な火薬の匂いと共に、小さな鉄の塊(弾丸)が射出されたのだ。
それはリヒトの足元の数センチ横に着弾し、硬いアスファルトを鋭く抉り、火花を散らせた。
(なっ……!? 魔導具か!)
リヒトは、その威力にではなく、その「仕組み」に驚愕した。
(なんと……非効率な。魔素を使わず、火薬の爆発力だけで鉄を飛ばすだと? これほどの至近距離で、ようやくこの威力か)
クレアトリアの魔法兵器を知るリヒトにとって、それはあまりにも原始的で、しかし、それ故に不気味な技術に思えた。
威嚇射撃。
それが、この世界の兵士たちの最終警告だった。
だが、リヒトにとっては、明確な攻撃開始の合図としか受け取れなかった。
「くっ……!」
警官隊が、リヒトの無力化(拘束)のために一斉に動く。
彼らは、クレアトリアの兵士のように剣や槍ではなく、奇妙な短い棍棒(警棒)を構え、リヒトの四肢や武器を狙って、訓練された動きで飛びかかってきた。
「させるか!」
リヒトは即座に反応する。
聖魔法による身体強化は、一切期待できない。ならば――
(王級剣術――『疾風』!)
リヒトの身体が、魔力なしで出せる最高速度で動いた。
卓越した体術と、千錘百錬の剣技。
彼は、警官隊が振り下ろす警棒の軌道を、最小限の体捌きでいなし、あるいは剣の腹で受け流す。
「ぐはっ!?」
「なっ、こいつ……!」
リヒトは峰打ちで、的確に相手の武器(警棒)だけを弾き飛ばし、鎧に守られた肩での体当たり(ショルダーチャージ)や、剣の柄での一撃(柄頭打)で、急所を外しながら確実に相手の戦闘能力を奪っていく。
殺してはならない。彼らはおそらく、この世界の秩序を守る者たち。敵ではない。
だが、無力化はせねば、こちらがやられる。
「ば、馬か……な……っ!」
「な、なんだこいつは?!」
次々と打ち倒される仲間を見て、警官隊に動揺が走る。
リヒトの動きは、魔力に満ち溢れていた頃に比べれば、あまりにも鈍重で、力がない。
だが、それでも『王級』の技術は本物だった。
相手の動き、呼吸、重心の全てを見切り、複数の敵の攻撃を同時に捌き、最適解を叩き出すその剣技は、現世の警官隊のレベルを遥かに凌駕していた。
しかし――
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
リヒトの息が、早くも上がっていた。
魔力による強化がない状態での戦闘は、彼の身体に想像以上の負荷を強いていた。
(くそっ……! 身体が、重い……!)
クレアトリアでは、魔力が鎧の重量さえも軽減し、肉体を強化していた。だが、今は、鍛え上げられた白銀の鎧の重さが、そのまま鉛のように全身にのしかかる。
(これしきの数で、息が上がるだと……!?)
本来のスピードもパワーも出ない。
聖騎士団長としてのプライドが、この「弱体化」した現実を認められずにいた。
リヒトの動きが、消耗によって一瞬、明らかに鈍った。
その隙を、後方で拳銃を構えていた警官が見逃さなかった。
「今だ! 囲め! 撃て、足でも腕でもいい、動きを止めろ!」
数人の警官が、リヒトの四肢を狙い、同時に発砲する。
複数の方向から、乾いた破裂音が連続して響き渡った。
(しまっ――!)
もはや、回避は間に合わない。
魔力障壁も張れない今、あの鉄の塊が鎧を貫通し、己の肉体を抉る光景を、リヒトは覚悟した。
その、刹那だった。
「――そこまでだ」
凛とした、それでいて氷のように冷たい女性の声が、戦場に響き渡った。
その声は、銃声や怒号が渦巻くこの場において、不思議なほど鮮明にリヒトの耳に届いた。
声と同時に、リヒトの眼前に、黒い影が割り込んだ。
キィィン! カンッ!
甲高い金属音が連続して響く。
警官隊が放った全ての弾丸が、その黒い影によって――信じがたいことに、その影が振るった手刀によって、空中で叩き落とされ、あるいは弾き返されていた。
「な、なんだ!?」
「弾丸を……斬ったのか!?」
警官隊が、目の前の超常的な光景に動揺する。
いつの間にか、現場は黒い戦闘服に身を包んだ、明らかに警官隊とは異なる練度の兵士たちによって、完全に封鎖されていた。
彼らは一般人を手際よく退避させ、リヒトと警官隊の間に、完璧な壁を作っていた。その動きには一切の無駄がなく、恐ろしいほどの統制が取れていた。
そして、その黒い兵士たちの中心から、一人の女性がゆっくりと歩み出てくる。
月光を思わせる、長く美しい青い髪。
全てを見透かすかのような、冷徹な翠の瞳。
身体のラインがくっきりと出る黒い戦闘服は、彼女がただの指揮官ではなく、恐るべき実力者であることを示唆していた。
「(なんだ……この圧は……)」
リヒトは息を呑んだ。
魔力は感じない。この世界には魔素がないのだから、当然だ。
だが、彼女から放たれる尋常ではない「圧」は、リヒトが知る『帝級』の強者たち――いや、帝国最強である父、アベルが放つ『炎帝級』の威圧感にさえ匹敵する、あるいは凌駕するほどのものだった。
魔素なしで、これほどの気配を放てる人間が、この世界にいるというのか。
先ほどまでの警官隊とは、明らかに「格」が違う。
その女性――『Eidolos』十傑「第二席」シエラは、リヒトの前で足を止めると、彼の纏う白銀の鎧と、手に持った剣を一瞥し、そして、まるで市場で品物を値踏みするかのように、その碧眼をじっと見つめた。
リヒトは、その視線に、聖騎士としてではなく、一匹の「獲物」として見られているかのような屈辱を感じた。
やがて、彼女は薄い唇を開き、静かに、だがはっきりと告げた。
リヒトがこの世界で初めて「理解」できる言葉で。
「その魔素の残滓……お前は『クレアトリア』の人間か」
「――ッ!?」
リヒトの身体に、銃弾を受けるよりも強烈な衝撃が走った。
なぜ。
なぜ、この女が。
自分の故郷の名を、知っている。
「貴様……何者だ!」
魔力なき聖騎士は、疲労困憊の身体を引きずりながら、自分を超えるであろう「絶対強者」を前に、ただ、そう問い返すことしかできなかった。




