【後日談】第38話:記録なき日々
風の音しかしない朝だった。
深くて、遠くて、それでいてすぐ隣にあるような、静けさ。
崖の上のこの家には、名前がない。
地図にも載っていないし、記録にも残されていない。
けれど、朝になれば陽が差して、夜にはふたりで眠る。
それだけで、もう充分だった。
わたしは、火を起こす。
彼は、小さな焙炉で豆をあたためてから、布越しに湯を注いだ。
立ち上る香りは、まだわたしには馴染まない異国のものだった。
交わす言葉は少ないけれど、ときどき、湯気の向こうで目が合うと、ふたりして、すこし笑った。
【グラヴィオ】
「……今日も、咲いていませんね」
【リア】
「ええ。……咲かないままで、いいんです」
朝の花は、窓辺で蕾のまま。
昨日も咲かなかった。たぶん、明日も。
でもそれが、この場所にはよく似合っていた。
わたしは、彼の肩越しに詩の断片を見る。
小さな紙に、誰にも見せないことばが残されていた。
―――
あなたが笑うと、沈黙が光を帯びる
咲かぬ花が、名を得る前に
指先だけで、たしかめている
―――
【リア】
「わたしのこと、まだ書いてるんですか?」
【グラヴィオ】
「……あなたはもう、詩にならないと思ってたんですが」
「でも、こうして隣にいると、やっぱり──すこしだけ」
その”すこし”に、彼の手がそっと伸びてきた。
静かに、でもまっすぐに、わたしの指を包むように。
【グラヴィオ】
「……離さないって、言ったでしょう?」
その声が、あたたかくて。
わたしは、小さく笑って、彼の手を握り返した。
(……ほんとうは、怖かった)
(名を呼ばれないことも、呼ばれることも)
(どこかに”記される”ことも、何も残らないことも)
(でも──)
(それでも、わたしは選びたかった)
(この人の隣で、記録ではなく、“今”を生きることを)
【リア】
「じゃあ、わたしも記していいですか?」
「“記録じゃない何か”を、あなたの隣で、綴っても」
彼は、小さく笑って、頷いた。
けれどその瞳には、ふと、書きかけた詩の続きをしまい込むような、静かな光があった。
【グラヴィオ】
「……でも、書くのは心の中だけに」
「誰にも見せない、私たちだけの記録を」
わたしは頷いた。
そして、心の中で書き始めた。
―――
今日、彼が笑った
朝の光の中で、とても美しく
わたしたちは、誰にも知られずに愛し合っている
それは、世界で一番贅沢なことかもしれない
―――
空は近く、地は遠く。
そのどちらにも属さない、この場所で。
わたしたちは今日も、名を呼ばずに、でも確かに、ただ”いま”を、ふたりで生きている。
記録されない愛。
でも、心に深く刻まれた愛。
それは、どんな記録よりも確かで、美しかった。
【グラヴィオ】
「……リア」
ときどき、彼はわたしの名前を呼ぶ。
記録にも詩にもならない、ただの愛しさで。
【リア】
「はい、グラヴィオ」
わたしも答える。
その声だけが、この世界でわたしを証明してくれる。
名前があるから愛されるのではない。
愛されるから、名前がある。
そのことを、彼が教えてくれた。
陽が沈み、月が昇る。
今夜も、記録されない愛が、静かに続いていくーー
永遠に。
最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
よかったら「いいね」や感想をいただけると、続きを届ける力になります。
次の物語は7月28日7時公開予定。彼とはまた違う“罪と記録”の物語です。お楽しみに。
また、現在グラヴィオ立ち絵作成中です。
完成後Xで投稿予定ですのでもしよければフォローお願いします(@toga_hana)




