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婚約破棄を宣言されたので浮気相手の令嬢を他国のスパイに仕立て上げることになったお話

掲載日:2025/09/02

「私はこのアルエスティーナとの間に『真実の愛』を見つけた。ノーティセリア。残念だが、君との婚約を破棄させてもらう」

 

 その宣言を受け、子爵令嬢ノーティセリアは慄然とした。

 

 貴族の生徒たちが社交界でのふるまいを学ぶために執り行われる学園の夜会。上品でつつましい課外授業。そんな場に、婚約者でもない令嬢を腕に絡ませやってきた伯爵子息ユナフィークは、演劇じみたセリフを臆面もなく言い放った。

 

 伯爵子息ユナフィーク。柔らかな金髪に落ち着いた深い緑の瞳。その顔つきは整っているが、どこか甘い幼さがある。いつもは人のよさそうな柔和な笑みをたたえる彼だったが、今はキリリと顔を引き締めている。まるで初めての出征を前にした騎士のような顔だ。漲る使命感と、無知ゆえの楽観的な考え。その顔にはそれらが同居していた。

 

 ユナフィークの腕をからめとるように抱いている令嬢は、男爵令嬢アルエスティーナ。

 ふわふわとした柔らかなウエーブのかかった、綿菓子のようなピンクブロンドの髪。きらめく大粒の瞳は薄桃色。どこか無邪気さを感じさせる甘くかわいらしい顔立ちながら、その胸は豊かで、腰もきゅっとくびれている。

 桃色を基調にしたドレスは一見フォーマルなものに見える。だが首元からウエストまで縫い込まれた飾りひもは、彼女の胸の大きさと形の良さを浮き彫りにするものだった。

 

 男爵令嬢アルエスティーナは恋多き令嬢として有名だった。誰にでも明るい笑顔を向け、身分を気にせず気さくに話しかける。貴族令嬢が保つべき距離感を知らないかのように、異性に肩を寄せたり、手を握ったり、あるいはハグまでする。

 女子生徒たちの多くは、貴族としての礼節を守らない彼女のことを蔑視していた。しかし男子生徒の多くは好意的に見ていた。

 他の令嬢と違って肩ひじ張らずに気楽に話しかけることができていい。ちょっと触れたぐらいで目くじらを立てることはない……彼女を支持する男子生徒はそんなことを言っている。だがそれは建前に過ぎない。アルエスティーナの色香に惑わされていることは、令嬢たちの誰もが知ることだった。


 恋多きアルエスティーナだったが、そろそろ誰か一人と付き合うことを決めたとのうわさが立っていた。それまで懇意にしてきた男子生徒と疎遠になってきたというのだ。

 そして今夜、その相手が確定した。伯爵子息ユナフィークだったのだ。

 アルエスティーナは誰と付き合うか学園内に知らしめるために夜会という場を選んだ。そしてユナフィークは婚約破棄を宣言したのである。

 

 婚約破棄の宣言を受けたのは子爵令嬢ノーティセリア。腰までまっすぐに伸びたライトグレーの髪に、秋の湖面を思わせる深い青の瞳。整った顔立ちに凛とした佇まいは淑女と呼ぶにふさわしい。礼儀作法に則ったそのふるまいは貴族の学園でも高く評価されている。この状況においてもその佇まいは崩れていない。しかしその顔には、物憂げな陰が差していた。


 ノーティセリアとユナフィークの関係は良好だった。お茶会で交流を重ねた。時には観劇に出かけたりもした。誕生日や記念日にはプレゼントを贈りあった。少しずつ時間をかけて、婚約者との関係を築いてきた。

 しかし二年生に上がったころ。新入生としてアルエスティーナが入学してから、ユナフィークは変わってしまった。アルエスティーナのかわいらしい顔立ちと豊かな胸にすっかり夢中になってしまった。

 ノーティセリアは言うべきことはきちんと言った。婚約者以外の令嬢と仲良くするのは不快だと伝えた。アルエスティーナは礼儀を知らない低位の貴族で、彼女と仲を深めることは貴族として立場を落とすことになると警告した。

 しかし色香に惑わされたユナフィークは、ノーティセリアの言葉をただの嫉妬と思い、聞き入れてくれなかった。

 

 それでもそこまで深刻にとらえてはいなかった。アルエスティーナは多くの男子生徒と懇意にしており、ユナフィークはその中の一人にすぎなかった。

 ユナフィークの伯爵家は歴史があるし資産もかなりのものがある。しかし、アルエスティーナの友達にはもっと高位の貴族もいる。ユナフィークが選ばれる可能性は低いと思っていた。

 だがそんな淡い期待は裏切られた。ついに婚約破棄の宣言を突き付けられることになったのだ。

 

 こうなることを予想していた。覚悟もしていた。どうするべきかも理解していた。それでも実際にこの場面に立ち会うと、あまりの理不尽さにめまいを覚えるほどだった。

 しかしこうなってしまっては仕方ない。貴族令嬢としてなすべきことをなすしかない。もはや令嬢一人の判断で止められる状況ではないのだ。ノーティセリアは覚悟を決めていた。

 ノーティセリアは臆さず、怯まず、決然と告げた。

 

「残念ですが、その婚約破棄はお受けできません」


 否定の言葉を受け、ユナフィークの顔が苦しみに歪んだ。

 

「受け入れられない気持ちはわかる。君からすれば理不尽なことだろう。だが、私は彼女のことを愛してしまった。こんな気持ちを抱いていては、結婚して君を幸せにすることなどできない。だからどうか聞き入れてくれ」


 ノーティセリアはため息を吐いた。

 婚約破棄の宣言は一方的な絶縁だ。相手の気持ちを考慮するようなものではない。それなのにユナフィークは相手を思いやるような言葉をかけてくる。

 愚かなことだと思う。でもそれが、ユナフィークという男性(ひと)なのだ。ノーティセリアは、彼のそういうところが嫌いではなかった。

 ユナフィークは恋に溺れて人が変わったわけではない。ノーティセリアが愛そうとした彼のまま、別な女性と添い遂げることを選んでしまった。そのことがひどく悲しくて、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。しかし感傷に浸ってはいられない。ノーティセリアに退路はない。もう進むしか道はないのだ。


「気持ちの問題ではありません。婚約破棄以前の問題です。アルエスティーナ嬢は罪人なんです」

「罪人だって? 彼女に何の罪があるというんだ!?」


 ユナフィークは首を傾げ、傍らのアルエスティーナに目を向ける。彼女もまるで予想外のようで、驚きに軽く目を見開きながら、首を左右に振った。

 そんな様子を見ながら、ノーティセリアはさっと手を挙げた。すると会場の端から足早に、メイドがやってきた。グレーの髪をヘアスティックでシニヨンにまとめた理知的な女性。ノーティセリアのおつきのメイド、ジーラヴェアだ。

 ジーラヴェアはノーティセリアに資料を手渡した。軽く目を通すと、ノーティセリアはユナフィークに向けて資料を突き付けた。

 

「彼女には他国のスパイ容疑があります。学園に入り込み、貴族子息を篭絡し情報を絞り出し、他国に渡していたのです。これがその証拠です」

「バ、バカな! そんなことがあるはずがない!」


 ユナフィークはひったくるように資料を取ると、アルエスティーナと共に見入った。二人の顔がみるみる青ざめていった。

 それも無理はないことだろう。その資料は王国公認の調査部隊が作成した正式資料の写しだ。正式な証印もある。裁判でも決定的な証拠となりうる資料だったのだ。


「まさか……君は本当にスパイだったのか? 私との関係も、情報を聞き出すための偽りのものだったのか……!?」

「そんな! こんなのデタラメです! なにかの間違いです! スパイだなんて……わたしがそんなことするわけないじゃないですか!」


 愕然とするユナフィークに、涙を流しながら弁明するアルエスティーナ。

 そんな二人に追い打ちをかけるようにノーティセリアは冷たく告げる。


「この婚約破棄の宣言はアルエスティーナ嬢の持ちかけたことでしょう? いくら周囲に知らしめるためとはいえ、演劇のように夜会で婚約破棄の宣言をするなど、あまりに異常なことです。これは明らかに、王国を混乱に陥れるための策略。彼女がスパイである証拠の一つと言えるでしょう」


 ユナフィークは何も言い返せなかった。おそらく指摘の通り、この婚約破棄はアルエスティーナの発案だったのだろう。

 アルエスティーナは「違う、違う……」とつぶやき首を左右に振っている。

 華々しい婚約破棄の舞台は崩れ去った。後に残ったのは、不信感にからめとられた哀れな男女だった。

 だがそのみじめな光景も長くは続かなかった。警護の騎士が二人やってきて、左右からアルエスティーナを拘束したのだ。

 

「な、なにをするのっ!?」

「アルエスティーナ嬢。あなたにはスパイの容疑がかけられています。失礼ながら、捕縛させていただきます」

「そ、そんなっ……!」


 アルエスティーナは抵抗しようとしたが、屈強な騎士たちを振りほどけるはずがない。彼女はそのまま連行されるほかなかった。

 ユナフィークは何もできないまま、ただ茫然と彼女が連れ去られるのを見つめていた。

 アルエスティーナはもがきながら振り向き、ユナフィークに向けて叫んだ。

 

「ユナフィーク様! どうかわたしのことを信じてください! 『真実の愛』を誓い合ったじゃないですか! わたしはっ……わたしは! あなたのことを愛しているのです!」


 その言葉にユナフィークが初めて動いた。連行されるアルエスティーナに向けて手を伸ばした。それを見て、アルエスティーナの顔が輝いた。

 しかしユナフィークは伸びかけた手をぐっと握ると、下げてしまった。

 

「アルエスティーナ、君のことを愛している……だが私は、この国の貴族なんだ。どれだけ愛していようと……王国を裏切った君を、救うことはできない……」


 ユナフィークはそこまで言うと、顔を覆って泣き崩れた。アルエスティーナの顔が絶望に染まった。

 アルエスティーナはがっくりとうなだれると、そのまま騎士たちに連行されていった。

 

 ノーティセリアは床に這いつくばり泣き続けるユナフィークのことを見ていた。その目に侮蔑の色はなく、ただ深い悲しみが占めていた。

 ノーティセリアは婚約者のことをただじっと見つめていた。

 学園の夜会を騒がした婚約破棄の一幕は、こうして終わった。

 

 

 

 あの夜会から3か月ほど過ぎた頃。

 ノーティセリアは子爵家の自室にいた。出窓に面したソファとテーブル。いつも礼儀作法を大切にする彼女には珍しく、背筋を伸ばすことも忘れてぐったりとソファにもたれかかっている。その顔には深い疲労の陰がある。

 

「お嬢様、どうぞ」


 そう言ってそっと紅茶を差し出すのは、彼女のおつきのメイド、ジーラヴェアだ。


「あら、この香りは……」

「ハーブティーです。疲労回復の効能があります」


 ジーラヴェアの心遣いに苦笑しつつ、ハーブティーを口にする。

 それで気分も落ち着いたのか、ノーティセリアは姿勢を正した。

 

「心配をかけましたね」

「お嬢様の心労は大変なものでしたでしょう。お疲れになるのも無理はありません」

「ええ……でも、ようやく正式に婚約解消となりました。肩の荷が下りた気分です」


 そう言ってノーティセリアは儚い笑みを浮かべた。

 

 つい先ほど。元婚約者のユナフィークとその両親がこの子爵家を訪れていた。婚約解消の正式な手続きのためだ。

 男爵令嬢アルエスティーナはいくつも出てきた証拠品によって、スパイとして処断されることとなった。彼女は死罪と判決された。男爵家も取り潰しとなった。

 そんなアルエスティーナに誑かされたユナフィークと、婚約関係を維持できるはずもない。両家合意の上で婚約解消となった。ユナフィークの伯爵家の有責となり、しかるべき賠償金を支払うこととなった。

 

「私の至らなさのせいで君を傷つけ、大変な迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない」


 そう言ってユナフィークは頭を下げた。心のこもったきちんとした謝罪だった。

 彼の謝罪を受け、ノーティセリアは一言だけ返した。

 

「頭を上げてください。もう全て終わったことです」


 そう言ってほほ笑んだ。親しみの感じられない形だけの社交的な笑み。婚約者に向けるものとしてはあまりにもよそよそしい。もう二人は親しい間柄ではない。そのことを突き付けるような笑みだった。

 ユナフィークは泣きそうな顔をしながら、口元に苦笑を浮かべた。

 そうして、二人の婚約関係は終わった。

 

 

 

「……結局、あの方はスパイ容疑の真相について、まったくお気づきではなかったようですね」

「ユナフィーク様は、純粋な方でした。王国の暗部について想像すらできないんです」


 冷たく感想を述べるジーラヴェアに対して、どこか皮肉気な笑みを浮かべながらノーティセリアは言葉を返した。

 

 アルエスティーナがスパイだというのは嘘だ。全くのでっち上げだ。しかし彼女に罪がなかったかと言えば、そういうわけでもない。

 

 今を遡ることおよそ100年。当時、賢王と称えられてた王が乱心した。突如、隣国に対しサファイアの鉱山を狙って戦争をしかけたのだ。

 経済的に友好関係にあった隣国に対しての、さして重要でもないサファイアの鉱山をめぐった戦争。両国共に混乱し、戦争は泥沼化した。

 何年もかけて王国はどうにか勝利した。しかし得られたものはあまりに少ない。戦争によって失われた人命と多大な戦費。隣国との関係悪化による経済への打撃。得た物より失ったものの方がはるかに大きい戦争だった。

 王の死後、親族によって読み解かれた王の日記から、その乱心の理由が判明した。

 王は、一人の女の関心を得るためだけに戦争を起こしたのだ。さる名家の令嬢が、王に巧みに取り入り、愛妾として王宮に迎え入れられた。熱い夜を過ごした後。まどろむ王の耳元に彼女はこうささやいた。


「わたしは自分の瞳と同じ色のサファイアが何よりも好きなのです。この王国にサファイアの鉱山があればどれほど素敵なことでしょう。今よりもっともっと、あなたのことを愛してしまいますわ」


 そして、王は乱心した。

 その後の調査で分かったことだが、その令嬢が名家の出だというのは偽りだった。王国の国力を削ぐために送り込まれたスパイだったのだ。

 当時の家臣たちを震撼させたのは、その女が特別な魔法も魔道具も使っていなかったということだ。当時、王国は魔法に対する防御に力を入れていた。その防御の質は極めて高く、周辺諸国から魔法による調略は不可能と評されるほどだった。

 

 何らかの魔法を使って王を操ればたちまち察知され、女スパイは捕縛されていたことだろう。彼女はなんの魔法も使わなかった。その身に備わった魅力と洗練された話術のみで王を骨抜きにして、目論見通り無意味な戦争を引き起こし、まんまと王国の力を削いだのだ。

 戦争の混乱期に女スパイは姿をくらませ、その消息は知れなかった。王はサファイアの鉱山を手に入れれば最愛の女が戻ってくるという妄想に取りつかれ、戦争を最後までやりきった。しかし彼女は戻らず、王は失意の果てに病を患い、命を落とした。

 

 女の色香は時として国を傾けることがある。そのことをその身をもって経験した王国は、魔法だけでなくスパイによる人間的な調略への対策にも力を入れるようになった。

 この真相を知るのは王室でも限られた者だけだ。多くの国民が知るのは、この戦争以来、王国が礼儀作法を重んじるようになったということだけだった。

 

 アルエスティーナは入学当時から危険視されていた。魔力も低く、特別な魔道具を持っているわけでもない。しかしかわいらしい顔と色香にあふれた身体を持ち、気さくな態度とスキンシップで次々と貴族子息を篭絡する。それは100年前の女スパイを思い起こさせる恐るべきやり口だった。

 

 アルエスティーナがスパイでないことは分かっていた。彼女の男爵家は歴史も浅く裕福でもない。他国とのつながりはない。礼儀作法についてろくに知らないのも、家格が低く貴族としてのまともな教育を受けていないからだ。それでも彼女の力は危険だった。要注意人物として警戒されていた。

 

 そうした事情はあったものの、王国はアルエスティーナのことをすぐに処分はしなかった。学生同士の火遊びを大事にすることは、かえって王国の権威を損ねることになるからだ。だから彼女がある一線を越えない限り静観する方針だった。

 ある一線とは、アルエスティーナがその色香で上位貴族を攻撃することだ。野心をもってその能力をふるうのならもはや放置はできない。その時は彼女を罪人に仕立て上げて排除するという計画だった。

 

 そしてついにアルエスティーナは一線を越えてしまった。既に婚約者のいる上位貴族を篭絡したばかりか、学園の夜会で婚約破棄の宣言までしてしまった。彼女は王国に損害をもたらしうる脅威だと確定したのだ。

 

 アルエスティーナがスパイをしていたという事実はない。男爵家が他国とつながっていたという事実も皆無だ。しかしこの封建主義の王国において、王家と複数の高位貴族が結託すれば、白も黒にできる。どんな証拠も捏造できるし、どんな罪状も負わせることもできる。たかが男爵家に逃れるすべなどあるはずもない。

 

 アルエスティーナが交友を持つ貴族子息の婚約者たちはこの計画を知らされていた。決して他言してはならないと厳命された上で、捏造された証拠の文書を渡された。そしてアルエスティーナが一線を越えたとき、速やかに行動に移るよう命じられた。ノーティセリアもその中の一人だった。

 王家からの命令だ。逆らえば重罪となり家の取り潰しもありうる。ノーティセリアはあの場において、アルエスティーナにスパイ容疑の冤罪を押し付けるしかなかった。

 それはユナフィークの立場を失わせることを意味していた。毒婦に誑かされ学園の夜会で婚約破棄を宣言したのだ。伯爵家の嫡男としての輝かしい未来は失われる。家から縁を切られ、貴族でいられなくなることも十分にありうる。

 ノーティセリアの夜会での行動は、恋に浮かれた二人への苛烈な断罪だったのだ。




「……少し、一人にしてください」


 そう言ってジーラヴェアを退室させた。

 一人になったノーティセリアは、ハーブティを口にすると、ため息を吐いた。長く、物憂げなため息だった。

 アルエスティーナをスパイに仕立て上げたことに罪悪感はある。しかしそれは大きなものではない。彼女はスパイではなかったが、その色香で何人もの貴族子息をたぶらかしたという罪がある。その罪で罰するのは体面が悪いので、スパイという名目がつけられたに過ぎない。

 

 彼女の気持ちを重くしているのは、元婚約者のユナフィークのことだ。

 彼とは5年前からの婚約関係だった。貴族令嬢は婚約した相手を愛するために努力する義務がある。ノーティセリアは生真面目な令嬢だった。だから真剣に婚約者を愛するよう努めた。

 

 好きになれるところを探した。褒められるとはにかむ顔が好ましかった。素直で嘘をすぐ信じてしまうところをかわいいと思った。手をつなぐときに、必ず許可を求めてくる律義さがうれしかった。機会を重ね、時間を経て。好きになれるところを少しずつ増やしていった。

 ユナフィークは素直で優しいが、どうにも甘いところがある。自分がしっかりしなければならない。互いに足りないところを補えばうまくいくに違いない。結婚した後のしあわせな未来を、少しずつ思い描けるようになった。

 

 婚約者となって5年。彼と結婚してからのことを想うと、頬が赤らむようになった。それが愛と呼べるものなのかはわからない。でも胸の中で育った温かなこの想いを大事にしたいと思った。ユナフィークも同じ気持ちを抱いてくれていると思っていた。5年の時を積み重ねて、小さくとも確かなつながりができたと感じていた。

 

 しかし、それは裏切られた。ピンクブロンドの髪のかわいらしい令嬢。無垢な顔に似合わない、色香に満ちた身体。誰にでも気さくに笑い遠慮なしに距離を詰める。ユナフィークはそんなアルエスティーナに魅せられてしまった。

 

 それでもノーティセリアは諦めていなかった。アルエスティーナには男友達が多い。いずれ誰かを選べばユナフィークも帰ってくる。すぐには許さない。少しくらいは意地悪をしてやろう。彼がきちんと反省したのなら、最後は許してやろう。そう考えていた。

 だが突き付けられたのは、婚約破棄の宣言という決定的な関係の破綻だった。

 そしてノーティセリアは、愛するために努力した男性(ひと)の未来を、自らの手で奪わなければならなくなった。

 

 全ての元凶はアルエスティーナだ。色香に負けたユナフィークが愚かだった。自分は何一つ間違ったことをしていない。そう考えればいいと頭ではわかっている。

 

 でも。まだ、胸が痛む。

 自分との婚約を破棄してまで『真実の愛』に生きることを選んだ。彼が最後まで愛に殉じるような人だったならまだ諦めがついたかもしれない。

 連行されるアルエスティーナが助けを求めたとき。ユナフィークはその手を引っ込めてしまった。立場を忘れ、自分との関係を断とうとした男が、最後の最後に貴族としての判断を優先した。

 そのことが悔しくて、憎らしくて、許せなくて。なにより、悲しかった。

 

 だから、ノーティセリアは。今だけは気のすむまで泣こうと思った。

 ユナフィークのために流す涙ではない。報われることのなかった彼への想い。それを葬るために泣きたかった。

 一人きりの部屋の中。昼下がりの優しい日差しに包まれながら。ノーティセリアは一人、声を上げて泣いた。



終わり

学園でいろんな貴族子息にモテモテの身分の低い少女というのは珍しくないかと思います。

でも改めて考えてみると、高位貴族を片っ端から篭絡する少女というのは国から見れば相当な危険人物です。

そんな少女に対して王国がガチめの対応したらどうなるかな、とか考えてキャラや設定を詰めていったらこういう話になりました。

なんだか思ったよりもヤバい感じになりました。

お話づくりはやっぱり奥が深いですね。


2025/9/2 19:30頃

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。

2025/9/4、9/5、9/7

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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― 新着の感想 ―
伯爵家以上は誰も引っかかってないあたりが元婚約者の度し難い愚かさを端的に表現してますね^^; 今は悲しみから立ち直れないでしょうが、政略と洗脳の軛から逃れたノーティセリアはいずれ素敵な相手と巡り会え…
良いとこ探しし過ぎて、致命的な欠点すら「可愛い」「愛すべき点」と自己洗脳してるのが恐ろしい。この国の教育怖ぇ。 あるいは思い込みし易い民族的資質なのかも?100年前の乱心も起こるべくして起きたとか。
厳密に言うとスパイの定義には当てはまらないからってことで証拠の捏造までして裁いてますけど、王家の承認した婚約を駄目にしたから不敬罪とか反逆罪とか探せばなんかしら適用できる罪名がありそうな気しますね。 …
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