【本編】第33話:咲いた愛の詩
詩の一遍一遍が、床に広がっていた。
グラヴィオが私に送ってくれていたもの。
名前は書かれていない。
ただ“あなたへ”という小さな文字だけ。
けれど、一つひとつそれを拾い集めるたびに、胸の奥で何かがあふれそうになった。
―――
『影に咲く蕾へ』
かつて、影に咲かぬ蕾を見た
名も知らぬまま、筆を止めた
時を越え、またここに
影は咲かずとも、魂は響く
―――
(……わたし……?)
(昔……この人は……)
(あの時から、わたしを見ていたの?)
―――
『初めての夜』
あなたが初めて飲んだ夜
ほんの一口に、世界がほどけた
両の手で抱いたカップは
「わたし」と名乗らない祈りだった
甘さを怖れて
ぬくもりを疑い
──それでも
笑わずに、ただ
一口、飲んだ
―――
(祈るしかなかった、あの時のわたし)
(……あの人の前で、わたしは”名前”を持たずにいた)
(でも、あの夜だけは──)
(誰にも見つけられたくなかった”わたし”の祈りを、あの人にだけは……差し出してしまった気がする)
(ぬくもりが怖くて、でも……あの味を、忘れたくなかった)
―――
『記す姿』
ペンを持つ姿が、美しいのは
迷いを──隠しているから
書くたびに
そっと、目を伏せる
自分の存在が
紙の上に咲いてしまわぬように
記す祈りと
消える赦しと
──そのどちらも
一文字、一文字に
滲んでいた
だから私は、見とれていた
君の文字が生まれる瞬間に
君が自分を隠そうとする、その仕草に
―――
胸が、熱くなる。
涙じゃない。
けれど、呼吸が苦しくなった。
(あの人は……)
(ずっと……知っていたの?)
(知らないふりをしていたのに。名前さえ呼ばなかったのに……)
(でも、この詩は――)
(あの夜の私も、記録の癖も、
そして……咲かなかったままの”わたし”のことまで……)
床に散らばった詩の紙片を、そっと抱きしめる。
(この人は“リアは死んだことにした”記録を書いた)
(……でも、そのあとで)
(名を呼ばずに、感情だけを…… “わたし”として見てくれていた)
小さな灯りが揺れていた。
詩の紙に映った影が、まるで、あの夜のぬくもりのように滲んでいく。
最後の一枚を手に取ったとき、私は泣いていた。
それは、悲しみではなく、深い安堵だった。
(誰にも記されなかった私を、 名前を呼ばずに“わたし”として咲かせてくれたのは――)
(グラヴィオ、あなただけだった)
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




